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 ぬえの集う街で  ―― Town Living of NU-E
 プロローグ
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 そこは、薄汚れた外観を持つ古びたビルの一階にある、食堂と喫茶を兼ねた店であった。
 もともとはホテルとして使われていたその建物が、集合住宅として利用されるようになってから、もう二十年近くになるだろうか。
 都市開発に取り残され、老朽化したこの一帯は、治安もあまり良くない地域だ。店に出入りするのはおおむね見知った馴染みの顔ぶればかりだったが、そのほとんどがお世辞にもガラがいいとは言えない連中である。
 それでも道に面した大きな窓ガラスはきちんと磨かれており、【Katzeカッツェ】という店名が大きな飾り文字で記されていた。タイル張りの床へと文字の形の影が、陽光で切り抜いたように落ちている。道路から見た奥の側には六人がけのカウンター席があり、窓にそって並ぶ四人がけのテーブルが三つ。あとは二人用の小さなテーブルが九組ほど点在していた。酒こそ出さないものの、日替わり定食とひと通りの定番を押さえたメニューは、上階の住人達や近所の人々に重宝されており、常連達の溜まり場となっている。そんな店だ。
 いつもは陽気な声で満たされている店内に、しかしその日は重い空気が立ち込めていた。
 客たちはみな、手元の料理にも手を付けぬまま、顔を寄せ合うようにして囁きを交わしている。
 きっかけとなる情報をもたらしたのは、店を切り盛りしている女将であった。彼女はこのアパート全体の管理人を兼務しており、ビルの持ち主オーナーと住人達の間を取り持つ役割も担っている。
 そんな彼女によると、現在の家主が、この建物をまるごと他者に売却したとのことだった。
 それはつい今朝方、何の前触れもなく一方的に連絡されてきたのだという。
 通常であれば、そういった場合は事前段階でもっと詳しい情報が住人に知らされ、余裕を持って今後の身の振り方を考える時間が与えられるだろう。
 しかし家主は人間ヒューマンで、ここの住人は女将を含めて全員が獣人種キメラであった。人間がキメラ側の事情など、いちいち気にかけてくれるはずもない。
 ―― たとえこの都市まちが、表向きはキメラに人権を認めているとうたっていようとも。

「畜生、これから一体、どうすりゃいいんだよ……」

 カウンター席に腰を下ろした若い男が、短く刈り込んだ頭を抱え込むようにして呻いた。
 黒と茶と白が入り混じったまだらの髪からは、獣人種の特徴である細長く尖った耳がとび出している。店内にいる他の面々も、みな一様に暗い表情で視線を見交わしていた。
 この都市でキメラに市民権を認めるようになったのは、やはり二十年ほど前のことだった。その当時から低所得者層が多くを占めていたこの地区には、一方的な隷属から解放された代わり、与えられていた住処を奪われたうえ最低限の衣食すら保証されなくなったキメラが集まるようになり、人間はじょじょに足を踏み入れなくなった。このビルも、元々は人間向けに建てられた比較的ましな部類のホテルで、作り自体はけして悪くない。しかし今ではそういった事情から、キメラ達の専用住居と化していた。おかげで持ち主は不良物件と見なし持て余していたようで、実際手入れもろくにされていない状態である。それもそうだろう。獣人種しか住まない街の不動産など、人間ヒューマンにとっては持っていてもたいした収入源になるわけでなく、かといって転売もできない。ただ維持費がかかるばかりの金食い虫だ。誰かが買ってくれるというのなら、機会を逃さず即座に金に変える道を選んだに違いないと、たやすく想像できた。
 ―― しかし新たな持ち主が、一体どんな人物なのか。どういった目的でこのビルを購入したのか。それらのことは、今朝の連絡でもまったく伝えられなかった。新しい家主は、果たしてこの店や住人をどのように扱うのだろう。たとえ立ち退きを命じられなかったとしても、家賃の値上げなどを言い渡されれば、どのみち多くの住人が出て行かざるをえなくなる。
 馴染みの店を失うかもしれない常連客達の表情も冴えなかったが、住人達の顔はいっそうの不安に彩られていた。今日明日にでも住まいを追われるかもしれない。そう思えば先行きに明るい希望など、持てという方が無理だった。

「…………」

 落ち着かなげな空気を尻目に、カウンター内のキッチンで一人の青年が黙々と立ち働いていた。
 見るからに古びて大きさもあっていないが、洗濯だけはしてある白いシャツの首元に、紺色のコックスカーフ。年は二十代の後半といったところだろうか。周囲を気にかける様子もなく、ただひたすら料理を作り続けている。伸びて半ば顔を覆っている灰色の髪の間から、青みがかったグレイの右目がかろうじてのぞき、手元を見つめていた。野菜を洗い、包丁で刻み、フライパンで炒める。その動きにはまったく淀みがない。
 調理が終わったものからカウンターに皿を並べると、それを女将が客の元へと運んでいった。

「 ―― まあ、ここで心配してても仕方がないさ。新しい連絡があったら、すぐに知らせるから。ほら、さっさと食べて仕事に行きな!」

 そう一喝されて、客達はしぶしぶと料理に手を付け始める。
 いつもとはまったく異なる店内の雰囲気にも関わらず、青年はただただ無言のまま、使った調理器具を洗っていた。


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