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 ぬえの集う街で  ―― Town Living of NU-E
 第七章 首輪
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 唐突に己へと向けられた凶器を前に、リュウは動くことができなかった。
 逆上した男が振りかざしているのは、食事用のナイフだ。その程度の道具で、この首輪を壊せるはずもない。むしろ逸れた刃先が肉体を傷つける未来の方が、よほどはっきりと想像できた。しかし酒と興奮と恐怖に我を失った男は、ひたすら衝動の赴くままナイフを振りまわそうとする。
 寝不足と疲労が重なっていたリュウは、避けなければという危機感とは裏腹に、まったく動いてくれない自身の身体をどこかぼんやり認識していた。
 テーブルに囲まれた狭い空間で、前を男に、後ろをシルバーに挟まれていては、どのみちどこにも逃げられなどしない。
 ―― このままここで刺されたとして、なにか問題があるだろうか。
 ふと、そんな考えが脳裏をよぎった。
 肉体的な痛みには慣れている。動けないほどの大怪我は困るが、それで男の気がすむのであれば、少しぐらいの傷は負っても良いかもしれない。結果として騒ぎになったなら、それに紛れてシルバーも、夕食のことを忘れてくれるのではなかろうか。
 仮に当たりどころが悪く死ぬ結果になったとしても、その時はその時だ。毎晩見る夢が、ついに現実になるだけ。ようやくあの終わりなき悪夢から解放されるのだと思えば、それはそれで悪くない。
 それに……この首輪の存在が知られてしまった以上、客達は今までのように自分を受け入れてくれないのではないか。
 【Katzeカッツェ】にいられなくなれば、情報更新のできない市民証と首輪しか持たない自分など、まっとうに生きてはいけないだろう。この街で生活し始めたばかりの頃は、それでもかつてよりはるかに恵まれていると、喜んでいたけれど。
 しかし一度、平穏で暖かな日々を知ってしまった、今となっては、もう……


 時間が引き伸ばされたかのような、奇妙に間延びした感覚の中で。
 迫る切っ先を眺めながら、リュウはそんなことを考えていた。
 もう良いか、と。全身から力を抜いて、目を閉ざそうとした、その時。

「リュー!!」

 馴染みのないイントネーションで、誰かに名を呼ばれた。
 それと同時に、自分では動けなかった身体が、強い力で後ろへ引き寄せられる。
 背中に感じる、不思議なぬくもり。そうして背後から伸びた二本の腕が、両側から首へと絡みついてきた。

「…………ッ」

 耳元に吹きこまれたのは、苦痛を噛み殺す小さな吐息。
 ぶら下がるような姿勢で体重を預けられて、バランスが崩れる。
 とっさに上体を捻った瞬間、時間の感覚が正常に戻った。一歩足を踏み出して転倒するのを防ぎ、すぐそばにあった細い身体を反射的に支える。
 最初に目に飛び込んできたのは、美しいとも言える赤い色だった。
 パタ、パタタッと。
 紅色の雫が床へ、滴り落ちてゆく。

 誰かが大きく息を呑んだ。
 別の誰かが、口元を両手で抑えて立ちすくんでいる。

 そうして。
 リュウはただ呆然と、目の前に広がる、赤い染みを眺めていた。
 普段はあまり着ているところを見ない、明るい色合いのジャケット。初夏に咲く花の色をしたその袖が、無残に大きく切り裂かれていた。裂け目からのぞいているのは、象牙色の皮膚を持つ、ほっそりと華奢な右腕。
 止めどなく溢れ出す赤い液体が、みるみるうちに肌とジャケットの袖を染め替えて。力なく垂れた指先から生み出される水滴が、タイルの上に、鮮やかな ――

「……大事、ない、か?」

 片腕で抱きとめる形になっていた肢体から、掠れた声が発せられた。
 乱れた長い髪の間を透かし、濡れたように光る黒い瞳が見上げてくる。無事な方のその手が、ゆっくりと持ち上げられた。震える指先で、金属の首輪を丁寧になぞってゆく。

「発動は、していない、な」

 困惑に揺れる青灰と金褐の色違いの瞳へと、冷や汗に濡れた白い面差しがほのかに笑いかけて。
 張りつめた静寂の中で、ナイフが落ちる、硬い金属音が響き渡った。それが緊張を解くきっかけとなったのか。
 誰かの発した悲鳴に背を押されたかのように、シルバーは自らが流した血だまりの中へと、ずるりと膝を落としていった ――


§   §   §


 一報を受けたドクター・フェイが、すぐさま向かいのビルから飛んできた。
 彼は未だに騒然としている客達を強引にかき分け、治療が必要な怪我人の姿を視界に入れる。
 シルバーは、肘から手首にかけてを大きく切り裂かれていた。その右腕を抱えるようにして、床に直接座り込んでいる。そのすぐ傍らでは、リュウが途方に暮れた顔つきで棒立ちになっていた。
 フェイは己も床に膝をつき、患者の状態を素早くあらためる。近くに落ちているナイフが肉汁にまみれているのを見て、チッと舌打ちした。
「出血が多いうえ、傷口が汚すぎる。ここじゃ処置できねえ」
 後ろを振り返り、片手を伸ばす。
「レン!」
 呼びかけに応えて、控えていた看護師が診療鞄から滅菌済のガーゼと包帯を取り出した。
 それらを受け取って、フェイは傷を押さえるシルバーの左手を、無理矢理引き剥がした。傷口にガーゼを当てて、服ごと包帯で強く巻きしめる。
「すぐにちゃんとした治療をするからな。ちょっとだけ我慢してくれ」
 包帯の端を手早く始末し、レンへと目で合図する。
 うなずいた彼女は、ほっそりとしたその両腕で、シルバーを身体ごと抱え上げた。
 一見するとたおやかで男の庇護欲を刺激するタイプのレンも、そこはやはり労働種族として製造された、獣人種の一員である。平均的な人間の成人男子をゆうに超える腕力と体力を備えていた。シルバーは細身の女性だとはいえ、それでも大人一人を軽々と抱いて、危なげなく運び始める。
 フェイの方はというと、立ち上がってリュウの方を振り返った。まだ呆然としたままでいるその顔を、平手で思い切り殴りとばす。
 頬を打つ高い音に、びくっと反応したのは何もリュウばかりではなかった。
「ぼんやりしてないで、さっさとここを片付けろ。それからお前はウチに来い」
 むき出しになっている首輪に無造作に指を掛け、息が触れるほど間近くまで顔を寄せる。そうしてドクターは低い声で吐き捨てた。
 メガネ越しの赤褐色の瞳が、明確な苛立ちを宿している。言うだけ言って乱暴に突き放し、レンが置いて行った診療鞄を掴み上げた。そうしてあっという間に店から駆け出して、まだ道を渡っている途中のレンを、振り返りもせずあっさりと追い抜いてゆく。おそらく少しでも早く診察室へ戻って、治療の準備を先に整えておくつもりなのだろう。

「あ……」

 最初に動いたのは、果たして誰であったのか。
 誰かが何かを言おうと小さな声を発した、次の瞬間。ナイフを振るった金髪の男が逃げ出した。
 呂律のまわっていない舌で、訳の分からないことを喚き散らしながら。レンとフェイの為に空けられた道を、脱兎の勢いで駆け抜けて、玄関ホールから外の道へと走り去ってゆく。
 客達のうち数名が、とっさにその後を追って行った。しかしほとんどの者達は、まだ動くことができないでいる。
 フェイに頬を張られたリュウは、震える両手を持ち上げて首輪に触れ、傷がないかを確認するようにその表面をたどっていた。それから床に捨てられたスカーフを拾おうとして、それが踏みにじられた上に半ば血に浸っているのを見て、息を呑んだ。
 その様子に気が付いたアウレッタが、自身の髪をまとめていたバンダナをほどく。
「ほら、とりあえずこれで」
 リュウに向けて差し出す。
「……ありがとうございます」
 礼を言って受け取ると、リュウはそれを手早く首に巻いて、首輪を厳重に覆い隠した。
 それから、騒ぎを起こした男が座っていたテーブルの方へ向き直る。残っていた三人の客達は、びくりと肩を震わせたあと、激しく左右に首を振った。
「お、俺は、たまたま相席になっただけで、さっきの男と知り合いなんかじゃないッ」
「私もです!」
 どうやら二人はカップルで訪れていて、あの男とは初対面で同じ席に座っただけらしい。ちなみにもう一人はというと、このアパートの住人で馴染みの顔だ。つまりあの男がどこの誰なのか、知っている者はいないらしい。
「 ―― まあ、あいつをどうするかは、追っかけてった連中次第で決めようや。さ、それより、ここを片付けないと」
 店中に言い聞かせるように、アウレッタが務めて声を大きく張った。
「お客さん方、こんなことになっちゃって申し訳ない。お代はけっこうなんで、今夜はこれで店じまいにさせて下さいな」
 普段からなにくれとなく他人の世話を焼いている彼女が、いつもの口調でそんなふうに言うと、誰も逆らおうという気にはなれなかった。互いに顔を見合わせてから、それぞれの手荷物を取り上げ、急ぎ足で出口へと向かっていく。
 ただ、常連客の何人かは、店の中に残っていた。
「……手伝うよ」
「食器は流しに持って行くから、先に血をなんとかした方が良い」
 腕まくりをしたゴウマが、各テーブルを回って残飯をゴミ袋に集める作業を始めた。浅黒い肌をした手足の長い禿頭の男 ―― ジグは、空になった食器を重ねて次々とカウンターへ運んでゆく。肉感的なプロポーションを持つ黒豹の女性と華やかな色の髪をしたカワセミの少女が、協力して皿洗いを担当した。
 リュウは一人で奥にある清掃道具入れへ向かうと、モップやバケツ、床掃除用の洗剤を出してきた。誰も彼には声をかけられなかったし、本人もまた口を開こうとはしなかった。
 黙々とタイルの血だまりを拭き取ったあとは、テーブルに取り掛かろうとする。それをアウレッタが制止した。
「ここはもう良いから。あんたは先生んとこに行きな」
 促されて、リュウは小さくかぶりを振る。それは行きたくないという意思表示にも見えた。しかし恰幅の良い女将は、腰に両手を当て、噛んで含めるように言い聞かせる。
「あんたが人間ヒューマンを心底から嫌い抜いてるのは、よっく知ってるよ。そりゃ無理もないと思ってる。でもさ、判ってるんだろ。シルバーさんは、悪い人じゃあない。今だって、あんたを助けてくれたんじゃないか」
 俯いたまま黙りこんでいるその背を押すように、穏やかな口調で続ける。
「ちゃんと、お礼を言わなきゃバチが当たるよ」
「…………」
「リュウ」
 静かに、しかしはっきりとした意志のこもる声で呼ばれて。リュウはようやく握りしめていた台拭きを置いた。深くひとつ頭を下げると、前掛けを外して店から出てゆく。
 テーブルの上で丸まったそのエプロンにもまた、点々と血の飛んだ跡が残っていた。
 眉間にしわを寄せたアウレッタは、乱暴にそれを取り上げて、ゴミ袋の一番上へ押し込んだ。ギュウギュウと体重をかけて押さえ、袋の口を固く縛る。


 路地裏にあるゴミ捨て場まで足を運び、アウレッタは勝手口から店内へ戻った。と、テーブルを拭き終えた客の一人が、ためらいがちに声をかけてくる。
「……リュウの、あれは……」
 具体的な名称は口にすら出したくないらしい。ニシキヘビの獣人は言葉を濁すと、長い指で己の首筋をさすってみせた。
 途端に、控えめにだが交わされていた会話が、ぴたりと聞こえなくなる。食器を扱っていた女達の手も止まり、流れ続ける水の音だけが虚しくあたりに響きわたった。
 きゅ、と蛇口が閉められると、あとには痛いほどの静寂が残る。
 全員の物問いたげな視線を受けて、アウレッタが目を伏せた。やがて、大きくため息をつく。
 近くにあった椅子を引き寄せて、疲れ切ったような仕草で腰を下ろした。
「……あれはね、どうやっても外せないんだよ」
 その視線は、誰の方にも向けられていなかった。すでに跡形も残っていない、流された血の色を思い返しているのだろうか。みどりを帯びた金の瞳が、ひたすらに遠いどこかを見ている。
「つまりリュウは、逃亡者ってことなの?」
 カワセミの少女、スイが、おそるおそる問いかけた。
 キメラが嵌めさせられる首輪は、認識票を兼ねている。通常は所有者の許可がなければ、外せないようになっていた。この街に住む首輪のないキメラ達は、法改正によって所有権自体が失効したり、あるいは持ち主の意志で手放された者。そうでなければ市民権を持つキメラ同士の婚姻によって自然出産された、最初から自由の身である子供達のいずれかであった。
 しかし ―― ごくごくまれにだが、意に染まぬ所有者の元から、逃げ出してきた者もいる。
 彼らはその来歴を公にできず、身元を証明する保証人 ―― もちろん人間ヒューマンでなければならない ―― も存在しないため、市民権を申請することができなかった。そういったキメラは、たとえこの街に住んでいたとしても、人権が適用されない。まともな職にはまずありつけないし、参政権もなければ、社会保障の恩恵を受けることも、銀行口座の開設なども不可能だ。それどころか行政側に発見された際には、不法滞在者として強制退去させられるか、悪質とみなされれば処分 ―― すなわち殺されることもありうる。
 リュウはそういった、法に背いた非正規な住民であったのか。
 結論づけようとしたスイへ、アウレッタははっきりと否定してみせる。
「あの子は市民証を、ちゃんと持ってるよ。偽造なんかじゃない、れっきとした本物だ。先生が調べたんだから、それは間違いない」
 カード型の市民証には、名前や住まいといった個人データの他に、持ち主の遺伝子情報も登録されている。そして彼が持っていた市民証にあるDNAの塩基配列は、本人のそれと確かに一致していた。
 たとえ規格化された、工場生産の第一世代であっても、キメラ達のDNAにはそれぞれある程度の個体差がある。それはまったく同じ外見をした生き物を、複数同時に働かせる不便さと不気味さを考慮して、あえて施されている措置だった。ましてやリュウは、見るからに規格品ではない。さりとて自然交配で生まれるような外見でもなかった。本人の言によれば、受注生産でデザインされた、特注の一点物だったのだという。故に唯一無二だと断言できる特徴的なDNA配列が、寸分と違わぬその市民証は、紛れもなく彼自身の持ち物なのだと証明された。
 しかも様々な方面に対して伝手を持つドクター・フェイが、念には念を入れてさらなる確認を行った。
 裏社会において、時おり出まわる偽造の市民証。その真贋を見分けうる技能を持つ存在に、鑑定してもらったのである。その結果は、シロ。これは正規に発行された、本物に間違いないという答えが返ってきた。
 この街へやって来た経緯が不明瞭で、己の名すら覚えていなかった、訳ありの拾い物。いくらお人好しと称されるアウレッタであっても、そんな人物の面倒を見ると決めるにあたって、それぐらいの裏付けは取ったのだ。
「あの子は、きちんとした手続きを経た上で、レンブルグの住人になってる。所有者はいない。ただ……それでも、どうしてもあの首輪だけは、外せないんだ」
「だから、なんでなのよ!?」
 市民権を取得して、誰にも所有されない自由の身となって。
 それなのに何故、わざわざ首輪を残さなければならないのだ。何よりもまず最初に、それを捨てたいと考えるのが普通だろう。意味が判らない。
 声を荒げるスイを、ようやくそちらに顔を向けたアウレッタが、潤んだ目で見た。

「あれには、ね。継ぎ目ってものがないんだ」

 想像もしていなかった答えに、スイは朱色の瞳をしばたたく。
「え ―― ?」
 きょとんとしたその表情は、明らかに意味が判っていないことを示している。
 話を聞いていた他の者達も、それぞれに怪訝そうな顔をしていた。アウレッタは、自分も最初に聞いた時はそうだったと、うなずきながら説明を続ける。
「外すってことを、最初から考えずに設計されてるんだよ。リュウがいた都市では、それが当たり前だったんだって。キメラは製造される過程でその首輪をはめられて、あとはもう、何があっても一生そのまま。解放されるなんて、ありえない。もしどうしても首輪を取りたいなら、生命と引き換えに首を斬り落とすしかない。そういう構造なんだって」
「首を……斬る……?」
 具体的な光景を思い浮かべてしまったのか。何人かが蒼白になって口元を押さえた。
 吐き気を覚えるのも当然の話だ。しかしあの首輪のひどさは、何もこれだけではない。
「で、でも! だったら壊しちまえば良いじゃねえか」
 力づくで破壊しても、それを咎める飼い主はもういない。こそこそと目を盗む必要もなく、時間をかけてしっかりとした工具を準備して。それで金属部分を切断すればすむ話だろうと。
 拳を握って力説するゴウマだったが、アウレッタの顔つきは変わらない。
「……それを、考えなかったと思うかい?」
 いくら丈夫に作られていても、しょせんは物だ。充分な時間と道具さえあれば、壊せないはずがない。そしてドクター・フェイの人脈を使えば、たいていの工作機械が用意できただろう。
 けれど、
「無理なんだよ。 ―― 壊そうとしたら、その場で致死レベルの電流が流れるようになってる」
「 ―――― 」
 あまりにも理解の範疇を超えた話に、もはや誰も返すことができなかった。
 声を失っているみなの前で、アウレッタは小さく鼻を啜る。
「先生も、何とかできないかと、ずいぶん骨を折ってくれたよ。でも、どうしようもなかったんだ。たとえ人間ヒューマンでも……あの首輪を設計した当の本人でさえ、生きたまま外すのは不可能だろうって」
 残酷すぎる話だよ、と。
 前掛けの裾を持ち上げて、目尻に滲んだものを押さえる。
「リュウがいた都市ってのは、本当に、極め付きに酷い所だったらしい。もしキメラの間に子供ができても、お腹の中の子には首輪が着けられないだろ。だから問答無用で堕胎するか、生まれてすぐに殺処分。それだけじゃない。所有者はキメラをいつでも自由に殺せるんだと。だから次々と見た目が良いのを買い揃えて、怪我したり年を取ったのは廃棄される。三十歳まで生きられたら、幸運な方だって……」
 いかに労働用として扱われる人造生命とはいえ、それでも生き物なのだ。
 そこには意思があるし、傷つけば痛みを感じて泣き叫ぶ。たとえキメラに人権を認めていない都市であってさえ、最低限の保護条例ぐらいは定められているものだ。理由もなく傷つければ罰金を払うとか、健康を維持させる意思がないなら行政が没収するとか。本当に最低限のレベルではあったけれど。それでも生命を所有することに責任を持て、と。そう義務づけるルールが、何年も前から少しずつ世界全体に浸透してきたはずだ。
 それなのに、リュウがいた都市とやらには、それすらもなかったというのか ――


「だから、さ。シルバーさんは、本当にリュウを、助けてくれたんだよ」
 ポケットから出したティッシュで鼻をかんで。
 アウレッタは気を取り直すように、声の調子を少し明るくした。
 ショックが強すぎて放心状態になっている一同へと、先ほど起きた出来事を説明する。
「もしもあのナイフが、リュウの首輪に当たってたら。壊そうとしてるって認識されるほど、強く衝撃を与えてたらさ……」
 その意味するところを察して、スイが泣きそうな顔になった。ゴウマはテーブルに拳を叩きつけ、ジグが針のように細くなった砂色の目を、手のひらで覆って俯く。
 もしそんなことになっていたら、高電圧の電流が発生し、リュウは死んでいただろう。
「 ―― オーナーは、知ってたの?」
 カウンターの中で並んで立っていた黒豹の女性が、スイの肩を抱きつつ口を開いた。その問いには、アウレッタも首を傾げざるをえない。
「さあ……あたしは話してないし、先生や本人が打ち明けるとも思えないけど。でも、あの人は人間ヒューマンだから。そういう物があるってことを、知ってたのかもしれないね」
 あの瞬間、彼女は明確にリュウの首輪を守ろうとしていた。
 自らの両腕を被せて覆い隠し、どこからも刃が届かぬよう、あの一瞬の間にできる精一杯のことをやってのけた。
 たとえその結果、己が傷ついても。誰かを責めるでもなく咎めるでもなく。一番初めにまず確認したのは、リュウの安否だった。
 とっさに為されたその行動には、キメラに対する差別も、ましてや計算すら感じられず。
 アウレッタは口元に複雑な笑みを浮かべた。

「ああいう人間も、世の中にはいるんだよね」

 そんなふうに前置きして、訥々とつとつと己の過去を話し始める。

「 ―― あたしだってさ、昔は人間の持ち物だったよ。両親が使用人でね。生まれたあたしもそのまま使用人として育てられた。首輪を着けられて、子供の頃からそれなりに働かされてさ。 ―― でも、それが当たり前なんだと思ってた。たまたまその時に住んでた都市の法律が変わって、親子そろって自由の身になって。最初は苦労したさ。住む所や仕事を自分で探して、お金を稼いだりそれをやりくりする方法なんて、だぁれも教えてくれてなかったもの。何度も失敗したし、やっと見つけた住処から追い払われたり、騙されだってもちろんした。それでもさ、それでも中には、助けてくれた人間も確かにいたんだよ。ほんのちょっとした事だったり、向こうにとっては何かのついでとかだったのかもしれない。でも、その時に助けてもらえたからこそ、あたしは何とか生き延びて旦那に出会えたし、今のこの店だってやってこれたんだと思ってる。だからあたしは、人間が、人間だってだけの理由で、嫌いになりたくはないんだよ。そりゃあ、嫌な目にもいっぱい遭わされて来たさ。恨んでる相手だってたくさんいる。でも、それだからって、助けてもらった恩まで忘れちゃあ、駄目だと思うんだ」

 飾らない、素朴な口ぶりで語られるその内容に、全員が真剣な面持ちで耳を傾ける。

「シルバーさんはね。確かに言葉はちょっとつっけんどんだし、あんまり表情が変わらなくて、無愛想だけどさ。でも、あの人がこのアパートを買い取ってから、悪いことなんて何も起きなかったじゃないか。うちのご飯が美味しい、うちのお茶が飲みたいって。そう言って、毎日店に来てくれてる。ルディ坊やだって、ちょくちょく勉強教えてもらったりして、いつも楽しそうにおしゃべりしてるだろ。フェイ先生やあんな子供に呼び捨てにされても、ちっとも怒ったりなんかしやしない。だからあたしもこっそり、『様』じゃなくて『さん』ってつけることにしたんだ。みんな、あたしがだいぶ前からそう呼んでるって、気付いてたかい?」

 てんでに首を振られて、アウレッタはちょっと笑った。
 赤く充血していた両目が、弓のように弧を描いて細められる。

「……あたしらは、これまで人間ヒューマンのせいで何度も嫌な思いをさせられてきた。でもさ、だったらあのシルバーさんが獣人種キメラのことで嫌な思いをしそうになった時、少しぐらいはこっちから手を貸してあげても良いんじゃないかい? だってそうしたら、あたしらはいけ好かない人間連中なんかとは性根が違うんだって、そう胸はって自慢できるだろう?」

 かつて嫌な目に遭わされたから、こちらも同じことをやり返そうなんて、そんなのはなんだかとっても大人げない。
 むしろ自分達は、お前らなどよりずっと心が広く、『人間』ができているのだと。大手を振って主張してみたくはないか。
 少なくとも、あの人には ―― シルバーには、そうしてあげる価値があるのでは、と。そんなふうに思いはしまいか、と。
 アウレッタの言葉に、一同は代わる代わる互いの表情をうかがってゆく。そうやって、他の者達が今の発言をどんなふうに受け取めたのか、その内心を推し測ろうとする。
 そんな彼らの面差しは、まだ戸惑いの色のほうが濃かったけれど。
 聞かされた内容のすべてを、うまく噛み砕いて、飲み込めた訳ではなかったけれど。

 それでもその晩、その場所で。

 新しい何かの小さな種は、ひっそりと、しかし確実に彼らの心へ蒔かれたのであった ――


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