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 ぬえの集う街で  ―― Town Living of NU-E
 第九章 明らかになった事実
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


「さっきからのお前の行動は、明らかにシルバーの性格や生活習慣を理解した上でのものだ」
 ドクター・フェイは、事務的な口調で、結論を出すに至った根拠を挙げてゆく。
「あんなに的確になだめられたのも、起きた途端にパニックを起こした、その理由を知ってるからなんだろう? 下着のサイズまで当たり前に把握してるようだし、何よりもだ」
 一度言葉を切って、前髪の間からのぞく瞳を覗き込む。

「 ―― 『サーラ』」

 フェイが口にしたその名に、リュウがわずかに身じろいだ。
「シルバーは、お前だけが使う呼び方があるって、そう言ってた。具体的になんて呼んでるのかは、俺にも教えてくれなかったがな。それが『サーラ』だ。違うか?」
「…………」
 どこか緊迫した視線の交錯を、先にそらしたのはリュウの方だった。
 膝に落とした目の先で、組み合わせた指の先が数度擦り合わされる。
「違わない ―― と、思います」
 返答は、いささか歯切れが悪かった。
「思う?」
 まだしらばっくれる気かと声に力を込めるフェイに、リュウは違うとかぶりを振ってみせる。
「二年間のことを、完全に思い出した訳ではないんです。むしろ、思い出せていない部分の方が、まだずっと多い」
 長い前髪を邪魔そうにかきあげながら、あらわになった眉を寄せた。
 己の内面を探っているらしいその様子に、フェイはいくぶん雰囲気を和らげる。
「ふん……たとえば、どんなことが判らないんだ?」
「私とあの人が、どういった成り行きでこの都市レンブルグにいるのか。どうして離れ離れになっていたのか。……それ以前に、そもそも私とあの人は、どのように出会った、どういう関係だったのか」
 次々と並べ立てられる内容に、フェイはちょっと待てと手のひらで制した。
「それは、ほぼ何も判っていないとか言わないか」
「そうかもしれません」
 呆れた声で確認してくる医師を、リュウは大真面目に肯定する。
 フェイはしばし考えをまとめるように、かつかつと音を立てて机の表面を叩いた。やがて、まずは順番にひとつずつ片付けると決めたらしく、最初の質問に立ち返る。
「 ―― だったらさっき、シルバーがパニック起こしたのは何でなんだ」
 リュウもまた、思い出したばかりの記憶を整理するのに時間が掛かるのか。しばし間を置いてから答える。
「……あの人は、医者を嫌っています」
 出した結論を慎重に舌に乗せて、それから間違ってはいないと、一度顎を引いて己に確認する。
「恐怖していると、そう言っても良いでしょう。……詳しい理由はプライバシーに触れるので、私の口からは言えません。ですが ―― 以前あの足を治療されたとき、かなり酷い目にあわされたからだと」
 腕や足そのものといった大きな部分は、さすがに人工臓器もまだ実用化されていない。それでも機械式の義肢であれば、それなりの機能を備えた製品が一般的に流通していた。見た目こそあまり良くはないが、常にパンツスーツを着用しているシルバーであれば、一見しただけでは義足を装着しているなど誰にも判らないだろう。足を引きずりながら杖を使っている方が、よほど衆目を集めるはずだ。
 それなのに、彼女がああして不自由な足をそのままにしているのは、何らかの止むに止まれぬ理由があるからだというのか。
「俺がキメラだと言い聞かせたら、落ち着いたのは」
 普通の人間であれば、キメラの医者と聞けば、むしろ不安を掻き立てられるだけだろうに。
「その時の医者が、人間ヒューマンだったからです」
 リュウはきっぱりと言い切った。
「施された治療は、人間の悪意を凝縮したようなものだったと言っていました。もしもキメラだったなら、絶対にあんな真似はしないだろう、と」
 そんなふうに表現した彼女は、キメラに対してそれなりの評価を抱いているのだろうか。少なくとも、劣った種族だと一方的に見下しているのではあるまい。
 キメラの医師であっても構わない ―― ではなく、キメラであるからこそ安心できる、と。
 先ほどのシルバーは、明らかに錯乱していた。だからこそそこで見せたのは、無意識の奥底から発せられた、まったく偽りない本心の発露だったのだろう。
 フェイは胸の内からこみ上げてくる感情を努めて押し隠し、意識して顔の筋肉を引き締めた。
 メモにペンを走らせながら、次の質問を形にする。
「ふん……じゃあ次だ。あのポット、レモネードとか言ってたが、シルバーの好物かなんかか」
 これにはリュウも、ちょっと自信なさげに首を傾げた。己の判断が、果たして正しかったのか。半ば疑問を交えつつ、意図したところをたどたどしく述べてゆく。
「熱を出すと、飲みたがる……ような。あの人は……熱を良く、出していました。食欲が落ちるので、滋養のあるスープも、必要かと。……レシピは、自然に出てきました。身体が覚えているような感じです」
 両方の手のひらを広げて、じっと見つめる。
 いいかげん休めとドクターから病室を追い出されて、一度は店の奥にある自分の部屋に戻り眠ろうとした。しかし病室で横たわっている彼女の姿が、目蓋の裏からどうしても離れてくれない。いてもたってもいられないまま、床に直接敷いたマットレスから身体を起こした。現金の入った財布を掴んで勝手口から飛び出し、近隣の店で入院に必要だと思ったものを、目につく端から購入してゆく。ひと通り買い揃えてから【Katze】に戻ると、いつの間にか店内には誰もいなくなっていた。故にキッチンカウンターに向かう彼を、見咎める者も一人としておらず。
 何を作れば良いのか、迷いはまったく感じなかった。冷蔵庫から材料を選び出し、手早く調理にかかる。よどみなく手が動いて、あっという間に目的の品を作り上げた。保温ポットは昼食の出前時に回収したのと、夜の来店時にシルバーが持ち込んで、あの騒ぎでそのまま放り出されていたものの二本が、きれいに洗われた状態でカウンターの隅に並んでいた。
「……あの人が、いったい、どういう人物なのか。何を好み、何を嫌い……どんなことを、どんなふうに話すのか。それが、なんとなくですが……判る。自分が……何を、するべきなのかも」
 ぽつりぽつりと話していた彼は、不思議そうに顔を上げてフェイの方を見た。
「それでも、具体的な事柄はまだぼんやりとしていて、ほとんど判らないままなんです。ただ ―― 急いで思い出さなければならないとも、感じてはいません。最低限必要なことだけは、ちゃんと判っている気がするというか」
 あまりに感覚的すぎて、自分自身でもうまく明言はできないようだ。ただ中途半端な己の状態について、焦燥感や戸惑いといったものは、さほど抱いていないらしい。
 ―― 病室で付き添ったたった一夜の間に、これほどまでの影響が及ぼされるとは。果たしてあの晩に、いったい何が起きたというのだろう?


「ちょいと、あの……何が起きてるんだか、あたしらにはまだよく判らないんだけどさ」
 それまで無言で二人の会話を見守っていたアウレッタが、おずおずと口を挟んできた。
「つまり、リュウはシルバーさんと、前に面識があったって訳なのかい? その、忘れちまってた二年間のどこかで」
 見れば他の面子も、おおむね似たような疑問を持っているようだった。
 【Katze】の客の中でも常連に数えられる者達は、リュウが店で働き始めるより前、大怪我をした状態でアウレッタに拾われた段階から、多かれ少なかれ噂で事情を聞いたり、実際に面倒を見るなどして関わりを持ってきていた。その詳しい過去や首輪の件こそアウレッタと診療所の二人だけで内密にしていたが、彼がここ数年の記憶を失っており、この街には頼りにできる友人知人を一人も持っていないという基本的な部分ぐらいは、おおむね皆に周知されている。
 そこは仲間意識の強い獣人種同士だ。ほとんどが様々な形で苦労を重ねてきている彼らは、同じような境遇にある同族に対し、寛容な一面を持っている。身ひとつで住む場所にも困っていたリュウへと、アウレッタが物置部屋を提供してくれたように、日常生活に必要な細々とした品 ―― 最低限の家具や衣服といった類に関しては、ある程度の金銭的余裕ができるまでの間、そのほとんどが常連達が持ち寄ってくれる古着や古道具によって賄われていたのだ。
 そういった経緯いきさつを鑑みれば、今ここにいる顔触れはリュウにとっても身内と呼べる、家族同然の間柄だと言えた。そして家族に対して情報を隠匿するというのは、やはりどうにも後ろめたさを感じるもので。
 集中する視線を受けて、フェイはしばらく迷うように思案していた。が、やがて深く息を吐き出す。

「 ―― 本来ならこれは、守秘義務に觝触するんだがな。まあ、もう良いだろう」

 そう言って、机の右側にある一番下の……鍵がかかった引き出しを開ける。取り出されたファイルには、古風な手書き文字の記された書類が綴じられていた。
「シルバーが最初にうちへと連絡を寄越してきたのは、ちょうど半年前のことだ」
 ぱらり、と。
 かすかな音を立ててページをめくりながら、フェイはゆっくりと話し始める。
「記憶喪失だという、銀狼のキメラ患者について、詳しく聞きたいって問い合わせだった。もちろん最初は、守秘義務を盾に突っぱねようとしたさ。だが ―― その時点で彼女は、リュウ=フォレストってえフルネームを知っていた。リュウは記憶にある限りでは別の名で呼ばれてたという話だったから、だったらシルバーはリュウの失われた二年間に、何らかの関係があるのだろうと予測できた。それに既にうちの患者だと特定してるんだから、当然向かいの店に住み込みで働いているのも、把握できてるだろう。だからあからさまな拒絶はせず、神経を逆撫でない程度に話を合わせながら、あっちの情報を引き出そうと思ったんだが……」
 機械で清書することなく、手書きのメモのみで構成されたそのファイルは、間違ってもハッキングなどで情報を盗み見られぬよう、用心したが故のもの。そうしてかわされたやり取りの中から拾い出していった内容を、フェイは少しずつ書き溜めてきた。
「シルバーは、最初に断言したよ。リュウを無理に連れ戻す気はない。リュウはこの都市レンブルグの正式な市民で、どこで暮らすのも誰と暮らすのも自由だと法で保証されている。自分にそれをどうこうする権利などない、ってな」
 指先でインクの文字をたどるその仕草は、当時の彼女の声を脳内で再生しているようだった。
「『ただ、いきなり前触れもなく連絡が取れなくなったから、事故にでもあったのではないかと思い、探していた。なんでも一部の記憶を失っているとのことだが、いったいどの程度まで覚えているのか。精神状態や健康に問題はないのか。 ―― 元気で、やっているのか』」
 思い出したそのままに、忠実な口調でそらんじてみせる。
「……態度こそ平静そうにしてたが、なんつうかこう、本気でリュウの身を案じてるのが、見るからに伝わってきてなあ」
 嘆息するフェイに、後ろで立つレンもまたしみじみと同意する。
「ええ ―― それはもう、横で聞いている方まで胸が痛くなってくるぐらいでした」
 彼女もまた、通話装置の送信範囲に入らない位置を保ちながら、通話が交わされるたびにその場へ立ち会っていたのだった。それは複数の目と耳によって情報を収集分析し、より正確かつ詳細な記録を作成するための、打算的な措置であったのだけれど。
 しかしいつしかレンが通話相手に抱く感情は、着実に変化していっていた。
「シルバーさんは、本当に心からリュウさんを心配していました。いつも、いつも、大丈夫なのかって、その事ばかりで」
「いつも……?」
 訝しげにつぶやいたジグへと、フェイが壁に埋め込まれた通話装置のモニターを指差す。
「シルバーは文字通り、三日に上げず、連絡してきてたからな。ペントハウスに越してきてからだって、リュウがカウンセリングを受けに来た日なんかには、必ずどんな具合だったかと聞いてきた。それ以外の日にも、今日は顔色が悪かったとか、眠れていないようだが大事はないかとか。……完全に保護者の域だが……まあ、確かに保護者、だったんだろうな」
 一歩間違えれば、ストーカーと言えなくもない。それでも彼女のそれは、確かにリュウを心底から想うが故の行動だったのだ。

「 ―― そう、ですね。あの人は、ずっと私を……守ってくれていた」

 リュウ自身もまた、首を縦に振りそれを認める。
 おそらく、リュウがこの都市の市民権を得るにあたって保証人となった人間ヒューマンは、他でもないシルバーだったのだろう。まだはっきりそのあたりを思い出せた訳ではなかったが、それでも人間というだけで条件反射的に拒絶反応を示していた頃とは異なり、今ならば落ち着いて判断ができる。
 胸の奥。深いところにあるぼんやりとしたイメージは、ひたすらに暖かく ―― それでいて、どこかひどく切なくて。
 己の内面を覗きこむように、服の胸元を強く握りしめる。
 そんなリュウへとフェイは言葉を続けた。
「シルバーはな。お前がここで幸せに暮らしているのなら、それでいい。自分のことを思い出せないというのなら、それもしかたがない。ただ、できるものなら、もう一度……改めてもう一度、最初からやり直せないかって、そう相談してきたんだよ」
「それは……」
 相手が記憶を失ったという事実を認め、そして現在送っている生活を受け入れ、そうしてその上でもう一度、一から新たな関係を構築し直そうと望む。
 いったいどれほどの想いを持っていれば、そんなふうに考えられるのだろう。

 しかし ――

 安易に流されかける感情を断ち切るかのように、ドクターは首を左右に振った。
「正直、無理だろうって俺は答えた。お前は心底から人間を嫌い抜いてるし、この居住区から出ることだって、これっぽっちも考えてなかった。たとえもう一度シルバーと出会ったところで、良い結果になるとは到底思えなかったからな。それぐらいならお前の記憶を戻せないか、それを考える方が、まだしも現実的だったろう」
 忘れてしまった二年の間に、何があったのか。それはまだ思い出せていない。
 今のリュウには、人間の愛玩物として良いように弄ばれ、虐げられてきた記憶しか残っていない。そんなリュウが今さら『見知らぬ』『人間』と顔を合わせたところで、良くて内心に憎しみを押し隠しながら表面だけは服従して見せるか、あるいは下手を打てば暴力沙汰にさえ発展しかねなかった。それほどまでに、リュウが人間に対して抱く拒否感は、根深く、強い。
 ならば少しでも記憶に関する治療を進めるため、シルバーが知っている二年間について、教えてくれないかと水を向けてみたのだが。
 フェイはその時の通話を思い返して、苦い息を吐く。
「……シルバーは、記憶を戻すのに反対したんだ」
 思いもよらなかったその展開に、全員が目を剥いて医師の方を向いた。
「どうして!?」
 ルイーザが甲高い声で問いただす。
「記憶っていうのは、ややこしいもんなんだよ。専門的な説明は省くが、リュウの場合……失くした記憶を取り戻したら、今度は覚えていなかった間に見聞きした出来事を、反動で忘れちまう恐れがあった」
「って言うと……」
「俺のこともアウレッタのことも、【Katze】で働いてたことも、そこで知り合った客のことも ―― ここで暮らしてきた一年近くを、まるっと全部忘れる恐れだよ」
 あまりと言えばあまりの事実に、誰もとっさに言葉が出てこない。
「もちろんそれは、あくまで可能性の話だ。必ずしもそうなると決まってる訳じゃない。それでも喪失のリスクが存在している以上、お前にそんな危険な橋は渡らせられないって、シルバーは言い切った」
 あれは最初の接触から何度か通話を繰り返し、ようやく互いにある程度、腹を割った話し合いができるようになってきた頃の事だった。 
 その時のシルバーの様子は、フェイの脳裏にはっきりと焼き付いている。

『たった二年間を思い出させるために、あえてこの一年を忘れさせようなどと、本末転倒も甚だしい。ましてリューには、既にその街での生活が確立している。たくさんの同族と知り合って、仲間に囲まれて過ごしているのだろう。比べれば、私は一人。しかも人間ヒューマンにすぎない。一人の人間との過去と、たくさんの同族との現在を、わざわざ秤にかけるまでもあるまい』

 淡々とそう言葉を紡ぎながら。しかしその瞳は頼りなく揺れていた。
 ―― あれは、もしかしたら『無償の愛』ってヤツではなかったか。
 ただひたすらに、相手の幸せを願い続ける。たとえそこに、己の居場所がなかったとしても。
 人間であれ、獣人種であれ。本当に、心の底からそれを口にして、なおかつ実行できる人物を、フェイは初めて目の当たりにしたのだった。
 もしもそのまま何事もなかったならば、今でも彼女は時おりフェイと連絡を取るだけで、遠くからひそかにリュウを見守り続けていたのかもしれない。
 しかし、問題は起こってしまった。
「シルバーは、リュウの治療に協力しない ―― そこまで話が進んでたところで、あの件が飛び込んできたんだ」
「……どの件だい?」
 うつむいて黙りこくったままのリュウに代わり、アウレッタが問いを返す。
「あのビルの売却問題さ」
 あっと声が上がった。
 思えばあれから、まだ三ヶ月しか経ってはいなかった。それとも、もう三ヶ月が過ぎたと言うべきか。
 【Katze】を含む建物全体の持ち主が変わったという話は、何の前触れもなくいきなり通達された。アウレッタ達、あのビルを利用している者らには、既に取り引きが成立したあとの事後承諾……いや、承諾すら求めることのない一方的な事実として、それは伝えられたのである。
 あの時の驚きと未来への不安に満ちた混乱を、いつしか皆は忘れ始めていた。
 新しい家主オーナーとなったシルバーは、確かにいろいろと予測の付かない行動を取り、何かと振り回される結果にはなったけれど。それでもこの三ヶ月の間、取り返しのつかない変化は何ひとつとしてもたらされず。店は変わらぬ営業を続けていたし、住民も誰一人として欠けはしはなかった。最初の頃こそ店の客足が遠のくような時期もあったが、それもドクターのとりなしによって、数日で収まった。何よりもシルバーは、確かにとっつきにくい部分こそあったけれど、それでもけして先住のキメラ達に無理難題を押し付けるような真似などしなかったのだ。
 思い返してみれば、当初危惧していた不安など嘘のように、平穏な三ヶ月だったと言えるだろう。
「どういったルートかは知らんが、シルバーはいち早くその情報を掴んできた。話を聞いた俺の方も、すぐにあちこち手を回して裏付けを取ってみた」
 繰り返すが、この街におけるただ一人の医療従事者として、フェイが持つコネクションは、かなりの広範囲にわたっている。それは時に流血を伴う暴力沙汰と縁が深い、裏社会の一部へも及んでいた。そんなフェイが詳しい情報を集めた結果、判明したのは。
「もともとあそこを買おうとしてたのは、人間ヒューマンなんかじゃなかったんだ。この街の ―― それもかなりヤバい系の闇組織だ。どこかは聞かない方が良いだろうよ。どうも買ったあとは住人を全部追い出して、事務所や構成員達のヤサにするつもりだったらしい」
 既に事情を知っていたレン以外の顔から、血の気が引いて真っ白になる。
 もしもそんな組織の手に建物が渡っていたら。それはただ住人や常連達が、住まいと店を失うだけに留まらなかっただろう。キメラ居住区の中では比較的治安のましな方で、女子供でも安心して住むことができているこの界隈が、いっきにきな臭い地域に様変わりする瀬戸際だったのだ。
「……シルバーは、横から取り引きに割り込んで、組織が提示してた倍の額を売り主に叩きつけた。売る方も、商談相手はキメラよりも人間の方が安心できたんだろう。組織だって、わざわざ人間とゴタツキたくなかったはずだしな。おかげでどうにか契約が成立して、あのアパートはシルバーの持ち物になった」
 はっとフェイが短く息を吐く。
 そうして鋭い眼差しでリュウを睨みつけた。

「何でシルバーがそこまでやったのかは、言うまでもないな!?」

 丸いレンズ越しに強く見すえられて、リュウはゆっくりとその面を上げた。かき上げられた前髪の下で、あらわになった青と金の瞳が、フェイをまっすぐ見つめ返す。

「 ―― はい」

 すべてはリュウを、リュウの現在の暮らしを、守るため。
 ただただその為だけに、彼女は莫大な金額を投じたのだ。その行為を、けして本人には告げぬままに。
「……わざわざ自分が引っ越してきたのは……たぶん、あきらめきれなかったんだろうよ。もう一度、改めてお前と知り合って、最初からやり直すっていう選択肢を」
 たとえ、以前とまったく同じ関係は築けなくても。
 それでも己が己であり、リュウがリュウであるのなら。あるいは、もしかして、と ――
 だが、心底から人間を嫌い抜き、そして同時に恐れているリュウは、けして必要以上にシルバーと関わりを持とうとしなかった。たとえ彼女が店にやってきても、注文をとったり料理を運ぶのはもっぱらアウレッタ。シルバーが店内にいる間、リュウはそのテーブルに近づくどころか、極力視線すら向けはしなかった。日に一度、昼食と飲み物を部屋に届けるのだけは彼が担当していたが、その時も目は手元に落としたまま、最低限の言葉しか交わそうとせず。
 今になって思い返してみれば、相当にひどい態度を取り続けていた。
 そう言えば、デリバリーを最初にペントハウスまで届けた日。ためらいを見せるリュウの背を押したのは、たまたまカウンター席に座っていた、ドクター・フェイであった。あれは昼食を出前することが決定した次の日の昼すぎだったから、あるいは最初から彼にその役目をやらせるために、狙いを定めてその時間帯に店を訪れていたのかもしれない。
 そうやって、シルバーとフェイが接触する機会を、少しでも増やしてやれたらと。

「…………」

 フェイが口を閉ざすと、しばらく診療室内には沈黙が降りた。
 それぞれが新しく知った事柄について思いを巡らせている中で、フェイは重い雰囲気を変えるように、体重をかけて椅子の背もたれを鳴らす。
「で、だ」
 短い声に、再び視線がフェイへと集まる。
「はっきり全部思い出した訳じゃないが、感覚的なものが戻ってきてるってのは、まあ判った」
 話を大幅に引き戻されて、リュウはこくりとひとつうなずく。
「じゃあ逆に ―― 何か思い出せないってえ部分はありそうか?」
「思い出せない、こと」
「ああそうだ。さっき言っただろ。記憶を取り戻した時は、逆に記憶喪失だった間について忘れちまう場合がある。今のところ、俺達に関してはちゃんと認識できているようだが……なにか欠落してるとか、違和感なんかは覚えるか?」
 そう言われてしばし黙考するが、やがて困ったようにかぶりを振る。
「今のところは、これといって、何も。ですが……」
 『ある』ものの存在を証明するのは簡単だが、『ない』ものをないと断定するのは至難の業だ。そもそも失われ、存在すらしなくなってしまえば、その欠落さえもが本人にはそうそう自覚できなくなるだろう。リュウの記憶喪失だとて、たまたま現在のものとして認識していた日付と居場所が、現実と大幅に食い違っていたからこそ判明したのだ。リュウ自身にしてみれば、それこそ『目が覚めたら見知らぬ場所に移動していた』という感覚しかない。
 それはドクターにも判っているようで、しつこく念を押したりはしなかった。
「そうか……まあ、こればっかりはカウンセリングを重ねて、細かく検証していくしかないからな」
 それだけ言って、開いたままだったファイルをパタリと閉じる。
 失った記憶を取り戻すその反動で、いま現在手の内にある、大切なものを取りこぼしてしまう。そんな結果になるのを、シルバーは一番、恐れ危惧していた。
 心の問題に対し、確実に効く絶対的な治療法など存在しないと、医者であるフェイ自身が誰よりもよく知っている。それでも、こうなった以上、できる限りの手は尽くしておきたかった。
「二年分の方も、取っ掛かりができたんだから、案外スムーズに蘇ってくるかもしれん。とりあえず、明日もまた顔を出してくれ」
「……判りました。ではあの人の見舞いの時にでも、寄らせていただきます」
 リュウがそう応じたのをしおとして、衝撃続きだったその日の診療時間は、終わりを迎えたのである ――


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