気を失っていたのは、そう長い時間ではないようだった。
さほど遠くない場所から、人の話し声のようなものが聞こえてきて、直人はゆっくりと目を開いた。しばらく目に映っているものが何なのかを認識することができず、ぼんやりと視線をさまよわせる。
ややあってから、ようやく自分がどこか暗い場所に横たえられているのだと悟った。
身体の下にあるのは、固い感触。板張りの、むき出しの床だろうか。あたりは暗く、ほとんど様子が判らなかったが、どうやらひどく狭い場所に押し込められているようだ。
顔のすぐそばに、板戸の隙間があり、そこから光が射し込んできている。
身体を起こしてその隙間を広げようとし ―― 動けないことに気がついた。
「 ―― ッ?」
両腕が、太い縄で後ろ手に縛られていた。暗くて見えないが、どうやら足の方も拘束されているらしい。おまけにご丁寧にも猿ぐつわが噛まされていて、声すら満足にたてられない状態だ。
いったいこれは、どういう状況なのか。
混乱した直人は、反射的にもがいていた。動いた身体の一部が壁に当たり、がたんと音を立てる。
思わず息を呑んで、耳をすませた。
何故かは判らないが、自分をこんな目に遭わせた人物が存在していて、そしていま扉ひとつ向こうから話し声が聞こえてきている。ならばその向こう側にいる人物こそが、直人をこうして捕らえた張本人なのだと、そう考えるのが自然ではないだろうか。
とっさにそう思って神経を集中させた耳に届いたのは、しかしまったく予想外の声だった。
「 ―― え、なに? うん、また風が強くなってきたから、外でなにか倒れたんじゃないかな。うん、そう。雨? やだ、また雨降ってきたの?」
かなり若い女性の、一方的なしゃべり。
おそらくは直人よりもまだ若い、高校生か、下手をすると中学生かもしれない。そんな女の子の声だ。どうやら電話に向かって話しているらしく、しばらく言葉少なな相槌が続く。
「そりゃあ、あんた達は良いわよね! お祭り来て、屋台のぞいて遊んでるだけだもん。楽しいでしょうよ。こっちはさあ、びらびらしたの着せられて、厚化粧されて、大変だったんだから。暑いのよ? あの衣装!」
少しぐらいなら、物音をたてても大丈夫そうだと判断して、直人は不自由な身体を懸命にずらした。肘を床につき、上体を支えて戸板の隙間へと片目を当てる。
戸の向こうは、狭い板張りの小部屋だった。段ボールや木箱といった雑多なものが、そこここに乱雑に積み重ねられている。残されたわずかなスペースに鏡台が置かれており、その前に一人の少女が腰を下ろしていた。
長い髪を後頭部でポニーテールに結び、Tシャツにジーンズという軽装で携帯電話へと話しかけている。傍らにある衣桁には、白と赤の着物が、無造作にひっかけられていた。
「……まあ確かにさ、お祭りで巫女やりましたーって言ったら、学校の受けも良いだろうし、男の子達の評判もあがるだろうけどさあ。うん、来年はゴメンだね。練習だけでも、マジ洒落になんないっての」
パタパタと手のひらであおぎながらそう話しているのは、ほんのついさっき、見事な舞で直人を魅了した、あの巫女姫本人のようだった。
その整った横顔には、先ほど見た面影が確かに存在している。
しかし ――
話されているその会話の内容に、直人は衝撃を受けていた。
これが、あの見事な奉納舞を見せた巫女の、話す言葉だろうかと。
「ああ、うん ―― 着替えももう終わったから、あたしも合流するよ。ミホん家ね。え、おやつ? 判った、なんか買ってく。じゃぁ後でね」
かすかな電子音と共に通話が切られる。
そうして少女は、勢いをつけて鏡台の前から立ちあがった。横に置いていたのだろう、小さなポーチを手に、戸口へと向かう。
呆然としていた直人は、とっさにそれを止めることもできず、少女が部屋を出ていくのをただ見送ることしかできなかった。がたりと音を立てて板戸が閉じられ、直人は一人その場に取り残される。
確かに、と。
思考の一部が冷静に形作る。
今どき、祭りの巫女役など、持ちまわりで適当に割り振られていてもおかしくはない。あるいは『村一番の見目良い娘』などといった条件で選出される場合も多いだろう。そういった基準で選び出された巫女姫が、必ずしも信仰心あつい存在だとは限らない。むしろ祭りイコール楽しく遊べる行事、といった認識がほとんどだろう昨今では、面倒な仕事が押しつけられたと、そう感じられるのも当然かもしれない。
それぐらいは、直人だって百も承知していた。いやどちらかといえば直人だとて、そう言った感覚の方がなじみ深いといえるだろう。たまたまこれまでの経験から、多少は神仏に対する敬虔な気持ちを持ち合わせてこそいるが、それでもやはり直人にとっても、祭りとはあくまで『お祭り』にすぎないのだ。
それなのに、自分は何故こんなにも衝撃を受けているのだろう。
そう己に問いかける。
『いまどきの、若い方には ―― 』
耳の奥によみがえるのは、祭りの縁起を語ってくれたおかみさんの、苦いものを含んだ口調。
そう、あれがあったからこそ、直人はこの『海神祭』に対して、常以上の思い入れをしてしまったのではなかったか。
この祭りは、確かな信仰心に裏づけられた、文字通りの『祀り』であるのだと。
竜神を讃え、畏れ、その恵みを
希う、紛れもなき祭祀であるのだと ――
突然、板戸が音を立てた。
乱暴に引き開けられた戸の透き間から、まばゆい明かりが流れ込んでくる。
「 ―― ッ!?」
己の思考に沈み込んでいた直人は、人が近付いていたことに、まったく気づいていなかった。まぶしさに目を細めながら、かがみ込んでくる人影を見上げる。
「……なんや、もう気ィついとったんか」
意外そうにそう口にしたのは、見覚えのある初老の男だった。
よく陽に焼けた人好きのする顔立ちに、作業着姿 ―― 昨日直人を民宿まで案内してくれた、漁師のベンさんだ。
「眠ったままの方が良かったでしょうに。ちょっこ、加減しすぎなったんじゃないですか?」
その肩越しにのぞき込んできたのは、ほかでもない、民宿のおかみである。
いったいこれは、どういう状況なのか。
口を塞がれていなければ、直人は声を大にして問いかけていただろう。実際、二言三言発そうとしたのだが、猿轡に邪魔をされて、くぐもった呻きにしかなりはしなかった。
せめてもの意志表示にと、にらむように見上げる直人を、二人は哀れむような眼差しで見下ろしてくる。
「やあ、すまんねえ、
兄ちゃん。これも町のため、竜神様のためなんだわ。あきらめてや」
「……ッ」
だからいったい、どういうことなのか。
うなり声を上げてもがく直人を、男は小部屋へと引きずり出した。
どうやら直人が閉じこめられていたのは、納戸かなにかだったらしい。暴れたはずみに振り返れば、室内にあるのと同じような木箱や段ボールの収められているのが目に入る。それらを取り出した隙間に、放り込まれていたらしい。
「じゃあ、そっち頼むよ」
男が直人の肩を支え、おかみが足の方へとまわった。とっさに振り回した両足が、積んであった木箱を蹴り崩す。
きゃっ、と悲鳴をあげて、おかみが身をひいた。途端に、肩を掴む指が力を増す。
「……大人しくしてねえと、また気絶させるぜ」
低いその声音に、ぞっと背筋が冷たくなる。
これは冗談でもなんでもない。紛れもない本気の行為なのだと、思い知らされたのだ。
逆らえば、なにをされるか判らない。突きつけられたその恐怖に、全身が固くこわばる。
動きを止めた直人に満足したのか、二人は改めて直人の身体を持ち上げた。半ば床に引きずるようにして、小部屋から外へと運び出す。
暗い木造の廊下を運ばれながら、直人は懸命にあたりへと視線を投げかけた。
誰か助けてくれる人間が現れないかという淡い期待と、ここがどこなのかという手がかりを求めて、せわしなく首を巡らせる。
薄暗い、そこここに闇のわだかまるような古い廊下。耳をすませば、激しい雨の音がしていることに気付く。風もかなり強くなっているようで、時おり物の倒れるような音が聞こえてきた。どうやらいったん収まっていた風雨が、再びぶり返したらしい。
二度ほど角を曲がると、人影が現れた。期待に目を輝かせたのもつかの間。その人物は、ああと親しげに声をかけてくる。
「遅かったじゃないか」
「いやなに、ちょっと暴れたもんでな」
「なんだ、起きてたのか」
昼寝から覚めていたのか、と言うのとまるで変わらない、ごく軽い口調。
直人を運んでいる漁師と変わらない年頃のその男は、両手が塞がっている二人に代わり、行く手の板戸を開いてやった。それから二人に手を貸し、直人を室内へと運び込む。
「おお、お疲れさん」
「ひとまず、宵宮が無事にすんで、まずは何より」
障子の向こうには、十名前後の人々が待ちかねたように集まっていた。輪をえがくように車座になって板敷きに座り、仕出しの肴を囲んで、酒など酌み交わしている。みなそこそこ年を重ねた、年輩の男女ばかりだ。どう見ても、祭りの終了を祝って呑んでいる、世話役達といったところだ。
―― が、彼らは縛り上げられている直人を目にしても、まるで驚くでなく、むしろどこか品定めするかのような視線すら投げかけてきた。
「ほう、これが今年の……?」
「またずいぶんと若い。 ―― も、お喜びなさるだろうて」
「今年は急な雨で、余所からの客がすっかりなくなって。どうなることかと心配したが」
「いや、ベンさんも良いのを見つけてきてくれた」
ひそひそぼそぼそと、そんなささやきが交わされる。
嫌な予感 ―― などというものを感じるには、すでに遅すぎるほどのひどい目に遭わされているのだが ―― に、直人は懸命に身を小さくしようとした。無論、そんな真似などしてみても、この場から消えてなくなることができようはずもない。
「さて。それじゃあ、さっさと済ませてしまうかね」
一人がそんなふうに促すと、一同は杯を置いてどやどやと立ち上がった。そうして壁の一方をむいて、口を閉ざす。
つられるようにそちらに目をやった直人は、見覚えのある鉾を目にして、息を呑み込んだ。
そちらには、一段高い場所に祭壇がしつらえられていた。純白の一枚布がかけられた上に台座を置き、金色の鉾が横たえられている。裸電球の光を浴びて、それでも美しく輝く幅広の穂先。刀身の根本をぐるりと取り囲むように、大ぶりの鈴が幾重にも吊り下げられている。
夕刻、あの巫女が舞に使用していた宝鈴だ。どうやら神宝 ―― あるいは御神体として祀られているらしい。ならばここは、あの神社の中なのか。
一同は黄金の鉾を前にこうべを垂れると、柏手を打った。そうしてもう一度深くこうべを垂れると、祭壇にかけてある白布へと手を伸ばす。
大きくめくり上げられた布の下、床板を切り込むように隠し扉が存在していた。表面に手がかりになる取っ手の類はついていなかったが、男の一人が曲がった棒を差し込むと、簡単に持ち上がる。
「よし。誰か明かりを」
数名が懐中電灯を手に、暗い穴の中へと降りていった。
それから直人の番だ。先ほどまでと同じように、頭と足をそれぞれに持ち上げられて、穴の方へと運ばれてゆく。
「落っことされたくなかったら、暴れるんじゃねえぞ」
耳元でささやかれた言葉には、それでも構わないという意思がにじんでいるように聞こえた。もちろんのこと、それを確認してみようなどという気は起こらない。
できるだけ相手を刺激せぬよう、身動きを最小限にするべく努力する直人を、男達は無造作とも言える手つきで穴の中へと押し込んだのだった。
* * *
床に開けられた穴をくぐると、暗い石段が地の底へと続いていた。
明かりひとつ存在しないそこを、前に立つ者が照らす懐中電灯の光を頼りに降りてゆく。
不安定に揺れる灯りが見せるのは、不規則な表面を持つ湿った岩肌だった。黒っぽい表面がにじみ出す水滴で濡れ、不気味に光っている。おそらく自然にできたか、それに手を加えた程度の穴なのだろう。天井はかなり低く、みな背中を丸めるような姿勢になっている。
ひんやりとした空気が充満しており、時おりぽつりと雫の垂れる音も聞こえてきた。
「…………」
穴に入ってからは、誰ひとりとして口をきこうとはしない。重い沈黙があたりを支配している。
足元も濡れているのだろう。進む足取りはひどくゆっくりしたものだった。一歩一歩足場を確かめるように降りてゆくなか、直人の頭を支えていた男がずるりと足を滑らせる。
危うく岩に叩きつけられそうになって、直人は声にならない悲鳴を漏らした。猿轡に遮られ形にならなかったそれとは別に、人々が口々にとがめの言葉を投げつける。
「おい、気をつけろ」
低く押し殺した、どこか周囲をはばかるかのような口調。
ほんのつい先刻、社の中にいた時までの、場違いなほど落ち着いた態度とは裏腹な、ひどく真剣な……なにかを怖れているようにすら感じさせる、その声音。
人ひとりを不法に拘束し、何かは判らないがよからぬ目的に使おうとしているのだ。後ろめたく感じるのは、人として当然のことだろう。だが、先ほどまでの彼らには、そういった引け目のようなものはまるで感じられなかった。直人に向けられていたのは、罪悪感などではなく、あくまで品物を検分するかのような事務的な目だった。すまない、と口にした『ベンさん』でさえ、そこに込められていたのは形骸的なものと、わずかばかりの哀れみに過ぎなかったのだ。
それが、この岩穴を進んでゆくにつれ、彼らの間に言葉にならない緊張が高まっていくように思われた。
直人もまた、先の判らない恐怖に、心臓の鼓動が早まってゆくのを感じる。
いったい、彼らは何をしようとしているのか。
……正直を言えば、なんとなくの予想はつき始めていた。
祀り。竜神の伝説。三百年前、岬から身を投げたという巫女姫。
現在もなお、意味をもって伝えられる祭祀はあるのだと。この世に不思議は、確かに実在しているのだと。身をもってそう断言できる直人だからこそ、見えてくるものはあったのだ。
しかし、信じたくないと言う気持ちの方がはるかに大きかった。
あるいはそれは、降りかかる恐怖から目をそらそうとする、現実逃避の意味合いが大きかったかもしれない。
―― まさか、そんな時代錯誤の行為を。
―― まさか、通りすがりの自分を捕まえて。
そう否定する端から、しかし現在の状況が否定の言葉をさらに打ち消してゆく。
時代錯誤の行為なら、自分だって、友人達だって、これまでずいぶんとしてきたではないか。
通りすがりの自分。この土地にはなんの関わりもない第三者。だからこそ、自分が選ばれたのではないのか?
胸の中、心臓が激しい鼓動で打ちつける。
かちかちと、猿轡の奥で歯が固い音を立てている。
止めようのないそれを、情けないと自嘲することすらできなかった。
行く手の方向から、潮の香りを含んだ風が激しく吹きつけてくる。
―― 岩穴の終点が、ぽっかりと丸く切り取られたように大きく口を開けていた。
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