雪月夜  月光写真シリーズ 第五話
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2004/01/29 17:23)
神崎 真


「おにいちゃんは、雪男?」
 問いかけてくるその少女は、どこまでも無邪気な瞳でまっすぐ私を見つめていた。


*  *  *


 夜の雪原には、月の光が良く映える。
 一面にあたりを覆う足跡ひとつない積雪が、降りそそぐ月光を浴びてぼんやりと淡く浮かび上がっていた。陽の光の下では、眩しいほどに輝く純白の雪。それがいまは深く蒼い闇の中で、柔らかくけむるようなほの白さを身にまとっている。
 暗い林を抜けた先、私の視界に広がったのは、なだらかな丘陵。
 あるいは普段であれば、もう少しごつごつとした歩きにくい場所なのかもしれない。だが今はその表面に降り積もる雪が、転がる石やちょっとした起伏のすべてをその下へと覆い隠し、美しい化粧を施している。
 ほぅ、と小さく息を吐いた。
 坂を上ってきた私の息は、いささか熱くなっていたのだろう。夜目にもかすかに白いものが浮かんで見えた。だがそれもすぐ、冷え切った透明な夜気に溶けて消える。
 あたりには風ひとつなく、冷たい空気は水晶を思わせるほど硬くそして澄んでいた。
 夜空を見上げれば、満月にわずかに足りぬ待宵の月が、ほど良い高さに浮かんでいる。足下へと目を落とせば、雪原をまだらに染める蒼い陰影。
 来て良かったと、心から思った。
 私が撮る月下の写真は、流水や雪というものと、とても相性がいい。
 長時間シャッターを開けていることで、あえかな月の光が彼らの姿を、印画紙上へと淡く、青白く浮かび上がらせてくれるのである。時間をかけて焼きつけられる間、わずかずつ残像を伴うその姿は、時として思いもよらない美しさをも描きだした。それは夜空に弧を描く星の軌跡であったり、まるで光り輝くもやのように宙へ広がる波のしぶきであったり、あるいは幾重にも重なる、揺れる花びらであったり。
 現像することで初めて現れてくるその美しさを、私はわくわくと期待に胸おどらせながら待つのが常であった。
 こうして直接この目で眺める夜の景色も、とても素晴らしく見事なものだ。写真にはけして映し出すことのできない、いまこの場にいる私だけが目にすることのできる情景。それは確かに私だけの特権だけれど。
 だがそんな私が切り取る夜のかけらは、あるいはシャッターを切った私でさえ思いも寄らない姿で、人の心を惹きつけるのである。
 さくさくと雪を踏みしめながら、私は丘のいただきを目指した。
 かすかに聞こえてくる水の音が、目的地の近さを示している。
 丘を登りきると、途端に水音が大きくなった。斜面に沿って見下ろせば、少し先で急激に地面が落ち込んでいる。そしてその底を流れる一筋の川。夕方にも一度確認はしていたが、やはりこうして月光のもとで眺めてみると、絶好の撮影ポイントであった。揺れる水面がちらちらと光を反射して、まるでガラス細工の竜を思わせる。
 さらに視線を上流へと向ければ、木立の合間からいっそう低い轟きが響いてくる。もう少し行った先には滝があるのだ。そちらも明るいうちに地形を確認してある。さほど水量は多くなかったが、岩肌を流れ落ちるその落差は十数メートルもあったろうか。これもまた是非撮っておきたい場所だった。
 私の撮影方法は、一枚撮り終えるのにもずいぶんと時間を必要とする。この月の具合と周囲の照り返しがあれば、だいぶ短縮できるであろうが、それでもぐずぐずしている余裕はなかった。なによりもさすがに ―― 寒い。
 現実作業に思考が向いたところで、私は気温の低さを思い出した。途端にひとつ身震いが出る。ポケットに手を突っ込み、携帯カイロで指先を暖めた。下手に震えてカメラを揺らしなどしては、せっかくの良い被写体が台無しになってしまう。
 さてと声に出して気合いを入れ、肩から提げていたカメラバッグを持ち直した。
 三脚を設置できる安定した場所を求め、あたりへ視線を巡らせる。
 しかしそこで、私は意外なものを見つけて瞬きした。
 数メートルほど離れた場所に、子供が立っていたのだ。
 人間、あり得ないものを目にすると、しばらく思考が停止するらしい。思わず3秒ほどまじまじと眺めてしまったが、それは見間違いでも幻でもなかった。
 おそらくまだ小学校にも上がっていないだろう、小さな女の子だ。可愛らしいキャラクターがプリントされた赤いジャンバーに、毛糸の帽子。暖をとるように口元へ押し当てた両手は、ふわふわとした材質の白いミトンに包まれていた。
 その姿だけならば、どこででも見かける愛らしい子供だ。
 だがここは町中などではなく、完全に日の暮れた夜の雪山である。もちろん私とてこんな時期に登山をする技術も気力も持ち合わせていないから、泊まっている民宿の裏山を、せいぜい二十分ほど登った程度でしかない。それでも年端もゆかない子供が一人でいるというのは、かなり異様な状況であった。
 まじまじと私を眺めていた少女は、やがてぱっと表情を輝かせた。
 彼女にとってはだいぶ深いだろう雪をかき分けるようにして、近づいてくる。
 よろめく様があまりにも危なっかしくて、私は思わず数歩そちらへと近づいていた。一瞬、幽霊かもののけあたりかと馬鹿なことも脳裏をよぎったのだが、どうやらこの少女は現実の存在なようだ。
 手をさしのべようとした私の数歩手前で立ち止まり、そうして彼女は笑顔で見上げてくる。
「おにいちゃんは、雪男?」
「 ―― は?」
 明るく弾む元気な声で、その子は開口一番そう問うたのだった。


 話を聞いてみると、どうやらこの子は父親が見たという『雪男』を探して、こんな時間に一人で山へ踏み込んだということだった。
「あのね、あのね、まっしろで、すごくキレイだって。お父さんそう言ってたんだ!」
 足をばたつかせて主張しているのが、厚い防寒着越しに感じられる。
「月の明るい夜にしか会えないんだよって。だからね、ゆうごはんを食べて、お部屋の窓からすっごくきれいなお月さまが見えて、こんやなら会えるかなって、そう思ったの」
「なるほど。でも一人で出てきたのは良くないな」
 ざくざくと道を下りながら、私は背負った子供に言いさとした。
 せっかく絶好の撮影日和だったのだが、いくらなんでも幼い子供を放っておく訳にはいかなかった。家族が心配しているだろうし、あんな場所にいつまでもいては冷え切ってしまう。しかたなく私は今夜の撮影をあきらめ、少女を背負って民宿へ戻ることにしたのだった。そこで警察に電話すればいいだろう。あるいはあまり人間の多くない地域のことだ、既になんらかの情報が回ってきているかもしれない。
「ええと、名前はみずほちゃんで良かったよね」
「うん! やまさきみずほ。5さいだよ」
 肩越しに手が伸ばされる。どうやら指を五本立てているらしいが、ミトンの中なのでよく判らない。
 無邪気な仕草に思わず口元がほころんだ。
 身近にこんな年頃の子供がいないせいか、ちょっとした仕草がいちいち可愛らしく感じられる。それはこの子のまるで屈託ない物言いのせいもあるのだろう。どうやらミトンも帽子も手編みのようだし、父親におとぎ話をしてもらっているところからも、愛情をもって育てられていることが判る。
 子供の語彙に合わせて他愛もない会話をしながら進んでゆくうちに、だいぶ木立がまばらになってきた。下り坂の方が滑りやすいうえ、いまは子供を背負っている。いきおいずいぶんゆっくりとしたペースで歩くことになったのだが、それでももうすぐ人のいる場所へたどり着けそうだった。
 と ――
 木々にそってゆるやかに曲がった道の向こうから、人の声が聞こえてきた。耳をすますと、どうやら少女の名前を呼んでいるようだ。
「あ、おじちゃんの声だ。おじちゃーん!!」
 途端に少女が背中で暴れ始めた。いや本人は別に暴れているつもりなどないのだろうが、耳元で叫びつつ手足をふりまわされなどしては、おぶっている方はたまったものではない。
 耳を押さえようにも、あいにく両手はふさがっている。
 くらくらしながら声だけでも小さくしてもらおうと口を開きかけたのだが、少女の呼びかけに反応した大人達が、木立の向こうから姿を現す方が早かった。
「水穂ちゃん!?」
「 ―― ッ」
 先頭をきって駆け寄ってきたのは、まだ年若い青年だった……と、思う。
 声の具合からしておそらく間違いないのだろうが、しかし私は自分の目でそれを確認することはできなかった。
 成り行きを考えれば当然のことだったが、彼らの持っていた懐中電灯の光が、私の顔をまっすぐに照らし出したのだ。とっさに顔をそむけたのだが、一瞬の閃光がまともに目に入り、網膜に激痛をもたらす。
 よろめきながらも少女を落とさなかったのは、我ながら上出来だったと思う。カメラバッグも斜めに肩へかけていたため、どうにか無事だったようだ。
「おい、あんた誰だ!?」
 険のある声と共に肩を掴まれたが、それに答える余裕など残っていなかった。ゆっくりと慎重に膝を落とし、まずは子供を背中から下ろす。
 そうして私はようやく両目を覆い、苦痛の呻きを洩らしたのだった。


*  *  *


「本当に申し訳ありませんでした。大丈夫ですか」
 手探りで椅子に腰を下ろした私へと、つきそって手を貸してくれていた民宿の主人は、心配げに声を掛けてきた。
「……ええ、どうにか。すみませんが、少し明かりを落としてもらえますか」
「は、はい。明代」
 あわただしく人の動く気配がする。かちりというかすかな音がしたのを確認して、私は両目を覆っていた手を外した。にじむ涙を手の甲で拭い、ゆっくりと目を開く。かすかな光に一瞬びくりとし、反射的に瞼をおろしたが、すぐにそれが網膜を灼くほどのものではないと気がついて、再びそろそろと開けた。
 ぼやけた視界は、数度瞬きするとどうにかピントがあう。まだ鈍く痛み、黒い幕を広げたかのようにかげって見えるが、なんとかあたりを確認することはできそうだ。
 ため息をついて目線を上げると、のぞき込んでいた主人と間近で目が合った。
 一瞬の交錯で、主人の表情がはっきりとこわばる。
「…………」
 既に慣れた反応に、私は無言で視線をそらせた。そうして向いた先には、床に膝をついた水穂の姿がある。自分のせいで私が苦しんでいると、幼心にそう思ったのだろう。戻る道すがら、この子はずいぶんと心配してくれていた。不安げに見上げていた視線と、やはりまっすぐ目がぶつかる。
「 ―― うわぁ!」
 驚いたようなその叫びは、しかし明らかに感嘆の響きを帯びていた。
「すごい、すごい。ウサギさんのおめめだあ」
 私の膝に両手をつき、伸び上がるようにしてのぞき込んでくる。まっこうからてらいなく向けられるその瞳は、感動と好奇心とに明るく輝いていた。
「お兄ちゃん、ウサギさんの親戚なの?」
「こ、こら、水穂っ」
 主人がやめさせようとするが、水穂は抱き寄せられた先でわくわくと答えを待っている。
「……そうだね。まあ、似たようなものだよ」
 言ってやると、再び歓声があがる。
 まあ、白ウサギの目が赤いのも私の目が赤いのも、虹彩の色素が欠乏していることで血管の色が透けているという、同じ理由によるものだから、似ていると言っても過言ではないだろう。たぶん。
「すみません、すみません」
 しきりに頭を下げる主人に、気にしないでくれと軽く手を振る。


 危うく幼児誘拐の冤罪を着せられかねない状況であったが、それも数歩遅れて駆けつけた民宿の主人 ―― 山崎さんによって、私の身元が明らかになり釈明された。宿を取るとき私の職業や山に入る目的を告げていたのが良かったようだ。
 そして水穂は、主人の知り合いどころか、なんと実の姪であった。しかも交通事故で両親を亡くした彼女を、この春から引き取って育てているらしい。突然姿が見えなくなった義娘むすめを保護していた私に、主人夫婦は何度も繰り返し礼を言った。そうして目を痛めて一人では歩けなくなった私を、宿まで手を引き連れて帰ってきてくれたのである。


 しばらくすると視野はほぼもとに戻った。
 あまりひどい場合は医者に行かねばならないと危惧していたのだが、どうやら大丈夫そうだ。山崎夫人 ―― 明代さんが持ってきてくれた濡れタオルを目の上からどける。用済みになったそれで最後にもう一度、顔全体を拭い、畳んでテーブルへ置いた。
 私が座っているのは、ラウンジにあたる共有スペースの一角だった。簡単な休憩ができるように、低い椅子とテーブルが数組並べられている。時間が時間だけに客の姿はなかったが、水穂の捜索にたずさわっていた地元の人間が何名か、まだ残ってコーヒーを飲んでいた。私が座っているのはラウンジの一番奥まった場所で、その周囲だけ明かりが消されている。残っている男達は少し離れた場所で、円筒形のストーブを囲むようにしていた。
 私の前にもカップが置かれていたが、それは既にぬるくなってしまっている。温かいものが飲みたくて、受け皿ごと持ち上げ談笑する人々の方へ向かった。電灯の光を受けると目の奥がまだ少し痛んだが、まあこれぐらいなら大丈夫だろう。
「すみません、こちらにも一杯もらえますか」
「あ、ああ。もう大丈夫なのかい」
「ええ」
 微笑むと、彼らは少し戸惑ったようだったが、やがて次々に笑顔を返してくれた。
 さっきはすまなかったな、と、最初に駆け寄ってきた青年が謝る。
 私の容姿が一般的でないことは、変えようもない現実だった。だがそれを気にして意固地に壁を作るよりも、気にせずこちらから自然体で笑いかければ、多少の困惑はあっても普通に受け入れてもらえる、そんなものだ。
 もっともそんな当たり前の事実を知ったのは、ほんのここ数年のことであったけれど。
 しばらくストーブを囲み、あれこれと言葉を交わした。例の一番年若い青年は山根といって、このあたりの青年団でも一番頼りになるのだそうだ。多少血の気が多くつっ走るところもあるが、むしろそれぐらいが頼もしくて良いという評判らしい。他にも、隣の江種の爺さんは年寄りのくせに若い女の子にもてるだとか、こっちのコースケはこないだ雪下ろし中に屋根から落ちて危うく足を折りかけたとか、うちとけるにつれ地元の馬鹿話がどんどん披露されてゆく。
 私もつられて色々と話題を提供し、カメラバッグから現像済みの写真を取り出してお目にかけたりもした。思いがけず楽しい時間を過ごして、ふと気がつくと、ずいぶん風の音が強くなってきている。
「ああ、やっぱり崩れてきたな。間に合って良かった」
 暗い窓の外を眺めながら、江種老人が呟いた。
「天気が悪くなるの、判ってたんですか」
 驚いて問いかけると、重々しいうなずきが返される。
「夕方だいぶ雲が流れてたからなあ。そういう時は、夜になって荒れることが多いんだわ」
 一同が動きを合わせてうなずく。それもあって水穂の捜索が慌ただしいものになったのだそうだ。見れば闇の中に白いものが舞い始めている。
 天気予報では今夜一晩、快晴のマークがついていた。だからこそ私は安心して山に入っていたのだが。あるいは私の方こそ、水穂のおかげで命拾いをしたのかもしれない。
「山の天気は変わりやすいから、甘く見たらいかんよ」
「……そうみたいですね」
 頭を掻く私を、江種老人は思いがけず真剣な目で眺めていた。
「冗談じゃねえぞ。水穂の父親だって、危うくそれで命を落としかけたんだからな」
「え」
「まだあいつが結婚する前の、若造だった頃の話だがね」
 そう断って、江種さんは話し始めた。
 なんでもまだ大学生の時分、水穂の父親は友人達と山へ出かけたまま、道に迷ってしまったのだそうだ。幼い頃から庭代わりにしていた地元の山だという油断があったのだろう。落ち着いて救助を待てば良かったのだが、なまじ町まで近いと知っていたのがあだとなり、彼らはやみくもに山中を歩きまわった。そうして日が暮れたのち急速に天候が崩れ、彼らは完全に遭難してしまったのである。
 水穂の父親はいつしか仲間達ともはぐれ、ひとり雪の中をさまよった。
 夜半過ぎにようやく吹雪はおさまったが、それと引き替えるようにぐんぐんと気温が下がり、その冬でも一番の冷え込みを記録したような晩であった。
 それでもなんとか自力でこの民宿の裏山まで戻ってきた彼は、以前から場所を知っていた洞穴へと潜り込み、寒さをしのいだのだという。日が昇ってから発見された時には、凍死寸前のかなり危ない状態だったそうだ。
「だからあんたも、気をつけなきゃいかん。このあたりを良く知ってる地元のもんですら、そんな目に遭うことがあるんだ。余所から来た人間なんか、道に迷えば一発であの世行きよ」
「はあ」
 神妙にうなずいた私を、山根が笑いながらこづく。
「江種爺さんの話なんか、そんなまじめに聞かなくても良いって。そりゃ雪を甘く見ちゃいけねえけどよ。今の季節ならそこまで心配しなくても大丈夫だって」
 本格的に冷え込むようになるには、まだもうしばらくある。それに彼らは地元の人間しか入り込まないような、ずいぶん奥まで足を伸ばしていたのがまずかったのだ。変に道から外れたりしなければ、そう簡単に遭難することはないからと。
「まあどのみち、よく晴れていなければ仕事になりませんからね、私は」
 散らばる写真に目を落とすと、一同は納得の表情を浮かべた。
 それこそ雲もないぐらい晴れわたっていなければ、安定した露光は望めない。風も禁物である。少しぐらいならばそれも良い効果をもたらしてくれるが、撮影対象物を不規則に揺らすようでは、とうていまともな像など得られなかった。
「月齢が大きい、今の時期を逃したくないんですが……」
 雪がちらつく窓を眺め、ため息を落とす。
 と、江種さんは私を安心させるように笑った。
「大丈夫さね。今の時期、一晩降ったら、次の晩はたいてい良く晴れる。そのぶん気温はうんと下がるが、まあ、あったかくして出かけることだ」
 さて、それじゃあ、降りがひどくならない内においとまするかね。
 カップを置いて立ち上がる老人に続き、他の者達もそれぞれ帰り支度を始めた。奥の方で立ち働いていた山崎さんが、大急ぎで見送りに出てくる。


*  *  *


 昼過ぎに目を覚ますと、雪はまだ降り続いていた。
 吹雪というほど激しくはないが、大ぶりのぼたん雪が途切れることなく舞い降りてくる。
 身支度を整えた私は、軽い食事を終えた後ラウンジでコーヒーを飲んでいた。片隅に置かれたテレビでは、気象予報士が上空に居座る寒気団の様子を、天気図を使って説明している。やはり今日から明日にかけては、かなり冷え込むようだ。
 こんな調子で本当に晴れてくれるのだろうか。
 そんなことを考えていた私の耳に、ぱたぱたと軽い足音が届いた。
「お兄ちゃん、起きた?」
 身体の後ろで手を組むようにして、水穂がのぞき込んでくる。
「ああ、おはよう」
「もうお昼すぎてるよお」
 笑われてしまった。
 明るい陽射しが苦手な私は、時間に縛られない職業なのを良いことに、かなりずれた時間帯で生活している。特にこうして撮影を控えている時などは、明け方近くまで作業することもあるので、昼間はたいてい寝っぱなしだった。昨夜早く眠れたことと、天候が心配だったこととで、今日は早く起きた方である。
 ひとしきり笑った水穂は、空いている椅子に元気よく飛び乗った。
 夕べは帽子で隠れて見えなかったが、長めの髪を頭の両脇で結んでいる。ふたつの束とゴムについたプラスチックの赤い玉が、身動きにあわせてぴょこぴょこと上下した。
「きのうだまって出かけたから、きょうは遊びにいっちゃダメだって。つまんないの」
 膝から先を揺らしながら、水穂は頬を膨らませた。どうやら罰として外出禁止を言いわたされたらしい。下手をすれば命すら危ういところだったのだから、怒られるのは当然のことだった。だが彼女は自分がどれほど危険な真似をしたのか、まるで判っていない。
 まあそれでも、冬休み中に外に出てはいけないというのでは、退屈なのも判る。これぐらいの頃は、やはり一人遊びよりも友達と駆けまわるのが楽しいのではないだろうか。それともこれは私の偏見か?
 水穂は半ばソファに埋もれるような姿勢で、昨夜は掛けていなかった私のサングラスを、興味深げに眺めてくる。
 外して見せてやりたいところだが、さすがに今はあたりが明るすぎた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「お兄ちゃん、ほんとうに雪男じゃないの?」
 出会ったときも繰り返された質問に、思わず苦笑いが漏れた。
「違うよ。私はただの人間だ」
 夕べと同じ答えを繰り返す。
 それにしても、今まで幽霊だとかお化けだとか桜の精だとか、ずいぶん色々な言われ方をしてきたものだが、雪男に間違われたのは初めての経験だった。
 脳裏に浮かぶのは、毛むくじゃらの大男 ―― イエティあたりのイメージだ。
 ……さすがにちょっと、嬉しくない。
 だがそこでふと、昨夜の水穂の言葉を思い出した。
「そういえば水穂ちゃん」
「なあに?」
「その『雪男』って、どんな格好をしてるんだい。確かすごく綺麗だって言ってたよね」
 白くてきれいな、月の明るい夜にしか会えない雪男。なんだかひどくイメージが掴みにくいのだが。内心で首を傾げる私へと、水穂は喜々として語り始める。
「んっとね、おっきくて、きらきら光ってて、ものすごくキレイなんだって。さむいさむい冬の、お月さまが出てる夜にだけあらわれるの。お父さんが山で迷って死にそうになったとき、めのまえにあらわれて、いまいる場所を教えてくれたんだって。それでお父さんはどこに行けばかくれられるのかわかって、朝までぶじにいられたの」
 すごいよね。
 そう言って表情を輝かせる水穂に、私は半ば上の空でうなずいていた。それでも肯定されたのが嬉しいらしく、彼女はにこにこと笑っている。
 それにしても、今の話に出てきた山で迷ったというエピソードは、もしかしなくても昨夜江種老人が話していた遭難のことではないだろうか。一人の人間がそう何度も道に迷うとは思えないし、実際そんな人間がいたらはた迷惑きわまりない。もし水穂の父親がそういったタイプの困り者であったなら、昨夜の席で確実に話題になったことだろう。ならばやはり、彼女が話していることと江種老人の話は、同じ出来事を指していると考えられる。
 ただの昔話かなにかだろうと思っていた『雪男』だが、どうやら父親は自分の体験として話し聞かせていたらしい。もちろん、単に臨場感を出すために自身の経験を脚色として絡めたに過ぎないのかもしれないが、それにしては『雪男』のイメージそのものが、ひどく判りにくいものになっているような気がする。子供に話すのであれば、普通はもっと思い浮かべやすい、はっきりしたイメージを形作るのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、フロントの向こうから水穂を呼ぶ声がした。はーいと返事をしてソファから飛び降りると、小走りに駆けてゆく。座ったままそれを見送っていると、入れ替わるように主人である山崎さんが歩み寄ってきた。
「よろしいですか」
 今まで水穂が座っていた椅子を示して訊いてくる。うなずきを返すと、一礼して腰を下ろした。
「夕べは本当にご迷惑をおかけしまして」
 まず深々と頭を下げてくるのに、いい加減辟易として首を振った。
「いやもう、それは良いですから。おかげでこちらも助かったようなものですし」
 あのまま写真など撮り始めていれば、私の方こそ雪にまかれていたかもしれないのだ。
「はあ」
 まだなにか言いたげな山崎さんに、さっさと話題を変えるのが得策だと、私は口を開いた。とはいえとっさに思いつく話などそうそうなく、今まで考えていたことがそのまま口をついて出る。
「あの子の話す『雪男』というのは、ずいぶん変わってますね」
「え、ああ。あれですか」
 途端に山崎さんは苦笑いを浮かべた。
「あれね、本当は雪男じゃないんですよ」
「と、いうと」
「浩次 ―― 弟ですが、あいつは雪男じゃなくて、『雪の精霊』っていうふうに呼んでました」
「雪の……精霊?」
「ええ。それが一体なんのことなのかは、結局言わないままでしたけれど」
 雪男と雪の精霊では、ずいぶん印象が違ってくる言葉だ。なるほど、雪の精霊ならば、あの説明から思い浮かべるイメージもだいぶしっくり当てはまるように思える。
「しかし、なんでまたそれが雪男に?」
「『精霊』って言葉の意味が、水穂には判りにくかったようで。色々と説明しているうちに、いつの間にか『雪男』ってことで納得してしまったんです」
「……なるほど」
 確かに5才の子供に『精霊』という概念を理解しろというのは難しいかもしれない。
「あいつもねえ、困った話を言い残したものですよ」
 山崎さんはしみじみと呟いていた。
「あいつが雪男に助けてもらったなんて水穂に繰り返し話していたおかげで、この冬あの子は、ちょっと目を離すとすぐ外へ出ようとするんです。それも夜の雪山に。今まではなんとか事なきを得ましたけれど、夕べなんてお客さんに見つけていただかなかったら、本当にどうなっていたことか」
 まったく、あんなに可愛い子を遺して逝くだけでも罪作りだというのに、このうえくだらない作り話などで、あの子まで連れて行ってしまおうというのか、と。
 ため息混じりに降る雪を眺める山崎さんの目は、どこか遠い光景を映しているかのように、ぼんやりと焦点をうるませていた。


 江種老人の予測したとおり、夕方から小降りになり始めた雪は、あたりが暗くなる頃にはすっかりやんでいた。厚く垂れ込めていた雲もみるみるうちに流れ去り、空は昨日よりもさらに広く澄みわたっている。
 紫と紺青で染めた色硝子のような夜空に、点々と散る光の粒。そして東の空には、ひときわ明るく輝く白金色の望月。
 三脚を設置しカメラを固定した私は、慎重に絞りを調節すると、静かにカメラから手を離した。そろそろと数歩下がり、つめていた息を吐く。
 文字通り凍るような寒さの中での作業は、いつもの何倍もの注意を必要とした。かじかんだ指先が思うように動かず、アングルを定めるだけでも一苦労である。
 ―― それでも、この光景を目にすることができるだけで、寒さなどいくらでも我慢できるというものだ。
 三脚から充分な距離をおいて、夜空を雪原を、流れる川面をじっくりと眺めわたす。
 降ったばかりの新雪に覆われた丘は、文字通り白一色に包まれていた。そこに月の光が降りそそぎ、地面のすべてが淡く発光しているかのように感じられる。
 仕事柄、月下の情景など見飽きるほどに眺めてきているというのに。
 それでもこうしてそのただ中にたたずむと、どうしても目を奪われずにはいられない。
 積もった雪が音を吸収するのか、あたりは奇妙に静かだ。すぐそこで流れ落ちる滝の水音さえもが、どこか遠く、薄い膜の向こうで響いているかのように思えてくるから不思議だ。
 じっとしていると寒さが這い上がってくるようで、数歩その場で足踏みをしてみた。しかしその程度ではとても追いつかない。冷え込みの度合いは昨日の比ではないようだった。しっかり厚着をしてきたのにもかかわらず、全身がすっかり冷えてきている。
 次の作業まではまだしばらく待たなければならなかった。その間に身体を温めようと、私はカメラに背を向けて歩き始めた。さらさらと崩れてくる雪を踏み分けて歩くと、それだけでずいぶんな運動になる。せっかくの新雪を踏み荒らすのは勿体なかったが、背に腹は代えられない。
 それでもできるだけ同じあたりを行き来していると、じょじょに息が上がってきた。セーターの下で肌が熱を持ち、心なしか湿ってきている。
 あまりやりすぎると、今度は逆に汗が冷えて余計寒い思いをすることとなる。とりあえずこの程度で、と足を止めた私だったが、そこでふとまだ足音が続いていることに気がついた。私は既に立ち止まっているのに、どこからか雪をかき分け踏みしめる音が聞こえてくる。
 顔を上げると、木立の向こうにちらりと光るものが見えた。
 思わず内心で悲鳴を上げる。
「明かりを消してくれ!」
 現実にはそう叫びながら、そちらへ向かって全力で走り出していた。
 月光を焼き付けている最中のフィルムは、非常にデリケートなものだ。たとえ一瞬でもあんな光を向けられれば、完全に感光して真っ白になってしまう。
 大声でわめきながら駆け寄ってくる私をどう思ったのか、またたいていた光はすぐに見えなくなった。驚いて行ってしまったのだろうかと足をゆるめたところへ、聞き覚えのある声が掛けられる。
「高遠さん」
「おにーちゃん?」
 片手であたりを探るようにしながら、人影が木々の間から姿を現す。
「水穂ちゃん……それと山根くん、か」
 そう問い返すと、ほっとしたような声が返ってきた。
「ああ良かった。ここまで足跡を追いかけてきたんだけど、懐中電灯持ったままでどこまで近づいて良いか判んなくてさ」
 言いながら近づいてこようとするが、その足取りはどうにも危なっかしい。
「こっちだ。林から出れば、だいぶ明るくなる」
 こちらから歩み寄って、伸ばされた手を引っぱってやった。まだ闇に目が慣れていないらしい山根は、素直に後をついてくる。
「こんばんは、お兄ちゃん」
「ああ、こんばんは」
 山根の背中から元気良く挨拶してくる水穂に、笑って言葉を返す。
 カメラの近くまで戻ってきたところで、私は引いていた手を離した。ここまでくればずいぶんと明るいし、足元も踏み固められている。動くのに不自由は無いはずだ。山根もそう思ったらしく、姿勢を低くして負ぶっていた水穂を下へおろした。
「はい、差し入れ」
 そう言って山根が取り出したのは、携帯用の保温ポットだった。蓋を取って中身を注ぐと、湯気とともにコーヒーの良い香りが立ちのぼる。思わず歓声をあげて受け取っていた。
「わざわざこれのために?」
 湯気の中に手をかざして少しでも暖をとる。山根はへらりと笑って答えた。
「いんや。どっちかというと、それはついで」
 足元でしきりにあたりを見まわしている水穂の肩を、片手でしっかり押さえている。
「水穂ちゃんがさ、どうしても雪男を見つけるんだって騒ぐもんだから、ひとりで出ていかせるぐらいならいっそ、いっしょにぐるっと散歩でもしようかって」
 出ていくなといくら言い聞かせても、かえって意固地になりかねない。そうして目を盗んで抜け出されてしまうぐらいならば、いっそ見張りをつけて少しばかり出歩かせた方が、彼女の気も済むだろうと、そういう結論に達したようだ。
「ま、山崎のおじさんもいい年だし、いきなり水穂ちゃんが走りだしでもしたら、ちょっと追いつけそうにないからね」
 そこで若い山根に白羽の矢が立ったという訳か。
「ご苦労様」
「どーいたしまして」
 ひょいと肩をすくめる。
 なるほど、確かに頼もしい青年だ。
「それ、いま撮ってる途中なのか」
 立てたままのカメラに興味をそそられたらしく、首を伸ばして眺めている。
「ああ。もう二分ぐらいでシャッターを閉じる頃合いだ」
 時計を確認して答える。
「へーえ」
 感心したようにうなずいている。この青年は昨夜見せた完成写真にも、ずいぶんと感嘆してくれていたものだ。
「少し見物してっていいかな」
「カメラを動かさなければ構わないが……見ていても面白くないんじゃないかな」
 アングルを決めてシャッターを上げた後は、時間が来るまで放っておくだけである。私自身、寒さに耐えかねて運動していたぐらいなのだが。
「ま、少し休憩ってことで」
 麓から子供一人おんぶして登ってきたのなら、確かに休みたくもなるだろう。
「ねーえ、遊んでいーい?」
「遠く行っちゃ駄目だぞ。そこの見えるところでなら、ちょっとだけな」
「うんっ」
 うなずいて走り出した水穂に、高遠さんのカメラがあるからな、雪投げるならあっちだぞ! と林のほうを指差す。
「わかってるー!」
 足を止めて振り返った水穂は、その場でしゃがみ込むとさっそく雪を丸め始めた。
 先刻までの静謐な空気はもはや欠片も残っておらず、幻想的に浮かび上がっていた雪原はすっかり子供の遊び場と化していた。
 だが ―― それはそれで、ひどく微笑ましい。
 私達は並んでしばらく遊ぶ水穂を眺めていた。が、やがて私の時計が小さくアラームを鳴らす。それを合図にカメラへ向かった私は、慎重にシャッターを閉じ、レンズの向きを調整した。今度は少し仰角を低くしてみる。
 一連の作業を終え顔を上げると、山根はこちらでも水穂の方でもなく、黒く夜空を切り取る木々の梢あたりへと視線を向けていた。だがそちらの方には何も興味を引くようなものなど見受けられない。
「なあ、高遠さん」
 ぽつりと、落とすような呟きがその唇から発せられた。
「雪の精霊ってなんのことか、あんたなら判る?」
「……彼女の父親が言っていたというやつか」
「そう」
 うなずいて視線を足元へと落とす。
「浩次さんさ、水穂ちゃんの父親だけど、口癖みたいに言ってたんだ。俺は雪の精霊に助けてもらったんだ。本当にきれいで、一度見たら忘れられないぞって。けどそれがいったい何のことなのかは、とうとう誰も教えてもらえなかった」
 うつむいたその表情は影になっていて、夜目のきく私でも見ることはできなかった。
「最初はさ、樹氷とか雪の塊とか、そんなものをたとえて言っただけかなとも思ったんだ。けど、でもさ、なんか違う気がするんだ」
 どこかふてくされたような、そんな呟き。それがかすかに震えているような気がするのは、私の勘違いでも、ましてこの寒さのせいでもないのだろう。
「あんたなら、きれいなものいっぱい見てきてるみたいだし、いろんな事も知ってそうだし。なんか ―― なんか思いつくこととか、あるかなって」
 昨日見せた写真の中には、雪景色を撮ったものも少なからず混じっていた。だからこそ、そんなふうに思ったのだろう。
 私自身、そのことについてはいくらか考えを巡らせてみた。水穂や山崎さんの言葉を元に想像を広げ、やはり樹氷や岩に積もった雪など、そんなものを比喩したのではないかと、そう思ったりもしたのだが。
 だが、しょせん少し話を聞いただけの余所者の私では、思いもつかないというのが正直なところだった。それを告げると山根は小さくため息をついた。
「そうだよな。直接話を聞いてた俺たちでもそうなのに、高遠さんが判る訳ないよな」
 変なこと言ってすいませんと、頭を下げる。
 そうして彼は気を取り直したように水穂を呼んだ。
「そろそろ帰るぞ!」
「えー、もう?」
「充分あちこち見たろ。これ以上夜更かしすると、明日寝坊しちゃうぞ」
 不満げにしながらも素直に戻ってくる水穂を、再び背負い直す。
「それじゃあ、俺たちはこれで。高遠さんもほどほどにして、風邪なんか引かないように」
「ああ、気をつけて」
「ばいばーいっ」
 元気に手を振ってくるのにこちらも振り返し、二人の姿が木立の間へ消えるまで見送った。
 あたりは途端に静けさを取り戻し、ついでに寒さまでが戻ってきたような気がした。防寒着の襟を強く引き寄せ、背中を丸める。ありがたいことにコーヒーをポットごと置いていってくれたので、当分は暖まることができそうだった。
 せめてもう二、三枚は撮って帰りたい。
 口元から上がる白い息を眺めながら、私は次のアングルをどうするのか、早々に頭の中で検討し始めた。


*  *  *


 荷物一式と封筒を手に階下へ降りると、事前に出立を告げておいたので、山崎さんがいそいそとフロントへ姿を現した。
「もう少しいらっしゃるかと思ってましたよ」
 鍵を受け取りながらそんなふうに言ってくる。
「ええ、私もゆっくりするつもりだったんですけど、夕べずいぶん良いのが撮れましたから」
 しがない写真家としては、経費もできるだけおさえておきたいというのが本音であった。この居心地の良い宿を引き払うのは、なかなかもったいなくもあるのだが。
「お兄ちゃん、もう帰っちゃうの?」
 傍らから掛けられた声にそちらを見ると、山根と遊んでいたらしい水穂が、とたとたと歩み寄ってくるところだった。すぐ足元までやってきて、私のことを見上げてくる。
「ああ」
「また来る?」
 客との別れには慣れているのか、訊いてきたのはそんなことだった。帰るのは止められないが、また来てくれれば嬉しいと、そんなふうに思っているのがひしひしと伝わってくる。幸い、後ろめたい返事はせずにすんだ。
「同じ景色を、今度は夏に撮ろうと思ってるからね。半年か、一年半か、それぐらいしたらまた泊まらせてもらうよ」
「ほんと! わーい」
 口先だけではないきちんとした約束に、水穂は嬉しそうな声を上げる。
 さて、半年後か一年半先に私が訪れたとき、はたして彼女が私を覚えてくれているかどうか。
 ―― まあ、この珍しい容姿のおかげで、たいていの人間は一度私に会えば、ずいぶん長いこと記憶に残してくれているものだが。
「またのお越しをお待ちしております」
 差し出されたお釣りを受け取ろうと持ち上げた腕の、袖を水穂がつかんで引いた。
「ん?」
 目を落とすと、しきりに手招きしている。どうやら耳を貸せと言いたいようだ。
 応じて腰を曲げると、彼女は口元に両手をあて、私の耳に近づけた。
「あのね、そのときまでに雪男、ぜったい見つけとくからね」
 水穂としては内緒の約束のつもりだったようだが、あいにく声が大きすぎて完全にまわりにまで漏れ聞こえていた。フロントの中と外で、二人が苦笑いしている。
 私も口元がゆるむのをどうにかこらえながら、大きくひとつうなずいてみせた。
「楽しみにしておくよ」
「うんっ」
 元気良く笑って、そうして水穂は放り出していた玩具の方へと走っていった。
 上体を起こすと、山崎さんと山根の複雑な表情が目に入る。
「……あんまり焚きつけないで下さいよ」
 笑いに紛らわせてはいたが、いささか苦いものが混じった声音だった。
 これ以上、夜の脱走を助長させては困るというのだろう。
 そんな二人へと、私は持っていた封筒を持ち上げてみせた。
「ちょっと見て欲しいものがあるんです」
「……?」
 いぶかしげに見返してくる彼らの前で、折り返していた封筒の口を開け、中身をひっぱり出す。それはごく普通のL判サイズの写真だった。荷物をまとめ始める少し前に、現像が終わったばかりの一枚だ。
 まだかすかに湿っぽい印画紙を、山崎さんはなにげなくのぞき込んだ。そうしてはっと息を呑み込む。
「こ、これは」
 絶句する彼をいぶかしんだのか、角度的に見にくい位置にいた山根も、首をひねるようにして目を落とした。そうしてやはり驚愕する。
「これ、もしかして……」
 とっさに口元を押さえた手のひらの下から、信じられないと言いたげな声が漏れた。
「雪の……精、霊?」
 そこに映っているのは、一面雪に覆われた景色の中、黒々としたむきだしの岩肌を見せる崖の中腹だった。そこに、青白い巨大な人影が浮かび上がっている。柔らかく、まるで内側から発光しているかのように淡くけむるその姿は、周囲のものと比して十数メートルはあるだろう巨大さだった。
 細かい造作は定かではない。どうやら頭から全身にかけて、流れるようなひだのある、ゆったりとしたローブに覆われているようだった。軽く広げられた両手もまた、たっぷりとした袖に包まれており、その布は下に向かうにつれ、細かく裂け、幾重にも垂れ下がっている。
 雪の白と黒い岩肌が織りなすコントラスト。
 その中で月の光を浴びて蒼く、白く、輝くその姿。
 見る者の魂さえも奪うような、荘厳さすら感じさせる、その姿は。
 そう。まさしく、精霊と呼ぶにふさわしい。
 言葉もなく見入っている二人へと、私は静かに問いかけた。
「ひとつ、訊きたいことがあるんですが」
「な、なんでしょう」
 かすれた声で問い返したのは、山崎さんの方だった。その目はいまだ写真に釘付けとなったままだ。
「裏山のあの滝、凍ることはあるんですか?」
「は……あ、ええ。何年かに一度、うんと寒くなった時には、そんなこともありますが」
 それがどうか、と言いかけて、そこで山崎さんははっと気がついたように顔を上げた。しかしそれも一瞬のことで、再び彼は写真を見直す。
「こ、これ、もしかして ―― 」
「ええ、あの滝ですよ。昨夜撮ったんです」
「あ……!」
 山根も気がついたようだった。
 そう、それはなんの変哲もない、ただの滝を撮った写真であった。
 だがそのどこにでもあるごく普通の滝が、月光のもと印画紙に浮かび上がらせたのは、思いもよらない幻想的な姿だったのだ。
「私の撮る写真は、とても長い時間をかけて少ない光を焼きつけるものです。だから動かない雪や岩は普通に写るんですが、動くもの ―― 特に流れる水は、残像を伴ってこんなふうに浮かび上がるんです」
 普通の目で見ただけでは、滝はただの滝にすぎない。
 だが、光を受けて飛び散る水の、その残像が、少しずつ少しずつ降り積もることで、流れる水の軌跡はフィルム上に、かくも美しく描き出されたのだ。
「たぶん、突き出した岩や木の枝にぶつかることで、たまたまこんな形に流れているのだと思います。人の目っていうのは不思議なもので、一度なにかに形が似ていると思うと、もうそんなふうにしか見えなくなってしまうものですし」
 ルビンの壷とか騙し絵とか、たとえはちょっと悪いが ―― バットマンのマークとか、ああいったものを思い浮かべれば判りやすいだろう。また人は三つの点が存在していれば、それだけでよく見知ったもの、すなわち人間の顔をそこに見いだすという。
 ならば偶然が作り出したこの造形に、長いベールとローブをまとう、そんな人間の立ち姿を重ねてしまうこともまた、ごく自然な心理のあらわれだといえるだろう。
「は、あ。なるほど」
 二人はぎこちなくうなずいた。ようやく声が出るようになったのか、山根が写真の人影を指差す。
「じゃ、じゃあ、もしかして、あの滝が凍ったら、こんなふうになるっていうのか」
「そうだと思う。それもたぶん、昼間に見たらあまり人の姿には似てないんじゃないかな。色とか、突き出た岩とか、よけいなものがたくさん見えてしまうから」
 ―― そう、おそらくこの姿は、月のおぼろな光に照らされてこそ、見えてくるものなのだろう。
 明るい太陽の陽射しは、時として残酷なほどすべてをあらわに照らしだす。しかし月の柔らかくあえかな光は、おぼろにそっと、包み込むかのような優しさでその輪郭を浮かびあがらせるのだ。
 滝が凍結するほどの寒さの中、夜の山に踏み入ろうとする人間は滅多にいるものではない。ましてそれほど冷え込む時期に、雲が晴れ月光が差し込めることなど、本当にまれな現象に違いない。
 だからこそ、あの滝がこんな姿を見せることを、知る者はほとんどいない。
 いくつもの偶然が重なった先で、ごくひと握りの幸運な人間だけが見ることのできる、これはそんな姿なのだ。
 そしてだからこそ、彼女は ―― この雪の精霊はこれほどに美しいのだろう。
 たとえ誰の目に映ることはなくとも、ひそやかに、ただ一人月下にたたずむその姿は ――


「その写真は、差し上げます」
 口を開くと、二人ははっと我に返ったようだった。そうして慌てたように私を見返してくる。
「い、良いんですか」
「ええ、ネガはありますから、いくらでも焼けますし」
「あ、そうですね」
 何度もうなずき、彼らはまたも写真へと目を落とす。
「いつか ―― あの子がまた無茶をしそうになったら、見せてあげて下さい」
 あるいは夢を見続けていられたほうが、彼女にとっては良いのかもしれない。だから今はまだ、教えることはしないでいたかった。
 けれど、あまりに彼女がわがままを繰り返し、自分の命までも危険にさらすようならば。
 その時には、見せてやればいい。彼女の父が目にしたという、その姿を。
「そうですね。……ありがとうございます」
 答える山根の声は、心なしかかすれていた。
 カウンタに置かれたその手が、ほのかに震えているように思える。
 あるいは彼と浩次さんの間には、なにかひとかたならぬ関係があったのかもしれない。そしていま彼らの脳裏には、亡くしてしまった家族の、年かさの友人の思い出がよみがえりつつあるのかもしれなかった。
 だがそれは私がどうこう口に出すべきことではない。
「それでは、電車の時間があるので、失礼します」
 いとまを告げると、彼らはそろって深々と頭を下げた。


 雪かきの施された道を、さくさくと音をたてながらバス停へ向かう。
 ふと空を見上げてみると、今日も見事な快晴だった。濃い色のサングラス越しにでさえ、どこか眩しいほどの青天。つと手のひらをかざし、目を細める。
 おそらく、今晩もまたあの滝にファインダーを向けたなら、あの精霊の姿を見ることができるのだろう。それは正確には、浩次さんの見たものとは、いささか異なった姿をしているのだろうけれど。
 それでも……
 私はひとり胸の内で呟いた。


 ―― 私の『月光の精霊』も、『雪の精霊』に負けないぐらい、美しいと思うんですがね。浩次さん。


 問いかけの答えはどこから返るはずもなかったが。
 それでも私は何故か、吹き抜ける冷たい風の中に、穏やかな低い含み笑いを聞いたような気がしたのだった。


(2004/02/01 00:50)


※本文中の一部の表現についてですが、アルビノ体質に関する描写はすべてフィクションです。こういった体質の方には、複合して様々な弊害をお持ちの方がおられるようですが、そう言った方々をおとしめる意図などはないことを、特に追記させていただきます。


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