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 ぬえの集う街で  ―― Town Living of NU-E
 第八章 診療所
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 横たわっている彼女の寝顔は、まるで人形のそれのように無機質に見えた。
 すでに夜も遅く、外来の受け付けはとうに終わり、消灯時間も過ぎている。診療所内は最低限を残して明かりが落とされており、簡素なパイプベッドひとつしかないこの病室もまた、点いているのは枕元にある小さな照明だけであった。
 薄暗い室内で、白く浮かび上がるその面立ち。
 肌は透き通るかの如く血の気がなく、薄く開いた口唇もまたほとんど色を失っている。
 シーツの上に広がる長い黒髪だけが、ぎょっとするほど強いコントラストを生み出していた。
 右の手首から肘近くまで達する長い傷は、洗浄した上で消毒し、縫い合わせてある。けして鋭いとは言いがたい刃物でつけられていたため、処置にはかなり手間取らされた。そして手当てに時間がかかっただけ、失血も相応に増えてしまっている。
 しかし腕に刺した針へと繋がっているのは、輸血用の赤いパックではなかった。ほぼ無色に近い、透明な輸液のそれである。
 ベッド脇に立って見下ろしているリュウの隣で、ドクター・フェイが無念そうに拳を握りしめていた。
「……人間ヒューマン用の合成血液は、在庫ストックがねえんだ。取り寄せを手配はしたが、キメラ居住区ここはどうしても後まわしにされる。届くまで、なんとか輸液こいつでしのぐしかない」
 人間と同じ教育機関で、人間と同じ高等教育を受けたのにもかかわらず、フェイはキメラであるというだけの理由で人間の診察をさせてもらえなかった。しかも卒業後に配属された市の中央総合病院は、名称の通りレンブルグの中心部に位置していた。治療費が高額なこともあり、キメラの患者が足を運ぶなど、まずありえない場所だ。
 だからこそフェイは、総合病院を辞めてキメラ居住区で開業したのだ。それまでまともな医者がいなかったこの街において、フェイの診療所は諸手を上げて歓迎された。
 また人間とは身体構造が異なる各種キメラの治療について、真剣に研究している医師の数も、まだわずかしか存在しない。病気や怪我に倒れたキメラを大金と手間暇をかけて治療するよりも、手放すか安楽死させて新しいのを購入したほうが安くて早いと。そう考える人間はまだまだ多いからだ。様々な症例を数多く手掛け、その結果をまとめて発表しているフェイの論文は、その分野で着実に功績を上げていた。正直なところ、こと獣人種の治療に関しては己の右に出る者はいないだろうと、まんざら驕りではなく自負していたのだ。
 しかし、いま目の前にいる患者は、シルバーだった。
 フェイにとっては、医師免許を取得してから初めて受け持った、ヒューマンの患者である。自分だとて、共に教育を受けた他の人間の同期達と変わらぬほど、きちんとヒューマンの診察をこなせると、内心で幾度も歯噛みしてきた。そんなフェイの元へと、ようやくやって来た患者なのに。
 それなのに、頭の中ではいくらでも思い描けるその治療内容を、施せる設備がここには整っていないのだ。それが悔しくて悔しくてたまらない。
「シルバーが、この街に住み始めてから、もう何ヶ月も経ってる。なのにどうして俺は、人間ヒューマン用の医薬品を準備しておかなかったんだ……ッ」
 噛み締めた歯の間から、絞り出すような声が漏らされた。
 あるいはフェイは ―― 己でも自覚せぬままに、高をくくっていたのかもしれない。もしも彼女が体調を崩したならば、その際は普通に人間の医者がいる病院へ掛かるのだろうと。無意識のうちに、そう決めつけていたのではないか。
 しかし緊急性が高かった、今回の事件。外部から救急車を呼ぶ時間も惜しかったし、何よりキメラ居住区の中にまで、人間用の救急車が来てくれるとも思えなかった。たとえ患者が人間なのだと通話口で訴えても、運んで欲しさに嘘をついていると、そう判断されて時間をとられるに決まっている。さらに詳しい事情を話せば、今度は人間がキメラに襲われたということで、キメラ居住区全体を揺るがす大問題にさえ発展しかねない。
 だから、いまこの時、この診療所で。フェイがとれる限りの手段を尽くして、治療に当たるしかなかったのだ。
 投げ出された手のひらに、節くれだった手をそっと重ねて。フェイは負担をかけないよう、細心の注意を払いながら握る。

「 ―― さっきは、殴って悪かったな」

 いきなり謝られて、リュウが不思議そうに振り返った。
 シルバーの手を離したフェイは、俯いてその視線を避けると、メガネの上から眉間に寄った皺を揉みほぐす。
「半分、八つ当たりだった。あんまり急で、俺も動揺してたんだな。修行が足りてねえ」
 深々と息を吐いた。
 医薬品が手持ちにない焦りや、それぞれがその内面に抱えた事情の数々。
 一人の医師として、決して関係者に悟らせてはならないはずのそれらを、己の胸ひとつに収めて素知らぬ顔を装うことなど、当たり前にできるつもりでいたけれど。
 あの時のフェイの行動は、明らかに医者が保つべき平静を欠いていた。
 それは他でもない、急患がシルバーであったからとも言えたけれど ――

「すまんが、今晩だけでも付いててやってくれないか。お前を庇って負った傷だ。それぐらい、してやる義理はあるだろう?」

 人間嫌いが多い獣人種の中でも、ことさらにその傾向が強いのがリュウだった。
 その過去を考えれば、当然だと納得がいく。しかしシルバーとほぼ毎日顔を合わせるようになって三ヶ月が過ぎても、未だに彼は、まったくその警戒を緩めていなかった。彼女は人間であるのだからと、常に身構え、一定の距離を置き、そうして変わらぬ表情の裏側で、必死に恐怖を押し殺しながら接している。
 それでも、せめて今だけは、と。
「……他にも、患者がいるんだ。折れた骨が内臓に刺さった一家の大黒柱に、高熱が続いてる赤ん坊。原因不明の腹痛で苦しんでる女の子だっている。レンだけじゃあ、とても手がまわりきらない」
 現在このキメラ居住区で、たったひとりの医師。獣人種の患者を快く診てくれるフェイを必要としているのは、なにもシルバーばかりではないのだ。むしろ彼女の方こそが、この診療所では異質な存在だった。
 言葉に出しては何も言わなかったが、しかしその目の色からリュウが了承したと判断したのだろう。
 フェイはベッド脇に置かれている丸椅子を示すと、軽く手を持ち上げて辞去の挨拶に代えた。後ろ手に閉ざされた引き戸をしばらくのあいだ眺めて、それからリュウは椅子を引き寄せる。
 枕元近くへと、腰を落ち着けた。
 時計の針は、既に深夜近くをまわっている。
 ぼんやりと、窓の外へと視線を向けた。夜の街は静まり返っていて、道路脇にぽつぽつと点在する、街灯の光が妙な心もとなさを感じさせる。真向かいにある【Katze】の入った建物が、いつもカウンセリングで訪れる時とは、微妙に違った角度で見えた。それがどこか懐かしく思えたのは、ここが診察室のある二階ではなく、三階の病室だからかもしれない。大怪我を負って、この診療所に担ぎ込まれた一年と少し前。なんとか動けるようになるまでの間、別の大部屋ではあったが、同じ並びにある病室でリュウは入院生活を送った。
 こまめに見舞いに来るアウレッタが、窓から下を指さして。あの大きなロゴの入った窓のある場所が、自分の経営している店なのだと、笑顔で教えてくれた。
 下町の貸し店舗とはいえ、キメラが自分の店を持つことができる場所。
 負傷して無一文で転がっていた、身元不明のキメラに対し、後で返せばいいからと惜しみなく与えられる手当て。
 それらに接して、あの時のリュウは、どれほどの衝撃と戸惑いを感じただろう。
 未だに返しきれていない多くの恩を思えば、一晩ぐらい患者に付き添う程度、利子の返済にすらあたらなかった。
 まして今ここで眠っている彼女が、負傷する羽目になった、その理由は ――

「…………」

 秒針が時を刻む、かち、かち、という音しか聞こえてこない静寂の中。
 耳の奥に蘇るのは、囁くように吹きこまれた、苦痛を噛み殺す小さな呻き声だった。
 背中に感じた、細い身体の温度。首に回された両腕は、強く、けれど息を奪うほどではない絶妙な力加減で、しっかりとこの首輪を守ってくれて。
 それから……

『大事、ない、か?』

 とっさに支えた腕の中から見上げてくる、熱を帯びて光る黒瞳。
 首輪へと伸ばされた指先は、まるで壊れ物に触れるかのように細かく震えていた。

『リュー!!』

 最近ようやく耳に馴染んできた、新しい名前。
 しかしあのとき彼女が呼んだそのイントネーションは、他の誰が口にするそれとも、微妙に異なって聞こえた。

 目の前に存在するこの口唇が、あれらの言葉を紡いだのだ。
 それなのに今の彼女は、固く両目を閉ざしている。呼吸さえもがあまりに弱々しくて、まるで死んでいるのではないかと不安を覚える。
 気がつけば、長い髪が一筋、口の端に貼り付いていた。恐る恐る指を伸ばして、そっと取り除く。
 シーツの上に散らばっている他の髪も、このままでは具合が悪そうに思われた。丁寧に、丁寧に、間違っても頭皮を引っ張らないよう注意を払い、少しずつ指先できながら整えていく。
 細い首にも、何本かまとわりついていた。間に指を差し入れると、首筋の皮膚へと指先が触れる。
 とくり、と。
 かすかな脈動が感じられた。
 はっとして、もう一度確かめるべく、今度は手のひらを首に添わせる形で密着させる。

 ―― とく ―― とく ――

 弱い脈拍は、今にも止まってしまいそうに、儚くて。
 もっとしっかり確認できないかと、頸動脈を探した。
 すっかり生気を失ってしまったかのようなその肉体に、ようやく生きている証が見つけられたと、そう思う。
 親指を伸ばして、その腹で頬の線をなぞった。象牙色の肌は、見た目を裏切らないなめらかさを持っている。

 ふ ぅ

 口唇の間から、ふいに湿った吐息がこぼれ落ちた。
 驚いて硬直した時には、その目蓋がうっすらと持ち上がっている。
 リュウは、いつしか覆いかぶさるような姿勢で、真上から寝顔を覗きこんでいた。睫毛の間からのぞく、磨いた黒曜石を思わせる瞳が、ほのかに揺らめいて間近にあるリュウの顔を映し出す。

「…………」

 悲鳴を上げるだろうか。それとも怒りと共に振り払われるだろうか。
 どちらをされても当然で、しかしどちらを向けられても衝撃を受けるだろう己を、リュウは自覚していた。
 断罪を待つかのように動きを止めた彼の前で、薄く開かれた両目は、ゆっくりと緩慢な動きでもう一度閉ざされ、そうしてまた開く。
 薄い口唇が、力なく動いた。

「……リュー……」

 ごくごく小さな、これほど静かな部屋でなければ聞き逃してしまいそうな、頼りない声。
 リュウは息をも殺して、全神経を耳に集中した。

「夢……を、見た……」

 途切れがちなそのささやきには、いつも帯びている凛とした響きなど、どこにもなく。
 まるで置いて行かれた迷子のような。親を求めて泣く幼児のような。

「……お前、が……いなく、なる……夢」

 見上げてくる瞳に渦巻いた、強い強い不安の光。

「わたし、を……忘れて、置いて……」

 と ――
 震える口唇が、ふいにほころんだ。
 ほどけるかのように、柔らかな微笑みがリュウへと向けられる。

「夢で、良かっ……た」

 そう言って。
 ゆるやかに目蓋が下りていった。
 かすれた吐息がもう一度、独特の発音で名前を呼んで。そうして彼女は再び眠りについた。

「…………」

 リュウは己の胸の中で、心臓が激しく鼓動を打っているのを、どこか呆然と感じていた。
 止めていた呼吸を再開しようと試みるが、何故かうまく空気を吸い込めない。

『夢で、良かっ……た』

 耳の奥で、何度もその言葉が繰り返しこだまする。
 視界がチラついて、まばたきを繰り返した。まじまじと見下ろしたその寝顔の、閉ざされた目元を飾る睫毛が、思いのほか長いことに今さらながら気が付く。
 口の端には、まだ笑みの欠片が残されていた。

「…………」

 未だに首筋へと添えたままだった手を、そっと引いて。それからおずおずと指を伸ばした。
 名残を拾い上げるかのように、その指先をわずかに開いた口唇へと近づける。
 色の薄い口唇は、予想していたよりも柔らかく、そして淡いぬくもりを伝えてきて。

 胸の奥底から、名状しがたい何かがこみ上げてくる。
 塊のようなそれをどうにか吐き出そうと、リュウは大きく何度もあえいだ。

「…………サ……、ラ……?」

 震える吐息がかすかに形を作った、その瞬間。
 激しい頭痛が襲いかかってきて、うめき声と共に背中を丸めた。

「…………ッ!!」

 脳内に、鮮烈なイメージがフラッシュバックする。

 薄暗がりに沈む、夜の病室の中。
 今まで、一度たりとて目にした覚えがないはずのそれは、

 明るい昼の日差しのもと。
 まるで屈託のない表情で見上げてくる、満面の笑みを浮かべた彼女の姿で ――


§   §   §


 人間用の合成血液と造血剤が届いたのは、翌日の午後も遅くなってからだった。
 待ちかねていたフェイが大急ぎで点滴を交換すると、みるみるうちに容態に変化が現れる。
 なんとか間に合ってくれたと、フェイはようやく肩に入っていた力を抜いた。そうして夜からずっと付き添いを続けていたリュウへ、ドクター・ストップを掛ける。
 そもそもリュウは、この数日ほとんど寝ていないはずだった。悪夢にうなされ睡眠薬を限界まで服用し、それでも眠ることができず。昨日の昼間の段階で、すでにかなりの疲労を溜め込んでいたという。
 そんな彼をわざわざ呼びつけ、付き添いを命じたのは他でもないフェイだったが、彼もまさかここまで親身になって、長時間付き合うとは思っていなかったのだ。朝になれば店の仕事もあるのだし、帰っていくだろう。それまででも手伝ってもらえば御の字だと想定していたのが。
 昨夜の騒ぎを大事にすまいと考えたアウレッタは、【Katze】をしばらく臨時休業することに決めたという。朝一番で差し入れを手に診療所を訪れた彼女からそう聞かされて、リュウはそのままシルバーの病室へと居残ったのだった。
 ベッド脇の椅子に腰掛け、太ももの間に垂らした両手の指を組み、ただ同じ空間に居続ける。
 その口が開かれる事こそなかったが、前髪の下からのぞく色違いの眼差しは、まっすぐに寝顔へと固定されていて。
 他の入院患者達がどうにか落ち着いて、さらに今日も朝からやってくる病人や怪我人をひと通りさばき終えるまでの間、たとえ一人でも注意を払わねばならない対象が減ってくれるのは、正直言っておおいにありがたくもあったのだ。
 それでもやっと余裕が見えてみれば、リュウもまた休ませなければならない通院患者の一人に他ならない。半ば追い出すようにその背を押すと、また顔を出すと小さく告げて、ようやく帰っていった。


「……ともあれ、大事に至らなくて何よりだった」
 診察室にある、ちょっと奮発した座り心地の良い椅子へと、フェイはぐったり上体を預けた。
 背もたれがぎしぎしと鳴るが、気にせず全身の体重をかける。
「本当に、手遅れにならなくて良かったです」
 レンが家庭用の自動調理器ドリンクメーカーからコーヒーを注ぎ、手渡してきた。湯気を上げるカップに口を付けて、フェイはちょっと舌を出す。少し冷ましてから飲もうと机の隅に置き、散らばっている手書きのメモを集め端をそろえた。
「残る問題は、傷口に入った雑菌が果たしてどの程度かだな。けっこうな痕が残るだろうが、それは後からどうとでもできる」
 種族によってさまざまな要因が入り交じる獣人種と異なり、人間ヒューマンに関しては移植用の人工臓器がさかんに開発されていた。合成細胞を培養して作られた人工の臓器パーツは、拒絶反応を引き起こすこともなく、生身のものとさほど変わらない機能を備えている。
 皮膚などその最たるものだった。医療技術が発達した現在であっても、治療しきれずに傷痕が残る場合はままある。見た目の悪さだけに留まらず、時にひきつれや痛みといった動作の妨げをももたらすそれらを解消するため、人間はさまざまな治療現場で気軽に人工皮膚を利用した。
 今回は使用済みの食事用ナイフで力任せに切りつけられたため、衛生的な意味でも切り口の具合といった意味でも、きれいな傷とはとても言いがたかった。なんとか縫合こそしたものの、あのままではひどい痕になるはずだ。傷がふさがって容態が落ち着いたら、改めて人工皮膚を取り寄せ、形成手術を行うべきだろう。
 そんなふうに言葉を交わしていたところへ、受け付け窓口に設置してある呼び出しベルの音が聞こえてきた。新しい患者がやって来たのかと、レンが慌てて走ってゆく。フェイもまた机の上を片付けて、傷病者を迎え入れる準備を整えた。
 しかし ―― しばらくののち、ぞろぞろと連れだって姿を現したのは、病人でも怪我人でもなかった。
 どこか気まずげな表情で会釈したのは、小柄だががっちりとした体格の水牛のキメラ、ゴウマだ。その後ろには背のひょろ高いスキンヘッドのジグと、漆黒の巻き毛に鮮やかな緑の瞳、肉感的なプロポーションがなまめかしい黒豹の女性ルイーザ、白黒茶の入り混じった髪を持つ三毛猫の若者アヒムが並んでいる。そしてアウレッタが全員を取りまとめるようにして立っていた。
「……その、薬が届いて、落ち着いたらしいって……聞いたから」
 ゴウマが、ぼそぼそとした聞き取りにくい口調で呟く。
 アウレッタをのぞく他の三名も、なにやら複雑そうな顔付きではあったが、それでもゴウマの言うことを遮ろうとはしなかった。
 店自体は休業していても、常連客の中でも特に馴染みの何人かは、いろいろと心配になって顔を出していたのだろう。そこへ寝床にしている店の物置へ戻ろうとしたリュウが通りがかり、シルバーの容態を伝えたのか。
 以前、店で口論した時とはだいぶ変わったその態度に、フェイはレンズの下で目付きを和らげた。
 人数が多いのでベッドを指し示す。まず患者用の椅子にアウレッタが座り、他の者達は横並びになってシーツに浅く尻を載せた。最後に入ってきたレンが、フェイの斜め後ろに立つ。
「輸血と造血剤の投与が間に合ったから、まあなんとか安定したよ。傷はそこそこ深いが、神経や骨は傷ついていない。あとは抗生物質さえ効いてくれれば、大丈夫だ」
 かいつまんで説明すると、安心したのか、それぞれがこわばっていた身体の力を抜いた。
 ためらいがちに口を開いたのは、まだ年若いアヒムだ。
「……あの男の、ことなんだけど……」
 短く刈り込んだまだら模様の頭をかきながら、ぽつぽつと昨夜のその後を話してゆく。
 彼は、逃げ出した金髪の男を追いかけていったうちの一人だった。夜目の効くその猫科の瞳は獲物を見失わず、首尾よく身元を突き止めてきたのだという。
 しかし ――
「どうしたら、良いのかな。通報なんて、そんなのできる訳ないし……だけど、オーナーが目を覚ましたら、やっぱりあいつに責任を取らせるって言うよな。仲間を人間に売るなんて、そんなの絶対にしたくはないけど……でも……」
 瞳孔が半分ほどの細さになっている琥珀色アンバーの瞳が、どこかに回答が落ちているのではないかと探すように、うろうろと室内をさまよっている。
 あの男が最初にナイフを振り上げたのは、同じキメラであるリュウに対してだった。彼がスカーフの下に首輪を隠していたのにはアヒムも驚き怪しんだが、今日になって詳しい事情を聞かされてからは、一転して心底からの同情を寄せている。
 そうでなくとも、一年以上同じ屋根の下で暮らしてきた仲間なのだ。血の繋がった肉親というものが少ないキメラにとって、同じ釜の飯を食ってきた相手は、文字通り家族にも等しい間柄だった。そんな人物へと酒の勢いに任せて切りつけたあの男を、直情的な部分を持つアヒムは完全に敵だと認定していた。
 しかし、実際に傷を負ったのは、人間であるシルバーの方だ。
 彼女もまた、確かに同じアパートに住み、同じ店で毎日顔を合わせてきた存在である。
 それでもやはり、人間は人間に違いなく。
 リュウを傷つけようとした男は許せないが、人間に刃を向けたキメラを罪に問うのは、心理的にどうしても抵抗が大きくて……
「もし、オーナーが訴えたりしたら、あの男は捕まって処分されるのかな。そりゃ、あいつの方が先に手を出したんだし、ただで済ませたくはないよ。でも、なにも殺されるほどじゃ……」
 膝の上で握りしめられた両手が、小刻みに震えている。
 アヒムの訴えには、誰も反論することができなかった。これまでシルバーよりの立場を取ってきたフェイでさえも、あの男を官憲に引き渡せとまでは言えないのだ。
 重苦しい沈黙が落ちた室内に、機械的な電子音が鳴り響く。はっと机に目をやったフェイが端末を操作し、設定しておいたアラームを止めた。ふと窓の外に目をやると、もうすっかり日が暮れ、世間は暗くなっている。
「……輸血を交換する時間だ」
 そう告げて、フェイは椅子から立ち上がった。
 一方的に突き放されたように感じて、アヒムは途方に暮れた目でドクターを見上げた。そんな彼と他の面々へと、フェイは順ぐりに顔を向ける。
「シルバーの病室、行ってみるか?」
 まだ眠ってはいるが、寝顔を見るだけでも何かしらの判断材料にはなるかもしれない、と。
 そんなふうに促されて、一同は入院施設のある三階を目指した。途中で一人だけ薬品保管庫に立ち寄ったレンが、合成血液のパックを手に足早に追いついてくる。
 階段を上がって、シルバーが入っている個室の近くまでやって来た時だった。
 何かを倒すガシャンという音が聞こえてきた。フェイが床を蹴って飛び出し、たどり着いた個室の引き戸を乱暴に開ける。中へと駆け込みながら、叩きつけるように壁にある明かりのスイッチを入れた。
「シルバー!?」
 その背中を、残る面々も追いかけた。そうして目に映った光景に、思わず部屋の入り口で立ちすくむ。
 真っ白なシーツや床の上に、赤い染みが点々と飛び散っていた。ベッドの上で横になっていたはずのシルバーは、床で弱々しくもがいている。なんとか立ち上がろうとするその手が、ぬめる血液ですべっていた。そのたびに姿勢を崩して倒れそうになるのを、懸命にこらえている。
 どうやら自分の手で輸血用の針を抜いてしまったらしい。そしてベッドから落ちた。そう見て取ったフェイは、慌てて走り寄ると手を貸そうとした。
 しかしその姿を目にした瞬間、彼女の喉から甲高い悲鳴が発せられる。
 絹を裂くかのようなその絶叫は、激しい恐怖に満ちていた。伸ばされた手を振り払い、叫び声を上げながら全力で抵抗する。
 ―― 嫌だ。離せ。触るな。
 途切れ途切れで聞き取りにくい言葉をつなぎ合わせると、そんな単語が浮かび上がってきた。
 まだ意識は朦朧としているようなのに、強い拒絶の意思ばかりが、疑う余地もないほどありありと伝わってくる。
 やはり、彼女も人間なのか。弱っている時にキメラに触れられるなど、生理的に耐えられないのか。
 暴れるシルバーを呆然と眺めながら、一同はどこか裏切られたような気持ちになっていた。その背後から、前触れもなく驚きの声が飛び込んでくる。

「サーラ!?」

 聞き慣れないその呼びかけが届いた瞬間、びくりとシルバーの抵抗が止まった。
 目に指を突っ込まれそうになっていたフェイが、その隙を逃さず素早く手首を拘束する。
 戸口で固まっていた集団をかき分けて、ずかずかと大股に入ってくる人影。その左手には二本の保温ポットが抱えられ、肩から布製のトートバッグを下げている。
 それは銀色狼の青年 ―― とうに自室に戻って休んでいるはずの、リュウであった。
「何をやってるんです。せっかくの輸血が台無しじゃないですか!」
 彼は強い口調で叱りつけながら、ポットとバッグを床に下ろした。それからへたり込んでいるシルバーのそばで膝を折り、姿勢を低くする。
 と ―― 驚きに緩んだフェイの手を逃れて、シルバーはリュウの身体へとしがみついた。

「……や……だ……いや……」

 少しでも恐怖の対象から離れたいのか、必死の仕草でリュウの胸元にすり寄り、中へ潜り込もうとしている。
 カタカタと震えているその身体へと、リュウは優しい手つきで両腕をまわした。落ちかかる長い髪を慣れた仕草でかき分け、何度も背中を撫でさする。
「大丈夫ですよ、サーラ」
 一転して落ち着いた声を出し、耳元でささやきかける。
「ドクターはキメラです。人間ヒューマンの医師のように、無体な真似はしません」
 吹きこむように、同じ言葉を何度も言い聞かせる。
「ドクター・フェイは、キメラです。知っているでしょう? ドーベルマンの、ドクター・フェイです」
 繰り返されて、少しずつシルバーの震えが収まってゆく。
「……どく、たー……? きめら、の……どくたー……ふぇい……?」
「そうですよ、ほら」
 くぐもった舌足らずな発音の問いかけに、リュウは穏やかにうなずいた。恐る恐る顔を上げたシルバーの頬を大きな手のひらで包み、フェイの方を向くよう、そっと促す。
 安物の硝子玉を思わせる虚ろな瞳が、ぼんやりとフェイの姿を映した。じょじょにその目が輝きを取り戻し、どこか遠くを見ていた焦点が合い始める。
「ドクター……フェイ=ザード……?」
「 ―― ああ、俺だぜ」
 どうやら相手を認識できたようだと判断して、フェイは大仰なほどしっかりとうなずいてみせた。深々と安堵の息を吐いたシルバーは、途端にぐらりと上体を揺らす。とっさにフェイが手を伸ばすも、リュウが危なげなく受け止めた。
「ほら、ベッドに戻って下さい。輸血もやり直さないと……」
 膝の裏に腕をまわし、そのままひょいと横抱きにして立ち上がる。シルバーも慣れているかのように、リュウのシャツを握りしめたまま、素直に身を預けていた。
 幸い、寝台で汚れていたのは上掛けだけだ。レンが急いで取り除けたあとに、シルバーの身体を静かに下ろす。暴れたせいで乱れた病院着を手早く整えて、両手についた合成血液をハンカチでざっと拭き取った。それから横になったその首元へと、手のひらを這わせる。
「脈がしっかりしてきたのは良いですが、今度は熱が出始めてますよ。冷たいレモネードを作ってきましたから、後で飲んで下さいね」
「……ん」
 柔らかいマットに横たわったシルバーは、ただでさえ消耗していた体力を使い果たしたのだろう。既にうとうととし始めている。
「ドクター。あとをお願いします」
 振り返ったリュウがまとっている、あまりに物柔らかなその雰囲気に、フェイは一瞬戸惑いを見せた。しかしまずは目の前の患者を診るのが最優先だと、手早くバイタルサインをチェックする。特に重篤な問題が生じてはいないのを確認してから、倒された点滴用のスタンドを起こした。新しい血液パックを吊り下げているその横で、別の病室から代わりの上掛けを持ってきたレンが通り過ぎ、さらに床の血を拭きにかかる。
 輸血の針を刺し直す頃には、シルバーはすっかり眠りに落ちていた。しかし夕方までの意識を失っていた状態と比べると、明らかにその容態は好転している。
 何よりも顕著だったのは。寝息を立てているその顔付きが、ひどく落ち着いた、安らかなものに変わっている点で ――

「…………」

 額に貼り付いているその髪を、リュウが指先で直した。眠るシルバーを見下ろす横顔には、今まで彼にそんな表情が浮かべられるとはまったく想像もできなかった、温和な笑みがたたえられている。
 放置していた保温ポットを思い出したように拾い上げ、枕元のサイドボードに並べた。それからトートバッグをレンへと手渡す。
「 ―― これは?」
「とりあえず簡単な着替えと、洗面道具です。他に必要な物があれば、教えていただけたら用意しますので」
 説明されるまま、何気なく中を確認する。途端にレンの頬がパッと染まった。色白な彼女がそうやって顔を赤くすると、ひどく目立つ。好奇心を覚えたアヒムが横から覗こうとしたので、レンは慌ててバッグを胸に抱いて阻止した。
「あ、あの、リュウ、さん!?」
 上ずった声で、つっかえながら問いかける。
「こ、これ。いったいどこで……」
 質問の意味が良く判らないのか、リュウはちょっと首をひねる。
「近くの店で買ってきましたが。何か問題でも?」
「あの、それはその……問題というか。えっと、こういうものには、サイズとかがあるんです。それ以前に、他人が用意するというのは……」
 ごにょごにょと歯切れ悪く言いつのるレンに、リュウはなおも不可解そうな顔をしている。
「サイズならそれで良いはずです。あと、当人が入院しているのに、他人以外がどうやって用意するんですか?」
 一連のやりとりで大体の中身を察したフェイが、落ち着かせるようにレンの背を叩いた。
 それから彼は、改めてリュウの方を見やる。
「さて、そんじゃ次はお前さんの番だ」
「……私、ですか?」
 胸に手を当てて自身を示す。フェイははっきりとうなずいた。
「良いから、とりあえずこっちに来い」
 半ば追い立てるようにして病室から出し、そのまま強引に診察室へと向かわせる。行きがかり上、なんとなく他の面々もその後に続いた。フェイは少し迷ったようだったが、まあ良いかと全員を診察室内に招き入れる。
 リュウを患者用の椅子に座らせ、自分は向かいのデスクについた。
 他の五人はそれぞれ壁際に立ったり、再びベッドに腰を下ろしたりする。レンもいつもの通り、フェイの後ろに控えた。全員が落ち着いたところで、フェイが端末へと手を伸ばす。
「 ―― さて」
 画面上にリュウのカルテを表示させて、大きく深呼吸した。
「単刀直入に訊くぞ」
 上げられた両目が、まっすぐにリュウを射抜く。

「お前……記憶が戻ってるな?」

 形だけ質問の体裁をとった断定に、向かい合う二人以外の全員が、驚きの声を上げた ――


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