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 竜神祀りゅうじんさい  きつね2
 第五章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


「直人!?」
 あたりを埋めていた白光が消えると同時に、驚愕の声が直人を呼んだ。
 慌てたように駆け寄ってきた黒い人影が、縛られた両腕で半ばぶら下がるように立っていた身体を支えようとする。
「いったい、何があったのだ」
 言葉ではそう訊きながら、大きな手のひらが顔面を汚している血を拭った。
 そんな黒ずくめの男 ―― 次郎丸をよそに、もう一人の白ずくめ ―― 太郎丸は、直人の両腕を拘束している縄を、どこからともなく取り出した小刀で手早く切断してゆく。
 ようやく開放された両腕は、だらりと力なく落ちた。長時間固定され痺れきっていたそこに、大量の血液が流れ込んでゆくのを感じて、思わずうめき声が洩れる。
「大丈夫か、直人!」
 次郎丸の声がうろたえたものになった。状況が把握できないせいもあるのだろう。直人を支えたまま、助けを求めるように相棒を見やる。
「ほ、本物……?」
 幻などでは有り得ない、確固とした存在感を放つふたりの姿に、直人は半信半疑で呟いていた。
 それは確かに、助けを求めて呼び出したのは彼自身だ。その呼び出しが成功するだろうことも、けして疑ってなどいなかった。
 しかし、それでもだ。
 まさか実際に彼ら自身がこの場に現れようとは、思いもしていなかったのである。
 せいぜいがところ、声が届く程度だろう。そしてこちらの状況を説明して、なんとかして縄を切ってもらうことでもできたなら、それで御の字だ、と。
 ―― 実際、それでも充分、常識はずれな御利益ぶりなのだが。
 そんな直人の想像をはるかに上まわり、現実に姿を現した二人だったが、明らかにこちらの様子を確認しないままやってきていたのだろう。直人が傷だらけなことに気がついて、その雰囲気を緊迫したものに変えていた。
「とりあえず、座った方が良いでしょう。……次郎丸」
 太郎丸の言葉に、次郎丸はまず直人の方を見直す。そうして否やが出ないことを確認してから、慎重に姿勢を低くしていった。
 固い濡れた岩肌に直接下ろされて、それでも直人は深々と息をつく。
 全身どこもかしこも痛むのだが、それでも先程までよりは、はるかに楽な状態である。
 そっと気遣うように伸ばされた手が、次郎丸の肩に寄りかかる形に上体を誘導した。普段なら男の肩になど、と抵抗するだろうそれにも、逆らう気力は欠片も湧いてこない。
「すみません、なにか掛けてあげられれば良いんですが……」
 太郎丸が申し訳なさげに、そんなことを言ってきた。
 彼らはそれぞれ、季節はずれとも言える裾の長いコートをまとっている。太郎丸は純白の、次郎丸は漆黒の、しっとりとした手触りがする柔らかい材質のものだ。風にあおられ揺れているそれを、地面に敷くなり肩に掛けるなりすれば、ずいぶん人心地がつくことだろう。
 だが、彼らが身につけているものは、はた目に服と見えているだけで、実際は肉体の一部なのだった。
 金気ごんきを生み出す、白狐が太郎丸。水気すいきを制する、玄狐げんこが次郎丸。
 一見すると人間としか思えない彼らの本性は、歳ることで妖力を得、人間と契約することで神の位を得た、狐の化身なのである。
 つまり現在のその姿は、妖力によって人間の形を模しているのに過ぎなかった。当然、まとう服も然りであるが故に、それだけ脱ぐことはできない。
 代わりだというように、太郎丸の指先が直人の頬をそっと撫でた。
 力任せに殴られた頬は、熱を持って腫れあがっている。脈打つような痛みを訴えていたそこに、太郎丸の指が心地よい冷たさをもたらしてくれた。
 心なしか、痛みさえもが小さくなったような気がする。
「少しは楽になると良いんですが」
 一方力無く投げ出していた腕を、次郎丸が持ち上げた。手首にくっきりと縄目の跡がついているのを見て、直情的な黒狐はその眉を盛大にしかめる。
「まったく……」
 腹立たしげに吐き捨てると、手首へ顔を近づけた。
 湿った生温かい感触に、直人はぎょっと目をむいた。とっさになにが起きたのか判らず硬直する。
「な ―― ッ」
 言葉も出ない直人をよそに、次郎丸はその手首に舌を這わせ続けた。濡れた柔らかい舌が、擦れて血が滲んでいる傷を丹念に舐めてゆく。
 ぱくぱくと虚しく口を開閉する直人の前で、やがて次郎丸は顔を上げた。
「まだ痛むか?」
 大真面目な表情で問いかけてくる。
 ここで是と答えれば、さらに続けるだろうことは容易に予測できた。
 当然ながら、直人は男に舐められて喜ぶ趣味など、まったく欠片も持ちあわせていない。……いや、女が相手であれば良いという話でもないのだが。
 ともあれ激しくかぶりを振って、直人はまだ持ちあげられたままだった腕を強引に取りかえした。
「だ、大丈夫っ」
 守るように胸元へと引きよせ、ごしごしと表面をこする。
 ……そうして、本当にそれが痛まないことに気がついて、思わず視線を落とした。
 縄目の跡が、完全に消えてしまっている。
「…………」
 たとえ神と祀られる、強い妖力と重ねてきたよわいを兼ね備えた存在であろうとも、しょせん本性は四つ足。獣にとって傷は舐めて治すのが当たり前。
 そして、獣に違いはなくとも、それでも神様は神様というわけだ。
「え、えーと、その……あ、ありがとう」
 つっかえながらも礼を言うと、不機嫌そのものだった次郎丸の表情が、わずかに和らいだものになった。
「どれ、そっちも見せろ」
 心なしか嬉しげに手を伸ばしてくる。
「…………」
 しばしの沈黙の後、直人は無言でもう一方の腕を差しだした。
 確かにこの場で即座に治してもらえるのであれば、ありがたいには違いないのだ。多分きっとそうなのだ。
 疲れている直人は、なんだかもう思考するのが面倒になってきて、素直に手当てされながら深々とため息をついたのだった。


 ひととおりの治療がすむと、一人立ったままあたりをうかがっていた太郎丸が、直人を見下ろしてきた。
「いったい何があったのか、事情を聞かせてもらえますか」
 平坦で物静かなその口調は、次郎丸とは対照的に、感情の色をまるでうかがわせないものだ。直人に向けられる表情もまた、心動かされているようには見えない、冷たく整ったそれである。
 しかし……
 闇の中、鮮やかな黄金色に輝くその双眸は、瞳が縦に長い獣のものに変じていた。
 自然な仕草で身体の脇に垂らされた左手には、未だ鋭い刃物が握られたままだ。
 もしもいま、直人をここに運んだ人間達が現れたならば、果たしてどのような行動に出ることか。想像するだけで、なにやら怖ろしくなってくる。
「それが、その」
 どうも自分は、竜神への生け贄にされかけたらしい、と。
 夕方おかみから聞かされた伝説と、境内でさらわれ、この場に運ばれたいきさつとを説明する。
 語り終えた直人が口を閉ざすと、周囲の空気がざわりと動いた。
「そなたを、生け贄にだと?」
 地の底からわき上がってくるような声で、次郎丸が呟く。噛みしめられたその口元で、長く伸びた犬歯が音を立てた。
「…………」
 一方太郎丸は、無言で立ち尽くしている。表情は相変わらず冷たいままだったが、その全身から淡い白光が立ちのぼり始めていた。首の後ろで結ばれた波打つ長い金髪が、風に逆らう動きで揺らめいている。
 やがて、太郎丸はゆっくりと背後を振り返った。
 そちらには、激しく荒れ狂う海がある。
 つられるように目をやった直人は、鋭く息を吸い込んだ。
 そこには、海水の壁が存在していた。
 吹きすさぶ風と雨にあおられて、満ちつつある海の水は、とうに座り込んだ直人らの頭を越す高さに達していたのだ。
 明かりになるものといえば、二つの松明の炎と、あとは太郎丸が放っている白光のみ。分厚い雲に遮られ星ひとつ見えない闇夜の中で、わずかな光だけで見る嵐の海は、何か巨大な生き物が身もだえしている姿にも似て見えて。
 見ている間にも、海水の壁はさらに高さを増してゆく。今にも崩れ落ちてきそうなその様に、直人はとっさに腰を浮かせかけた。
 が ――
「あ、あれ……?」
 足ががくがくと震え、立ち上がることができなかった。膝へと両手をつき、なんとか立とうとするのだが、どうしても力が入ってくれない。
 バランスを崩しかけたところで、次郎丸が手を伸ばして支えてくれた。
「無理をするな」
 そのまま直人ごと、器用に立ち上がる。
「なん、で」
 先ほどまでとは違い、いまは心強い味方がそばにいてくれる。怪我も治してもらったことだし、あとはもう逃げるだけだというのに。
 言うことをきこうとしない身体を、困惑の目で見下ろす。
「……身体が、まいってしまっているんですよ」
 太郎丸が呟くように言った。海の方を向いたままの背中から、低い声だけが届けられる。
「傷は癒せても、それまで感じていた痛みは消せません。感じていた恐怖もね。張っていた気が緩めば、そうなるのは当然です」
 肩に回された次郎丸の手のひらが、数度軽く叩くような仕草をする。
「水のことなら心配するな。こちらにはこさせん」
 陰陽五行において、狐は土に属する獣とされる。そして土は水を塞き止め、その流れを制することができる ―― すなわち、土剋水どこくすい(土は水につ)の性質を持つ。そして水をあらわす『くろ』を体色に持つ玄狐げんこは、ことさらそのしょうが強いという。
 ゆえに黒狐は水難避けの神として祀られることが多いのだが ―― どうやらその力を、直人にも気付かせぬまま、ひそかにふるい続けていたらしい。
 粘性の高い液体のように、確かに流動し高く盛り上がりながら、しかし水はけして直人達の方へと流れ込んでくることはなかった。
 じょじょにその高さを増す海水の中は、松明の炎すらも届かぬ、深い闇だ。
 逆巻き泡立つその水中を、太郎丸はまっすぐに見すえている。

「 ―― 同じ立場にあるものとして」

 低く紡がれた言葉は、岩場にいる誰に向けられたものでもなかった。

「契約の存在は理解できます。守護の見返りとして、代償を求めるのもまた、当然のことわり。そちらの事情に介入するつもりはありません」

 低い、しかし吹きすさぶ嵐をよそに、不思議なほど良く通るその声には、どこか聞く者の背筋を粟立たせるような響きが含まれていた。
 畏敬 ―― あるいは畏怖か。
 思わず息を呑み、無意識のうちに身を引かずにいられない。そんな、声。

「ですが、それはあくまでこの地における約定。余所者の直人には関わりなきことです。そして、我らには我らの契約に基づき、信者を守る権利がある」

 荒れ狂う海の底には、どんな光も届くことはなく。まして激しくうねるその向うに、太郎丸の言葉を聞くものがいるとは到底思えなかった。
 それでも稲荷の白狐は、相手の姿が目に見えているかのように、淀みなく言葉を続ける。

「そもそも ―― もたらされる守護の見返りとして、己が財を差し出すを惜しみ、盗んだ命を捧げんとする。そんな侮りを貴方は許せるのですか」

 神と呼び、社を建て、その恩寵を乞いながら、投げてよこすは価値なき命。なにも自身の懐など痛めずとも良い。ただ盗品をくれてやりさえやれば、それで願いを叶えてもらえるだなどと、軽んじた目で見てくる輩を、信者だなどと認めてやれるのか、と。

 欲しいのは、ただ命それだけではないだろう。
 見返りとして求めたものは、けして水にふやけた肉の味などではないはずだ、と ――

 三百年の昔、嵐の海に身を投げた巫女姫。
 彼女はその時、はたして何を思っていたのか。
 逆巻く海水に呑まれるその瞬間、彼女はいったい何を望んでいたのか。

 それは、今となっては、誰にも判らないことだろう。
 けれど、
 その土地に対して咎もえにしもない、ただ通りすがりの人間が、後にこうして捧げられることを、その時の彼女は知っていただろうか。

「…………」

 やがて。
 暗い水の奥底で。
 一瞬、なにか巨大な影が、ゆらりと動いたような気がした。
 息を呑んだ直人の前で、なにかが ―― 一対の、青白く光るなにかが、かすかに揺らめいて消えたと見えたのは ―― はたして目の錯覚に過ぎなかったのか……

 太郎丸が、ゆっくりと振り返り、直人の方を見た。
 闇の中、松明の炎を受けて光る、異形の瞳。
 縦に長い瞳孔を持つ金色の目は、端正な面差しの中にはめ込まれていてなお、ひどく人間離れしたものを感じさせる。
 それは、人と異なる、異形の生き物。
 神にその名を連ねる、異形イナリの白狐。

 だが、一度瞬きしたそのときにはもう、同じ獣の目に宿る光は、温かく柔らかなそれに変じていた。

「さあ、行きましょうか」
 太郎丸は長いコートの裾を揺らしながら、直人の方へと歩みよってくる。
 かすかにひそめられたその眉根と、そっと肩に触れてくる指先は、先程までの凍りついたかのような冷徹さとは裏腹な、どこか不器用とも感じさせる気遣いに満ちていて。
「い、行くって、どこに?」
 あるいはどうやって、と問うべきか。
 直人の疑問に白狐の化身は、寂しげに笑った。
「どこへでも ―― と言いたいところですが。あいにく生身の人間をつれて跳べるほど、我々の力は強くありません。ですから、追っ手のかからぬ場所まで」
 そう言って、次郎丸を見やる。
 次郎丸はこくりとうなずくと、一度支えていた直人から身を離した。それからおもむろに腰をかがめると、直人の膝裏に腕をまわし、いっきに抱えあげる。
「う、うわっ!?」
 いきなりのことに、直人は思わず大声を上げてしまった。とっさに両腕を振りまわすが、さすがは人外の腕力というべきか。次郎丸は気にした様子もなく、あっさりいなして数度ゆすりあげる。
「あまり暴れると、落ちるぞ」
 首を傾げて忠告してくる表情には、なんの悪気も存在していない。うまく歩けないようだから運んでやろうと、純粋にそう思っているらしい。
 だからといっていい年をした成人男子が、同じ男にかかえあげられて、平気でいられるはずもないのだが。
「どうした、まだどこか痛むのか」
 直人の様子をどう曲解したのか、心配げな顔でそう問いかけてくる。
 その顔を見て、直人はしぶしぶ抵抗するのを諦めた。
 ……まあ、お姫様抱っこじゃないだけ、まだましか。
 内心で己にそう言い聞かせる。
 曲げた膝に腕を回し、そのまま上へ持ち上げたその体勢は、いわゆる縦抱きというやつだった。ほとんど幼児扱いだが、まあ女性扱いよりはましだろう。……多分。
 実際、歩けないのは本当なのだから、ありがたいと言えば非常にありがたいのだが。しかしせめておんぶぐらいにして欲しいと願うのは、そんなに贅沢なことなのだろうか。
 直人が静かになったのを見て、準備ができたと判断したのだろう。
 太郎丸がゆるく開いた手のひらを、胸の前に掲げた。その中に、握り拳ほどの青白い狐火が現れる。
 軽く手首を傾けると、狐火が宙を飛んだ。吹きすさぶ風など無きなきもののように、ふわりとした動きで宙空に留まる。さらにひとつ、もうひとつ。
「ゆくぞ」
 次郎丸が呟くと、水の壁がぐにゃりと歪み、岩場と同じ高さにまで下がってきた。そこへ次々と放たれる狐火が浮かび、嵐の海上へと二列に伸びてゆく。
 先に、狐火を放ちながら、太郎丸が足を踏み出した。続いて直人を抱えた次郎丸。
 二列の狐火に挟まれた空間には、なぜか雨も風もまるで吹き込んでこなかった。激しく波打つ海面も、そこだけが穏やかに動きを弱め、足元にわずかな空間をおいて宙を踏む一同に、しぶきひとつ跳ねあげようとしない。
 月も星も存在しない、夜の嵐のさなか。
 目に映るのはただ、長く伸びる狐火の列に、ぼんやりと浮かび上がる二人の姿だけで。
 ただ時おり、思い出したかのように、暗雲を裂いて稲妻が走る。紫の稲光は、ほんの一瞬あたりを照らしだしては消える。訪れる、なおいっそう濃くなったと思える闇の中、大気を揺るがせる雷鳴の轟き。
 思わず身を固くした直人を、次郎丸は安心させるように揺すり上げた。
「大丈夫だ。……怖ろしければ目を閉じておれ」
 そう言って、直人の頭を肩口へと伏せるようにさせる。
 促されるままに目を閉じれば、やってくるのはやはり濃く深い、どこまでも続く漆黒の闇だ。
 けれどそれは、何故か少しも怖ろしくなくて。
 吹きすさぶ風も、ぶつかり合う波の音も、大気を引き裂く雷鳴も。
 どこか遠く、はるか別世界のもののように感じられる。
 代わって耳に届くのは、歩を進めるたび、揺れるわずかな振動にあわせ、ちりん、ちりん、と音を立てる、かすかな鈴の音。
 その音は、疲れ切った直人の心を優しく包み込み、そうして蓄積された不安と憂いを、そっとぬぐい去ってくれるのだった。

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