その晩は、よく晴れた絶好の天気となった。
雲ひとつない晴れ渡った夜空に、昼間の蒸し暑さが嘘のような、澄んだ清涼な空気が満ちている。紺碧とも紫藍とも形容し難い天蓋は、どこまでも高く、深く、頭上に覆い被さっている。ぽつぽつと瞬くいくつもの星影に、思わず両目を細めて天を仰いだ。
林の中へと踏み込むと、あたりにはしっとりと湿った土の匂いが漂っていた。草叢の葉々に夜露が雫を連ね、その葉先を重たげに垂れさせている。藪をかき分ける袖も、ズボンの裾も、たちまちに露を吸って冷たく湿った。足元に気をつけて進んでゆくと、やがて昼間の小川に出る。
そうして、思わずその場に立ち尽くした。
群れ集い、飛び交う無数の蛍達。
これまで見たこともない、大きな群だった。
尾をひき流れる、それは地上の星。
その光は青白く、淡く、周囲をおぼろに照らし出す。冷たく、熱のない、しかし確かな生命を持った、闇夜を彩る生きた宝石 ――
魂をも奪われそうなほどの美しさに、私はしばし陶然と魅入られていた。
―― ホタルの語源は、星垂るとも火垂るとも謂うという。
まさにその言葉に相応しい情景だった。
光の乱舞は、私の周囲にも近づき、まとわりついてくる。
そっと、手をもち上げてみた。上向けたその手のひらに、一匹が羽を休める。
「…………」
彼を
脅かさぬよう、息を止めて顔を寄せた。ゆっくりと点滅する光が、私の顔を優しく照らす。眩く目を射るそれではなく、ひっそりと穏やかに明滅する光。それは夜の闇と反発することなく、むしろ静かに優しく共存している。
顔を上げ、再び周囲を見わたした。
淡い光に照らされて、浮かび上がる河原の風景。
日中とはうってかわり、しっとり湿気を含んだ風が肌に心地よい。ちろちろと耳に届くせせらぎが、なおのこと涼気を誘っている。
手のひらから蛍が飛び立った。つい、と近寄ってきた別の一匹と戯れるようにして、仲間達の元へと戻ってゆく。
今宵は彼らにとって婚礼の夜なのだ。愛しい相手を見つけだし、契りを結ぶ。たった数日間の恋を実らせるために、彼らはああして輝き、呼びかけている。
生涯これ一人の、我が伴侶よ来たれ、と。
―― 恋をしたことはあった。
共にありたいと願い、そしてそう願われたいと思った相手は、私にもいた。
けれど、この世に存在する全ての恋が実るはずもなく。
私はいまもひとり、ここでこうしている。
里美の笑顔を思い出した。屈託のない、幸せそうな微笑み。
彼女の恋は、叶ったと言えるのかもしれない。たとえ現実には、一夏で破れて消えたそれでしかなかったとしても、彼女自身はいま、満足して幸せにいるのだ。
短い時間であれ、彼女にとってそれは、紛れもなく一生一度の恋だったのだろう。この、蛍達のように。
―― ほんの少し、少しだけ。
羨ましいと思ってしまった。
少しだけ、だけれど……
正一の想いが、いつか里美に届くことはあるのかどうか。
傷ついた彼女を見守り、何とか癒そうと努力するまっすぐな青年。
この蛍達が無事相手を見つけられるのと、どちらの確率が高いだろう。そして、どちらの方が里美にとってより幸せなのだろう。
カメラを構えることはしなかった。
ただ一夜の恋に命を燃やす、はかなく美しい恋人達。
記録になど残すのは、無粋というものだ。
私はただずっと、そこで光の饗宴を眺め続けていた。
ひとつでも多くの恋が、幸せに実ることを祈って……
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