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 きつね  第七話
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


「えーいッ!」
 唐突に響いた第三者の声に、一瞬場の動きに乱れが生じた。満を持して放たれた矢のごとく、絶妙のタイミングで仕掛けられた攻撃が、予想外な闖入者の存在によって、わずかに遅滞を生ずる。
 その、あるかなしかの隙をついて、ゲドウの目前へと何かが投げ込まれた。それが何なのかを確認する間もなく、太郎丸達による青白い炎が、ゲドウを中心に爆発するように広がる。
 まばゆい輝きに、視界が塗りつぶされた。ゲドウの絶叫が、夜気を裂いてあたりに響きわたる。
「な ―― 」
 吹きつける爆風と光から目をかばう直人のそばに、複数の気配が駆け寄ってきた。
「河原くん、生きてる!?」
 見知った高い、女の声。ちかちかする目を瞬きながら、薄れてきた光を見透かせば、なじみのある3人の姿がそこにある。
 涼子と恵美と靖司。今ここには、いるはずのない者達。
「お前、ら……どうして……」
 呆然とつぶやく。
 昨夜、ゲドウと太郎丸達の死闘をまのあたりにしたこの3人は、完全にパニックを起こしてしまっていた。マンガや小説の延長のような感覚で首をつっこんだ事件が、冗談ごとではすまないものだということを見せつけられ、『化け物』の実在を知り ――
 恐慌状態に陥っても、まぁ無理のないことだっただろう。恵美達があれほど興味を持ってまとわりついていた、次郎丸達のことさえも恐れ、怯え、震えていた。社の存在を説明し、共に謝罪にゆこうと持ちかけてみても、とてもではないが応じられる状態ではなく ―― 仕方なくそれぞれを自宅へと送り届け、直人はひとりで社を訪ねたのであったのだが。
 全員がジーンズやショートパンツといった、動きやすい服装をしていた。涼子などは珍しく、髪を後頭部へと結い上げている。しかもどこから持ち出してきたのか、手には竹刀を握っていた。きつい風貌と相まって、なかなかに勇ましい姿だ。恵美はデイパックを手に持ち、片手をその中につっこんで身構えている。どうやらさっき何かを投げ込んだのは、彼女らしい。靖司も金属バットなどというものを構えていた。体格のいい彼がそんなものを持っていると、けっこう物騒である。
「首、つっこんじゃった以上、放ったらかしって訳には行かないわよね」
 涼子が直人に答えた。
「そーいうこと。や、やっぱ、責任って大事よねッ」
 恵美も続けて言う。靖司がこくこくとうなずいた。
  ―― しかし、3人とも、見事に手が震えていた。炎に包まれたゲドウに対し、それぞれ身構えてはいるものの、完全に腰が引けてしまっている。
 これでは昨夜の状態と大差がない。彼らが責任感に目覚めてくれたのはありがたいが、結果的には足手まといが増えてしまっただけではないのか。
 そんなふうに感じて、太郎丸と次郎丸の姿を探す。
 二人は、一同からかなり離れた場所まではじき飛ばされていた。もともと受け身も何も考えていなかったところへ、いきなり第三者が介入してきたのだ。とっさに技の威力を弱めてしまったが為に、消滅こそ免れたが、受けたダメージは大きかった。文字通り全身全霊の力を使いつくし、もはや指一本動かすこともできない……はずだったのだが。
「これは ―― 」
 背中から手水場ちょうずばへと叩きつけられ、ずり落ちていた次郎丸は、石造りのそれに背中を預けたまま、みるみる傷の癒えてゆく己の肉体を、驚きと共に見下ろしていた。傍らでは、力無く地に伏していた太郎丸が、起きあがって全身から玉砂利をふるい落とす。その動作には、傷による支障などまるで見られない。
 二対の金茶色の瞳が、新たに現れた3人へとむけられる。
「……そなたらの……祈り、か」
 次郎丸がつぶやいた。
 人間の祈りは、神の力となる。直人の祈りが次郎丸の命を救ったように、今また、彼らの想いが二人の神へと力を注いでゆく。
 負った傷が塞がり、失われた神力が満たされてゆくのを感じながら、太郎丸は彼らへと問いかけた。
「望みは、何ですか?」
 途端、恵美達は一様にびくっと身をすくめた。相変わらず太郎丸達を怖がっているのが、如実に感じられる仕草だ。太郎丸の静かで抑揚のない声は、時として詰問しているような印象を与えるせいもあるのだろう。
 太郎丸はその反応を気にすることなく、続けた。
「願いを述べなさい。神々われわれの前に」
 神々とは、祈りの代償として願いを叶える存在。今お前達が捧げたこの祈りが、一体何を望んで発せられたものなのか。それが我々へとむけられるのに相応しい願いであるならば、我らはそれを叶えよう。稲荷の神狐の名の下に。
 答えを促すように、直人が恵美の足をつかんだ。恵美はびくりと身体をはね上がらせ、そしてその勢いで吐き出すように叫ぶ。
「や、やっつけちゃってよ、あいつを!」
 まっすぐに、まだ燃える炎の中でのたうちまわっている、ゲドウを指さす。
「負けないで」
「もう邪魔しねぇから……夕べのことは謝るから、だからがんばれ!」
 涼子と靖司も口々に言う。
 太郎丸と次郎丸は、しばらくその内容を吟味するように沈黙した。ややあって、次郎丸の口元がにんまりと笑む。
「ゲドウを相手どるは、我らが努め。承知した」
 腰を落とした姿勢から、背後の石に手をついて立ち上がる。初めて会った時のような ―― いや、それ以上の力強さがその身に満ち溢れている。太郎丸の方も立ち上がった。ズタズタになっていたコートが、新品のようになってひるがえる。
「いいでしょう。その願い、確かに受け取りました」
 しっかりとうなずいてみせる。恵美達は、あからさまにほっとした顔をした。問われた理由はよく理解できていなくとも、自分達を受け入れてもらえた ―― 許してもらえたということは判ったのだろう。
 ある意味で、彼らの祈りは利己的なものであった。太郎丸と次郎丸の正体も知らぬままに、ただ許してほしい、報復などしないでほしいと、それ故に為された謝罪であり祈りであり ―― 直人のように、己が命すら捧げんとした、真に太郎丸達の身を案じたが故のそれではない。
 それでも、それは神への祈りだった。
 人間が神を畏れるのは当然のこと。願いを抱くもまた然り。神とは、その為に存在するものなのだから。
 ゲドウの打倒。それこそは彼らが叶えるべき願い。その為にこそ、彼らは神の名を得た。
「ゆくぞ!」
 次郎丸が威勢のいい声を上げた。右手を大きく振り上げたかと思うと、五指を開いた掌を地面に打ちつける。
土剋水どこくすいことわりにおいて玄狐が命ずる。地中を流るる水よ、我が意に従え!」
 次郎丸の周囲に、放射状の地割れが生じた。上部に穿たれた穴にわずかな水をたたえていた手水場の石が、真ん中からまっぷたつに割れる。一瞬おいて、それらの亀裂から幾本もの水柱が立ち上がった。
「切り裂けッ」
 指を差して命じたその通りに、水柱は大蛇のようにうねくり、のたうって宙を疾った。渦巻く動きで鋭い刃と化し、ようやく炎から逃れ出ようとしていたゲドウへと襲いかかる。
 水の刃に毛皮を切り刻まれて、ゲドウは唸り声をあげて身もだえした。そこにこれまで感じられた、余裕のようなものは見られない。鋭利な水の刃と、濡れてもいっこうに消える気配のない狐火とが、競いあうようにゲドウの身体を包もうとする。
 さらにそこへ、恵美が何かを投げつけた。蓋のついた、小さなガラス瓶。どこかで見たようなそれは空を切り、見事にゲドウの顔面へと命中する。
 肉の灼ける音と共に、ゲドウが激しく首を振った。蓋が外れ、中に入っていた液体のかかった部分が、薄い煙を上げて泡立っている。
「それ、は」
 またなにか怪しいオカルトグッズを使用したのか。恵美はデイパックの中を探って、また同じような瓶を取り出す。はめ込み式のガラスの蓋がついた、透明な広口瓶。貼られたラベルに書かれた文字は『H2SO4』。
  ―― 硫酸だ。
「下手にお守りとか使うと、次郎丸さん達も危ないもんね」
 ちゃんと効いてくれて良かったと、にっこり笑う。
「…………」
 いや、それだって充分、危ないことに変わりはないと思うのだが。
 そもそもそんなものを、一体どこで手に入れたのだ。
 思わず内心でつっこみを入れる直人をよそに、戦いは続いている。
 吼。
 腹の底まで震える、叩きつけるような咆哮。技も何もない、ただの力押しでゲドウは炎と水を払いのけた。が、その全身は既に、無惨なまでに傷ついている。水刃が切り開いた中を狐火が焼き焦がした傷は、癒える気配など全くない。
 燠火おきびの双眸を苦痛と怒りに燃えたたせ、ゲドウは次郎丸へと飛びかかった。未だ健在な鋭い爪と牙が、光を反射してぬらりと輝く。しかし ――
「甘いわッ」
 身を避けようともせず仁王立ちで待ち受ける次郎丸の直前に、突如地を割って水柱が吹き出した。宙にあったゲドウは、避けるすべもなく下から直撃を受ける。
 完全な形勢の逆転。次郎丸は高らかに声を上げて哄笑した。思うままに神力をふるえることが、楽しくてたまらないらしい。

 ぱん

 乾いた音をたて、太郎丸が両手を打ち合わせた。
土生金どしょうごんの理において、白狐が命ずる。金気ごんきよ、我が手に集え」
 おごそかに命ずる。
 合掌する形であわされた両手が、じょじょに白銀の光を帯び始めた。
 陰陽五行説によれば、土剋水つちはみずにかつといい、土生金つちはかねをうむという。即ち、土は水をせき止めてその流れを制することができ、またその内に鉱脈をようしして金属を産する。土の性を持つ狐の中でも、水を象徴する黒を体色とする玄狐は、前者の力に長けるため、水難避けの神として祀られた。そして金を象徴する色をした白狐は、後者として金運、商売繁盛の神とされる。
 集う力をためるように、太郎丸は一度合わせた手に力を込めた。それから一気に引き離す。
 まるで腕の中からひき抜かれるようにして、光は凝縮し、実体を成してきらめいた。絶妙な曲線を描く反り身の刃に、流麗な刃紋を浮かべた、見事な日本刀。優美さと重厚さを共に兼ね備えたその姿は、もはや芸術品の域に達してさえいる。
 片手に構え、引き寄せ、跳ぶ。振り下ろすまでの一連の動きは、まるで舞か何かのように思われた。
 赤い血の尾を引いて、ゲドウの前足が宙を飛ぶ。
 一瞬交錯しただけで離れた位置に着地した太郎丸は、ひとつ舌打ちして刀を振った。それだけで付着した血は完全に払い落とされる。今の動きで急所を外されるとは。
「奴の足を止めて下さい」
 冷静な声で次郎丸に指示する。先刻までの苦戦を考えれば、いかにこちらの力が戻ったといっても、油断して良い相手ではなかった。確実に決めなければならない。今度こそ。
「おう!」
 次郎丸が牙を剥き出して笑った。地面のそこここにできた水たまりから、縄のように水が飛び出し、ゲドウの全身をからめ取る。さっきの水刃の群に比べれば、たいしたものではなかった。力を込めて身をよじれば、そう苦もなく抜け出せる程度の縛。
 ゲドウは傷からの出血もかえりみず、残った三本の足で地を踏みしめた。ぐいと頭を持ち上げて、己れをその場に留めようとする水縄を次々と断ち切ってゆく。全ての縄が切られるのには、ほんの数秒もかかりはしなかった。しかし、今の彼らにはその数秒で充分だったのである。
 自由になった時、白刃は既にゲドウの目の前にあった。さらに恵美の投げた硫酸が、その目を灼き視界を奪う。
 避ける術は、既に残されていなかった。


*  *  *


 ゲドウの巨体が倒れると、地響きがたったように感じられたのは、強敵だったが故の感慨からだろうか。
 刀を振り下ろした格好で動きを止めていた太郎丸が、すっと上体を起こす。その手の中で、刀が再び光と化して、大気に溶け消えた。あちらこちらを濡らしていた水も、吸い込まれるように地の亀裂へと流れ込んでゆく。全ての水を呑みこんだ地割れは、すぐに閉じて、何事もなかったような表面を見せた。
「やっ……た……?」
 ごくりと息を呑んで、靖司がつぶやいた。恵美と涼子が顔を見合わせ、ぱぁっと表情を明るくする。
 が、歓声を上げようとする彼らへ水を差すかのように、次郎丸が手を上げて一同を制した。そうしておいて、太郎丸の注意を促す。
「まだ息がある」
 太郎丸の眉がぴくりと動いた。
「……往生際の悪い」
 見下ろせば、確かに生命の気配が残されていた。ごくごくかすかな、まさに残り火と形容するべきであろう、弱々しいそれ。
 太郎丸は目を細めて舌打ちすると、右手を肩のあたりに掲げた。刀は既に消してしまっている。とどめを刺すためには、改めて気を集めるなり、狐火を生むなりしなければならなかった。
 緩く指を開いた掌で、ゆっくりと光が輝き始める。
 一同は、固唾を呑んで一人と一匹を見つめていた。正真正銘、これが最後。長き時にわたった封印の結果が、今この場でつけられる。ゲドウの死をもって。
 太郎丸の手が一撃を加えるため、いったん手前へと引き寄せられる。
「 ―― ま」
 気がついた時、直人は地を蹴っていた。
「待ってくれ!」
 弱った身体のどこにそんな力が残されていたのか。地面から無理矢理身をひきずり起こし、太郎丸へとむしゃぶりつく。
「直人!?」
 信じられないという表情で、次郎丸が叫んだ。思いがけない制止に、太郎丸の手から光が霧散する。
「駄目だ……殺しちゃ、駄目だ……」
 力のこもらない声で、けれどもくり返される言葉。太郎丸はただ愕然として直人を見下ろした。
 やはりまだ動くのは辛いのか、すぐに力萎え、物理的な制止はほとんどなされていない。その腕は、太郎丸の力でなら、苦もなくふりほどけるものだった。けれど、己の体重を支えることすらままならない状態で、それでも直人は必死に太郎丸の腕を抱えこんでいた。こればかりは、何があっても離さないというように、震える手でしがみついてくる。
  ―― それは、あってはならない裏切りだった。
 ゲドウを封じ、その為す害を防ぐために祀られた稲荷の狐。人の祈りを神力の源とし、見返りとして願いを叶える、神たるもの。
 直人はその彼らと契約を交わしたのだ。彼らのために祈りを捧げると。ゲドウの跳梁を防ぐのに力を貸すと。名をかけた誓いは絶対のものだ。破ることは許されない。少なくとも、太郎丸達のような存在にとっては。
 確かに、人間は簡単に嘘がつける。いとも簡単に前言をひるがえし、それでなんの不自由も感じることなく生きてゆける。そんないい加減な存在が理解できなくて、太郎丸は人間というものを好きにはなれなかった。次郎丸はそうでもなかったようだが、太郎丸は違った。嫌っている訳ではないが、好意も持てない。信頼することも期待することもできない存在だと思っていたのだ。三百年間、ずっと。
 けれど、直人と出会い、その言葉を聞き、祈りを受け……この人間ならば、と、そう ――
「…………」
 血の気の引いた唇が、二三度小さく動かされた。一体何を口にしようとしたのか。
 が、言葉が声として形を為すその前に、悲鳴のような叫びが太郎丸を驚愕の内から引き戻した。
「ゲドウがッ!?」
 色濃い恐怖に裏打ちされた声。はっと我に返ってゲドウを振り返るよりも早く、地に伏していたその巨体が、勢いよく跳ね上がった。
「くッ」
 とっさに、太郎丸は直人を全身でかばっていた。思考よりも先に身体が動く。倒れたゲドウを足元にして、二人隙だらけで立っていたのだ。避けたり防いだりできる間合いではない。爪でも牙でも、かすっただけでひとたまりもないであろう、直人を守らなければならなかった。
 次郎丸の位置からは、角度が悪かった。下手に攻撃をかければ、二人を巻きぞえにしてしまいかねない。最悪の事態を予測し戦慄した。
 しかし、ゲドウは太郎丸になど目もくれなかった。間近で無防備にむけられた背も尻目に、大きく跳躍して、もっと離れた位置の ―― 固まって立っていた3人を急襲する。
 いくつもの悲鳴と、ゲドウのうなり声とが交錯した。
 さながら一陣の風のように、恵美達の間へ躍りこみ駆け抜けたゲドウの姿を、直人は声も出せずに凝視していた。獣は少しゆきすぎてから立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返る。その口にくわえられているのは、背負い紐を喰いちぎられた、恵美のデイパックだ。ギラギラと最期の執念を燃えたたせる瞳と、直人の視線があう。そこに宿る強烈な飢えの色に、はっと直人が目を見開いた。
「おのれ……ッ」
 次郎丸が目尻をつり上げて地に膝をついた。再び地下水脈を操るべく、掌を押しあてる。
「水よ ―― 」
「駄目だ!」
 ぴしりと。
 通る声が次郎丸の呼びかけを断ち切った。
 凛としたその声音に、次郎丸は手をついたままで驚いたように振り返る。
「直人……?」
 自分をかばってくれた太郎丸の腕の中から、直人はじっと次郎丸を見つめていた。蒼白な顔に冷や汗をにじませて。苦しげに荒い息をつきながら。
 まっすぐにむけられたその瞳の光に、次郎丸は知らずたじろいでいた。
「それじゃ、駄目、なんだ」
 一言一言。噛みしめるようにつぶやく。
「それじゃ……あんまり、ゲドウが、可哀想すぎる……」
 言って、直人は太郎丸の胸を押した。さほどの力は込められてもいなかったのに、太郎丸の腕はあっさりと直人を解放する。彼のもとから離れた直人は、ふらつきながらも一歩一歩足を踏み出した。ゲドウの待ち受ける、その方向へと。
 誰もが、何も言えずにいた。
 ひざまずいたままの次郎丸も、呆然とした面持ちで立ち尽くす太郎丸も。また、飛びかかってくるゲドウの迫力に恐れをなして、へたりこんでいた靖司と涼子。すっぱりと断ち切られたデイパックの紐を手に、無傷で腰を抜かしている恵美もが。
 皆、息をすることすら忘れて、直人の行動を見つめていた。
 ゆっくりと、危なっかしい足取りで、直人はゲドウの目前までたどり着いた。そして、その間、ゲドウは何をするでもなく、ただじっと直人を待ち受けていた。
  ―― 改めて見ても、ゲドウの状態はひどいものだった。全身の毛皮のある部分は裂け、ある部分は焦げ、今朝の次郎丸に勝るとも劣らない。しかも太郎丸の太刀によって前足は切断されており、また首のあたりから胸の半ばに至るまで、ざっくりと斜めに切りこまれている。
 ドス黒い粘りけのある血が、ムッとする悪臭とともにゲドウの身体と大地を染めていた。いかに尋常の生き物ではないとは言え、この状態でなおも動いていられるとは、信じられない生命力だ。
 ガチャッと、場にそぐわない音がたった。ゲドウが斜めにくわえた恵美のデイパックから、ガラス瓶がひとつ落ちたのだ。その蓋は落ちた拍子にすっぽ抜け、中身の液体をゲドウの足にぶちまける。御多分にもれず酸性の劇物だったらしいそれは、シュウシュウと泡立ちながらゲドウの足を蝕んでいった。しかし、ゲドウはそんなことになど気付いていないようだ。今さら苦痛のひとつやふたつ、増えたところで変わりがないのか、それともそんなものを気にする以上に大切なことが存在するのか。
 直人はゲドウの正面まで来ると、力尽きたように膝を折った。四つ足のゲドウよりも視線の高さを低くして、その顔を下方から見上げる体勢になる。
 何をすればよいのかは、さっき目があったその時に判っていた。
 両手をそっと、ゲドウの口元へとさしのべる。
「…………」
 ゲドウは、直人を傷つけるような真似は一切しなかった。その鋭い牙も、爪も、直人のむき出しの皮膚に触れることすらなかった。ゲドウはただ、わずかに頭を動かして、くわえていたデイパックを直人の手の中に落としこんだだけだった。
 けっこう重さのあったそれを、直人は落とさないようにしっかりと受け止めた。手元に引き寄せて、きちんと受け取る。ゲドウから渡された、その品物を。そして複雑な、おそれや哀れみや感謝や、いろいろなものがいり混じった……それでも笑みと呼べる表情を浮かべて、ゲドウを見つめ返した。ゆっくりと、その口を開いて言う。
「 ―― ありがとう」
 誠実な、心の底からの想いをこめられた言葉。
 その真摯さを疑おうという気持ちすら起こさせない。ゲドウの行動ゆえに、そしてゲドウの為だけに綴られたそれ。太郎丸と次郎丸が、はっとした表情で直人を見なおす。
「ありがとう……」
 もう一度同じ言葉をくり返して、直人は今度はちゃんとした笑みを浮かべてみせた。手を伸ばして、恐れげもなくゲドウの首筋に触れる。
 ゲドウはゆったりと目を細めると、喉の奥で満足げに唸った。頭を下げて、直人の匂いを嗅ぐように鼻面を押しつける。デイパックを傍らに下ろし、直人はその大きな頭を両手で抱きしめてやった。今朝次郎丸にしてやったように、固くて荒い毛皮を優しい手つきで撫でる。
「御苦労様。よくがんばったな。もう……充分だよ。もういいから……」
 だから、
 ゆっくりお眠り。お前はきちんと役目を果たしたのだから。
 その耳元へ、そっとささやきかける。
 ゲドウの前足から力が抜けた。片足だけで支えられていた上半身が、崩れるように直人の胸へと倒れこむ。後ろ足もすぐに続いた。最期の力を使い果たしたゲドウは、その上体を直人の腕に預け、今度こそ力尽きて横たわった。燠火のように、暗く禍が禍がしい光をたたえていた瞳が、今は片方を硫酸で潰されながらも、暮れゆく秋の陽のような、穏やかで温かな色を宿して直人を見上げる。

 ぐる る

 甘えるように喉を鳴らす声は、途中で消えた。静かに目蓋が下ろされ、かすかだった命の気配が完全に失われる。
 急速に腐敗、乾燥し、塵となって吹き飛ばされてゆく骸を抱いたまま、直人は遠くを見るような目でつぶやいた。
「これで、良いんだ。こいつだって、神なんだから……神として、生まれたんだから……神として死ぬ権利が、あるはずだ……」
「ゲドウが、神?」
 何を言っているのか判らないらしく、靖司がぼんやりとくり返した。直人は無言でうなずいただけで、あとは何も言わなかった。が、太郎丸と次郎丸は、それだけで今朝の会話を思い出していた。
 ―― ゲドウは、他でもない人々の想いが生み出した存在。誰もがその実在を信じ、願ったからこそ生まれたもの。
 けれど。
 誰もが望んだそのままに具現化したのにも関わらず、誰もゲドウの存在を喜んではくれなかった。誰に望まれたことを行っても、一人として感謝してくれる者はいなかった。村人達からは忌まれ、蔑まれ、祀ってくれるはずの者達からさえも、元はと言えばお前のせいでと憎まれ、罵られた。そうあれと願ったのは、彼等自身の方であったのに。狐持ちの者達に幸をもたらし、感謝を受ける。その為だけに彼は存在したというのに。
 『神』としてあることを望んだのは、太郎丸達だけではなかった。むしろその生の途中で契約を交わし神格を得た二人よりも、生まれながらにそうであったゲドウの方が、ずっと強く望んでいたであろう。より、本能に近い部分で。
 憑霊神。
 ゲドウという名の神狐として。
 感謝を、捧げられる祈りを、かつえるほどに欲していた。
 他者を傷つけ、盗みを働き、そしてそれを受けとめてくれる人間を待ち望んでいたのだ。三百年間。
 本来であれば、当たり前に、必然として得られたはずのそれ。
 ありがとう。
 ただその一言が欲しかった。
「だから、か」
 次郎丸が得心して嘆息した。
 だからゲドウは、直人を狙ったのだ。己に向けられた想いを、憎しみや恐怖以外のそれを敏感に察知し、そのもとへと疾った。結果として傷つける羽目になったのも、彼がそれ以外の方法を知らなかったからで ――
「……まったく」
 太郎丸は口の中でつぶやくと、面を伏せた。その肩が小刻みに震えている。まったく、この青年ときたら、自分達と交わした契約をあっさりと破り、ゲドウの側に寝返ってくれたかと思えば……
 喉の奥で、こらえきれなかったものがくぐもった音をたてた。握りしめた拳が、関節を白く浮き上がらせる。
 そして、次の瞬間。
 太郎丸は思いきり吹き出していた。
「 ―― くっ、はははっ」
 一度笑い出したら、もう止まらない。皆があ然として注目する中で、よもやこの男がこんなと思うほどに、快活な表情で笑い続ける。
 何のことはない。全ては太郎丸の方の勘違いであった。直人はきちんと契約を果たしている。太郎丸達と交わしたものはもちろんのこと……ゲドウとのそれまでも。
 太郎丸と次郎丸が直人と交わした契約は、直人の身を守ること、ゲドウの跳梁を防ぐこと、そして直人が祈りを捧げること、だ。直人がその祈りによって神に神力を与える ―― 神を『神』たらしめるということ。その『神』が太郎丸達、稲荷の神狐のことだとは、一言も明言していない。
 また、ゲドウの努めは財を奪い、他者を傷つけ、己の契約者を富ませること。それこそがゲドウがゲドウとしてある為の存在意義であり、ゲドウ自身の望みでもあった。
 ゲドウを生み出した誰もが意識すらしていなかった、けれど確かに存在していた契約。ゲドウを封じた行者も、彼によほど近しい立場であった太郎丸達もまるで気が付かなかったそれを、直人は見つけ、理解し、そして履行したのだ。
 渡された物を受け取り、感謝する。それで契約は果たされた。ゲドウの暴走は止まり、もはや契約者である直人がそれを望まぬ限り、ゲドウが害を為すために働くことはない。そもそも望みが叶い、狂おしいほどの執念を失ったゲドウは、滅びようとする肉体に逆らうことなく、消滅することを選んだ。それもやはり、ゲドウの跳梁を防ぐという形を為している。
 つまるところ、直人が祈りを捧げたのは、ゲドウという名の憑霊神。その目的は、ゲドウの悪事を止めるため。そこには名をかけて交わした契約に抵触する部分など、ひとつとして存在しない。
「か、かないませんね。貴方という人には」
「 ―― だ、な」
 声を上げて笑いこける相棒という、実に珍しいものを見て呆然としていた次郎丸も、やがてつられたように破顔一笑した。ゲドウが全て塵と化し散ってしまっても、まだ膝をついたままでいた直人へ、勢いよく抱きつく。
「さすがは我らが認めた男よの!」
 後ろから力一杯抱きしめて、すりすりと頬をすり寄せてなつく。狐の姿の時ならばともかく、190cm近くもあるような男にすり寄られても、嬉しくもなんともない。が、直人には既にそれを振りほどいたり、抗議できるような体力は残っていなかった。ただされるがままに、ぐったりと身を預けているしかできない。
 抵抗されないのを良いことに、上機嫌で直人を離さない次郎丸を横目で見つつ、太郎丸はようやく笑いをおさめた。そしてその右手をひょいと振る。掌に生まれたテニスボール程の狐火が、宙を飛んで社の中へと放りこまれた。古びた木製の床に当たった狐火は、二三度跳ね返って転がると、ボッと大きく燃えあがった。青白い炎がみるみるうちに勢いを増し、床を舐めるような形で燃え広がっていく。
「何を!?」
 自分達を祀る社に自ら火を放つというその行動に、皆が太郎丸の正気を疑った。とっさに立ち上がろうともがく直人を、次郎丸がぎゅっと強く抱き止める。
「これで良いのだ」
 耳元でささやく声は、ひどく満足げに響いた。
「我らの契約は既に果たされた。この社が存在する理由はもうない」
 この社は、ゲドウを封じる為に設けられた場。役目を終えれば、すみやかに処分されるべきものだ。
「けど、そんなことしたら、あなた達が……」
 おずおずと涼子が言う。太郎丸がめったに見せぬ優しい表情で答えた。
「我々も同じですよ。我々は二人ともゲドウを封印する為に契約を交わし、神格を得ました。その役目を果たした今、我々は既に神ではありません。ただの年経た、一介の妖狐にすぎませんよ」
「神格を……失った……?」
「ええ」
 うなずく。しかしそこには落胆や惜しむような色は見られなかった。彼も、次郎丸も、ただ感慨深げに燃える社を眺めている。
 彼らにとって、それは喪失ではなく解放なのかもしれなかった。永きにわたり彼らを縛りつけてきた、契約という名の枷から解き放たれる。捧げられる祈りを完全に失ってしまう代わりに、叶えなければならない願いも消えた。義務もしがらみも全て断ち、どこへ行くも何をするも、彼らの自由だ。
 直人は首にまわされている次郎丸の腕を軽く叩いた。
「おめでとう」
 契約の完遂と、彼らの新たな門出に祝福を。
 応じてくすくすと嬉しそうな含み笑いが耳をくすぐる。
 直人は少しさびしげな笑みを浮かべた。社の材木をかてとして、すっかり赤く色を変じた炎を見つめる。太郎丸達にとっては、数百年をここで過ごした社。けれど直人にとっても、一年以上通い続けた場所だった。晴れた日も雨の日も、雪の降る日もあった。隅から隅まで幾度も掃除し、板の割れ目から落書きの位置まで、きっちりと覚えている。
 ガラッと音をたてて、火の中で柱が折れた。屋根が勢いよく傾き、火の粉が夜空へと鮮やかに舞い散る。
 もうここに来ることもなくなるのだ。
「草刈り……しそこねちゃったなぁ……」
 何故か、そんなささいなことがひどく心残りに感じられた。


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