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 ぬえの集う街で  後日談 ... A kindness is never lost.
 前編
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2015/04/20 10:55)
神崎 真


 予定していた通り、リュウの引っ越し作業は【Katzeカッツェ】の定休日に行われることとなった。
 いつもは夜間警備の仕事上、早朝に帰宅して昼頃まで眠っているニシキヘビのジグが、少し早めに起き出して、水牛のゴウマ、三毛猫のアヒムらと共に客のいない店で落ち合う。
 まずは作業前に、報酬の一環としてリュウが作った朝昼兼用の食事を腹に収めた一同は、ひとまず現在彼が使用している物置部屋の片付けから始めることにした。
 ……とは、言え。
「持って上がるモン、あんのか?」
 改めてリュウの住まいを目にしたゴウマは、呆れ顔でそう呟いた。
 なんというか、身ひとつで転がり込んできたリュウに対し、当座の生活道具として不要品を融通したのは確かに自分達であったのだが。それでもあれから一年以上が過ぎている。小遣い銭程度とはいえある程度は収入があったのだから、もう少しはまともな物が増えているだろうと想像していたのだが。
「……一応、必要なものはまとめておいたので、残りをゴミ捨て場まで運んでいただければ」
 そう答えるリュウも、さすがにいささかきまりの悪さを隠せないようだ。
 彼が評する『必要なもの』とは、数枚の古着と、あとは壊れかけの音声放送受信装置がひとつ、端々が擦り切れたり破れている雑誌や文庫本が数冊と言った程度で、小さな衣装ケースひとつに収まってしまっている。必要というよりも、思い入れがあるから捨てずに残しておく、といった方が近いのだろう代物ばかりだった。
 残っているのは、どう控えめに表現しても、ゴミだ。
 一番まともかつ、室内で場所をとっているマットレスと上掛けさえもが、ところどころ得体の知れない染みやタバコの痕 ―― リュウは吸わないので、前の持ち主が付けたのだろう ―― と思しき焼け焦げをつけている。
 どうやらこの男は、一年以上の間、アウレッタがどうにかやりくりして渡していた給料を、ほとんど使っていなかったらしい。
 確かに外出しているところなど見たこともなく、加えていつも明らかにサイズの合わない服を着ており、髪も洗いざらしの伸ばしっぱなしだったあの姿を思えば、さもありなんという気もしなくはないのだが。
 しかし……
「 ―――― 」
 率先して動こうと、まずは上掛けを剥がして畳み始めた今日のリュウは、肩口に染め抜き模様が入った薄青いデニム地のシャツを第二ボタンまで開け、左目と似た山吹色のアスコットスカーフを覗かせている。下半身は作業のしやすさを重視したのか、ゆったりめのカーキのコットンパンツにスポーツシューズ。前髪は一見するとごく無造作に後ろへ流されているが、灰白グレイよりも銀灰シルバーに近いその色艶の良さなど、以前までとは段違いだ。時折り額に落ちかかるのを伏し目がちにかき上げる仕草すらもが、やけに雰囲気を漂わせていて。
 はっきり言って、無駄に格好が良すぎる。気取り過ぎない程度にカジュアルでありながら、計算され尽くしたモデルででもあるかのような華を、見る者に感じさせる。
 ……こんな男が、つい数日前までこのゴミ溜めみたいな部屋で寝起きしていたのかと思うと、あまりのギャップに眩暈がしてきそうだ。
「じゃあ、行ってきますね」
 まとめた上掛けを肩に抱え上げ、もう片方の脇に枕を抱えたリュウに声をかけられて、三人ははたと我に返った。
「お、おう。んじゃ、俺らもデカブツからいくか」
 そっち持て、とアヒムに指示を出して、ゴウマが残されたマットレスに手を掛ける。
 ちなみにゴウマはいつもの作業着姿で、アヒムは適当なロゴの入ったピンクのTシャツにワークパンツ。ジグも無地の白いインナーの上から、チェックの綿シャツを羽織っている程度だ。彼らもリュウも、引っ越し作業において何ら間違っていない服装をしているはずなのに、この違いはいったいどこから生じて来るのだろう。
 なんとなく釈然としない想いを感じながらも、彼らはそれぞれの為すべき仕事にひとまず集中したのだった。


§   §   §


 運ぶのが小さな衣装ケースひとつであるならば、わざわざ建物の逆側にあるエレベーターを使うよりも早いと、一同は階段を使って最上階まで上がった。ゴミ捨て場のある路地裏に面した側にある階段は、これはこれで意外と使う住人が多い。人間に比べて体力のある獣人種にとって、五六階程度を歩いて上がるぐらい、さほどの負担でもないのだ。事実、身軽さを売りにしているカワセミの少女スイなどは、もっぱらエレベーターがなかったり壊れたりしている建物の高層階相手を中心とした、宅配便を生業としているぐらいである。
 ペントハウスの玄関は、エレベーターよりも階段の方に近い位置にある。特に苦もなく七階分を上がりきった四人は、リュウを先頭に押し開けられた扉をくぐった。
「良かったら、そちらの室内履きを使って下さい」
 リュウが示す右手の壁際には、履き心地が楽そうな、布製のルームシューズの並ぶ棚がある。このアパートは基本的に全室土足となっているが、それでもやはり、四六時中足を締め付けているのは辛い場合もあるだろう。特に片足が不自由なシルバーの場合、履くものにはこだわりがあるのではないか。
 男物にもいくつか種類があるようで、三人は頭を並べて棚の中をのぞき込んだ。その間にリュウはさっさと奥へ進み、リビングのソファセットのあたりから、隣の部屋へと声をかける。
「サーラ」
 力んだ様子のないごく自然な呼びかけに、全員がびくっと振り返った。
「下の片付けは終わりました。あとはこちらで模様替えと荷解きをしますので、少々騒がしくなるかもしれませんが ―― 」
「……ああ」
 低い声とともに、何かがきしむような音が聞こえてくる。
「今日は電子会議バーチャル・チャットも入れていないからな。こちらは気にしなくて良い」
 声がだんだん近付いてきて、左に向かって開いている引き戸の向こうから、車椅子がその姿を現す。
「 ―― 世話をかけるな」
 椅子を操作する手を止めて、座っている人物が三人の方へ声をかけてきた。
 いつも隙のないスーツ姿を崩さないシルバーだったが、今日はシンプルな長袖のプルオーバーの上から、ざっくり編まれた生成りのショールを羽織っている。長い髪は首の後ろでひとつに束ねられていた。下半身は膝掛けで見えないが、やはり布製の室内履きのつま先が覗いている。あるいはこれが、彼女にとってのくつろいだ休日モードなのだろうか。
「多少の騒音は折り込み済みだ。やりやすいように作業してくれ。……よろしく頼む」
 まだ腕の傷が完治していないため杖を使えない彼女は、ぎこちなく車椅子を操り、再び仕事部屋へと戻ってゆく。
「さて、じゃあ、始めましょうか」
 笑顔でそう促されて、三人は靴を履き替えるのもすっかり忘れ、奥へと進んでいった。
 リビングの手前で左に折れて、両側に扉が並ぶ廊下を進む。こちらが洗面所とトイレなので、好きに使って下さい。タオルの類はこの棚の中にあります、などと説明を受けながら、一番奥の右手、屋上に面した角部屋へと案内される。
 扉を開けると、そこには多くの箱が無造作に積まれたままだった。一つ二つが開けられていて、あとはベッドに使用した形跡があること以外、見事に三ヶ月前ゴウマ達が運び込んだ時と変わらない状態だ。
「まだ、当面使うものしか出していなくて……」
 アヒムが蓋の開いた箱を覗いてみれば、どれも衣服が収められている。
 まあ確かに、リュウが記憶を取り戻し、このペントハウスに出入りするようになってから、まだ一週間も経っていない。まして家主であるシルバーが入院している間は、彼女を差し置いて荷解きする訳にも行かなかっただろう。
「……女の一人暮らしにしちゃ、やけに荷物が多いとは思ったんだよ」
 とりあえずゴウマは、そんなふうに答えてみる。実はこの向かいにある部屋にも、さらに幾つかの箱が運び込まれていたりする。あちらは空き部屋だから、当座は必要ないものを入れておくと言っていたが……果たしていったい何がしまわれているのやら。
「えっと、まずは家具の移動からッスか?」
 きょろきょろと室内を見まわしていたアヒムが問いかける。
 部屋へ入った右側には、壁一面に作り付けの収納がある。他には机と椅子とベッド、それにサイドボードが備え付けられていた。動かせるものといえばそれだけだが、一人でやるのは確かに難しいだろう。
「そうですね」
「どういう配置にするか、決めてるのか」
「ええと、廊下側の壁には、棚を置こうと思ってるんです。そうすると手が届く位置に座りたいので、その横の屋上側に向けて机を置いて、そうするとベッドは道路に頭を向ける形で……」
「そうだな。屋上側の窓からは朝日がまともに差し込んで眩しいだろうし、妥当なところだろ」
「棚とは、これか」
 ずっと黙って荷物を検分していたジグが、他とは見るからに形などが異なる箱を指し示す。
 平たくて大きな二つの箱は、どう見ても新しい、届いたばかりの商品に見えた。そう言えば、搬入した中にこんなものは存在しなかったはずだ。
「ええ、それです。組み立て式で、こう、ここに二つ並べるとちょうど収まるはずでして」
 廊下側の壁一面を手で指し示す。扉部分はのぞくとはいえ、そこを埋めるとなると相当な面積だ。しかも箱に描かれたイラストを見ると、二つともスライド式の前後二列になっているタイプ。こいつはいったいどれだけの私物を並べるつもりなのか。
「あー……まあ、とりあえず始めるか」
 なんだか気にし始めるときりがない気がしてきて、ゴウマはどことなく投げやりになりつつ、腕をまくりながら作業の開始を宣言した。


 そこは半ば本職。リュウのイメージが明確に決まっていたこともあり、家具の移動と棚二つの組立て設置は、ゴウマの指揮のもと手際よく片がついた。
 リュウはダンボール箱を手早く確認してゆき、特に重たい幾つかを組み上がったばかりの棚の前へと移動させる。
「すみませんが、適当に並べていってもらえますか。ある程度、余裕を持たせておいていただければ、後から自分で整理しますので」
 ゴウマとアヒムにそう頼むと、別の二箱ほどを、ジグと手分けして持ち上げる。
「こっちは調理器具や食器のたぐいでしたから、キッチンに片付けてきます」
 そう言い置いて、二人で寝室を出ていった。残されたのは、ゴウマとアヒムと大量の箱。
「……適当に、って言われてもねえ」
 アヒムが困惑したように足元の箱を見る。正直言って、客先で言われて一番対応に困るのが、その指示である。適当と人は良く簡単に言うが、適当とはけして『いい加減』と同義ではない。もちろん、そういった意味で使われる場合もあるが、作業指示として口にされる場合、大抵の相手は無意識のうちに『その場に当たって』『適切』な状態を意図している。それに気付かず下手なやり方をすれば、必ずクレームがついてきた。
「まあ、正式な仕事じゃねえんだし、本人が後で自分でやるっつってんだ。俺はこっちの下から行くから、お前はそっちの箱の中身を、上から並べてけや」
 ここでもゴウマがざっくりと仕切る。ちなみに彼が下を担当するのは、単に背丈の差の問題である。
「うぃーっす」
 微妙にやる気の失せたっぽい声を上げながら、アヒムはべりべりと箱を閉じているテープを引き剥がしていった。そうして蓋を開けて中を覗きこんで……そのまま目を丸くする。
「うっわ、なんだこれ……?」
「どうした」
 動きを止めたアヒムに、ゴウマはよほどおかしなものが入っていたのかと、肩越しにその手元を覗きこんだ。そうして彼もまた、しばらく言葉を失う。
「……こいつは、本、か?」
 箱の中にぎっしりと隙間なく詰まっていたのは、重厚な革装幀の ―― ではさすがにないだろうから、あくまでそのように見える ―― 分厚い紙の書籍の数々であった。
 手を伸ばし、一冊掴んで引き出してみる。手のひらの幅ほども厚さのあるそれは、ずっしり持ち重りがした。暗いワインレッドの堅い表紙に、植物をデザインしたと思しき金色の箔刷りが施されている。背表紙に書かれているタイトルもまた、かなり装飾された飾り書体だ。
「……Deux……Ans、de……Vacances……?」
「何語っすか、それ」
「さあ……」
 ぱらぱらとめくってみると、中身はさすがに標準語のようだ。しかしどこか黄ばんだ粗い手触りの紙は、けして安物めいている訳ではないのに、妙に古色蒼然としている。
「こっちは……『Le Comte de Monte−Cristo』、ってなんて読むんだろ?」
 ゴウマも手近な箱を開けてみる。そちらには一見するとまったく同じに見える、黒い背表紙がずらりと並んでいた。
「『Complete works of Ikenami Shotaro』、ねえ?」
 引っ張りだした一冊には、『Business swordsman』という副題がついている。
「ええと、騎士の仕事、みたいな意味か?」
「騎士ってあれですっけ。旧世界で、剣持って戦ってた兵隊?」
 戦うなら判るけど、働く騎士? とアヒムが盛大に首を傾げている。
「こっちは……『The Ten Thousand Leaves』、『Three Kingdoms』、『Journey to the West』、『The Water Margin Chronicles』……一万枚の葉っぱ、三つの王国、西への旅に……水の余白の新聞……?」
 ゴウマの眉間に刻まれた皺が、どんどん深くなってゆく。こちらはまだなんとなく雰囲気は読み取れるが、それでもさっぱり意味不明だ。
「あ、これはなんかキレイかも」
 三つ目の箱を開けたアヒムが、どこかほっとしたような声を上げた。引っ張りだされたのは、他のものに比べるとごく薄く、その代わり大ぶりな一冊だ。表紙一面を美しい青と白が彩っている。
「これ、旧世界の海ですよね。昔は海って、こんな色してたんだって」
 白い砂浜に打ち寄せる、どこまでも澄んだ青い水の広がり。中を見てみると、波飛沫を蹴立てて泳ぐイルカの姿や、珊瑚礁の間で群れる色とりどりの小魚の写真が次々と現れる。
 一度世界中が汚染され尽くした現在ではもう、記録映像でしか見ることの叶わない光景だ。
 どうやらその箱には、そういった写真集や画集のたぐいが収められているらしい。
 趣味として楽しむ対象には、難しげな分厚い装幀の本などよりも、こちらの方がよほど共感しやすい。
 ちょっとリュウのことが判らなくなりそうになっていたアヒムは、とりあえずその箱の中身から手を付けることにしたようだった。一度やる内容さえ決められれば、彼の手際はけして悪くない。順番に取り出しては、椅子を踏み台にしつつ棚の一番上から並べてゆく。
「余裕、余裕……と」
 あまりぎっしり詰めてしまわないよう、途中に何箇所か隙間を作っておくのも忘れない。
 ゴウマもまた、小さく息を吐くとアヒムに続いた。
「そういや前から、客が忘れてった雑誌とか本とか、もらって良いかっつってたっけか。まさかこんなに本好きだったとは思わなかったぜ」
「そっスよねえ。だいたいあいつ、端末持ってんだから、なにもわざわざ紙の本なんて買わなくても。高い上に場所取るばっかりだろうに」
 何度も椅子と床を往復しながら、アヒムがそばにある机をちらりと見る。先ほど移動させ終えたばかりのその上には、手帳サイズの携帯端末が放置されていた。普段シルバーが持ち歩いているキーボード付きのそれほど高性能ではないが、必要な情報を閲覧するだけならば充分以上に使えるはずだ。この街で暮らす市民権を持つ自由なキメラ達の間でさえ、まだあまり普及していないそれを、リュウは当たり前のように私物として所有していたらしい。
 あの端末がひとつあれば、この本棚の中身どころかその十倍の量でさえ、電子データとして保存しどこへでも持ち歩けるはずなのに。何を好き好んで、こんな重くてかさばる形で保管しているのだろう。
 そんなことを話しながらも、二人の手は止まらず着実に仕事をこなしてゆく。
 広大に思えた本棚の三分の二ほどが埋まった頃、ジグとリュウがようやく戻ってきた。
 先に立ってジグが開いた扉を、両手で盆を支えたリュウがくぐる。

「 ―― いったん休憩にしませんか」

 盆に載っているのは氷の入った人数分のコップと、アイスコーヒーが満たされたガラスピッチャーだった。表面にびっしりと露が付いていて、見るからによく冷えている。
 地味に重いものを連続で移動させるのに疲れていた二人は、その申し出を遠慮なく歓迎した。
「こちらが甘味料で、こっちがミルクです。お好きなだけどうぞ」
 シンプルな陶器製のミルク入れと、ポーションタイプのガムシロップが差し出される。
 甘党のアヒムはシロップを二つ空けた上、ミルクもたっぷりと注ぎ込んだ。ゴウマも普段肉体を使っているせいか見た目によらず甘い物を好むので、両方とも普通の量を入れる。ジグとリュウはブラックのままだ。
 コップを傾けて一口飲んだ二人 ―― アヒムとゴウマは、なんとも言えない表情で手元の褐色の液体を見下ろした。

「…………」

 まずい訳では、けしてない。
 むしろ旨い。というか、旨すぎる。
 あれでは味など判らなかろうという勢いでシロップとミルクを入れたアヒムでさえもが、その違いをはっきりと認識していた。
 これは確実に、【Katze】で出している一番高いコーヒーよりも、更に上を行く値段の代物だ。味も香りも比べ物にすらなっていない。
「おい、リュウ。こいつぁ……」
「 ―― すみません。何も言わず飲んで下さい」
 床で車座になっていた一同に、リュウは深々と頭を下げる。
「ぁあ?」
 いきなり謝られて、意味の判らないゴウマが顔をしかめた。その横でジグが苦笑している。
「実は、キッチンを片付けていたら、使いかけの合成キューブが大量に出てきまして」
「使いかけ?」
 きょとんと繰り返すアヒムに、リュウは重々しくうなずく。
「封を開けて、一二個使用しただけの紅茶やらココアやら、チャイやら梅昆布茶やら生姜湯やら……」
 数え上げているうちに何やら思い出してしまったのだろう。眉を寄せてため息をつく。
 その言葉に、ゴウマとアヒムも思い当たるところがあった。シルバーが来店回数の多さをドクター・フェイに咎められた際、口にしていた内容だ。
 飲み物ぐらい自分で淹れろと言われて、自分で淹れるより【Katze】のものの方が美味しい。何度も試したと。あのとき彼女は、確かにそう言っていた。
「……ほんとに、試してたんだ」
 アヒムが意外そうに呟いた。あれはせいぜいその場で考えた言い訳か、良くて一二度やってみただけのことだと思っていた。しかし彼女は実際に、何種類もの飲み物を自ら購入し、手ずから淹れて、飲んで、その上でやはり【Katze】の物の方が良いと、そう結論していたのか。
「オレはこっちの方が、うまいと思うんだけどなあ……あ、別に店のがまずいって言ってるんじゃないけど!」
 思わずそうこぼして、それからその言葉が暗に【Katze】の味をけなす形になっているのに気がついて、アヒムは慌てる。しかしリュウは気にする必要はないとかぶりを振った。
「普通は、そう思うのが当たり前です。これはこの街で人間向けに売られている中でも、かなり高級な部類に入るグレードなので」
 そう言って、香りを確かめるように水面へと鼻を近づける。
「……というか、あの人は倹約とか言いながら、いったい幾ら、飲みもしない合成キューブに使ったんでしょうね……」
 視線を手元に落としたまま、ぼそりと呟かれた声は、やけに低く室内に響いた。
 なにやら背筋に冷たいものを覚えて、ゴウマが話を変える。
 とっさに口をついたのは、やはり先程までアヒムと話していた内容だ。
「 ―― しかしあれだろ。高価といやあ、この本も相当なもんじゃないのか」
 ぎっしりと壁を埋めている、古風な背表紙を見上げる。床に座って低い位置から眺めると、いっそう迫力が感じられた。その視線を追うように、リュウもグラスから顔を上げて本棚の方を振り返る。
「ああ……それは確かに、そうでしょうね」
 肯定する口調は、どこか他人事めいていた。
「私が購入したものではありませんから、よくは知らないんですが ―― なんでも、お義父とうさまのご趣味だったそうです」
「父親ってえと、血は繋がってないんだったか?」
 はっきりとそう説明された訳ではなかったが、シルバーとその親については、確かリュウとの会話の中で『引き取った』という単語が出ていたはずだ。キメラ同士の間では、血の繋がりのある肉親を持っている者の方が少ないため、そういった義理の家族関係について、これといって特別視されることはまずない。
「ええ。十二歳ぐらいで養子になったのだとか。プログラミングの仕事も、元々はその方の手伝いとして覚えたに過ぎなかったとおっしゃっていました」
 セルヴィエラを引き取りアシュレイダの苗字をくれた男は、どうもひどく変わり者だったらしい。
 特に子供が好きという訳でもなく、何故あの人が自分を引き取ったのか、今でもよく判らないと彼女は繰り返していた。特に可愛がられた記憶もないし、最低限必要な日常生活について教わった他は、これといった会話もあまりせず放置されていたという。仕事を手伝うようになったのも、なんとなく近くで作業を見ていたら、無言で端末を渡されたので、適当にいじっているうちにいつの間にかそんなふうになっていたのだとか。
「プログラマーを生業としていながら、どこか電子情報を信用していない部分があったそうです。データは、いつ何が起きて、改竄されたり跡形もなく消えてしまうか判らない。最終的に後世に残るのは、こんなふうにきちんと形のあるものだと言って、集めておられたのだと」
 並んでいるこれらの書籍は、ほとんどが旧世界でさえ古典と呼ばれていた、古い古いジャンルの作品ばかりだ。
 世界が一度壊れたと称されるほどの大異変を経ても、なお消えずに何らかの形で残った物語を、かつてと同じハードウェアの形で再現した、数々の書物。
 リュウは手を伸ばして、そっとその背表紙をたどる。
「正直を言うと、私も何が書かれているのか、よく判らない内容がほとんどです。旧世界の、そのまた昔の話なんて、おとぎ話のようなものですからね」
 現在とは、風習も文化もまるで異なる世界で紡がれた物語だ。何故そんな行動を取るのかどころか、単語のひとつすら意味がくみ取れず、端末で検索してみても意味不明なまま終わる場合も多い。
「でも、キメラなんて存在すらしなかった時代のことを、想像で補うのはなんだか面白くって」
 リュウもまたシルバーのもとで暮らし始めた頃は、ほとんど言葉を交わしすらせず、同じ屋根の下でただほったらかされていた。子供を構い付けない変人に育てられた彼女もまた、他人にどう接すればいいのか判らなかったのかもしれない。
 ただ、ある物は好きに使えと言われても、ほとんどは触れることすらできなかった。特に端末や映像受信装置など、下手に壊しでもしたらと思うと、近づくのさえ恐ろしかった。この本だとて、最初は文字自体を最低限しか読めなかったので、先ほどのアヒムと同じように美しい色彩に惹かれ、写真や画集をぱらぱらと眺めるだけだったのだ。そこから図鑑や絵の多い子供向けだったらしい本へとじょじょに移行し、気がつけば読書の楽しさに目覚めていた。
「本当は、もっとずっとたくさんあったんです。でもさすがにすべてを持ち出すのは無理だったので、特に好きな作品や、今では電子書籍でも見つからないものを選んできました」
 一冊を引き抜いて、裏表紙をめくる。
 見返しの部分には、やはり金色のインクの筆記体で、『Gold−Ash』と記されていた。
 シルバーにとっても、これは義父の遺した形見の品だ。できるならば、自分の思い入れなどとは関係なく、全部持ってきてあげたかったのだけれど。
「見た目は古風ですが、紙も表紙も合成品ですからそう簡単には破れませんし、日焼けや劣化とも無縁です。いつか私が手放したあとも、廃棄処分されない限り、これらの本は残り続けるでしょう。……この、署名とともに」
 それは何十年でも、あるいは何百年でも。
 リュウやシルバーの命が尽き、その名も存在もすべてが忘れ去られたそののちも、これらのどれかが一冊でもこの世に残っている限り、彼女の義父の名だけは消えない。
 もちろんリュウにとってはその名を持っていた人物など、顔すら一度も見なかった赤の他人にすぎないのだけれど。それでも彼女の恩人なのだと思えば、サインのひとつにさえも価値があるように思えて。

「…………」

 ぱたりと音を立てて本を閉じたリュウの浮かべるその表情に、他の三人はそれ以上、何も言うことができなかったのである。


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