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 竜神祀りゅうじんさい  きつね2
 終 章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 目を覚まして遅い昼飯を食べ終えると、直人は再び二階の自室へと戻ってきていた。
 春休み以来、数ヶ月ぶりに使う実家の部屋だったが、長年慣れ親しんだそこには、なんの違和感も感じることはない。
 昨夜遅くに自宅へたどり着いて、直人は家族への説明もそこそこに、倒れるようにベッドへと潜り込んでいた。馴染んだ柔らかい寝床は、夢ひとつ見ることない、安らかな眠りへと誘ってくれる。そうしてたっぷり十二時間以上を寝て過ごし、ようやく目を覚ましたのが、もう昼もずいぶんとまわった頃だった。
 寝ぼけ眼で起きてきた直人に、家族は情けないとか、ケチなことを考えるからだとか散々な事を言ってくれたが、それもこれも心配をかけたからだと思えば、さほど腹も立たない。
 ―― なにより、こうして再び家族の顔を見ることができている。
 それがどれほどの幸運かを考えれば、怒りなど湧いてこようはずもなかった。

「…………」

 階下から持ってきた新聞を机に置いて、直人は寝台へと腰を下ろす。
 暗いその視線は、畳んだ新聞へと向けたままだった。
 その片隅に、小さく掲載された、ひとつの記事。
 そこに記されているのは、ある地方の小さな町が、突然の高波に襲われたという内容だった。
 それは満潮と、折からの嵐とが重なったことによるものだったらしい。人々の寝静まる夜半過ぎだったこともあり、被害額、負傷者数ともかなりの数にのぼるという。
 ことに海岸に面してあったある建物などは、波の直撃を受けたせいで、完全に押し流されてしまったとのことだった。
 小さいながらも民宿を経営していたその建物には、その晩にも一人、若い男の客が泊まっていたらしく、宿を経営していた女主人と、その泊まり客の二人が行方不明。あいにく宿帳も客の荷物も、建物ごと波にさらわれてしまい、客の身元さえ判らないままになっている、と ――

 直人は重いため息をついて、床に放り出したままのボストンバッグを見やった。洗濯物の類は既に取り出されて、ほとんど空になって潰れている。
 それは、知らぬうちに太郎丸か次郎丸のどちらかが、持ち出してくれていたものだった。

 あの、悪夢のような夜の後 ――

 気がついたとき、直人は見知らぬ駅の中に座っていた。
 時刻はまだ夜明け前。薄暗い待合室には人っ子一人おらず、ただわずかな常夜灯の明かりだけが、ほのかにあたりを浮かび上がらせているばかりで。
 そうしてベンチの足元には、このボストンバッグが置かれていた。ぼんやりと顔を上げれば、左右に立ち、穏やかな眼差しで見下ろしてくるふたつの姿。
「……ここは?」
「先ほどの場所から、二つほど先の駅です」
「夜が明ければ列車が動き出す。乗ってゆけば、もう誰にも見つかることはあるまいよ」
 柔らかな笑顔と共に、そんな答えが返される。
 狐のくせに、ずいぶん細かいところまで考えてくれたらしい。
 ふと気がつけば手の中に、わずかにフレームの歪んだ眼鏡があった。それは境内で殴られて気絶した際、どこかへやってしまったはずのものだった。旅館に置いたままだった荷物といい、いったいどうやって探し出してきたのだろう。
 気にはなったが、そのあたりを追及するにはあまりにも疲れすぎていた。
 身一つで知らぬ土地に放り出されるのは、かなり辛い状態だったのは確かだから、とりあえず礼を言う。
「ほんとに、助かったよ。ありがとう」
 心からの言葉と共に、深々と頭を下げる。
 本当に、彼らが助けてくれなかったならば、今ごろ直人はここにいなかったのだ。深く暗い水の底で、冷たくなっていたか、あるいは ――
 一瞬、かいま見たように思う巨大な影を思い出して、ぞくりと背筋を震わせる。
 自分はどうにか助けてもらえた。
 けれど……去年までに捕らえられ、捧げられてきたという他の人々は……助かることなく、殺されていった人達は、確かに何人も存在しているのだ。
「忘れることです。もう貴方には関わりないことなんですから」
「そうだな。忘れろ。運が悪かったと思ってな」
 次郎丸がくしゃりと、直人の髪をかきまわす。
「だけど……」
 生け贄がいなくなったことで、今年の祭祀は失敗に終わってしまったのだろう。ならば、もたらされるはずだった竜神の恩恵が消えたいま、あの町は無事ですまされるのだろうか。そして来年は。来年もまた彼らは、同じ事をくり返すのだろうか。見知らぬ、あの町とは何の関わりもない第三者を捕らえて、竜神に贄として捧げるのだろうか。
 余所者の直人には、もはや関係のないことだと、それに違いはないのだけれど。無責任に心配することも、あるいはそんなこと止めろと否定することも、できる立場ではないのだと。それは確かにそうなのだけれど。
 けれど ――
 唇を噛みしめて沈黙する直人に、黒白こくびゃく二匹の神狐は、底の見えない穏やかな微笑みを見せる。
「大丈夫ですよ」
 太郎丸がそう言って、膝をついた。俯いた直人と視線を合わせ、安心させるようにくり返す。
「大丈夫です」
 と。

 何故なら ――

 そうして告げられた言葉を証明するのが、この新聞記事であった。

 もはやあの竜神が契約の代償として受け取るのは、あくまで彼の守護下にある、地元の民達だけであろうから、と。

 それは盗んだ財ではなく、価値なき命などでもなく。
 もたらされる恩恵の代価として、捧げるにふさわしいだけの大切な『何か』をのみ、彼は代償として認めるのだと。
 故に、今後なにも知らぬ罪なき人々が、さらわれ捧げられることは起こらない。そしてあの町が恩恵を失うこともあり得ない。彼らが、それを覚悟して、自らの意思で契約を破棄しない限りは。
 ……だが、それは結局、多くの命のために少ない命を見殺しにすることに、変わりないのではないか。
 そうすることでしか、あの町が平穏に暮らしていく方法はないのだろうか。
 言っても仕方のないことではある。それがあの町に住まう人々が、選んできたやり方なのだから、しょせん余所者の直人には、己が身に降りかかることがなくなったいま、何も言える筋合いではないのだけれど。

「……本当は、生け贄など必要ないのでしょうけれど、ね」

 最後に、ぽつりと呟いた太郎丸の言葉が、重く耳に残っていた。
 あの土地に住まう人々が、本当に心の底から竜神を敬い、そうして守ってもらえる事への感謝の念を持ってさえいれば ―― その祈りだけで、充分なはずなのだと。
 生け贄の肉など、捧げる必要はない。大切なのは、たとえ命に代えてもという、その真摯な祈りの強さに他ならず。
 そう、かつて直人が二匹の神狐に捧げたそれのように。
 かなうものなら、この命さえも捧げようから。
 だから、どうか、と。
 それさえあれば、はじめから生贄など必要ではなかったのだと。

「……どこで、間違えちゃったんだろう」
 ひとり、部屋の中で、直人は小さく呟きを落とす。
 三百年前、嵐の海に身を投げた巫女姫。
 竜神がその願いを叶えたのは、けしてその血肉を欲したからではなかったのに。
 なのに、恩恵を受けた人々は間違えた。
 巫女姫の血肉を食べて、竜神は願いを叶えてくれた。だからこれからも血肉を捧げれば、願いを叶えてもらえるのだと。
 そうして行われ続けた生け贄の儀式。
 毎年催される祭も、美しい巫女舞も、神のためのそれではなく。ただ何も知らぬ旅人を、その華やかさで引き寄せる撒き餌でしかないのならば。
 本末転倒と、そう片付けてしまうにはあまりにも悲しく、そして残酷な三百年ではないだろうか。

 目を閉ざせば、いまも甦るのは、魂を奪われるかのように美しい奉納舞。
 稲光を浴びて浮かびあがる、宝鈴をかざした巫女姫の姿。
 あの舞が、客寄せのそれなどではなく、神のために奉じられる本物の巫女舞になったならば。
 そうしたならば ――

「なーおーとッ!」

 唐突に、窓の外から聞き覚えのある声が直人を呼んだ。
 目の前でぱんと手を叩かれたかのように、直人は我に返って瞬きする。
 深く、意識の奥底まで沈みこむかのように考え込んでいたのが、急速に現実へと引き戻される。
「おーい、帰ってきてるんだって!? おーいー?」
 外からの声は、くり返し直人を呼び続けている。その声に家族の方が先に反応し、あらひさしぶりね、元気だった? といったやりとりが聞こえてくる。
 のろりと立ち上がり、窓に手をかけた。カーテンを引き大きく開けると、途端に真夏の眩しい陽差しと、生ぬるい空気とがなだれ込んできた。
 思わず目を細め、手をかざす。
 見上げた空は、ここ数日のぐずついた天気が嘘のように、明るく鮮やかに晴れわたっている。
「お、直人! うーっす、ひさしぶりっ」
 元気な声に視線を下ろせば、中学以来の友人達が、庭から手を振ってきている。勝手知ったる人の家とはよく言ったもので、その手には既に食べかけのアイスが握られていた。
「なんか大変だったらしいな。とにかく下りてこいよ」
 手招きしてくるのに手をふり返して、直人はなんだか笑いそうになった。
 昨日までの出来事とは、あまりにかけ離れた、日常という名のこの現実に。
「いま行くっ」
 そう答えて、窓辺を離れた。
 階下へ向かうべく視線を動かして ―― ふと、机に置いた守り鈴へと目を止める。
 プラスチックの残骸がついたままのその脇には、コップに入れた日本酒が置いてある。家族に眉をひそめられながらも、せめてこれだけはと、眠りにつくまえ用意して供えたものだ。
「ああ、携帯も新しくしないと……」
 手を伸ばしてとりあげる。
 ちりんと、いつもと変わらぬ涼やかな音が鳴った。
 あんなたいそうな、神様その人を呼び出せる力を持つとは、とうてい思えない小さなお守り。
 実際、そんなことにこれを使っていては、きっといけないのだろう。
 人には人の、分というものがある。
 そう、たとえ命を代価としても、津波や水害から村を守ってほしいと願う。それは人としての分を越えた望みではなかったか。
 おそらく、きっと。
 自分一人の身ではまかないきれない、そんな願いは望むべきではないのだ。
 人が人として望んで良いのは、きっと自分一人であがないきれる、それだけのものでしかなくて。
 そしてそれは、けして己の『命』で支払えるだけ、ということでもないのだ。
 なぜなら人は、生きている限り必ず、なんらかのしがらみをその身に負っているのだから。家族や、友人といった者達が、必ず存在しているのだから。
 思い返せば一年前。直人もまた、確かに自分の罪を命で償おうとしていた。
 その行為を認めてくれたからこそ、あの狐の神様達は、彼を認め、守ってくれるようになった。
 けれど ―― そのことで悲しませる人が存在していたことも、冷静になった今ならば思い至れる。
 もしもあのとき直人が死んでいたら、きっと両親は泣いただろう。残された弟や妹達に、様々な負担をかけることにもなったはずだ。事情を知っている友人達は、一生残る負い目を背負っただろうし、事情を知らない友人達だって、突然の訃報に心を痛めたはずだ。
 人の命は、けして自分一人のものではない。
 そのことに気がついたいまは、己一人の命で引きかえられるなら、と。単純にそう思い切ることは、もうできない ――
 だから、この鈴はあくまでお守りなのだ。
 神様を呼び出したり、願いを叶えたりするために使うものではけしてなく。
 持っていれば安心できる、不安や憂いを払ってくれる、ひとつの『装置』。ただそれだけであるべきなのだ。

 望めばかなえられるかもしれない、そんな立場にあるからこそ、いっそうに。
 願ってはならないものが、存在しているはずなのだから。

 握りしめた鈴を胸ポケットへとそっと収め、直人は友人達の元へ向かうべく、扉に足を向けた。

 ポケットの中で小さく鳴る鈴の音が、どこか寂しげなそれに聞こえたのは、あくまで直人の感傷に過ぎないのかもしれなかった ――


  ― 了 ―

(2007/08/26 16:07)
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