夏の光の残像
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2000/05/10 20:44
神崎 真


「葉擦れの音って、どこか潮騒に似ていると思わない?」
 そう言って、彼女は木漏れ日の中、揺れる梢をふり仰いだ。


*  *  *


 旅館の中には、妙に落ち着かない気配が漂っていた。
 窓越しに差し込む眩しい日差しが、閉じた目蓋をちくちくと刺してくる。
 昨夜遅くについたせいで、つい惰眠をむさぼってしまった和馬も、さすがにそろそろ起きねばという気になった。布団の中で身体をよじり、枕元に置いた腕時計を見る。そろそろ十時が過ぎようとしていた。せっかく遠出をしたというのに、これはあまりにも勿体ない。
 よっと声を挙げて布団をはねのける。起きると決めれば、彼の行動は早い。
 身繕いは簡単なものだ。顔を洗い、ひげをあたる。短くまとめられた髪は、濡らした手でざっと撫でればそれですんだ。
 Tシャツとジーパンに着替えると、バッグを肩にさっさと部屋を出る。


 朝食も昼食も必要ないと、いきあった従業員には断った。
 手近な店に入り、1000ミリリットル入りパック牛乳と、パンを買い込む。道端に腰を下ろしてそれらを詰め込みながら、ゆっくりとあたりの景色を見まわした。
 ここは、周囲を山々にかこまれた、盆地の中の集落である。
 どちらを向いても、緑なす木々がすぐそこまでせまってきている。薬効のある温泉が湧くということで、旅館は立派なものがいくつか集まっているが、それ以外は田圃と畑と、ぽつりぽつりと点在する農家の姿ばかりが目に映る、のどかな ―― ありていに言えばひなびた山村だ。
 和馬が泊まる旅館は、なだらかな坂を幾分のぼった場所に建っている。だから、道端から坂の下の方に目をやると、さほど高い建物がある訳でもなく、ぐっと視界がひらけていた。
 さんさんと降り注ぐ陽光に、目を細めて手をかざした。その影が、黒い紙を切り抜いたかのように、くっきりと落ちる。手の平ごしに見下ろせば、田畑の、その周囲をかこむあぜ道の、向こうに広がる山々の、眩しいほどの緑が目に飛び込んでくる。生き生きと伸びる、生命力に溢れた植物達の姿。その放つ草いきれと、目映い光に満たされて、大気そのものが輝いているかのようだ。
 耳を打つのは、どれほどの数かも知れぬ、蝉の鳴き声。
 めまいがしてきそうで、和馬は一度目を伏せた。ふぅと大きく息を吐く。
 それから今度は反対の方を見上げてみた。出てきたばかりの、旅館の方向。平屋造りの日本家屋の向こうには、覆い被さるような雑木林がある。裏山のあたりから、ぐっと傾斜がきつくなり、高台になっていた。人が住んでいる様子はない。このあたりが集落のもっとも端にあたるのだろう。
 上の方に、木立がきれている場所があるらしい。とても、見晴らしが良さそうだ。
 食べたゴミをポケットにねじ込んで、立ち上がった。


 目指す場所へは、思ったよりも簡単にたどり着けた。
 旅館の庭から雑木林の中へと踏み込んで、適当に見当をつけて登っていくと、細い踏み分け道に突き当たった。あとはそれにそって進めば良かった。山歩きに慣れた彼には、少し物足りないほどの道のりだ。
 頭上を覆う枝葉の天蓋が、強烈な日差しを遮ってくれる。焼け付くような熱さは全て閉め出し、重なり合う葉を透かして、和らげられた木漏れ日だけを、そっと落としてくれている。あたりに広がるのは、透明な、しっとりと湿った緑色の空気。騒々しいはずの蝉の声さえもが、ここではどこかひそやかだ。
 ともすれば行く手をふさごうとする下生えをかき分け、伸びた枝をよけ、上へ上へと進んでゆく。
 と、視界がひらけた。
 そこからさき、突きだしたように高台になっている部分だけが、木立がとぎれて野原のようになっていた。
 足を止めた和馬に、正面から風が吹き付けてくる。
 下草が、波のように揺れる、さわさわと涼しげな音が聞こえた。和馬の前髪も、風を受けてなびいた。くすぐったさを楽しむように、目を細め、顔をのけぞらせる。
 一歩、一歩。ゆっくりと足を進めた。そうして地面が切れる、高台の端まで身を運ぶ。
 そこには、一本だけ木が生えていた。しかも胴回りがようやく抱え込めるほどの大樹だ。植物の種類など和馬には判らなかったが、その落とす影の心地よさは至極具合が良かった。提げていたバッグを根元に下ろし、幹へと身体を預ける。
 そうやって、しばらく眼下に広がる集落の景色を眺めていた。
「……悪くねぇな」
 つぶやく。
 かがみ込んで、カバンから取り出したのは一眼レフのカメラだ。
 愛用のそれを手に、しばらく思案する。ややあって大樹の影から踏み出した。数歩離れて振り返る。ファインダーを覗き、上を仰いだ。
 レンズに切り取られるのは、枝を広げた大樹の葉と、その向こうの青空。
 夏の日差しを受けた若葉は、鮮やかなエメラルドグリーンに染まっている。葉の間から差し込んでくる日差しは、まるで薄い紗幕を広げたかのよう。
 すぐにシャッターを切ることはせず、しばらくそのまま動かずにいた。彫像か何かのように、じっと姿勢を固定したまま、時を待つ。
 背が高く、肩幅も胸の厚さもある彼がそうしていると、本当に彫刻を思わせた。鍛え抜かれた筋肉は、無理な姿勢を続けることもまるで苦にしていない。顔立ちも全体的に大づくりで、お世辞にも美青年とは呼べなかったが、どことなく親しみの持ちやすい、穏和な表情をしている。
 シャッターにかけた指が、ぴくりと動いた。
 同時に、あたりを風が吹き抜けた。草が、枝が、音を立ててざわめく。木漏れ日がちらちらと瞬いた。
 立て続けにシャッターが落ちた。あおられ、さざめく、全ての動きをおさめるように。
「 ―――― 」
 カメラを下ろした後も、余韻を追うように、しばらく葉擦れに耳を傾けていた。
 さわさわと、薄く、柔らかい葉が触れあうさやかな響き。心地よいそれが、しばし耳を楽しませる。
「葉擦れの音って ―― 」
 突然。
 そう聞こえてきた声に、どきりとして視線を下ろした。
「どこか潮騒に似ていると思わない?」
 風の残した空気の揺らめきが、そこに立つ少女の髪を、服の裾を、ほのかにはためかせていた。
 いつの間に現れたのだろう。
 その気配をまるで感じなかった。
「君は……」
 美しい少女だった。
 十七、八才というところだろうか。癖ひとつない長い髪を軽く片手で押さえ、揺れる枝を見上げている。透けるように白い肌。丈の長い、桜色のワンピースがよく映えている。
 反射的にカメラを構えていた。
 シャッターの音を聞きとがめたのか、少女も和馬の方を見た。
 切れ長の、二重瞼の奥の瞳。光を透かして、きらきらと輝いている。
 けれど、
 こちらを見た表情は、落ち着いた冷たいものだった。整った顔立ちであるだけに、それはどこか近寄りがたさを感じさせて。
「地元の人かい?」
 和馬が問いかけると、彼女は皮肉げに目を細めた。
「違うわ」
 きっぱりと答える。
「私が生まれたのは、海のそばの街よ。……こんな山の中になんて、来たくてきた訳じゃないわ」
 ぐるりとあたりを見まわして、眉を寄せる。
 その仕草がいかにも厭わしげで、少し興をそがれた。
「こんなって言い方はないだろう。綺麗なところじゃないか」
 少なくとも自分は、被写体に選ぶ程度に美しいと思ったのだ。いきなり横からけなされては、面白くない。
「どこが。蒸し暑いし、変な虫は多いし、田舎で人はうるさいし……大嫌い」
「ああ、そうかい」
 短く言って、あっさりと背を向けた。
 嫌いだというものをどうこう言っても仕方がない。いきなり現れた見知らぬ相手と、しいて会話する必然性もなかった。
 数歩場所を動き、またカメラをのぞく。
「あなた、カメラマンなの?」
「一応な。本業って訳じゃないが、これで食ってる程度にはプロだよ」
 まだ話しかけてくるのに、ファインダーを覗いたままで答えた。
「なによそれ」
 答えの内容が気に入らなかったのか、声に不機嫌なものが混じった。
「本職は家の仕事があるからな。けど、俺は写真が好きだし、家に養われてるのも情けないだろ。だから両方やってるんだ」
 義務を放棄するつもりはないが、やりたいことを諦める気もない。さりとて、家に食わせてもらっている優雅な趣味人などと、評されるのも業腹だ。
 故に彼は、家業ももちろん果たしているが、衣食住等日常必要なものは、おおむね写真の収入でまかなっていた。フリーの風景カメラマン、秋月和馬といえば、これでそこそこ名も売れつつある。
「……家は出てかない、好きなこともやめない。つまりはどっちつかずの偽善者ってことじゃない」
「ぁあ?」
 穏やかならぬ物言いに、思わず声が尻上がりになった。眉を寄せ、少女を振り返る。
「因縁つけたいのか?」
 いくらなんでも、初対面の人間に、いきなり投げかけるような言葉ではないだろう。
 いささか険しい表情でかえり見た和馬は、しかしそこでぽかんと立ち尽くした。
「……おい?」
 二三度瞬きしてから、あたりを見まわす。
 少女の姿は、既にどこにもなかった。ほんの数秒目を離しただけだというのに。いや、たとえ視界には入っていなくとも、たった今まで言葉を交わしていたのだ。それなのに、身を隠すものなどないこの場所の、どこにも彼女の姿は見あたらない。
 林に駆け込んだのか?
 思った。無理な距離ではなかったが、しかしそれも不自然だった。第一そんなことをした場合にたてるであろう、足音も草ずれの音も、まったく聞こえはしなかった。
「何だってんだ、いったい……」
 髪をかき上げ、呆然とつぶやく。
 突然現れて、言いたいことだけ勝手に言って、また突然に消えてしまった少女。首をひねりたくなるのも当然だろう。

 ざざざざざざ

 立ち尽くす和馬の周囲を、風が、音を立てて吹き過ぎてゆく ――


*  *  *


「どうもすいませんでした。無理をお願いして」
 頭を下げると、初老の店主はいやいやと首を振って笑った。
「いいんじゃよ。見ての通り閑古鳥が鳴いとるでな。いくらでも使ってくれてかまわんよ」
 気安げに言って、目の前のカップを取り上げる。そして半分ほどになったコーヒーを、ずずとすすった。
「ほれ、あんたさんも飲みんしゃい」
「あ、どうも」
 重ねて勧められて、和馬もカップを手に取る。二人の間には、チョコレートやらクッキーやらを盛った菓子鉢があった。何で写真屋にこんなものが、と思うが、どうもそれは常備品らしい。
 とりあえず、今日一日撮った写真を現像しようと思ったのだが、さすがに旅館内で暗室に使えそうな部屋はなかった。簡単な機材なら持ち歩いてもいるが、どうせならきちんとした作業をしたくもある。なのでちょうど見つけたカメラ屋の、暗室を借りさせてもらったのだ。田舎特有のおおらかさで、店主は快く機材を使わせてくれた。そして現像後の写真が乾くまでの間、こうして茶飲み相手を仰せつかったという訳である。
「しかしあれだ。あんたなんでまた、こんな何もないとこになんぞ、写真撮りにきんさったんかね」
「たまたま別の用事で近くまで来たんですよ。そうしたら思ったより早く用事が終わったもので、どこか他に自然の綺麗なところはと訊いたら、ここの旅館を紹介されまして」
「どこに泊まっとりんさるの」
「坂の上の ―― 」
 名前を挙げると、店主はあぁあぁと膝を叩いた。
「あそこねぇ。良いところじゃろう」
 しきりにうなずく。
「そうですか?」
 今ひとつ落ち着かない雰囲気を感じて出てきてしまったのだが。
「おう。先代の女将がうんと盛りたててな、この近辺では一番居心地がいいげなで」
「はぁ」
「先代さんは、そりゃあえらい人だった。遠くから嫁に来はったんやが、ほんにあのぼんくらには過ぎた女房やと、みんなしてゆうたもんじゃ。いやなに、実はわしもな……」
 年寄りの長話に、適当に相づちを打ちながら、和馬は先刻の少女のことを考えていた。
 思い返しても失礼な娘である。いきなり現れて挨拶ひとつよこさないばかりか、こちらの言葉などまるで聞きもせず、棘のあることばかりを言っていなくなってしまった。確かに美人ではあったが、ああいう相手はいただけない。とっさにカメラを向けてしまったけれど、どうせろくな写真には……
 ファインダー越しに見た姿を思い浮かべてみる。
 風にそよぐ淡い桜色のスカート。長い髪が一筋、二筋、押さえた手を逃れ、細い首筋にまとわりついていた。見上げる頬に落ちる、長い睫毛の影。木漏れ日を受け、全身濃い緑のまだらに彩られ、細めた瞳が揺れる梢を眺めている ――
 寂しげな目を、していたな。
 ふとそう思った。
 こんな所になど来たくはなかったのだと、そう言っていた。
 彼女がどういったいきさつでこの村にいるのかなど、知るべくもなかったが、あんな態度をとらせるだけのものが、彼女なりに何かあるのだろう。
 せめてもう少し、こう、微笑みなどしてくれたならば……
「 ―― ほんになぁ、風邪をこじらせなったと言う話だが、もうだいぶお年やし……」
「あ、すいません。そろそろ」
 軽く断って席を立つ。もういい頃合いだった。暗室に入る。目の高さあたりに張った紐に、クリップで印画紙をぶら下げてあった。手早く取り外して重ねてゆく。
「どげな? いい具合にできたかね」
「ええ。おかげさまで」
 身をひねって訊いてくる店主の元へと戻り、テーブルに広げてみせる。老眼鏡を出した老人は、乗り出すようにしてのぞき込んだ。
「おお。こりゃ裏山のブナじゃぁなぁ」
 きれいに撮れとるの。
 手にとってしげしげと眺める。例の高台にある大木を撮った写真だ。
「昔はこの下でよぅ遊んだわ」
 懐かしげに眼鏡の奥の目を細める。
 最近は足腰も弱って、とてもあそこまでは登れんが。
「よろしければ差し上げましょうか?」
 いつまでも眺めている店主に申し出ると、はっと我に返ったように顔を上げた。
「ああ、いや、悪いで」
「構いませんよ。ネガはありますし。これもお礼のひとつと言うことで」
「そうかね……すまんのぉ」
 そう言って、大事そうにしまい込む。
 彼にもなにか、その木にまつわる思い出があるのかも知れない。
「しかしうまいもんじゃ。さすがはプロじゃの」
 礼のつもりか、他の写真をがさがさと探りながら誉める。
「はぁ、どうも」
 お愛想とは判っていても、やはり面と向かって誉められると面はゆい。頭をかきながら、自分でもひとつひとつ確認してゆく。その手が、ふと止まった。とある一枚を手に取り、まじまじと見つめる。
「あんた、人は撮りんさらんのかね?」
 店主の問いかけに、ぴくりと反応する。
「あぁ、いえ。たまには撮りますよ。撮りたいと思った時は」
「なるほど。こんな田舎にゃ、目にかなう美人はおらんわの」
 かっかっと、楽しげに笑い飛ばす。
 和馬もつられたような笑みを浮かべながら、手にした写真をそっとテーブルに戻した。
 その写真の、確かに覚えがあるアングル。
 しかしそのどこにも、あの桜色は写っていなかった。


*  *  *


 翌日も、日差しの強い天気だった。
 夜の間にいくらか小雨がぱらついたが、それらが草木に適度な湿り気を与え、緑がいっそう鮮やかさを増している。
 山の中をのんびりと歩きまわり、フィルムを使いきった和馬は、またあの大樹の元へとやってきていた。濃い影を落とす根本に腰を下ろし、しばし瞳を閉じる。木の葉擦れのさざめきと、目蓋の裏にちらつく光がとても心地よい。
「私もよく、そうしていたわ」
 目を開けると、正面にあの少女が立っていた。
 昨日と同じ、桜色のワンピース。逆光になって、表情はよく見えない。
「そうやって、故郷を思い出していたの。枝が揺れる音は潮騒に、木漏れ日はさざ波がきらめくさまに、錯覚することができたから」
「そんなに海が好きだったのかい」
 問いかけると、少女は初めて声を弾ませた。
「大好き」
 年相応の、朗らかな口調。
「昼の海の輝きも、夜の海の吸い込まれそうな深さも、とても好きだったわ。夏の海は鮮やかに青いけど、冬になると濃い鈍色にびいろに変わるの。同じ青でも少しづつ違っていく、その変化を見るのが楽しみだった。それなのに ―― 」
 ふと沈む。
 飲み込まれた言葉はだいたい予測がついた。
 和馬はひとつため息をついた。
 自分は彼女の事情など何も知らないし、無責任な言葉を吐けるほど、口が上手くもない。たまたまここで行きずりに出会っただけの娘に、何をしてやる義理も、筋合いもありはしない。
 けれど……
 これだけは、言っておきたかった。
「俺は、山が好きだよ。土の匂いも、草いきれも」
 そうして、何か反論しようとした少女を制し、立ち上がる。
「もちろん海も好きだ。どっちも、それぞれに綺麗なところがある。海が好きだからって、山を嫌いになることはないんじゃないか?」
 そんな、損得勘定のようなことを言っていては、勿体ないではないか。
「そら ―― 」
 そう言って、頭上を覆う枝葉の天蓋を見上げる。
「木の葉が透けて、緑色に光ってる。あんたはこれを、少しもきれいだとは思わないのか?」
 つられるように上を見た彼女は、そう訊かれて、はっと口元を押さえた。
 ふと緩み、微笑みを浮かべた唇を。
 驚いたように。
「わたし……」
 何かを言いかけた彼女の髪が、ふわりとなびいた。
 あ、と押さえようとする少女のまわりを、さらに強い風が吹き抜ける。長い髪が、スカートの裾が、大きくはためき、ひるがえった。
 そうして風は、口にしかけた言葉をも、さらっていってしまう。
 まるで、何も言うなというように。
「…………」
 とまどい眉を寄せた少女は、風の行く先を確かめるように、視線を遠くへと投げた。けれど、風も、さらわれた言葉も、見つけられなどするはずもなく。
 代わりに見えたのは、空の青と、広がる緑。
 のっぺりと広がる、ペンキをぶちまけたような青色の下で、枝を伸ばし、重なり合う木々の枝葉。様々な種類の木が、草が、ある場所では群れ、ある場所ではいり混じり、日を透かし、影を作り ――
 翡翠、若草、緑青、常磐、碧玉、萌葱、若竹。
 言葉ではとても表しきれない。生き生きとした、命の輝きを持つとりどりの色彩が、視界の及ぶ限りを埋めている。
「……そうね」
 じっと眼下を眺めていた少女は、やがてぽつりとつぶやいた。
「きれいだわ。とても ―― 」
 ふと、一歩を踏み出す。それからもう一歩。
 力の抜けた手から、何か小さな物が落ちた。彼女はそれに気が付いた様子もなく、さらに一歩を踏み出す。
 そのつま先が、宙を踏んだ。
「おい」
 和馬が注意を促すように声をかける。
 少女は和馬を振りかえった。
 そうして、破顔する。
「今までちっとも気が付かなかったわ」
 屈託のない微笑みは、差し込む木漏れ日をまだらに浴びて、鮮やかに、生き生きと輝いた。
「ありがとう」
 ゆっくりと身をひるがえす。
 長い髪が宙を舞う。その一本一本が、残像のように和馬の目に焼き付いた。


 風が、吹き抜けた。
 しばらくその場に立ち尽くしていた和馬は、やがて静かに足を踏み出した。
 さっきまで少女が立っていた崖縁へと、歩み寄ってゆく。そして、膝をついた。
「…………」
 太い指が草の間を、そっと、優しい仕草で探る。やがて拾い上げたのは、小さな貝殻だった。少女が着ていたワンピースと同じ、淡く透ける桜色の二枚貝。
 潰してしまわぬよう、手の平に載せて、顔を上げる。彼女が見ていたように、眼下の緑を、広がる青空を眺めた。
「こいつはもう、いらないのか?」
 問いかける言葉に、答える者は誰もいない。


 旅館に戻ると、和馬は荷物をまとめ始めた。
 まだ撮影は充分でなかったが、それはいつでもできることだった。
 バッグを手に階下へおりると、妙にあわただしい空気が漂っていた。
「あ、お客さん、おかえりですか?」
 廊下を足早に過ぎようとしていた従業員が、慌てたように足を止める。
「ええ。精算をお願いしたいんですが」
「はい、じゃ、こちらへ」
 受付へと案内される。
 計算を待っている耳に、聞くともなしにあたりでの会話が入ってきた。
「ご隠居さんが亡くなられたんですか」
「え、ええ。実は、つい今し方……」
 年かさの男は、答えながら後ろでしゃべっている者達を一瞬鋭くにらみつけた。
「……ご愁傷様です」
 悔やみを言う和馬に、丁寧に頭を下げる。
「せっかくの御旅行だというのに、不愉快な思いをさせて、まことに申し訳ございません」
「いえ ―― 」
 かぶりを振る。
「これから、またどこかへ行かれるのですか? それともお帰りに?」
「まだ休みはあるので、別のところをまわるつもりです」
 そっと、胸ポケットを押さえる。入っているのは、ハンカチで包んだ桜貝。
「海に、行こうかと」
「なるほど。今の時期なら、やはり海がいいのでしょうなぁ」
 お気をつけて。またのお越しをお待ちしております。
 頭を下げるのに会釈を返す。


 玄関を出ると、目映く目を射る、暑い日差しが照りつけてきた。
 蝉しぐれが耳を打つ。風に揺れる枝葉のざわめき。くっきりと地に落ちる葉の影が、ちらちらと揺れ動いている。
 その中に、たたずむ少女の姿を見たような気がした。
 が、揺れる光と影のコントラストが、見えたかもしれないその姿を、すぐにかき消してしまう。
 網膜に残るのは、陽光に灼かれ、くっきりと焼きついた紫色の残像。地面をまだらに染める、暗緑の揺らめき。そして、


 ただ一人、自分だけが見ることのできた、
 最初で最後の、彼女の微笑み ――


(2000/05/17 AM10:30)


CHUCAさんのHPの開設祝いとして書いたもの。
テーマは『夏』『昼』『山』で『緑』。


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