Novegle対応ページ ◎作者:神崎真◎カテゴリ:現代◎長さ:中短編◎状況:読切連作◎ダウンロード◎あらすじ:月夜の情景を専門に撮影するカメラマンが、行く先々で出会う人々、目にするものは……
 夏の夜の夢  月光写真シリーズ 第一話
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2000/05/06 13:25)
神崎 真


「あなたの目に映る星の数は、きっと私のそれよりずっと多いのでしょうね」
 そう言って、彼はにこりと微笑んだ。


*  *  *


 きっちりとしめきった窓の外から、潮騒が聞こえてきていた。
 冷房の効いた部屋で眠っていた私が、まだ日没前だというのに目を覚ましてしまったのも、その波の音が耳についたからだった。
 規則的なそれは眠気を誘うこともするが、逆に耳につきだすと、どうにも気に障って仕方がない。糊のきいたシーツの上で寝返りを打ち、壁の時計を見る。カーテンと鎧戸を閉め切った室内は、心地よく薄暗かった。午後六時。起きるにのはまだ少し早かったが、さりとて早すぎると言うほどでもない。いささか小腹も空いてきていた。
 シャワーを浴びて寝汗を洗い流し、入念に日焼け止めを塗りこんだ。長袖のシャツは襟元までしっかりと止め、両手に手袋をはめる。そして昼間には絶対手放せない、濃い遮光のサングラス。
 陽光に対する防護を完全に整えて、ようやく私は部屋を出た。


 ホテルの一階には、簡単な食事とお茶が出る、喫茶室があった。
 もっともビジネスホテルに毛が生えた程度の建物だ。出てくる食事もたかが知れている。従業員の教育もろくなものではなかった。私が注文した定食を食べている間、厨房やカウンターの中から、ひそひそというささやきと共に、不躾な視線が投げかけてこられる。
 確かに、真夏のこの時期に私の服装は、かなり奇妙なものだろう。食事時にもサングラスをかけたままで、手袋も外さないでいる。そしてそれ以上に……
「会計をお願いします。それと領収書を。宛名は ―― 」
 私が名前を告げると、レジの女性は驚いたように目を見張った。それから慌てたように頭を下げ、領収用紙を取り出す。
 けして日に焼けているとはいえない彼女よりも、はるかに白い肌と、そして髪を持つ私が、日本名を名乗るのはそんなにおかしいのか。
 とうに慣れたはずの、そんな反応が、ちくりと神経を刺激する。
 だが、ひそめた私の眉も、その下にある真紅の瞳も、サングラスに覆い隠されて、彼女の目に止まることはなかった。


 私には、生まれつき色素というものがなかった。
 生き物には、まれにそういった存在が生まれるのだという。白ウサギだとかハツカネズミだとか、格調の高いところでは御神体の白蛇だとか。白い身体に、血の色を透かした紅い虹彩。要するに突然変異というやつだ。
 綺麗でいいじゃないか、などとたわけたことをほざく奴もたまにいたが、冗談ではなかった。そもそも色素とは、有害な紫外線から身体を守るために存在している。健常な人間であっても、時として強い日差しの浴びすぎで炎症を起こすというのに、日焼けひとつできないこの肌は、春の穏やかな陽光ででさえ、簡単に火膨れを起こしてしまうのだ。
 まして、ただでさえ敏感にできている瞳など、下手にさらしては、たちまちに網膜を灼かれてしまう。
 だから私は、いつも日が沈んでから外出することにしていた。
 日が沈み、柔らかな月と星の光が降り注ぐ頃、ようやく素顔で、色眼鏡など通すことのない、ありのままの景色を楽しむことができるのだ。
 まるで隠花植物のようだな。
 トイレの鏡で、自分の姿を見ながら思う。目に入ったゴミを洗うため、サングラスをはずした私の顔。電気を消したトイレの中で、青白く浮かび上がっている。日の射さない暗がりで、ひっそりと根を伸ばし胞子を飛ばす菌類のように、陰気で病的な空気をまとってそこにある。
 水の流れる音が聞こえた。
 続いて個室のドアが開く、軋んだ音。
 誰かが私より先に個室を使っていたらしい。鏡の中に、奥から出てくる人影が映りこんだ。
 目を合わさぬよう、反射的に視線をそらした私を、しかしその人物はことさらにのぞき込むようにしてきた。
「あの、失礼ですが」
「……なんですか」
 向こうから話しかけてこられては、無視する訳にもゆかない。仕方なくそちらを向いて問い返した。
 相手は、私よりわずかに年下とおぼしき青年だった。色が、驚くほどに白い。もしかしたら私と大差がないかも知れなかった。すらりとした細身の身体になめらかな白い肌は、どこか女性的ですらある。
 だが、長く伸ばして後ろでまとめられた長い髪は、見事なまでに黒かった。遠慮なくまっすぐに、こちらを見つめてくる瞳も同じだ。烏干玉の ―― とは闇や黒髪にかかる枕詞だが、それはこんな色を言うのかもしれない。
 いや、この色は闇と同じではないか。
 思い直す。夜の闇とは、けして黒ではないことを、私は知っている。宙に浮かぶ星の、月の、あえかな輝きが、夜空を、地に落ちる影を、ほのかに蒼く染め上げるのだ。
 だから、この髪も、瞳も、けして夜闇の色ではない。もっと深く、しっとりとした、柔らかな ――
「あの?」
 いぶかしむように首を傾げられて、私は一瞬の物思いから覚めた。
「いえ、なんでも」
 咳払いして、目を伏せた。隠しようもない誤魔化しだったが、青年は気に止めずいてくれたようだ。改めて問いをかけてくる。
「明かりを消されたのは、貴方だったんですか?」
「ええ。そうですが」
 後ろめたく思いながら答える。
 サングラスを外すのに、明るすぎる電灯の光は邪魔だったのだ。用足し中にいきなり暗くなったのでは、さぞや驚いたことだろう。他人が個室にいると気付いていたら、出て行くまで待ちもしたのだが。
「ああ、良かった。停電か故障かと、心配になったものですから」
 そう言って、青年はにこりと微笑んだ。
 明るい、春の日差しを思わせるような、屈託のない笑顔だった。
 前を失礼、よろしいですか? と断って手を洗う。
 青年が出ていった後も、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。いま目の前で見たばかりの表情が、目に焼きついて離れない。
 特別な状況で作られたそれではなかった。日常の、ほんのささいな会話の中で、ごく自然に生み出されたものだ。なのに、なんてきれいな笑顔だったのだろう。薄暗く汚い、ホテルのトイレが、一瞬明るくさえなったような気さえした。
 それほどに、彼の表情は晴れ晴れとしていたのだ。
 日だまりとか、梅雨の晴れ間の太陽とか。明るく暖かく、眩しくて、気持ちのいいもの。それらは、きっとあんなふうなものなのだろう。
 何となくそう思った。
 それは私とは、遠く無縁な存在だった。日差しを避け、暗く湿った日陰の場所に隠れ住まなければならない私には、一生理解できない感覚だった。
 もう一度、鏡に映る自分を眺める。口の端を上げ、そっと微笑んでみた。
  ―― 血色の目をした白影が笑う様は、せいぜいさまよい出た幽鬼が、諦念を含んで佇んでいるようにしか、見えなかった。


*  *  *


 深夜。
 私はカメラを持ってホテルを出た。
 満月の光が皓々と、海へ、砂浜へ、ふりそそいでいる。ほんのりと白く浮かび上がる砂を踏みしめて、波打ち際を歩いていった。
 水の上を吹き渡ってくる、夜風が肌に心地よい。昼間は熱く焼けている砂も、この時間にはひんやりと冷たくなっている。靴を脱ぎ、裸足になってみた。足の下で砂が崩れていく感覚がくすぐったい。
 昨夜のうちに目星をつけておいた場所について、カメラをセットした。下げてきたバッグから三脚を出し、アングルを決め、動かないように固定する。腕時計で時刻を確認した。
 シャッターを開けば、当分の間する事はなかった。三脚の傍らに腰を下ろし、そのまま砂の上に寝転がる。
 視界一杯に満天の星が広がった。
 都会とはとても言い難い、地方に位置するこの浜辺は、街の無粋な明かりになど邪魔されることなく、見事な星空を広げてみせてくれる。
 天鵞絨ビロードに銀砂をなすりつけたような、天の川ミルキー・ウェイ。それに重なる三つの星は、琴座のベガに白鳥座のデネブ、鷲座のアルタイル。夏の大三角形だ。北の空には小さな柄杓。不動の北極星を尾に持つ小熊座がある。小熊座と琴座の間にあるあれは、ジグザグに折れ曲がった龍座。そして間隙を埋める名も無き小さな星また星。
 こうして視界の全てを夜空で埋めていると、自分がどこにいるのか判らなくなることがあった。ことに、聞こえてくるのが打ち寄せる波のざわめきだけのいまは、意識そのものがその音に押し出され、流されて、遠く空の果てまで漂いだしてゆくような心地がする。
 肉体という檻から解放されて、何に束縛されることもなく、ただ自由に意識だけが虚空をたゆとうのだ。
 想像し、うっとりと息を吐く。
 と、その時。
 砂の崩れる音が耳に届いた。
 ごくごくかすかなその音は、しかし寝転び地面に耳をつけていた私には、はっきりと聞こえる大きさだった。
 横たわったままで頭を動かし、視線を音の方へと向ける。
「そんなところでお休みになっては、お風邪を召しますよ」
 そう言いながら近づいてきたのは、昼間出会った青年の姿だった。
「いくら夏とはいっても、夜は冷え込みます。そんなに薄着で、大丈夫ですか?」
 傍らに膝をついて見下ろしてくる。まだ半分夢見心地だった私は、くすくすと笑って言葉を返した。
「昼間あれだけ暑い思いをしたんだ。夜くらい涼しくさせてくれよ」
 脱いでいた忌々しい長袖シャツを、足先で引っかけて放り投げる。胸ポケットに差していたサングラスが、かちゃりと音を立てて飛んでいった。
「潮風も砂も、こんなに気持ちがいいんだ。そんな服なんか着てられるかってんだ」
 機嫌良く言い放つ。
「確かに ―― 今晩はとても気持ちのいい夜ですね」
 青年も一緒になって笑ってくれた。
「よろしいですか?」
 そう断って、私がうなずいてから、すぐそばに腰を下ろす。
 そうして、しばらくふたり、無言で夜風に吹かれていた。
「散歩かい?」
 口を開いたのは、私の方が先だった。
 さすがに転がったままでは失礼だろうと、上体を起こして砂を払う。青年も手を伸ばし、ランニングシャツをはたいてくれた。手を動かしながら答える。
「いえ、仕事帰りです。先ほど始末がついたばかりでして」
 こんな時間に? と不思議にも思ったが、私も人のことは言えなかった。
「こんなに暗いのに、写真なんて撮れるのですか?」
 青年が三脚を見ながら訊いてくる。うなずいて立ち上がった。ちょうど良い頃合いだった。
 開いたままだったシャッターを閉じ、フィルムを送る。それからわずかにアングルを変えて、もう一度シャッターを上げた。
「時間はかかるけどな」
 のぞいてみるか、と身振りで促す。青年は嬉しそうにやってきた。カメラに触れて位置をずらしてしまわぬよう、そぅっと注意を払ってのぞき込む。
 しばらくじっとレンズの向こうを眺めていたが、やがて残念そうに目を外した。
「……暗くて、よく見えません」
 その言い方が本当に残念そうで、なんだか無性におかしくなった。
「少ない光を、長い時間かけてフィルムに焼きつけるんだ。とても綺麗な青い写真ができる」
「素敵ですね。月夜の明かりで撮る夜景の写真なんて」
 そう言う声にも表情にも、素直な感嘆の色が透けている。どんな写真になるのか想像しているのだろう。軽く首をかたむけて、空を見上げる。
「ああ、判るなぁ」
 微笑んで、両手を夜空にかざした。
 その指の間から、水のようにこぼれてくる月の光。
「この光がだんだん降り積もって、フィルムの上に凝縮されて、青く、淡く、輝くんですね」
 そうして、笑顔のままにこちらを振り返る。
「ねぇ?」
 屈託のない微笑みは、青白い光を浴びて、煙るように浮かび上がる。
 暗く、太陽の光など遠い夜の闇の中にあっても、彼の笑顔は変わることなく鮮やかで。
 ひ弱な私の両の目を、まばゆく刺し射て、細めさせる。
「君の、名前は?」
 訊いてみた。
「私の名前ですか」
 意外そうに聞き返して、それでも彼はきちんと教えてくれる。
 それはやっぱり、彼に相応しかった。清く、明るく、晴れた大空を意味する言葉だ。
「貴方はなんておっしゃるんです?」
 返すように向けられた問いに、答えるのはあまり気が進まなかった。彼の持つ、綺麗で暖かな名前に比べたら、なんと陰気で皮肉なそれか。
 けれど、最初に訊いてしまったのは、こちらの方だから。
卯月うづき、だ」
 答えると、青年はやはり笑った。
「良い名ですね」
「どこが」
 思わず声が険しくなった。
「よりにもよって……」
 拳を握り、下を向く。
「その名前、お嫌いなんですか?」
「嫌いだ」
 卯……うさぎ。
 白い毛に赤い目の、哀れで無力な小動物。劣性遺伝の産物でありながら、その姿の物珍しさに、幾世代も交配を繰り返され、病を血筋に固着された、不自然に病的な観賞用の生き物。
 私のこの姿を、もっともわかりやすく喩え、茶化す ――
「そうですか。勿体ないですね。せっかく貴方にぴったりなのに」
「ウサギだからか」
 吐き捨てた。
 視線を上げて、青年を睨みつける。彼は驚いたように私の視線を受け止めた。
 そこで、私ははたと気が付く。
 そういえば、彼は私の姿について、何も言いはしなかった。ただの、一言も。それどころか、奇異の視線ひとつ向けることなく、ごく当たり前に語りかけ、笑いかけてくれていた。
 それはあまりにも自然な行動で ―― だからこそ、不自然なその振る舞いに、私はまったく気が付かなかった。
「すみません。お気障りなことを言ってしまいまして」
「いや……君が謝ることじゃない」
 頭を振って、謝罪を退けた。
「この名は、似合うかな?」
 訊いてみると、彼はためらいがちにうなずいた。
「私は、そう思います」
「どんなふうに?」
 今度は穏やかに問うことができた。
「もちろん、卯が兎だと言うこともありますけれど、月の字も、良くお似合いですから。貴方の髪も、肌の色も、月の光がとても映えておられる」
 目を細めて、私の姿を眺める。
 そこに揶揄するような色はなかった。彼は本当に、私のこの姿を、白い髪と肌を、見目良いものと思ってくれているようだった。
「それに ―― 」
 さらに先を続ける。
「もしかして貴方は、四月生まれではありませんか?」
「そうだが……」
「やっぱり」
 手を叩いてうなずく。
「卯月というのは、卯の花の咲く月。つまり旧暦の四月のことなんです。卯の花というのは、古典でも良く詠われる、小さな白い花でしてね。ですから、貴方のお名前には、兎と月と、白い花と、それから生まれ月の、四つの意味が込められているんだな、と。
 どれひとつとっても、とても綺麗で、貴方を表すのにぴったりだなぁって思ったんです」
 お気にさわりました?
 心持ち上目遣いになって、そっと私の顔をうかがい見る。
「月と、花と、生まれ月、か ―― 」
 今まで考えてもみなかったことを言われて、私は少しとまどっていた。
 これまでの私であったなら、そんな言葉もやはり、不愉快に感じていたかもしれなかった。生まれ月はともかくとして、月も白い花も、どのみち私のこの姿を強調した意味合いには違いないのだから。
 けれど、この青年の口から出ると、そんな意味付けも不快ではなかった。
 彼の目に映る私の姿は、けして奇異なものではないらしい。見て見ぬ振りをするような、同情すべきそれでもないようだ。白いものは白い、赤いものは赤いと、ただあるがままに見ているだけで。
 だから、
「……君の名も、よく似合う良い名だ」
 私も微笑して、彼にそう返した。
「そうですか?」
「ああ、俺はそう思うよ」
「実は私も……あまりこの名が好きではないのですけれど。貴方がそうおっしゃって下さるのなら、やっぱり似合う良い名なのでしょうね」
「そうだとも」
 きっぱりと断言する。
 嫌いだなんて、もったいない。本当によく似合う、素敵な名前なのだ。
「晴れて、明るい、大空だろう? 雲が流れて、鳥が飛んで ―― 」
 夢想する。目映い太陽が昇る、青く澄みわたった天蓋。
 それは、明るく笑うこの青年に、なんて相応しいイメージなのだろう。
「ああ、なるほど」
 青年は大きく両手を広げ、再び夜空をふり仰いだ。
「星がまたたいて、優しく眠りを包んでくれて……こんな空の名前なら悪くないですね」
 少し意表をつかれた。
「それは夜だろう?」
 君の名は、昼間の空ではないのか。
「昼も夜も同じでしょう?」
 今も空は晴れているし、月と星で、ほのかにだけれど確かに明るい。
「夜空はお嫌いですか?」
「いや。
  ―― 大好きだ」
 嫌いだったら、わざわざ月明かりで写真など撮ったりはしない。
 日の光の下を歩けないから仕方なく、なんてつまらない理由ではなくて。
 私は確かに夜の、月も、星も、その生み出す淡く、もの柔らかな青い光も、とても好ましく思っているのだ。
  ―― そんな当たり前のことを、最近はなんだか忘れていたような気がした。
 そうだ。別に、私自身が隠花植物のようでも良いではないか。
 そう思った。彼を見てみればいい。たとえ夜の暗闇の中でも、明るく笑うことはできるではないか。日の光の下で花咲けぬ植物でも、月光のもとで美しく咲き誇る花は、いくらでも存在しているのだ。
 いつか、山の中で出会った、儚く白い植物を思い出した。
「君は、銀竜草ぎんりょうそうというのを、知っているかい?」
 訊いてみた。
「とても、綺麗な植物なんだ」
「写真、お撮りになったんですか」
「ああ。それはそれは、とても美しかった……」
 木々の枝葉の隙間から差し込む月光が、芽生えたばかりのそれを、優しくおぼろに照らし出していた。少しづつ、少しづつ土を持ち上げるその姿を、私はカメラ越しにじっと見つめていたものだ。
 あるいは明かりを消した温室の中で、一晩だけ花開くサボテンの花。しっとりと露を含み、なお瑞々しく萌える新緑。大地を覆う雪明かりに照らされて、ひっそりと枝を広げる樹氷のきらめき ――
 私が語る様々な情景に、彼は楽しげに耳を傾けた。目を輝かせて聞き入り、問いかけ、そうして時には、彼の方から新たな話を持ち出してくる ――


 数度目のシャッターを下ろすと、それでフィルムがなくなった。
 時計を確認すると、既に夜も更けきってしまっている。
 さすがに冷えてきて、羽織りなおしたシャツをもう一度、改めてかきあわせた。
「そろそろ戻った方がいいな」
 座ったまま私の作業を眺めていた青年に、そう促した。
「そうですね。ああ、月ももう、岬の向こうに隠れてしまった」
 名残惜しそうに、ため息をつく。
 岬の影になった砂浜は、さっきまでよりいっそう暗くなっていた。その分、散らばる星々は、さらに数を増していたが。
「俺は向こうのホテルに泊まっているんだが、君は?」
「私はあちらです」
 指さす方向は、全くの反対側だった。
 残念だ。同じ方向であったなら、もう少し彼と話ができたのに。誰かと別れるのが名残惜しいと思うのは、本当に久しぶりのことだった。
「それでは」
「ああ。じゃあ、これで」
 互いに手を振り、頭を下げる。
 歩き始めたのは青年の方が先だった。未練がましいとは思いつつ、遠ざかるその姿をしばし見送る。
 と ――
「危な……」
「ッ」
 私が注意を促すのと同時に、彼は足元の流木につまづいてバランスを崩した。うずくまったそのそばに、私は慌てて駆け寄った。
「大丈夫か?」
 問いかける。足首を押さえた青年は、驚いたようにあたりを見まわしていた。
「え、ええ。何か踏んだみたいですけど……」
「流木だ。気付かなかったのか」
「ええ、暗くて。卯月さんはお見えになるんですね」
 言われてようやく、彼の目にはあたりが暗すぎるのだと気が付いた。
 光に敏感な私の目は、代わりと言っては何だが夜目が良く効いた。陽光で簡単に灼かれる網膜は、わずかな星明かりだけでも、ずいぶんはっきりものを捉えられる。
「街灯があるところまで送ろう」
 同道できる理由を見つけて、私は少し嬉しくなった。遠慮する彼に手を貸して、ゆっくりと砂浜を歩き始める。
 何度か漂着物や岩を避けるうちに、彼はしみじみとつぶやいた。
「不思議ですね。こうして一緒に歩いているのに、貴方には見えているものが、私には見えないのですから」
 立ち止まって、何度目かの夜空を見上げる。
「あなたの目に映る星の数は ―― きっと私のそれよりずっと多いのでしょうね」
 つられて星を眺めていた私は、瞬きして彼の方を振り向いた。視線を感じたのか、彼も私の方を見つめ返す。しかし、その目の焦点は、微妙に私の目からずれていた。
 おそらく、彼の瞳に今の私は、相好の区別もつかない人型の影でしかないのだろう。
 なんとなく、新鮮な気持ちで周囲の光景を眺めわたした。
 私にとっての世界。それはむしろ、今いるような、暗い星月の光だけがあえかに照らす、夜空の下のそれだった。明るい日差しに照らされた、昼の陽光の中の世界は、色眼鏡越しをのぞけば、写真かTV映像によって目にするものでしかない。
 だからこそ、私は月光で写真を撮ったのだ。
 私が見ている光景。生きている世界。普段ほとんどかえりみられることのないその存在を、美しさを、昼に住む人達にも知って欲しかったから。
 確かに私は、陽光の美しさを直接には知らない。その中にある様々な素晴らしいものを得ることはできない。だけどその代わりに、こんなにも素晴らしいものを見、得ているのだ。
 そう。私は、私を憐れみ、あるいはさげすむ余人に、それを判って欲しかったのだ。

 けれど ――

 長時間露光させる暗がりの撮影では、どうしても私の目に映る光景そのままを写し取ることはできなかった。それは、技術的にどうしようもないことで。
 印画紙に焼きつけられた蒼い夜空を彩る星は、正確な弧を描いて尾を牽き流れ、寄せて返す波の飛沫は、白く、淡く、煙る光となった。それはそれでとても素晴らしい作品になったけれど、それでも私が目にしている夜の世界を、忠実に写し出したものではない。
 そして……いま共にこの場にいる彼の目にさえも、見えている光景は私と異なるのだ。
 このすがしく、透明な、凛と張りつめた空気。どこまでも澄んだ、水底みなそこのような星辰の光と、それらによって浮かび上がる、幻妙な陰影。青から蒼、紺碧、紫紺、青藍、瑠璃、群青。描き出される繊細なグラーデーションと、そして満天を降るがごとくに覆う、名も無き無数の綺羅星たち。
  ―― それらは、ただ私の、この瞳にしかうつりはしないのだ。この、昼日中の陽光には耐えられぬ、憐れにもひ弱い、真紅の虹彩にしか……

挿し絵

 潮風が波の上を吹きわたった。
 星を仰ぐ青年の髪が、さらさらと流れた。深い、漆の黒さを持つ絹糸。街灯ひとつない夜の砂浜で、私の目はその一筋一筋すら確かに見分けることができた。星々の光を浴びて宙を舞うその様は、けしてフィルムになど焼きつけえない、一瞬一秒、ただこの時だけに存在する光景だ。
 そっと腕を伸ばした。
 両手の親指と人差し指で長方形を作る。ファインダーを覗き、アングルを決めるように、目の前の景色を切り取ってみる。中心にあるのは、まだ空を見ている彼の横顔。
 名前を呼ぶ。
 その後ろに広がる、明るく晴れた星空と同じ名を。
 私だけのファインダーの中で、彼はゆっくりと振りかえった。
 架空のカメラを構えた私の姿に、破顔する。
 星降る夜に生まれたその笑顔。

 それは、他の誰も目にすることのできない、
 ただこの私だけが、手に入れられるものだった ――


(2000/05/06 21:15)


鳥田彰子さんへのHP開設祝い。リクエストは『夏の夜の海』『男二人』『友情』でした。
なお、月光写真のイメージは、石川賢治さんの「月光浴」という写真集(小学館刊行)から。とっても綺麗でお勧めな一冊です。

※H14.3.16追記
本文中の一部の表現についてですが、アルビノ体質に関する描写はすべてフィクションです。こういった体質の方には、複合して様々な弊害をお持ちの方がおられるようですが、そう言った方々をおとしめる意図などはないことを、特に追記させていただきます。

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