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 竜神祀りゅうじんさい  きつね2
 第一章
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 ああ失敗した、と。
 直人はもはや何度目になるかもしれぬ愚痴を、ため息とともに思い浮かべていた。
 あからさまに口に出すことは、それでも周囲の目をはばかって控えたが、心の内では幾度でもくり返さずにいられない。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
 頭を下げる駅員から、払い戻し分の金額を受け取って、狭い構内をぐるりと見わたす。
 むっとするような湿気の多い暑さに、息苦しさを感じた。思わず襟元に手をやり、とにかくまずは外に出ようと、肩にかけているボストンバッグを揺すりあげる。
 そうして彼は小さな駅の窓口を離れ、重い足を踏み出した。しとしとと小雨の落ちてくる空を見上げ、再度重いため息を落とす。
 背中にしてきた待合室には、彼と同じように憂鬱な顔をした人々が数名、思い思いに腰を下ろしていた。大きな荷物を抱えている人もいれば、学校帰りなのか、制服姿に学生鞄の中高生もいる。何名かは携帯や、構内にある公衆電話で、どこへかと連絡を入れているようだ。
 彼らはみな、直人と同じ電車に乗り合わせた同乗者達であった。そして縁もゆかりもない、見ず知らずの者同士がほとんどだったが、いまこの瞬間ばかりは一致団結して同じ事を考えていると思われた。
 すなわち、失敗した、と。
 あるいは ―― なんでこんな目に、と。
 今さら口にしてもしかたがないことだとはいえ、それでも思わずにはいられないのだろう。直人自身がそうであるのと同じように。
「ケチって鈍行なんか選ばなきゃ良かった……」
 今度は実際に呟きを落として、かぶりを振る。
 わずかな金を惜しんで各駅停車に乗ることを選んでしまったがために、彼はいま現在この状況にあるのである。


 大学三年の夏休み。
 彼 ―― 河原直人かわはらなおとは、ゼミの友人達と二泊三日ほどの旅行へ出かけていた。蒸し暑い夏の下宿を脱出し、ついでに学生時代最後の遊べる休み ―― おそらく来年の今ごろはそれどころではないはずだ ―― を満喫しようというわけで。この計画に賛同したメンバーはなかなかに数多く、山間の民家を借りての半自炊生活は、なかなかの盛り上がりの内にその幕を閉じた。
 でもって。本来であればそのまままた、大学近くの下宿へ戻るところであったのだが、たまたま今回の旅行先は、直人の実家があるのと同じ方向に位置していた。もっとも距離的には半分にも達していなかったが、それでも同じ方向は同じ方向である。どうせ休み中に一度は帰省しようと思っていたのだし、それならばいったん大学まで戻るよりも、そのまま地元へと向かった方が、金銭的にも時間的にもお得だろう、と。
 同じように考えた人間は他にもいたようで、直人の他にも数名が、仲間達に別れを告げ、そのまま各自の地元へと散っていった。
 そして直人もまた、旅行で使った荷物を抱えたまま、一人電車を乗り継ぐことと相成ったわけなのだが ――
 が、だ。
 確かにこの数日、微妙にぐずついた天気ではあった。ことに彼らが泊まっていたあたりと山ふたつ挟んだ海沿いのこの近辺では、かなりの長雨が続いていたらしい。
 しかし、だからといって、よりにもよって。
 自分が乗っていた電車が通る路線で、いまこのタイミングで、崖崩れなんて起きなくても良いのではなかろうか。
 いったいどんな確率かと、声を大にして問いかけたくなる。
 ……まあ実際の所は、崖崩れとはいってもちょっとした土砂が線路に被さったぐらいであるらしい。だがそれは、もっと大規模に崩れてくる怖れを多分にはらんだ状態とも言えるわけで。
 そういった次第で急遽運行中止となった列車は、そのまま最寄りの駅で停止させられてしまったのだった。そしてくわしい様子が確認されるまでの間、一時間以上も車中で缶詰にされていたあげく、結局今日中に運行を再開するのは無理だということで、全乗客が降車せざるを得なくなったのである。
 なまじ、交通費を浮かそうと見送った三十分前の特急が、こちらは無事通っていったことを知ってしまっては、それは後悔のひとつもしようというものだった。
 まあそれでも一応のところ、代替通行手段として鉄道会社がバスを手配しており、安全が確認されている駅まで輸送してくれることにはなっている。
 が、その肝心のバスがまた、なかなか到着しなかったりするのだから始末が悪い。
 もともと、地元の人間しか使わないのではないかという、私鉄の小さな駅だ。バスがやってくるのにも、海沿いの九十九折りの道を通ってくるそうで、悪天候の影響を受けることに関しては、電車とそう条件は変わるまいと思われる。
 もともと旅行あけで疲れの溜まっている直人は、このままいつ来るか判らないバスを待ち、さらにそれに揺られていくことを想像しただけで、うんざりとなった。どのみちこの足止めでかなり予定がずれ込んでいる。もう少し先で乗り換える予定だった寝台列車にはもはや間に合いそうにないから、輸送してもらえたところで、どのみちどこかで一夜を明かさねばならないことに変わりはない。
 ならばいっそここでゆっくり休んで疲れをとり、明日になってから列車なりバスなり、回復した交通機関を使う方が良いのではないか、と。
 そう結論した直人は、駅員に言って切符の払い戻しを受け、駅を出ることにしたのだが ――


 車が方向を変えられるよう、それなりの広さを確保されてこそいたものの、駅前には見事なまでになにもなかった。
 普通はもう少しビジネスホテルとか、土産物屋とか客待ちのタクシーとか、そういったものが見られると思うのだが……それどころか、通りがかる人の姿さえ、ろくに見受けられない閑散ぶりだ。
 そこここに、いろどり鮮やかなのぼりやポスターの飾られているのが、逆にわびしさを強調しているようにすら思える。
「海神、祭……?」
 手近なポスターを眺めてみれば、どうやら地元の祭りがあるらしかった。日付は明晩になっている。わざわざこんなふうに飾り立てているところを見ると、それなりに力の入った催しのようだが ―― しかし天候がこんな具合では、中止かあるいは延期になるのではなかろうか。
 いやいや、そんなことを気にするよりも、とにかくまずは今夜の寝場所を確保しなければ。
 かぶりを振って気持ちを切り換え、直人はさらにあたりを見まわしてみた。近くの店ででも、安く泊まれる場所を教えてもらえるといいのだが。
 あるいは、一度構内に戻って、駅員に聞いてみるという手も……
 などと思案を巡らせていると、すぐそばに車が一台すべり込んできた。いかにも地元の人間の持ち物らしい、飾り気のない軽トラックである。
 なんの気なしにそちらへ視線を向けていると、窓が下ろされ、運転していた人物が顔をのぞかせた。
「どうした、アンちゃん。道にでも迷っとるのかね」
 年齢は五、六十ぐらいか。陽に焼けた色つやの良い男が、そんなふうに声をかけてくる。
「え、はあ。ちょっと……電車が止まっちゃって……」
 見知らぬ人間にいきなり話しかけられたことに気おくれしつつも、直人は事情を簡単に説明してみた。予定外の場所で急に降りることになったので、泊まれる場所を探していると告げると、男はにっかと顔をほころばせる。笑い皺に、細い目が埋もれてしまいそうな笑顔だ。
「そんなら、いい場所があるで。わしの知り合いの民宿だども、この天気で予約の客がこられんかったとかで。部屋が空いてもうて、もったいないちゅーとったわ」
「ほんとですか!?」
「おお。海のそばだけん、ちょっこ離れちょるけど、乗ってくだわ」
 そう言って、助手席のドアを開けてくれる。
 距離があると聞いて少々迷った直人だったが、視線を向ければ、海そのものは十五分も歩けば到達できそうな距離に見えていた。それなら大丈夫だろうかと考えていると、男はああ、と気がついたように口を開く。
「明日は宿のもんに、駅まで送ってもらえばいいが。わしも言ってやるわ」
「え、いいんですか。そこまでしてもらって」
「いいけんいいけん。どうせついでの便があるし、困ったときはお互い様だけえ」
 ほれほれ。
 人の良さそうな笑顔で手招きしてくるのに、直人は半ば流されるような形で、バッグを抱え軽トラの助手席へと乗り込んだ。狭い座席内でどうにか足元へ荷物を置き、手探りでシートベルトを止める。
 車が走り出すと、男はにこやかにいろいろと話しかけてきた。どうやら話好きなタイプらしい。
「ほお、大学での旅行帰り? 友達とは別れて、ひとりかね。実家はどこらへん ―― ああ、そりゃあ遠いわな」
 途中で泊まることになったって、家には連絡したかい? とたずねられて、そう言えばまだだったと思い出す。
「泊まる場所が決まってからにしようと思ってたんで」
 なかば言い訳混じりにそう答えると、こちらの考えなどお見通しなのだろう。豪快に笑い飛ばされる。直人は照れかくしにうつむくと、かけていた眼鏡をはずした。レンズについた雨滴を親指でぬぐい、改めてかけ直す。
 五分ほど走ると、やがて海沿いの道に出た。
 どんよりと重く垂れこめる暗雲を映したかのように、海もまた鈍色に沈んでいた。そこここで白く砕ける波頭が、思ったよりも風が強いことを示している。
 時刻はそろそろ五時近い。本来であれば日暮れにはまだしばらくあるはずだったが、すでにライトをつけなければ不安なほどに薄暗くなっていた。
「ほれ、あすこだわ」
 男がハンドルから手を離し、前方を指さす。
 いま走っている道の左手に、小さな岬の突き出しているのが見えた。高さは三階建ての建物ぐらいだろうか。上部は雑木林に覆われているが、海に向かって落ち込むあたりは、黒ずんだ岩がむき出しになっている。波打ち際には暗礁でもあるのか、波が砕けて高く飛沫をあげていた。
 そんな岬を背負うようにして、海際に建物が建っている。木造の、小さな民宿だ。
 男がウインカーを出し、軽トラのハンドルを切る。
 近づいてくる建物を見ながら、直人はなんとなく胸の奥底がざわつくような感触を覚え始めていた。
 それははたして錯覚であったのか、それともこれから見聞きすることに対する、予感めいたなにかででもあったのか。
 それは誰にも判らないことだったのだけれど……


*  *  *


「 ―― うん、うん。判った。気をつけて帰る。動けるようになったら、また電話するから。 ―― うん、判ったって!」
 同じことをくり返す電話の向こうへと半ばうんざりとした答えを返し、直人は携帯の終話ボタンを押した。通話を終えた手の中の機械をながめ、大きく肩を落とす。
 案の定というか予想通りというか。
 小金を惜しんだ直人に対し、家族の反応は冷たかった。心配をかけたのは申し訳ないと思うのだが、だからといって今さら過ぎたことをくどくど言われたところで、どうすることもできはしないのに。
 ため息をついてポケットにしまおうとした携帯が、ちり、とすんだ音をたてる。
「あら、きれいな鈴」
 思わず、といった声に、直人はすっかり存在を忘れていた相手を思い出した。慌てて借りていたメモ用紙を差しだし、頭を下げる。
「すみません、ありがとうございました」
 宿の名前と住所、さっき降りた駅名の書かれたそれは、直人の問いに応じておかみさんが書いてくれたものだった。
「いいぇえ」
 先ほどこの民宿まで送ってくれた男 ―― 近在の漁師でベンさんというらしい ―― と同年配だろう。髪に白いものの混じり始めた格幅のいい女性は、やはり少々なまりの残る言葉で、にこにことかぶりをふってみせた。
「まあ、災難だったようですけんど、ケガがなくて良かったですわねえ。とりあえず今夜のとこは、ゆっくり休んでってごしなさいな」
 疲労している時は、他人の親切がことさら身にしみる。
 再び頭を下げた直人に、おかみさんは夕食と風呂の時間を説明すると、部屋を出て行った。
 それを見送ってから、身体の力を抜いて足を伸ばす。そうしてそのままごろりと寝転がった。弾力のある畳の感触に、疲れていた身体が沈みこんでいくような錯覚を覚える。
 見上げた天井板には、すすけた木目が黒ずんだ渦巻きをえがき出していた。
 窓のすぐ外から、寄せては返す、波の音。
 海に面した六畳ほどの広さの和室は、けして上等な作りとは言えなかったけれど、飛び込みで訪れた持ち合わせもろくにない学生が泊まるのには、充分過ぎるほどの部屋だった。
「うー」
 いい加減なうなり声をあげつつ、身体の向きを変える。大の字に投げだしていた両腕を、一方にまとめるかたちで伸ばした。
 持ったままでいた携帯の鈴が、その動きでたて続けに音を鳴らす。
「あー……まあ、これも一種の御利益、かなあ」
 ぽつりとひとりごちた。
 電車が止まってしまったのは災難だったが、それでも親切な人に出会えて、しっかりした寝場所を確保することができた。旅行の日程が一晩増えたのだと思えば、そう悪くはない展開だろう。
 手の中の携帯電話につけているのは、小さな根付ねつけだった。
 持ちあげた先で揺れるそれは、光の加減で時に金色を帯びる漆黒の組紐に、小指の先ほどの大きさの、やはり金色の鈴が二つ編み込まれている。一見しただけでは、ごくありふれた携帯ストラップにしか見えないものだが ―― それは一種のお守りなのだった。
 直人が通う大学の、裏手に位置する稲荷神社。
 雑木林に囲まれた、さびれきったその存在を知るものは、つい最近までほとんどいなかったらしい。昨年、小火ぼやによって消失してしまったそこが、まもなく再建されることに決まってからも、訪れる人間はやはり数少ないようで。
 そんな神社のほぼ唯一といっていい、熱心な参拝者である直人に渡されたその守り鈴は……けして大量生産の土産物などではなかった。

 ちりん、と。

 すずやかな響きが雨音と潮騒をぬって耳に届く。

 ―― 肌身離さず、持っておれよ。

 これを渡されたとき、告げられた言葉が耳の奥によみがえった。
 たかが数日の旅行にいくだけだというのに、お守りだなんておおげさな、と。その時には正直そんなふうに思ったりもしたけれど。
 その後、予定が変更になり、数日のつもりがそのまま夏休み一杯の帰省になることとなった。さらにこうして想定外の災難に巻き込まれてしまうと ―― 手のひらに握り込めてしまうほどの小さなお守りさえ、なんとなし心強く感じられてしまうのだから、我ながら現金な話だった。
 たとえ本当はこれの効果でなどないのだとしても、それでも、突然ひとりで見知らぬ土地に泊まらねばならなくなった、この状況で。

 ―― その、守り鈴さえあれば……

 穏やかな微笑みとともに、もたらされた確約。
 けして、これを頼りにするつもりはないのだけれど。
 それでも持っているだけで気持ちが楽になれるのだから、やっぱりこれには御利益があると言えるのだろう。
 そもそもお守りというのは、そういうものではないのだろうか。
 これがあるから大丈夫。お祈りをしたからきっと効果がある。そんなふうに信じることで、人間は余計な憂いを忘れ、不安を消し、そうして現在の状況に対して全力で相対できるようになる。
 神も、そしてあるいは妖怪も、そうした形になりきらぬ恐怖や不安を明確に認識し、そのうえで対抗する力を養えるように、人間が作り出した一種の『装置』に過ぎないのではないか。
 どこぞの民俗学者が主張したというそんな考え方も、ひとつの真理と言えるのだろう。直人は確かにそう考えていた。
 そしてまた同時に、そればかりが真実ではないのだということも、身に沁みて『よく』知っていたわけなのだが。

 ふう、と小さくため息をついて、携帯を胸ポケットにしまいこむ。
 とにかくいまの相手は自然災害で、彼一人がどうこうしようとした所で、どうにもなることではなかった。ならばいま彼ができることは、ここでおとなしく休んでおいて、動けるようになりしだい対応ができるよう、体調を整えておくことだろう。

 ああ、そういえば、と。

 ふと、駅前で目にした色鮮やかなポスターが思い出された。
 海神祭と書かれたそれは、明日、この町で祭りが開かれることを告げていた。
 海神祭。海の神の、祭り。
 海神とは文字どおり『海』を神格化したものだろう。
 それは豊漁などを祈願する場合ももちろん多いのだが、それよりはむしろ嵐や津波といった、自然災害に対する畏怖をあらわしている方が多くはなかったか。
 恵みをもたらすと共に、時としておそるべき災厄をも人々に課す神。
 和魂にぎみたま荒魂あらみたまとも称される、そんな二面性こそが、この国の神が持つ特徴に他ならず。
 ならば……

 思考がどうにか形を保っていたのは、そこまでであった。
 ひんやりとした畳の上で、低い雨音と潮騒を聞きながら。
 疲労していた直人は、いつしか心地の良い眠りの中へと、抗いがたく引き込まれていったのである。


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