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 信仰論   きつね3
 第二章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 大学の裏手にある、雑木林に覆われたこんもりと小さな山。
 生い茂る雑草に埋もれそうな石段を登ってゆくと、そこには丹塗りの色も剥げ落ちた、朽ちかけた鳥居が立っている。それをくぐった先にあるのは、まっすぐに伸びる石畳の通路と、向かい合う一対の石狐の像。
 奧に立っているべき社殿は、一年と数ヶ月前に燃え落ちてしまい、現在は再建に向けてようやく土台の整備に手がついたところである。工事の着手に伴って、小さな仮の祭壇は、境内の隅の方へと移動されていた。申し訳程度の細い注連縄に囲われて、腰ほどの高さの雨除けの下にしつらえられている。
 夕方の五時を過ぎて、もう作業員は誰一人残っていない。
 もともと寂れた稲荷社いなりやしろであった上に、今は工事中だ。参拝客すら訪れることはなく、工事の時間帯を除けば、人の気配などめったにないところである。
 そんな場所に頻繁に足を運ぶのは、ほぼ直人だけだと言えた。しかし彼は別に、一人になれる時間を求めている訳でもない。
 何故なら直人がここへとやって来れば、常に出迎えてくれる存在がいたのだから。
 今日も今日とていつものように、お供えのずんだ餅と缶の甘酒を上機嫌で口に運んでいる人型のお狐さま達は、それでも直人の語る内容にきちんと耳を傾けてくれていた。
「……ってことがあったんだけど」
 あたりに散っていた枯れ葉を持参の箒で掃き集め、ゴミ袋に詰めてから一休み。石畳に胡座をかいて自分も缶のコーラを傾けながら、今日の昼休みの一幕を話す。浅黒い肌にもつれまくったざんばらの黒い長髪と金茶色の瞳を持った黒ずくめの次郎丸は、話を聞き終えてむうと眉間に皺を寄せた。どうやら大事な氏子が、どこの誰とも知れぬ女子おなごに一方的に罵倒されたのが、いたく不愉快だったらしい。
 ゆるやかに波打つ長い金髪を首の後ろで束ね、なめらかな肌と同じように染みひとつない真っ白いコートを羽織った太郎丸も、やはり金茶色の瞳を物騒な色に光らせている。
「それで、俺に何か憑いてるってことは」
「ないな」
「ありえません」
 一瞬の間も置かず、即座に答えが返ってきた。しかも疑問を差し挟む余地すらない断定である。
「そもそも我らがそなたに、有象無象の小物など、寄せ付けるはずがなかろう?」
「そうですよ。実体も持てぬような低級霊ごときの一匹や二匹、あの守り鈴があれば視界に入ることもできないでしょう」
「……だよなあ」
 二人 ―― もとい二匹のことを信じてはいたが、改めて言葉ではっきり保証してもらえると、やはり安心できるというものだ。
 息を吐いて肩に入っていた力を抜く直人に、次郎丸はぶつぶつと不満の言葉を漏らす。
「しかしその女子おなごも、一体どういうつもりなのだ。あれか、思い込みの激しい、自称霊能力者というやつか?」
「己には特別な能力があるとうそぶき、口からでまかせで周囲を丸め込んで信用を得ようとするやからは、昔からいくらでもいました。そのむすめや占い師とやらも、おおかたそういったたぐいの人間でしょう」
 浅ましく自己顕示欲を満たそうとするのはその連中の勝手だが、そこに直人を巻き込もうとするなどけしからん、と。怒りを募らせている二人を、直人は窺うように上目遣いで見上げる。
「あ、あの、さ。もしかして……なんだけど」
「どうした」
「なんです?」
 たとえどれほど気分を害していようとも、太郎丸と次郎丸が直人を無視することはない。
 口々に問い返してくる二人の前で、直人は口ごもった。
「その、ケモノ臭いって彼女が言ってたの……」
 さかんに言い渋るのを、二人はそれぞれのやり方で根気よく促す。
 やがて覚悟を決めたのか、直人はついに自分の考えを口にした。
「だから、動物霊の気配って……あんたらのことなんじゃ、ないかな、なんて……」
 一瞬その言葉の意味を考える時間があった。そうして内容を呑み込んだ途端、二人の顔つきが変わる。
 ……怒りも限度を通り越すと、いっそ表情は消えるらしい。
 能面のような面差しのまま、次郎丸は長い黒髪をざわめくように揺らしていた。一方で太郎丸は、切れ長の目を細めている。二人とも黄金色に輝く双眸の中、瞳孔が針のように鋭い獣のそれに変じていた。
「ほう ―― その女、我々を動物霊扱いした訳ですか?」
「冗談ではないぞ、直人。これでも我らは……ッ」
「判ってる! 判ってるって!!」
 尋常でない威圧感を漂わせ始める神狐達を、直人は必死になってなだめすかした。
 自分にとっては二匹共に大切な守護神であり、低級霊扱いするなどもっての外だと、言葉を尽くして力説する。
 その甲斐あって、なんとか二人は落ち着きを取り戻した。直人は気付かれないよう、心の内で安堵する。
 何があっても神様を怒らせてはいけない。それは和御魂にぎみたま荒御魂あらみたまを併せ持つこの国の神々と付き合っていく上で、絶対に守るべき鉄の掟だった。
 およそもとの神霊と呼ばれる存在を怒らせたなら、いったいどんな災厄が振りかかるものか、知れたものではない。だがどうやら今回は、事なきを得られたようだ。
 内心胸を撫で下ろしている直人をよそに、二人は麻里のことをしきりにくさしていた。
「だいたいくさいと申すのなら、その女子の方が余程だろうが」
「ええ、確かに妙な匂いがしていますね。その娘から移ったものではありませんか」
 太郎丸が直人の身体に顔を寄せ、鼻を鳴らす仕草をする。通常の犬ぐらいは軽く上回る嗅覚を持つだろう相手に、落ち葉掃きで汗をかいた自覚のある直人は、さり気なく身を遠ざけた。いくら同性のしかも人外が相手であっても、汗まみれの体臭など嗅がれたくはない。
「まあ、あの子だってもう、俺とは関わりたくないだろうし。ただ言われっぱなしだと何か気持ち悪くてさ。念のため確認したかっただけだから」
 誤魔化すように早口でそう主張すると、次郎丸が自信満々な様子で胸を張った。
「なに、そなたのことは我らが守っておる。無用な心配などせずとも良いわ」
 太郎丸も澄ました顔で後を続ける。
「先の竜神ほどの相手ならばともかく、そこらを浮遊している、ろくに人の目にも触れられないような代物など、その守り鈴で充分に追い払えます。それ以上のモノがちょっかいをかけてくるようであれば、いつでも我々を呼びなさい。すぐに飛んでゆきます」
「あー、うん。……ありがとう」
 そこらに浮いてはいるんだとか、うっかり呼ぶと文字通り『飛んで』来てしまうので、人前では絶対に呼び出せないなとかいった考えが一瞬で脳裏をよぎり、乾いた笑いを顔面に貼り付ける。それでも気に掛けていてもらえるのは素直に嬉しかったので、気持ちだけありがたく受け取っておくことにした。

 それにしても彼女 ―― 相葉麻里は、そこに含まれる性質の良し悪しこそ区別がついていなかったものの、直人の間近に存在する神狐の匂いを、気配だけでも感じ取りはした訳で。
 ならばその自称する霊能力は、本物 ―― 少なくとも、素養は確かに備えているのかもしれない。
 とは言えまあ、もう二度と会うこともない相手なので、直人にとってはどうでも良い事実ではあるのだが。
 そんなふうに結論して、彼は暗くならないうちに境内の掃除を終えるべく、コーラを飲み干して再び立ち上がるのだった。


◆  ◇  ◆


 食堂で初対面の相手から、不躾な言葉をぶつけられてより数日。
 特に変化など起きることもなく、いつも通りの平穏な日々を直人は過ごしていた。適度に勉強し、適度に遊び。そうしてときどき稲荷社を訪れては、ゴミ拾いや草むしりにいそしんで、妙に懐かれてしまった神さま達と言葉を交わす。
 そんな生活が、ここ一年余り続いている彼の日常である。
 最近は、それにバイトが加わった。
 生活費として振り込まれる仕送りの中から、お供え用のあれとかこれとかを捻出するのは、正直苦しい。それは太郎丸達の元へ足を運ぶ頻度が、去年から格段に増えていることも関係していた。見知らぬただの『カミサマ』だった頃と異なり、実際に彼らの顔を見て付き合うようになり、その人となりや好みを知るようにもなった。そうするとどうにも、適当な有り合わせのお供えでは、気が引けるようになってしまったのだ。それなりに吟味した料理や菓子、酒などを、しかも己のものと合わせて三人分用意しなければならず、この出費が意外と馬鹿にならない。
 そんなこんなで数日に一度、直人はコンビニエンスストアのバイトに入ることにしたのだった。
 さすがに深夜シフトなどはいろいろな意味できついが、そのぶん時給に多少色がつく。それに ―― あまり大きな声では言えないが ―― 期限切れギリギリの弁当などをもらって帰ると、それだけ食費も節約できた。
 今宵は日が暮れてからの勤務で、日付が変わる前に深夜勤のバイトと交代した。
 明日の講義は午後からだから、今から食事をしてシャワーを浴びても、朝はゆっくりと寝坊できる。
 夜食用の弁当が入ったコンビニ袋をガサガサ言わせながら、直人は機嫌よく帰宅の途についていた。職場のある表通りは、夜を徹して遊ぶ学生達でまだそれなりに賑わっている。しかし下宿に向かって住宅の建ち並ぶ裏通りへ足を踏み入れると、そこはすっかり人通りも絶えて、静かな夜気が漂っていた。
 切れかけた街灯が、ちかちかと不安定に瞬いている。だが慣れた道ゆえに不便を覚えることもなく、軽い足取りで歩み続けた。
 しかし……そんな彼の前へと、暗がりの中から人影が姿を現す。
 ぎょっとして立ち止まった直人だったが、街灯の明かりに照らしだされたのが、自分と同じ年頃の女の子だと気づいて緊張を解いた。一瞬で闇に沈んだ黒い影は、再びついた光でその姿をはっきりとさせる。見覚えのある、首の右側でひとつに束ねて垂らした髪型。
 暗い色でまとまった服装が、夜の空気に溶け込んでいて。顔と手首だけが、白く浮かび上がるように見えている。
 数日前、捨て台詞を残して去っていった、相葉麻里だった。
 意外な人物の登場に、直人は困惑して見つめ返す。なんだかまるで待ち伏せされていたようで、正直ちょっと気味が悪く感じられた。それは彼女とのけして長くない邂逅が、後味の良くない結果に終わってしまったことも影響しているだろう。
 何かを言われるのか。無意識に身構える直人に、麻里は一歩、そしてまた一歩と近付いてくる。

「 ―― やっぱりあなた、まだケモノの臭いがしてるよ」

 色の薄いぱさついた唇には、口紅はおろかリップクリームもつけてはいないようだ。

「自分では判らないんでしょ? こんなにはっきりしてるのに。この間より、また強くなってる」

 変わり映えのしない言葉を向けてくる娘に、直人はうんざりした色を隠しきれなくなった。
「……きみさ」
 一度言葉を切って、漏れかけたため息を呑み込む。
「そんなに親しくもない人相手に、そういう物の言い方は止めた方が良いよ」
 できるだけ声に険が混じらないよう、注意してゆっくりと発音する。
「心霊現象を信じるかとかどうだとか、そんな意味じゃなくてさ。他人と付き合う上での、礼儀としての問題だから」
 そう忠告してみるが、しかし麻里にはまったく聞こえていないようだ。
「だって、臭いのよ。本当よ」
 直人の言葉にまったく反応を見せず、自分の言いたいことだけをひたすらにくり返している。
「臭い、生臭い。……どうして判らないのよ! 臭いんだって言ってるでしょ!!」
 声のトーンが急激に高くなり、細い眉尻が吊り上がった。
 常軌を逸したその言動に、直人は思わず数歩後ずさる。

「みんなそんなの嘘だって言うのよ。嘘じゃないのに。あたしには判るのに。そうよ、嘘じゃない。セレナ先生だってその通りよって言ってくれた。あたしは間違ってないって。あたしは嘘つきなんかじゃない。嘘つきじゃないんだからぁぁあああッッ!!」

 もはや完全に金切り声で喚き立てる麻里に、直人はただただ呆然とするしかできないでいた。
 幸い今のところ周囲に人通りはないが、このままでは既に寝ているだろう近所の人間を起こしてしまいそうだ。そうでなくとも、夜中にこんな調子で女の子を叫ばせていては、下手すると警察に通報されかねない。
 焦ってなんとか落ち着かせようとする直人だったが、彼が何らかの対処を思いつく前に、彼女はいきなりピタリと押し黙った。
 一転して、シン、とした静寂があたりに満ちる。

「……でもね、大丈夫なの」
「え?」

 先程からころころと雰囲気が一定しない麻里の言動に、直人はまったくついて行けていない。
 ただ反射的に聞き返すのに、麻里は初めて視線を合わせ、反応を返す。

「ちゃんと、あたしが言ってることが本当だって、教えてあげる」

 その表情が、奇妙なほほ笑みに変わっていた。
 向けられた瞳は、どこかどろりと濁っていて。白目の毛細血管が奇妙にはっきりと浮いて見える。

「先生たちも、かわいそうねって言ってくれたの。嘘つき呼ばわりされて、かわいそう。本当のことが判ってない、あなたもかわいそう。だからちゃぁんと、本当のことが判るように教えてあげるの。あなたもこの世の『真理』に、目覚めさせてあげるわ」

 全身が、ぞっと粟立った。
 なんだかヤバイ。明らかに目が正気じゃない。彼女にはこちらの言葉がまったく通じていない。
 直感的にそう思う。
 これは逃げたほうが良いと、直人は即座に決断した。尻尾を巻いて逃げるのが、情けないとは思わない。世の中には、関わらない方が賢明な相手も存在するのだ。戦略的撤退は、けして悪手ではない。
 そうと決めてしまえば、迷っている暇はない。すぐに麻里へ背を向けて走り出そうとした。しかし後ろを向くと、いつの間にかすぐそこにも人が立っている。直人の顔がその胸あたりに来るような、背が高くそれに比して横幅もがっちりとした、体格のいい見知らぬ男だ。
 慌てて後ずさろうとすると、ぐいっと強い力で腕を掴まれた。
 振り解こうと暴れるが、しかしもう片方の腕までも、どこからか現れた同じような男によって力任せにねじり上げられる。ぶら下げていたコンビニ弁当が、地面に落ちて転がった。
「な、何すんだよあんたら!?」
 もはやこれは、完全に洒落になっていない。
 必死になってあらがおうとする直人に、しかし麻里は頓着することもなく、ごく普通の歩調で歩み寄ってきた。
 そうして彼の胸ポケットから、携帯電話を引っ張り出す。
 つい数ヶ月前、海辺の町で壊されて新調したばかりの、まだ新しい機種だ。
「コレ、臭い!」
 顔をしかめ指先で摘んだそれを、麻里はまるで汚い物のようにぽいと投げ捨てた。
 それから、にっこりと満面の笑顔を直人に向ける。
「じゃ、行こっか」
 その邪気のない笑みが、この状況では逆にとてつもなく恐ろしかった。
 問い返す声が震えたのも、無理はないだろう。
「ど、どこに」
「セレナ先生のとこよ」
 言いながら麻里が取り出したのは、可愛らしい花柄の散った、ピンク色のハンカチだった。
 じっとりと湿って冷たいそれが、男達に捕まって動けない直人の顔面へと、押し付けられる。
 鼻をつく薬物の刺激臭が、脳の奥まで突き抜けた。とっさに叫ぼうとして息を吸い込んだのが、かえって仇になったようだ。
 ぐるりと視界が回転し、最初に頭が、続いて全身が重たくなってゆく。
「…………っ」
 やがて、直人の意識は抵抗むなしく闇の中へと落ちていった。
 車のエンジン音と思しき、低い響きが近づいてくるのを、かすかにその耳で感じながら ――


◆  ◇  ◆


 ざり、と。
 アスファルトに散る砂利を踏みしめる、かすかな音が鳴った。
 白い革靴が踏みしめる路上に、人間はひとりとして存在しない。爪先からわずかに離れた位置に、携帯電話が取り残されたように落ちていた。細く長い指が拾い上げると、ストラップについた金色の小鈴が揺れる。

「……なぜ、呼ばなんだッ」

 傍らで、黒いコートに身を包んだ男が、噛み締めた犬歯の間から絞りだすように呻く。

「 ―――― 」

 直人の携帯を握りしめた太郎丸は、無表情で周囲の状況を観察していた。
 指が、込められた力に色を失い、小刻みに震えている。
 やがて……すん、とその鼻が小さく鳴らされた。

「それを持っておらねば、居場所が掴めぬ」

 次郎丸が、喉の奥で唸るように呟いた。
 憤りと焦りを色濃く含んだその言葉に、太郎丸はきっぱりと答える。

「ですが、見つけない訳にはいきません」
「見つけるとも。必ず」
「ええ、必ず」

 厳かに。
 まるで誓約するかのように紡がれる二人のやりとりを聞いていたのは、夜道を吹く冷たい風に、かさついた虚しい音を立てる、コンビニの袋ばかりであった……

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