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 竜神祀りゅうじんさい  きつね2
 第四章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 岩穴の出口は、海に面して大きく広がっていた。
 暗くてはっきりとは判らないが、海はひどく荒れているらしい。彼らがいる場所は両側に大きく岩が張り出しているおかげで、多少なりとも守られてはいたが、それでも打ち寄せる波と強い風の音とで、会話もままならないというような状態だ。
 ひときわ強い波が襲いかかり、冷たいしぶきが降りそそぐ。油断すれば、あっと言う間にさらわれひとたまりもないだろう。
 一同は直人を一度地面に下ろすと、岸壁を懐中電灯で照らし始めた。舐めるようなその動きからして、何かを探しているらしい。
「 ―― あったぞ」
 押し殺したささやきに応じて、いくつもの光が一ヶ所に集中する。照らし出されたのは、大きな鉄製の輪だった。漁港などで、船をもやうために使われているのを見たことがある。それが二つ、大人の頭よりわずかに高い岩肌に打ち込まれている。
 まさか……
 いやな想像に直人が身を震わせた瞬間、乱暴に引きずり起こされた。
 背中で後ろ手に縛られていた腕が、突然解放される。無理な姿勢にひどくしびれ、痛みを訴えていたのが途端に楽になった。が、安堵する暇もなく、数人がかりで両腕を捕まれ、鉄輪の方へと引きずられる。
「 ―― ぃ、嫌だ!」
 渾身の力で抗い、なんとか片手を取り戻した。滅茶苦茶にもがきながら、猿轡をむしり取り叫ぶ。
「離せッ、人殺し!!」
 ここで逃げなければ、命がない。文字通りの意味で。
 これだけの人数相手に、そう簡単に逃げ出せるはずもないと、そんな理屈など完全に頭から抜け落ちていた。人間、本当の危険に陥ったとき、冷静な判断などそうそうできるものではない。ただ逃げなければと、そんな恐怖に突き動かされて、直人は闇雲に腕を振りまわしていた。手にぶつかるものを無我夢中で押しのけ、なんとか逃げ道を見いだそうと足を動かす。
 どこか遠くで、ちっという舌打ちが聞こえたような気がした。次の瞬間、激しい衝撃が頭部を襲い、なにもかも判らなくなる。
 殴り倒されたのだ、と。そう悟ったのは、地面に伸びた身体を無造作に引きずられ始めてからだった。耳の奥で、キンという音が鳴っている。ざりざりと、固い岩肌が頬にこすれた。無理矢理立ち上がらされて、腕が高く持ち上げられる。
 どうにか顔を上げられるようになった時には、両手とも鉄の輪に縄で縛りつけられていた。手首と肩に体重がかかり、激しい痛みを訴えてくる。
 顔の下半分に、ぬるぬるとした感触がある。殴られた弾みに鼻血が出たのかもしれない。鉄臭い味に吐き気をもよおす。
「暴れるなっつったろう」
 聞き覚えのある声がして、例の漁師が真顔でのぞき込んできた。そこにこれまで見せていた、人好きのする表情は存在していない。感情の抜け落ちた、ぞっとするほどの無表情が、直人を見つめている。
「な、で……こん……な……」
 舌が喉に貼り付いたようになって、うまく動かすことができなかった。
「竜神様との、約束でな」
 低い声は、波と風の中でも不思議にはっきりと聞こえる。
「この町を守って下さる代わりに、年に一人、人間を捧げんといかんのだよ」
 周囲をとり囲んだ一同が、いっせいにうなずいた。無表情のまま、はかったかのように同時になされた動きは、いっそ作り物めいた不気味さをはらんでいて。
「ここ何年かは、巫女舞を呼び物に観光客を集められたおかげで、選ぶのに不自由はせんかったんだが……今年は天候が悪いせいか、めっきり客足が遠のいててな。どうするべえかと、頭抱えとったんだわ」
 ほんとに、あんたは良いところに来てくれた、と。
 ふたたび一同の頭が上下する。
 つまり、この男ははじめからそのつもりで、困っていた直人に声をかけ、親切顔で民宿まで紹介してくれたというわけである。
「それ、じゃ……まさか……」
 直人が祭りの夜、すなわち今晩もこの町に滞在していたのは、日が暮れるまで一日中眠りこけてしまったせいだった。目が覚めたときにはもう、出立するのには遅すぎたから、予定を延ばしてもう一泊することにしたのだ。だが、直人を生け贄に使うべく、最初から標的に定めていたというならば。
「ええ。夕食のお膳にね、ちょっと混ぜさせてもらいました。あとからじわじわと効いてくるのをね」
 民宿のおかみが、横からあっさりとそう告げた。
 眠りすぎたのも、起きたあと頭痛が続いていたのも、れっきとした原因が存在したのであると。
「携帯、も」
 夕方目を覚ましたとき、オフにした覚えのない携帯の電源が切れていたのも、彼女の仕業だったのか。いかに薬を盛っていたのだとしても、家族あたりから電話がかかってきたりすれば、目を覚ましてしまいかねないからと。
 ……そう。そうだ、家族だ。
 直人の胸ににわずかな希望が灯る。
「俺が、いなく、なったら……きっと、家族が探す。どこに泊まってるのか、民宿の場所も、名前も、ちゃんと連絡が」
 予定外に泊まることになった段階で、家には連絡を入れてある。さすがに今日はばつが悪かったので、まだ交通が回復していない、もう一泊するとメールしただけですませたが、それでもその後連絡が途絶えれば、絶対なんらかの捜索がなされるはずだ。
 勢い込んだ直人に、しかしおかみは、焦った様子もなくかぶりを振ってみせた。
「店の名前も、住所も、最寄りの駅名も、全部でたらめだもの」
「え……」
「当たり前じゃないの」
 はじめから殺すことを前提にしているのに、どうしてわざわざ今いる場所を家族に教えさせるものか。
 それは確かにその通りだろう。だが……だが、しかしだ!
 ここにおいて直人は、それまでとはまた違った恐怖に、心を凍らせていた。
 あの、笑顔が。
 家に連絡を入れたいからと、住所や宿の名を尋ねたときの、愛想の良い対応。あるいは、泊まる場所を探していると告げたとき、ベンさんが見せた気さくな表情。
 あれらが、すべてまがい物であったのだという、その事実が。
 まるで日常当たり前に接している、疑いようもないことどもが、根底から崩れ消え去ってしまうかのような、そんな、底知れぬ恐怖が ――
「ああ、携帯電話。忘れるとこだった」
 おかみが手を伸ばし、直人のポケットを探った。すぐに手のひらにすっぽりと収まる、小さな機械が取り出される。
 ぱちりと開いたそれを、彼女は隣に立つ男へと手わたした。光る液晶画面に一度目を落としてから、男は無造作に本体をへし折る。そうして光を失った残骸を、足元へと落とすように捨てた。破片と根付けが岩にぶつかり、かすかな音をたてて転がる。
「……今日は大潮だ。夜半にはここも完全に水没するだろう。竜神様はいつも指一本お残しになられんから、なにも心配はいらん」
 重々しく告げたのは、ひときわ年を重ねたらしい、半白髪の男だった。白い単衣に浅葱色の袴というその出で立ちからして、社の神主あたりかもしれない。
 ―― それはあんたらの心配であって、俺が気にすることではないだろうが。
 見返す目に険が混じるのを感じたが、もはや隠す気は起きなかった。隠したところで、どうにもならないとも言えたのだが。
 口を閉ざした直人を一瞥すると、男はきびすを返した。後に続くように、他の者達も次々と背中を向け、やってきた岩穴へと潜り込んでゆく。
 二人ほどが近づいてきて、直人の両脇になにか長いものを差し込んだ。岩のくぼみと、取りつけられていた金具とで安定したそれのそばで、ライターを鳴らす。風が吹くなか幾度か失敗して、ようやく火がついた。
 松明だ。
 二つの明かりだけを残して、最後の男達も岩穴に消えてゆく。
 最後に一度、ちらりと一人が振り返った。
 わずかにいぶかしげなその表情は、どうやら直人がわめき立てないのを、不審に思っているらしい。

「…………」

 波風吹きすさぶ岩場に取り残されて、直人はしばらく立ち尽くしていた。
 いまだ、状況が飲み込めなかったのだと言っても良い。
 言われていたことは理解できたし、それが現在まったくあり得ないことではないのも承知している。
 二度も殴り倒され、縛られ、一服盛られ。今さらこれは夢ではないのかなどと、のんきな感想を漏らすつもりもない。得体の知れない男達に囲まれて、本気で何をされるか判らないと恐怖に震えたし、事実、現在進行形で殺されかけている。
 それでも ―― 信じられない。
 いや、信じたくないと言う方が、まだ近いだろうか。
 こんな、たまたま居合わせたというそれだけの理由で、人は見知らぬ他人を犠牲にできるものなのか、と。
 高い位置で縛られた腕は痛くてたまらないし、殴られた頭と顔は鼓動にあわせて脈打つような熱と痛みを訴えてくる。腕さえ拘束されていなければ、この場にしゃがみ込んで泣きわめきたい。

「いったい、なんだって、こんな目に」

 身勝手な人々に対する怒りよりも、そんな困惑ばかりが口をついた。
 ことがここに至るまで、おそらくいくつもの分岐点が存在したはずだ。
 ゼミ旅行と帰省とを一緒くたにしなければ。
 小金を惜しんで各駅停車を選ばずに、ちゃんと特急に乗り込んでいれば。
 疲れを理由に一泊しようなどと考えず、素直に代替えのバスに乗ってさえいれば。
 数え始めれば、まったくきりがない。
 けれど、それでも。
 どれひとつ取ってみたところで、いまここで殺されそうになっている理由にふさわしいほど、間違った選択をしたとは、どうしても思えないのだ。

「くそ……ッ」

 目尻に熱が生じるのは、悲しいからなのか、悔しいからなのか。
 こんなことは間違っていると、そう思うのに。それなのに、『神様』に対する約束事なのだと知ってしまえば、声高に否定することもできない。そんなどっちつかずの自分が情けないのか。
 ひときわ強い風が吹きつける。
 松明の炎があおられ、激しい火の粉をあたりにまき散らした。ついで、ざぶりと波が岩場に打ち寄せる。これまでのどれよりも大きな波は、高くしぶきを跳ね上げた。塩辛い飛沫が、けして無視できない勢いで降りそそいでくる。
 冷たい水を浴びせられて、直人は我に返っていた。
 いまは、そんなことを悠長に考えていられる事態ではない。憤ることも、どうしてと煩悶することも、生きていればこそできるものだ。逆に言えば、死んでしまうのなら、何をどう考えたところで意味などありはしない。
 とにかくいまは、どうにかして助かる道を選ばなければ。
 そう思い至って、直人は改めてあたりを見まわした。
 おそらくここは、神社が建てられていた岬の、突端だろう。直人が泊まっていた民宿の、後ろにそびえていたあの岬だ。神社内の隠し戸から、ほぼまっすぐ下ってきたのだから、そうずれてはいないはずだ。
 揺れる松明の炎に、濡れた岩肌がてらてらと光る。
 岩穴の出口が大きく広がり、外海に向かって突き出した二つの岩肌へと続いている。直人が縛り付けられているのは、そのうちの一方だった。この場所は二つの岩肌に挟まれた、いわば岩穴の続きのような形になっていて、それで激しい波風もこの程度ですんでいるらしい。暗くてよく見えないが、頭上の方にも、岩や崖に生えた木などがおおい被さっているようで、雨がさほど吹き込まずにいてくれる。
 とはいうものの ―― あの男達の言葉を信じるならば、間もなく潮が満ちてきて、ここも水没してしまうらしい。確かに心なしか、身体にかかる波しぶきが増えてきたように思える。
 本気で、洒落になっていない。
 今宵何度目になるかもしれぬ、腹の底が冷たくなるような感覚をおぼえ、直人は懸命に足を伸ばした。幸い、鉄輪にくくりつけられる際に、両足の戒めは解かれていた。その自由になった片足で体重を支え、もう片足を伸ばせるだけ伸ばす。
「……ッ、もう、ちょっと……」
 靴の爪先が、ざりざりと岩肌を引っ掻いた。手首に、縄目が食い込んで痛みを訴える。
「う ―― っ」
 涙目になりながら探っていた足先に、ようやく携帯の残骸が触れた。へし折られ、完全に機能を失ってしまったそれを、蹴り飛ばしてしまわぬよう、注意に注意を重ねて引き寄せる。
 途中幾度も踏みつけ、岩に引きずった結果、ただでさえ壊れていた携帯電話は、見る影もなくバラバラになってしまった。もはやジャンクパーツとしても使えないだろう状態だ。
 だが直人が欲しかったのは、電話本体ではなく、それにつけられた根付の方だった。
 小さな金色の鈴は、手荒な扱いにも関わらず、傷ひとつついていないように見えた。漆黒の組み紐に編み込まれた、小指の先ほどの一対の鈴。それは赤い炎を浴びて、場違いなほど美しくきらめいていて。

 ―― 肌身離さず、持っておれよ。

 耳の奥に蘇るのは、これを渡されたときに告げられた、自信ありげな言葉。

 ―― その、守り鈴さえあれば……

 きっぱりと告げられた約束と、その時の笑顔。

 それらはけして、背後に言葉と裏腹なものを隠した、まがい物のそれではありえなくて。

 ―― 何かあったら、我らを呼ぶが良い。その守り鈴さえあれば、それをしるべに何処へでも力を及ぼせようほどに。

 偽りを知らず、約束をたがえることを許さず、名をもって交わした契約を、なによりも重んじる彼ら。
 人知の及ばぬ力をその身に備え、人の祈りを糧に、人を守護し、そしてときに人をいさめる、圧倒的な存在。
 黒白二匹の、稲荷の御使い。
 神の称号を持ち、社に身と名を祀られた……

「 ―― 太郎丸ッ、次郎丸!」

 守り鈴を見つめながらその名を叫び、さらに心の内で、彼だけに伝えられた、二人の『真名』を呼ぶ。
 彼らは確かに、お守りだと言ってこれをくれたのだ。
 なにかあれば呼べと言って、人ならぬ身には命にも等しいという、真の名を教えてくれたのだ。
 直人が通う大学のすぐ近くにあった、寂れ果てた小さなお社。
 既に訪れる人もなく、縁起すら忘れ去られてしまったそこを、直人が知ったのはほんの偶然からにすぎなかった。そしてあまりにも荒れていたその様を放置できず、わずかばかりの手入れをしていたのも、過去の経験からくる、心ばかりの礼儀に他ならなかったのだけれど。
 けれど、それをきっかけに直人は、その稲荷社の成り立ちから関わる事件に巻き込まれ ―― 気がついてみれば、改めて再建される社の御祭神達に、ひとかたならぬ守護というか、御利益というか、そういったものを受ける結果となっていて。
 そんな彼らが渡してくれた、守り鈴だ。
 そんな彼らが教えてくれた、名前だ。
 ならば、きっと、御利益があるはずなのだ。

「 ―――― 」

 祈りにも似た……否、文字通りの『祈り』をこめて、ひたすらに鈴を見つめ続ける。
 やがて、ちり、とかすかに鈴が鳴った。
 吹き込んでくる風にあおられた、そのせいかとも思われた響きは、しかし幾度もくり返し続き ―― 次第にその音を高くし始める。

 りん りん りりりりり

 細かく振動しながら鳴り続ける鈴は、やがてその内側からにじみ出すように、淡い光を放ち始める。
 松明の炎がもたらす橙色を押しのけて、混じりけのない、柔らかな白光が鈴を中心に広がってゆく。
 その輝きを、色合いを、直人は確かに知っていた。
 見守る胸の内に、喜びと安堵とが満ちてゆく。
 光は見る間に広がり、いまや直人の全身を包み込まんばかりになっていた。
 視界が、白一色に染まる。

「太郎丸、次郎丸……」

 あふれる光の中に、二つの人影を認めて、直人は呟くようにそう口にしていた。
 今度のそれは、助けを求めるための必死の叫びなどではなく。
 穏やかに紡がれたその呼びかけに、二つの人影が光の向こうで親しげな笑みを浮かべた ――

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