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 ぬえの集う街で  ―― Town Living of NU-E
 第十一章 鵺の泣く夜
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 おとなしくなったシルバーに、フェイはひとまずほっと一息ついた。
 できるだけ音を立てないよう、慎重な足取りでベッドをまわりこむ。
「シルバー?」
 寄り添うリュウと反対の側から、小さく名を呼んでみた。すると緩慢な仕草で目が開かれる。のろのろと首が動いて、フェイの方を見た。
「……ドクター、フェイ」
 多少遅くはあるが、答えが返される。とりあえず失神した訳ではないらしい。
「ちょっとバイタルを取らせてくれな」
 ここで無闇に刺激を与えるのは厳禁だった。前もって断りを入れてから、投げ出されている手のうち無傷な方を持ち上げる。指先に測定器具のセンサーを当て、数値が表示されるのを待った。
 小さな電子音がして、結果が出る。熱は少々上がっていたが、心拍数はおおむね落ち着いているか。血圧と呼吸の値も、高めではあるものの、まあ許容範囲内だ。
 一連の動きを、シルバーは心ここにあらずといった様子で眺めている。その身体はリュウの腕の中に、すっぽり収まったままだ。
 もし正気であったなら、彼女は人前でこんなみっともない姿など、けして見せはしないだろう。そう考えると、今の状態が正常であるとはとうてい言い難かった。しかし薬を使って無理に鎮静化させるよりは、まだこのまま経過を見た方がましだと、フェイはそう診断する。
 鎮静剤のアンプルと注射器を持って駆けつけたまま、指示を待って立ち尽くしていたレンへと、目くばせした。
 応じてレンはトレイを片手に持ち変え、ぽつんと棒立ちになっていたルディの身体へと、優しくその腕をまわす。
「シルバーさんは、ちょっと疲れてるんです。休ませてあげましょうね」
 言い聞かせながら、背中を押して病室の出口へと促した。
 ぎゅっとシャツの裾を握りしめていたルディは、両目に涙をためてレンを見上げる。
「オ、オレ……オレ……っ」
 鼻を啜り上げ、一途に言葉を紡ぐ。
「オレ、なにか悪いことした……? だからシルバー、怒ったの?」
 まだ十歳にしかならない少年には、いったい何が起きたのか理解できなかったのだろう。シルバーの態度が豹変したことに、何か尋常でない内情が絡んでいるのまでは予想できても、それが具体的にどういった事柄なのかまでは、さすがに子供の身で思い至るまではゆけまい。
「 ―― 違いますよ。彼女は怪我と熱で、少し混乱しているんです。けしてあなたのせいなんかじゃ、ありません」
 レンが否定しても、納得できないようだ。いやいやと首を振って、部屋から出るのを抵抗する。
 と ――

「……ルディの、声が……する」

 シルバーが口を開いた。
 まだ光のないくすんだ瞳を宙に向けたまま、怪訝そうに首を傾げている。
「シルバーッ!!」
 レンの手を振りきって、ルディがベッドへと駆け寄っていった。慌てて全員が止めようとするが、その前に両手を伸ばしシーツにしがみついてしまう。
 焦茶色の大きな目をこぼれんばかりにうるませ、下からシルバーを見上げる。
「シルバー! オレ、お見舞い来ちゃダメだったの? オレのこと、キライになっちゃった!?」
 問いかける顔は、必死の形相を浮かべている。良かれと思って会いに来たのに、何か大変なことになってしまって、ルディは罪悪感と嫌われたかもしれないという恐怖で、いっぱいいっぱいになっていたのだ。
 その気持ちに共感できなくもないリュウは、腕の中のシルバーへと目を落としてみる。どうやら今はひとまず落ち着いているようだ。ルディの大きな声を耳にしても、取り乱す徴候は感じられない。リュウは支えの腕を少し動かし、二人が楽に向き合えるよう姿勢を調整した。シルバーは相変わらずどこか茫洋とした眼差しのまま、小馬ポニー系の少年を見下ろす。

「……ルディのことは、嫌いじゃない」

 バイタルチェックが終わった手を取り戻し、ふわふわとした薄茶色の髪の上にゆっくりと乗せた。
「……いつも元気で、楽しそうで。話していると、気持ちが暖かくなる。 ―― 昔の、友人達を、思い出す」
 くしゃりとかきまわすその仕草は、少し意外なほど慣れた手付きだった。
「じゃあさ、じゃあさ、オレのこと好き? その友だちといっしょ?」
 懸命に食い下がるルディに、シルバーはほのかな笑みを口元へとたたえる。
「そうだな……ルディは、好きだ。ルディが許してくれるなら、友人になれると嬉しい」
 うなずきと合わせて返された要望に、しかしルディは不満げに頬を膨らませた。
「なんだよそれ。オレはもうずっと前から、シルバーと友だちだって思ってたのに!」
 友人になりたいと希望するのは、いま現在はそうでないのだと断言しているも同然だ。いくら選択権をルディに託してくれている形だとはいえ、毎週食事に付き合ってもらい、そこでのおしゃべりを心から楽しんでいたルディにしてみれば、今まで自分はどんなつもりでそんな関係を要求していたと思っていたのか、声を大にして問いたいところである。
 じとっとした恨めしげな目付きになったルディに、リュウが横から口を添えた。
「ルディは、友人が怪我をして心配だからと、わざわざお見舞いに来てくれたんですよ」
 そう言われて、シルバーは一度まばたきする。この仕草は、予想外のことを聞かされた時のそれだと、既に判明していた。
「そうか……ルディとはもう、友人か……」
「うん!」
 しみじみと確かめるように繰り返すシルバーへと、ルディは力一杯うなずいた。
「こういう時は、どう言えば……ああ、そうか」
 しばらく熟考していた彼女は、やがて得心したらしく、顎を引く。

「 ―― ありがとう」

 まっすぐ贈られた感謝の言葉に、ルディは照れたように笑った。
 さっきまで今にも溢れてしまいそうだった涙は、跡形もなくすっかり引っ込んでいる。
「さあ、もう良いでしょう。あまり無理をさせては、お見舞いになりませんからね」
 再びそう声をかけられて、今度は素直に従った。シーツを離して開いたままの戸口へと向かい、一度足を止めて振り返る。ぶんぶんと大きく片手を振った。
「明日も来るね!」
 微笑みながら見送っていたシルバーは、その後ろ姿が見えなくなると、ほうと息をついてリュウに深く寄りかかった。
「疲れましたか」
 リュウが首を曲げて覗き込むと、持ち上げられた左の手のひらが、その頬へと添えられる。まるで伝わってくる感触を愛おしんでいるようだ。
「…………良い、夢だな。覚めたく、ない」
 瞳を細めて、すぐ目の前にある顔をじっと眺めている。
 やはり彼女は、いまの状態を現実だとは思っていないのだ。いつものように、現実と見紛うほどのリアルな夢。あくまでひととき限りの、儚い偽りなのだと信じている。
 リュウは細い身体を抱きしめる腕に、わずかに力を込めた。
「だったら、横になりましょう。きっと、よく眠れます」
 未だ回復しきっていない肉体は、多くの休息を欲している。少しでも長い時間、少しでも楽な姿勢でいるべきだった。
 寝るように勧めてくるリュウに、シルバーはふるふると首を左右する。
「嫌だ……このままが良い」
 力の入らない指で、もどかしそうにリュウのシャツを掴む。そんな物言いをしてみせること自体が、これが夢だと思っている証拠だった。
 リュウはそっと、万が一にも傷つけないよう注意を払いながら、その指を離させる。
「ちゃんとそばにいて、手を握っていますから」
 ね、と念を押す。
 不承不承ながらもようやく従った隙を逃さず、手を貸して横たわらせた。足元に追いやられていた上掛けを引き寄せ、しっかり肩まで覆い被せる。
 それから約束通り、上掛けの下に両手を入れて、左手を上下から挟む形に重ねた。
 やはり無理をしていたのだろう。しばらくは抗う素振りを見せたものの、すぐに目蓋が降りてきて、深い寝息が始まった。
 それを確認したフェイは、深々と大きく息を吐く。
「今日のカウンセリングは中止だ。すまんが起きるまで付いててやってくれ」
 いまの様子からして、目が覚めた時にリュウがいなかった場合、彼女はまたもすべてが夢だったと解釈するのだろう。そうやって一人で納得し、感じた悲しみも苦しみも絶望も、全部を胸の奥底にしまい込んで、孤独のままに隠し通してしまいかねない。
 通信でやりとりしていた時間を加えれば、フェイとシルバーの間には半年以上の付き合いがあった。その間の会話で、彼女がリュウに対し、並々ならぬ思い入れを持っていると理解はしていた。それでもまさか、ここまで精神的に追い詰められていたとは予想だにしていなかったのだ。
 どこかでカウンセリングを受けているのだろうか。そう考えかけて、医者という存在に対する過剰なまでの拒否反応を思い返し、ありえないと内心で否定する。
 現実と夢をしばしば混同しがちなのは、リュウもまた同じだった。しかし彼はフェイの元に定期的に通院し、診察を受けて睡眠薬を処方されている。一方そのすぐ間近で、シルバーが医者にも掛からず適切な投薬も受けず、ただ一人で限界まで悪夢に耐えていたのかと思うと、一人の医者としてやるせない想いがある。
「あの、【Katze】の方に ―― 」
「連絡しとくよ。アウレッタも駄目だとは言わんさ」
 言いかけるのを遮って先まわりすると、リュウが深く頭を下げた。
 それに手を振ってみせながら、謝罪したいのはむしろこちらの方だと、フェイは心の中で自嘲していた。


§   §   §


 うとうとと、まどろみを繰り返し。幾度も同じ、夢を見る。
 幸せな幸せな夢。
 もう失ってしまった大切な存在が、失ってから得たはずのものと、時系列を無視して混在している。
 現実と区別がつかないほど臨場感に満ちた夢は、いつも目を覚ますと、恐ろしい喪失をもたらした。眠るのが恐ろしく、起きるのも恐ろしく。どうして生き物は眠らねば生きてゆけぬのかと、昼夜の訪れが厭わしくてならなかった。
 けれど今度の夢は、とても長い。
 起きてしまったのかと落胆しても、目蓋を上げれば『彼』がそこにいるか、しばし席を外しているだけで、またすぐに戻ってくるからと、気付いた誰かが教えてくれる。
 枕元のサイドボードに並べて置かれているのは、熱を帯びた身体に心地が良い、冷たいレモネードの入ったポット。もうひとつは、やはり自分が好んでいる、魚介で下味をつけたポタージュスープ。甘さ控えめのすっきりした後味と、熱すぎずぬるすぎない絶妙な温度に調整された、滋味に満ちた深いこくのある味わい。どちらもとても、懐かしい。
 どんなに自分で試してみても、同じ味は作れなかった。もう二度と口にはできないのだろうと、そう思っていたのに。


 すぐ近くで物音がして、とっさに目を開いてしまった。
 ―― ああ、ついに夢は終わったのだ。
 自覚した瞬間、すぅっと手足の先から冷たくなっていくのを感じる。
 しかし胸が潰れるようなあの痛みが襲ってくるよりも早く、頬へと触れるものがあった。水仕事で荒れた、かさついた指先の感触。それは記憶にあったそれとは、いくぶん異なっていたけれど。それでもこのところ何度も触れているうちに、これが今の彼の手なのだと、ごくごく自然に受け入れられた。カウンターの向こう側で、毎日あんなにたくさんの皿を洗っていれば、肌が荒れるのも当然のことだろう。
 これが夢でなかったなら、水仕事に効果のあるハンドクリームでも手配するのだが。

「起こしてしまいましたか」

 穏やかな声が、どこまでも優しく問うてくる。
 首を振って応じると、柔らかな笑顔が向けられた。離れていく指先を惜しみながら、布団を押しのけ身体を起こす。
 サイドボードの扉を開けた彼は、提げてきた鞄の中から、様々なものを取り出しては内部に収めている。ほとんどが着替えのたぐいだが、爪切りやヘアブラシ、基礎化粧品など、いつも使っている日用品類も見受けられた。
 最後に出てきたのは、ノート型のキーボード付き端末と、手のひらサイズの携帯通信端末。
 仕事柄、端末は多くの種類と数を揃えているが、その中でももっぱら仕事部屋以外で作業する場合に愛用している機種だ。

「とりあえず、この二つをお持ちしました」

 手渡されたそれを膝の上へ置いて、まじまじと眺める。
 ……そう言えば少し前に、必要なものを取ってくるから、ペントハウスに入りたい。電子錠のマスターコードを教えてくれないかと言われた気がする。
 電子錠は内側から操作するか、登録した人物の生体情報を提示しなければ、開くことはない。提示と言っても、ドア脇のパネルに指先で触れるだけなのだが。ただしアパートを管理する人物には、責任上、すべての部屋を開く権限があった。それに必要なのが、マスターコードだ。これまでは実質的な管理人であるアウレッタが知っていたのだが、建物の所有者が己に変わった際に念のため変更して、そのまま伝えていなかった。
 ―― もっとも、ペントハウスの電子錠には、きちんと彼の生体情報も登録してある。マスターコードなど、最初から必要ないのだが。
 そう告げると、聞いていた者達は、どこか呆れたような顔をしていた。何故だろう。自分が住む場所に、彼も出入りするのは当然のことなのに。自分しか開けられなかったら、不便ではないか。

「……他のものが良かったですか」

 黙ってじっと目を落としていたので、何か不満があるとでも思ったのか。
 少し声が低くなったのに、首を振って否定を返す。

「ああ、いや。大丈夫だ」

 ただ、手にとった感触が、あまりにも現実そのままで困惑したのだ。
 レモネードで喉を潤した時も、スープを口に入れた時も驚いたが、こんな部分までリアルすぎると、本当に怖くなってくる。これでは目を覚ました時、自分はしっかりと対処できるだろうか。これまで通り、何事もなかったのだと、素知らぬ顔を装えるだろうか。
 携帯端末を握る指に、我知らず力がこもる。
 すべすべとした筐体は、硬く冷たい手触りを伝えてきた。
 馴染み深いそれにどことなく励まされた気がして、試しに電源を入れてみる。明るくなった画面には見慣れたアイコンが並んでおり、着信済の印が点滅していた。不思議に思ってメールアプリを起動してみると、未読メッセージがずらりと並んでいるのが目に入る。

「な ―― っ!?」

 スクロールしてもしても終わらない。どこまでも画面を埋め尽くしている、未読のマーク。慌てて最新のひとつを選択する。
 そこには、期日を過ぎても依頼品が納品されないことについての怒りが、延々と綴られていた。
 そのひとつ前には、問い合わせのメールにいつまでも返事がないのは何故かと、疑問の形をとった厳重抗議。
 その前は電子会議への無断欠席を咎める文面。
 さらにその前は……

「リュー!!」

 思わず大声で叫んでいた。

「今はいったい、何日の何時何分だ!?」

 冷静に考えれば、持っている端末を操作すればすぐに判る、ごく基本的な情報だ。
 しかしその時には、そんな余裕すらもなく。

「五日の……15時37分ですね」

 サイドボードの時計を振り返りながら、ゆったりと応じるその声が、逆にいっそう焦りをかき立てて。

「何月の!」
「……六月ですが」

 ざあっ、と。
 比喩ではなく、血の気が引くのを感じた。
 膝に載せていたキーボード付き端末のディスプレイを起こし、素早くシステムを立ち上げる。画面をいくつか切り替えてパスワードを打ち込むと、ペントハウスに設置してあるサーバー端末にログインした。
 あとはもう、時間との勝負だった。
 全速でキーを叩き始めると、リュウが戸惑いを滲ませながら制止しようとしてくる。
「サーラ!? あまり激しく動かすと、傷が ―― 」
「そんな事を言ってる場合じゃない!!」
 納期が過ぎているプログラムは、幸いにも既に最終のデバッグを完了し、あとは送信さえすればすむ段階にまで仕上げてあった。
 しかし顧客クライアントの信用を失うなど、この業界で独立してやって行く上で、もっとも避けねばならない行為のひとつだ。ましてや今は、ひとつの仕事とておろそかにはできない事情がある。
「部屋からバーチャルバイザーを取ってきてくれ!」
 複数のアプリを同時に操作し、未読メッセージに目を通すのと並行で優先順位の高いものからどんどん返事を書き、さらに納期が近い仕事の進捗状況と残日数を確認するのに合わせて、作業計画の練り直しと新たな依頼が入っていないかのチェックも行う。だがこんな小さな端末ひとつでは、とても処理が追いつかなかった。画面も狭すぎる。もっぱら電子会議バーチャル・チャット時に使用する、映像を擬似三次元化して内部展開するバイザーグラスを接続すれば、上下左右360度の視界すべてに情報データを投影できるはずだ。
「急いでくれ! あと端末をもうひとつ。あの青い本体に銀の二本線が入ったノートと、イヤホンマイクも頼むッ」
「わ、判りました」
 この上なく焦っているのが伝わったのだろう。リュウはうなずくと、急いで病室から出て行った。
 大声のやりとりを聞きつけたのか。別の病室にいたらしいクラレンスが、交換したシーツを抱えたまま入ってくる。
「シルバーさん? どこか具合でも……」
「すまん! 後にしてくれっ」
 背中を丸めて食い入るようにディスプレイを睨みつけ、声だけを白髪はくはつの看護師に投げ返す。
 全力で溜まっていた仕事に没頭してゆくその横顔には、もはや先ほどまでの、現実にいながら夢を見ている危うさや儚さなど、欠片も残ってはいなかった ――


§   §   §


 ベッドに上半身を起こしたその太腿を跨ぐように、キャスターの付いた食事用テーブルを設置。そこにキーボード付きノート型端末を二台並べ、手のひらサイズの携帯通信端末を脇に置き、さらに半ば透けた材質のバイザーグラスで顔の上半分を覆って、耳にはワイヤレスのイヤホンマイクを装着。そんな状態で、シルバーは次々と仕事を片付けていっていた。バイザー越しの瞳は、宙空の何かに向けて絶え間なく彷徨わされ、両手は一時も休むことなく、まるで舞いを思わせる一種機能美すら備えた動きを見せている。二つのキーボードとタッチパネルと音声入力を駆使したその作業速度は、すさまじいの一言に尽きた。
 そんな姿を少し離れた位置から眺めていたドクター・フェイは、深々としたため息を落とす。
「……さっさと仕事の話を出しとけば、もっと早く正気に戻ったんじゃねえか?」
「そうかもしれませんね……」
 横に並んでいるレンが、複雑な表情で同意した。
 シルバーが意識を取り戻し、そしてあの騒ぎが起きた日から丸二日。まだどこか現実を受け入れていない様子の彼女に、見守る一同は深刻な危惧を覚え始めていたのだ。
 話しかければちゃんと返事をするし、見舞いに訪れるルディやアウレッタらと話す時など、時おり笑顔も見せた。しかしそれはひどく脆い、今にも壊れてしまいそうな雰囲気を漂わせていて。誰に対しても逸らさず向けられていた強い光を放つ瞳にも、茫洋とした鈍い輝きしか宿していなかった。
 張り詰めて、張り詰めて、極限を迎えた心の糸が、ついに切れてしまったのではないかと。
 誰にも悟らせぬまま重ね続けた無理が、とうとう綻びを見つけて噴き出してしまったのではないかと。
 みなそんなふうに、心配を募らせていたのだけれど。
「 ―― できればそろそろ、ドクター・ストップをかけたいんだがな」
 いささか呆れの混じった口調で、フェイはそう呟いた。
 時刻はとっくに夕食どきを過ぎて、既に消灯までもう間もなくといったあたり。リュウが端末を病室に差し入れたのは、ランチタイムの忙しい時間帯を終えて、片付けと夜用の仕込みも一段落つけた頃合いだったから、かれこれ六時間ぐらいはぶっ通しで作業し続けている計算だ。たとえ健康な人間であったとしても、これはかなり厳しいところだろう。
「たぶん、無理だと思いますよ」
 いったん場を外していたリュウが、二人の間に割って入った。その手にあるのは、給湯室を借りて用意した、弱った胃にも優しいはちみつ入りのホットミルク。
「以前、四十度近く熱があった時も、後まわしにできないものが片付くまでは止めませんでしたから」
「四十……って、人間ヒューマンなら死ぬぞ!?」
 目を剥くフェイに、苦笑しながら肩をすくめてみせる。
「慣れてますからね、それぐらいは。あの人はときどき高熱を出して寝込むんですよ。たいていは早いうちに、仕事の整理をつけておくんですが」
 今回は予期せぬ負傷からの入院だったうえ、意識が戻ってからも、夢だと思ってかなりの時間を無駄にしていた。そのため正真正銘の、のっぴきならない事態に陥っているらしい。とりあえず体温自体はおおむね平常値に戻っているし、この二日間、肉体的には安静にしていたおかげで傷の状態もそこそこ良好だ。彼女が作業を中途半端で放り出す理由などどこにもない。
「ここに置きますから、気を付けて下さいね」
「ああ」
 音を立てず歩み寄ったリュウがマグカップを手元に置いても、そちらへ視線を向ける気配すらなかった。とは言えちゃんと把握はしているようで、斜め上方向を見たまま左手を伸ばし、持ち上げる親指で飲み口の蓋を開ける。一口飲んでからまた蓋を閉じて元の場所に戻した。
 私物として持ち込まれたそのマグカップが、密閉できるタイプの耐熱耐衝撃容器なのは、万一倒してしまった場合でも、手元の精密機器に被害を及ぼさないためだろうか。
「あとどれぐらいで終わりそうです」
「……最低限すぐ必要なのは、残り二つだ。打ち合わせは全部後日に調整してもらったから……一時間ぐらいか。だが明日は、各所に謝罪してまわらなければ」
 左右のキーボードを同時に操作しつつ、憂鬱そうに眉をひそめる。
 もちろんこの場合の『まわる』とは、本人が物理的に足を運ぶのではなく、電脳回線ネットワーク上でのメールやチャット、電子会議などで行われる活動を指している。
 しかしだ。実際に顔を合わせる訳ではないからといって、それで簡単にすませられる話ではない。むしろこじれやすいのは、回線を通じたバーチャルな関係の場合が多いのだ。直接逢って会話を交わしていれば、声の抑揚や表情の変化など、ちょっとした部分から伝わる微妙な意味合いニュアンスといったあたりが、大きく影響を及ぼしてくる。いわゆる『感覚で察するフィーリング』というやつだ。ところがいったん間に電気信号を挟むと、途端にそういった細かい機微は通じにくくなる。文字情報のみのやりとりに至っては、さらにその傾向が強くなった。
 いかに誤解や反感を招かぬよう、誠実かつ正直に説明と謝罪と埋め合わせを行うべきか。ただでさえ他者とのコミュニケーションを不得手とするシルバーにとって、想像するだけで気が重くなってくる予定であった。

「 ―― すみませんでした」

 リュウが、ベッド脇で唐突に詫びの言葉を紡ぐ。
 その声が孕む響きに、何かを感じとったのか。
 シルバーはせわしなく動かしていた手を止め、リュウの方を振り返った。半透明のバイザー越しの瞳が、数度ぱちぱちとしばたたかれる。
「これは私の仕事で、お前には何の責任もない。起きてすぐ端末を調べなかった、私が悪い」
「そうではなくて」
 淡々と答えるシルバーに、リュウは大きくかぶりを振る。
「あの夜に……お怪我を、させてしまった件です。いえ、それ以前に……無断で長くお側を離れてしまったことを、何よりもまず謝罪すべきでした」
 腰を折り、後頭部が見えるほど深く頭を下げる。
「本当に、申し訳ありませんでした」
 その姿勢のまま、じっとリュウは動かない。
 フェイもレンも、声を出すことすらはばかられて。息を呑んで二人の対話を見守っていた。
 そうして、ベッドの上にいるシルバーは。

「……不思議、だな」

 ぽつりと、そう、呟いていた。
 左手でバーチャルバイザーを外し、何にも邪魔されない視界で、まっすぐにリュウを見つめる。
「同じお前が言ってるのに、まるで違って聞こえる」
 続けられたその内容に、リュウは下を向いたまま、はっと両目を見開いた。

『申し訳ありません』

 それはあの事件が起きた晩に、店が混んでいて座る席がないと謝罪するため、何度も繰り返した台詞だった。
 文字にしてしまえばまったく同じ字面なのに、あの時それを言ったリュウの心情は、今とまるで異なっていた。心が伴わず、ただ形だけ平謝りされたシルバーの方にも、それははっきりと伝わっていたのか。
 俯いたままのリュウの顔が、羞恥で染まる。
 シルバーに関する記憶を失ったリュウは、それだけに留まらず、もっと大切な何かをいくつも忘れてしまっていたのだろう。
 他人に ―― キメラとか人間とかに関わりなく、自分以外の誰かに対し、心を開いて打ち解けること。
 相手の行動をきちんと見つめて、先入観なく判断すること。
 誠実には、誠実をもって返すこと ――
 それは知性を持つ一個の『ヒト』として生きようとするならば、もっとも基本的かつ、けして忘れてはならない『何か』のはずだ。
 ぎゅっと手のひらに爪を立てるリュウに、しかしシルバーはくもりのない笑顔を向ける。
「また、『お前』に会えて、嬉しい。急にいなくなったあの時も、この間の夜も、お前が死ななくて本当に良かった。帰ってきてくれて、ありがとう」
 一度言葉を切って、息を吸う。

「……リュー」

 それは、彼女によって付けられた、彼女だけが呼ぶ名前。
 たとえ他の誰が口にしても、絶対に同じ響きにはならない。リュウが呼びかける、『サーラ』という名と同じように。
 ―― そうだ。
 同じ場所に立ち、直接に顔を合わせて。肌で、耳で、互いのまとっている空気に触れ合って。そうやって真摯にその内面を思いやるからこそ、感じ取れる『何か』が、そこには確実に存在している。

「ただいま……戻りました」

 下を見るリュウの視界が、ぼやけてその焦点を失った。
 つま先の床に、ぽとりと小さな水滴が落ちる。

 その夜。

 長らくすれ違いを重ねた二人の男女は、ようやく互いに呼ばれるべきその名を、取り戻すことができたのだった ――


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