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 きつね  第六話
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


「我々が人間と契約を交わし、この社を鎮守する任についたのは、もう三百年近く昔になります」
 片膝を立てて座った太郎丸が、そう口火を切った。
「この社にゲドウを封印した、その行者に持ちかけられたのです。所詮、人間ひとの手による封印では、さほど長くは封じておけぬ。なれば汝らにそれを続けてもらいたい、とね。代わりに神格を与え、崇め奉ろう。人々の祈りからなる神力を得たいとは思わぬかと」
 一度言葉を切って、苦笑いする。
「当時、ろくな妖力も持たぬ年若い妖狐でしかなかった我々には、とても魅力的な話でした。ゲドウを封印し続けるのには、確かにかなりの力を要しますが、それを補ってなお余るほどの神力が与えられるのですから」
「そうだったのか? それにしちゃ……」
 直人がぐるりとあたりを見まわした。廃虚と呼ぶのにふさわしい、さびれきった社。床も壁も天井も、いいようにひび割れ、反り、穴があきまくった板で構成されている。詣でる者、手入れする者が皆無なのは、これまで述べてきたとおりだ。こんな扱いを受けていて、はたしてそれほどの力を得ることができたのか。
“初めの頃はの”
 答えたのは次郎丸の方だった。床にあぐらをかいた直人の膝で、まるで猫か何かのように丸くなっている。見たところ傷はあらかた塞がっていて、ときどき汚れた毛皮を舐める元気も出てきたようだ。直人の足に頭を乗せて、目を細めてすり寄ってくる。九死に一生を得たのだから当然と言えば当然だが、やけに機嫌がいい。
“狭く閉鎖的な農村だった故な、誰もがゲドウの恐怖を、身に染みて知っておった。それから逃れる為ならば、たとえ生け贄とても捧ぐを辞さずとまで思い詰めるほどにの。文字通り、命がけの祈りが寄せられたわ。それだけの力と共に”
 太郎丸もうなずいた。
「祈りと祀り。守護に対する感謝と、畏敬の念 ―― ゲドウの恐ろしさは語り継がれ、そう、二百年ほどはうまくいっていたのです」
 視線を床へと落とし、どこか遠くのものを見るように、焦点をぼやけさせる。
 やがて、世代交代が重ねられる中、口伝えで受け継がれる伝説は少しづつ形を変え、事実から歪められていった。祟りをなしたゲドウ狐と、それを封じる黒白二頭の神狐とは徐々に混同されてゆき、区別されぬままに畏怖の念を受けるようになった。詣でる者から敬いは消え、ただ祟りを恐れるばかりに、祀りが行われる。
 それでも、それはそれで神と人間とのひとつの在り方だった。捧げられる祈りと祀りは、それでも彼らに神力を与えてくれた。しかし ――
 時代は下り、世の中には近代科学と合理主義というやつがのさばり始めた。目に映る ―― しかも万人の目に等しく確実に映るものだけを真実と定め、それ以外のものはやれ迷信だ、愚かな思い込みだと蔑み排除する。理に合わぬものなどこの世に存在するはずがないと、手前勝手な道理を振りかざして演説をぶつ。
 ゲドウなど存在しない。狐憑きなど、精神分裂症かヒステリー患者を虐待しているだけだ。神に祈りなどして何になる。願いを叶えるのは自分の力。神頼みしている暇があるならば、己自身で努力しろ。神も魔物も、この世に存在しはしない!
 恐怖の記憶は否定され、理由を失した祈りもなくなった。形骸化した祀りは神力の足しになどならず、それすらもまた、徐々に忘れ去られ、すたれていった。
「これまで封印が効力を保っていたのは、ひとえに神主の血筋が残されていたからでした。社の縁起を書き記すことで事実を正確に伝え、真実を見失うことなく我々を祀り続けていた、彼らの存在があればこそ ―― 」
 全ての始まりの血筋。憑きもの筋と呼称され、ゲドウ狐を世に放った元凶の子孫達。ゲドウを封じる神狐の存在を信じ、敬い続けていた彼らによって細々と続けられていた祀りが、かろうじて封印を持続させていたのだ。しかし、それすらも……
「口では合理主義を唱え、神も化け物も信じぬといいながら、それでも狐持ちとの関わりは忌避する。人間とは何とも理にかなわぬ、矛盾した存在ですね」
  ―― 昭和二十八年にS県で行われた民俗学の調査によれば、憑きもの筋と思われる家系とは縁組みしないと答えた家が、百四十件中、六十九件もあったという。結婚すると答えた中にも、親・親戚と絶交して、が三十件を占める。
 また、昭和二十七年十二月十八日の毎日新聞に載った記事には、やはりS県の男女で、相愛の仲でありながら、女性の家筋が狐持ちと言われていたため、男性側の両親が結婚を許してくれず、青酸カリをあおって心中をとげたという事件がある。
 血脈を繋ぐことにすら苦心する有り様では、満足に祀りを続けることも難しかろう。やむをえず親族間で婚姻し、次代を遺したところで先は見えている。
 一族最後の血を継ぐ老人が、病院で息を引き取ったのが、ちょうど一ヶ月前。ゲドウの封印が失われたのは、その晩のことだった。
「……もともと年老いて身体がきかなくなってからは、社の手入れも行えず、ただ祈るだけの毎日だったのですがね。けれど、身体をこわし強制的に入院させられた後も、封印が解けることを恐れる、必死の念が届いていました。その祈りが失われ……そして貴方の足も遠のいてしまっていた。それではとても封じきれるものではありませんでした」
 二つの狐像に挟まれた、床板にあいた大穴を見やる。黒白二匹の狐が向かい合って踏みしめる、そこにこそゲドウが封じられていたのだ。
「待てよ……」
 二匹の狐が感慨深げにしているのをよそに、直人がぽつりと言葉を落とした。膝の次郎丸を無意識に撫でていた手を止め、血の気のひいた顔で両者を見る。
「それって、もしかして……俺がちゃんと参拝し続けてなかったから、封印が解けてしまったってことか……?」
“それは違う!”
 次郎丸が即答した。がばりと上体を起こして直人を見上げる。太郎丸も首を振って次郎丸に同意した。
「次郎丸の言う通りです」
「けど……」
 大学が夏休みに入り、直人が実家へと帰省するべくこの地を離れたのも、やはり一ヶ月と少し前だった。この春休みは何かとゴタゴタして戻っていなかったので、ほぼ半年ぶりの帰郷。こちらを発つ前日の朝には一応参りに来ていたのだが、むこうにいる間は社の存在などほとんど忘れてしまっていた。まぁ、一月ぶりではさぞかしひどいことになっているだろうと、ちらりと考えはしたものの、その老人のように離れていても届くほどの想いを抱きはしなかった。
 もしも自分が、もっと真剣にこの社のことを憂えていたならば、あるいは……
「それは貴方の考えすぎというものです」
 太郎丸が言下に切り捨てた。反論の余地すらない、当然のことを言う口調だ。
「もしも貴方が、先祖代々この土地に住み続けてきた人間であったなら、それは確かにその通りと言えるでしょう。祖の代よりこの土地にあり、我々がゲドウの脅威から守り続けてきた人間の孫であるならば、その者は我々に神力を与え、助ける義務を生まれながらにして持っているのですから。ですが貴方は違う。貴方は物を学ぶ為、ほんの一時この地を訪れている客人まれびとに過ぎません。この地に根をおろす訳でもなく、時が来れば去り行きし者。本来、我々の契約には勘定されておらぬ存在ですゆえ」
 この契約にて二人が為すべきは、ゲドウを封じ、村の者達をその脅威より守護せしこと。よそ者意識が強かった当時に交わされたそれだ。五年や十年、一代や二代その地にいたからとて、そう簡単には土地の者として認められなかった時代。直人のように出て行くことが定められた存在など、どうして契約の内に数えられようか。
“おぬしがおらなんだら、封印などとうの昔に解けておったわ。おぬしは求められるよりも多くのことを為しておる。それ以上を望むのは、むしろ分をわきまえぬというものよ”
 人にはできる事とできない事があるのだ。あれもこれもと欲ばるのは、愚か者のすること。契約のことなど何も知らぬままに、直人はその遂行を助けてくれた。むしろ彼には感謝しなければならないくらいだ。
「ん……」
 そこまで言われては、直人もうなずくより他ない。
 しばらく場には沈黙が漂った。再開された手の動きに、次郎丸も再び身体の力を抜く。
「 ―― そろそろおなかが空いたでしょう。食べませんか?」
 沈んでしまった雰囲気を変えるように、太郎丸がコンビニの袋を引き寄せた。
 時刻は既に昼をまわっている。夕べの騒ぎの後、ショックを受けていた三人をそれそれの自宅へと送り届け、いろいろと熟考した上で買い物にゆき神社にやってきた直人は、まったく一睡もしていなかった。そこでまた太郎丸と一悶着起こし、ほとんど意識を失うように眠りに落ちた後は、心配事が解決したこともあって思いきり熟睡してしまったのである。結果、夕べから半日以上腹にものを入れていない訳であって。その提案はいきなりなではあったが、非常にありがたいものでもあった。
「だけど……それは、あんたらに持ってきた物だから……」
 二十四時間営業のコンビニエンスストアの商品では、ありがたみも何もあったものではないが、それでも供物は供物。直人が横取りするのは気がひけた。
「こめられた想い、こころざしは確かにいただきました。役目を終えた供物は、信者に下げ与えられるものです」
 神に物を供えるという、その行為が大切なのであって、供えられる物それ自体にはさほど意味がないのだ。大切なのはその供物に、人間がどれほどの、どんな想いをこめているかということなのだから。 
 近頃でもごくまれに、この社に賽銭だのお供えだのを置いていく人間はいた。しかしそのどれもが、誰それとの恋愛を成就させてくれだとか、今度の試験で良い点を取れますようにとかいった、この社の意味もわきまえぬ身勝手な願いをこめられた品ばかり。しかも詣でるのはその時限りの、まさしく『苦しい時の神頼み』だ。そんな代物など、とてもではないが受け取れたものではなかった。神力の足しにならぬだけならばまだしも、下手な想念に悪影響されでもしてはたまらないではないか。
 その点で、直人の持ってくる物はいつも安心して受け取れた。具体的な願いまでは感じとれぬほど、穏やかな想いを帯びた品々。けれど、こめられた神への畏敬の念だけは読みとれた。封印を守護する神狐へと、力を与えるのにふさわしいそれ。
「どうぞ」
「あ、ありがとう……」
 太郎丸が差し出した赤飯を受け取る。
“我にもくれ”
 次郎丸が催促した。
「どれにします」
 袋の中身を床に並べながら訊く。次郎丸は身を乗り出して、熱心にその手元をのぞきこんだ。稲荷寿司、おはぎ、赤飯、胡麻団子……
 瞳をキラキラと輝かせて見入っていた次郎丸は、最後に取り出された品物に、ふと首をかたむけた。
“何だそれは?”
「酒では、ありませんね」
 太郎丸も同じように首をかしげる。黄緑とえんじ色でペイントされた、250mlのスチール缶が二つ。これまで供物として持ってこられた中には、ついぞ見たことのない品だ。
「あ……それは……ッ」
 直人が少しばかり焦った声を出す。太郎丸は缶を回して商品名を見た。
『おしるこドリンク』
 一瞬、時が止まったかのような空白の時間があった。
「あー……その、だから……つまり……」
 金髪金目、神秘的な雰囲気を持つ白晰の美青年が、おしるこを持って固まっているという光景。それに予想以上に動揺しつつ、直人は言葉を探して意味もなく接続詞を並べ立てた。
「寿司とか買ってたらさ、その……酒買う金がなくなっちゃって。ほら、おしるこって、おはぎや赤飯と材料いっしょだし……」
 ははは、と乾いた笑いなどしてみせる。なにしろ酒は高いのだ。清算の途中で金が足りないことに気が付いて、焦って見まわした先にあったのがそれだったのである。二本で176円。ちなみに現在の直人の所持金は、13円である。
 ついでに解説させてもらうと、稲荷神に対する供え物に油揚げや赤飯などが多いのは、それなりの理由が存在する。
 そもそも稲荷いなり神がどういった神なのかということについては、イナリを異形イナリと読んで獣が人と化した神なのだとか、鋳成イナリと読んで金属を産み出す鉱物神なのだとかいった、様々な説がある。もっとも多いのは、稲成イナりと読む、穀物神だという考え方である。狐の体色、金茶は大地の色・土の色と同じである。故に彼らは土のさがを持ち、その土から生じる穀物を守護する神なのだ、と。だから人はその恩恵に感謝するために、与えられた恵みの一部である五穀を供えるのだ。油揚げは大豆が原料。赤飯やおはぎは米と小豆だ。さらに陰陽五行説によれば、火生土かしょうど、火は燃えることで土(灰)を生み、土に力を与えるという。小豆は土に属する穀物でありながら、その赤い色ゆえに火の属性をも兼ね備えている。土の性持つ狐にとっては、二重の意味で力を与えてくれる供物なのである。
 それを踏まえれば、直人がおしるこを持ってきたことも、あながち間違いとは言えない。それにさっきも言ったように、捧げられる供物において一番大切なのは、そこにこめられた想いなのだ。直人が心底から二人のためを想って用意した品々である以上、酒だろうがおしるこだろうが牛乳だろうが、そのもたらす神力に大差はないはずだ。
 ……とは言え、やはり、その、
「お心遣い、ありがとうございます」
 太郎丸はにこりと微笑んで礼を言うと、手にした缶をさりげなく脇へ置いた。おはぎのパックを開けて、次郎丸の鼻先へと置く。
 しばらくの間、一同は無言で食事を続けた。だいぶ固くなった赤飯を口に運ぶ直人は、先刻の会話を思い出している内に、ふと疑問に思える点があることに気が付く。もくもくと口の中身を咀嚼そしゃくし、きちんと飲みこんでから質問する。
「あのさ ―― 」
“どうした”
 口が塞がっていようと関係ない、次郎丸が応じる。
「あんたらとゲドウって……どう違うんだ?」
“………………全く違うとは、思わんのか?”
 長い沈黙ののちに、ようやく答える。
 祟りを為したゲドウの狐と、それを封じた側の稲荷の神狐。確かに曖昧な口伝のせいで混同されてしまったむきもあるが、その点の説明はきちんとしたはずなのに。それとも彼は、二人の話を全く理解できていなかったとでもいうのか!?
 あ然とした顔をする二人をよそに、直人は箸を置いて考え込むような素振りを見せた。
「夕べ見たゲドウとあんた達は、全然違って見えた。言葉の上では同じ『狐』でも、さ。だけどやっぱり、同じ狐に違いはないんだよな。あんたら神狐は、妖狐が人間と契約することで神としての名を得た。つまり神になる前は、ただの狐の妖怪。あのゲドウだって、そうなんだろ? 狐持ちの人間に使役される、ゲドウ狐になる前は、あんたらと同じ妖狐だったんじゃないのか? それならもっと似通ってても良さそうなものなのに、本当に全然違ったから……一体どこで『どう』違ってしまったのかな、って」
「ああ……なるほど、そういう意味ですか」
 ほっとしたように息を吐く。これで本当に判っていなかったのなら、どうしようかと思うところだった。
「だいたい、ゲドウ……つまり憑きものだって、ある種の神とみなされるだろう? 憑霊信仰って言ったっけ。犬神いぬがみ憑きなんか実際に神って字が入ってるし……人間と契約を交わして、その願いを叶えてくれる。お礼に人間は祀って感謝するって関係からいけば、神も憑きもの筋の憑きものも、その規模の大小以外は全く同じじゃないか」
「……ずいぶん詳しいんですね」
 今度は感嘆の息を吐いた。
 憑霊信仰ひょうれいしんこう、判りやすく言えば憑きもの信仰は、民間に古くから伝わっていたものである。巫女に神霊がのりうつって託宣を下すといった格調の高いものから、敵対する相手に悪霊をとり憑かせ不幸に陥れるといった、低次なものまで、様々な形がある。その中で共通する点は、誰かに何かがとり憑くこと。そして、崇めるにせよ使役するにせよ、何らかの形でその『何か』を祀っている人間達がいることだ。
 他者に害を為す憑きものは、憑きもの筋の人間にとっては幸を運ぶ存在であった。もしも憑きものが実在し、世間で言われているような使役関係が実在していたとしたならば、憑きものは ―― あのゲドウは、他の誰にとって化け物だったとしても、筋の人間にとってだけは『神』であったはずなのだ。彼らに敵対する者を害し、財を奪い来て、家を富ませる守り神。
 こころざしの優劣、格の上下はあったにせよ、それでも一部の立場からは『神』と呼ばれることのできた存在なのに、どうしてゲドウと太郎丸、次郎丸はこうも異なっているのだろう。
“あれは正確に言えば狐ではない。その発生からして、我らとは完全に異なる存在よ。似ておる道理もない”
「狐じゃない……って」
“我らは生まれながら、あるいは年経としふることによって、狐が妖力を持ち合わせた妖狐だ。人間が超能力者と呼ばれたり、修行して霊力を高め、坊主だの行者だのになるようにの。だが、あれは違う。あれは初めからゲドウとして生み出されたものだ。狐がゲドウと化したのではない。ゲドウが狐の形をしておるのだ”
「……よく、判らない」
 眉をしかめる。あのゲドウが狐ではないと言うのなら、では一体何だというのだろう。狐の名前と狐の姿を持っていて、それでも違うとはどういうことなのだ。
「一体どう説明すれば良いのでしょうね」
 太郎丸が思案するように視線をさ迷わせた。三百年も以前に起きた、あの理不尽で不可解な出来事を、どう口にすれば理解してもらえるだろう。
「この社を祀り続けていた血筋……かつてゲドウを使役し、他者に害をもたらしていたという、狐持ち筋。彼らは、元々そんなことなどしていなかったのです」
 ゆっくりと、言葉を選ぶように語り始める。
「それなのに、いつの頃からか彼らは、狐持ちと呼ばれるようになりました。何故なのか……理由は判りません。判らぬままに、彼らは忌避され、村から孤立してゆきました」
 そう言って、直人の表情をうかがう。道理の通らない、理不尽な話だ。当然いぶかしみ、どうしてそんなことになるのかと訊いてくるだろうと思った。が、直人は無言のままうなずいて、話の先を促した。
「 ―― あの家と関わってはならない。関わっては不幸が訪れる。そんな中傷がまことしやかにささやかれ、何代にもわたり差別が続けられたのです。やがては、その不当さを誰よりも知っているはずの、その家の者すら巻きこんで」
 執拗に、幼い頃からぶつけられる非難。
  ―― どうしてあの人を殺したのか。あの人は何も悪くなどなかったのに。
 病で死んだ男を、お前達が殺したのだと決めつけられる。
  ―― おれの畑が不作だったのは、あいつが収穫を盗んでいったせいだ。
 理不尽な言いがかりさえも、当然のこととして認められる。
 あいつに近づくな。関わるな。さもなくば殺される。奪われる。気が狂うぞ。祟られよう。
 縁組みを拒否され、その持ち物を売買することすらもいとわれて。
 当たり前のように語られる言葉は、やがて洗脳するように、被害者であったはずの者達の意識まで染めてゆく。
 自分達は本当にゲドウを使役しているのだ。他者の幸運を奪い取っているのだ。彼らはじょじょにそう信じ、それを受け入れていった。
「あるいは、信じることでしか、救いを見いだせなかったのかもしれません」
 だからこそ、差別されても仕方がないのだ。そう、自分達はきっと、差別されるだけの幸せは手に入れているはずだ。だから……差別に苦しむ必要はない。今の境遇をいとうことはない。この差別が失われる ―― ゲドウを使役していない状態になったならば、その時にはもっとひどい不幸が待ち受けているのであろうから。
 その差別が正当なものであると、理不尽なそれではないと信じようとすることで、少しは慰めになったのかもしれない。
「哀しいな」
 直人がつぶやいた。
 そして、その哀しい思いこそがゲドウを生み出したのだ。
 筋の者達にとって、いつしか救いにすらなっていた、ゲドウの存在。自分達の苦しみを押しつけ、今の境遇を肯定するために、彼らこそがゲドウの実在を欲した。自分達が使役し、わずかでも幸いを運んできてくれているという、憑きものの狐を。
「人の想いはこわいもの。ゲドウの実在を幾代にもわたって望み続けた狐持ち達の祈りと、ゲドウを忌み、恐怖する村人達の念とがこごり、合わさり……自我と実体を得て動き始めました。誰もが信じ、そうあるだろうと思い描いた、ゲドウそのものとして ―― 」
 人の想いには力が宿る。そして、祈りと恐怖とによって方向付けられたその力は、こめられた想いのそのままに具現化される。悪意と邪心の持ち主、道に外れしもの、外道ゲドウとして。
「この世で一番畏ろしいのは、他でもない、人間か……」
 直人が太郎丸の言葉を繰り返した。
「そういえば昔、知り合いが言ってたよ。あやかしは人間を殺すことがある。けれど、人間は妖を殺すこともすれば、生み出すこともする。そして、人間の想いが生み出した化け物こそが、もっとも恐ろしいんだ、って」
“真理だな”
 次郎丸が断じた。
「良い知り合いをお持ちですね。真実をきちんとわきまえている」
 人間が化け物と呼び、忌み恐れる者達は、他でもない人間達の恨みや憎しみ、妬みと言った怨念から生み出されているのだ。そのことを、ちゃんと理解している。
「高校ん時に、知り合ったんだ」
 複雑な、どこか後ろめたさのようなものを含んだ口調。手元に落とされた視線が見つめているのは、いったい何時いつの光景か。
「俺さ、前に近所の祠にあった御神体を、面白半分で壊しちゃったことがあるんだよ」
“それは……また……”
 言葉のないらしい次郎丸に、直人も首を振る。
「馬鹿な話さ。祟られて、本気で死にかけた。そこをそいつに助けてもらったんだ」
 詳しく語りはしない。そのことがいっそう、当時の深刻さをうかがわせた。本当の恐怖は、どんなに言葉を尽くしたところで語りきれるものではない。もう少しで死ぬところだった。その一言で、どんな目にあったのかを察するには充分だ。
「ものすごく怒られたよ。どう考えたって、悪いのはお前達の方だ。もしもその神が許してくれなかったなら、自分は土地神の方に味方する。祟られでも殺されでもして、自分達のやったことの責任をとれ、って」
 辛辣な台詞を再現して苦笑いする。
「結局、そいつの説得のおかげで土地神の方が折れてくれた。俺も命拾いして、ここにいる。だけど ―― それは俺が悪くなかったからじゃないし、やったことを償ったからでもない。全部、そいつの説得と、土地神の厚意のおかげだ。
 ……そんなの、ずるいよな」
 行為の尻ぬぐいをみんな他人にさせて、そして自分は生き延びた。己の愚かさで始まったことを、傲慢なままに終わらせた。そんなことが、はたして許されて良いのか。
 否だ。
 許されるはずなどない。己の愚かさ、卑怯さ、傲慢さを、たとえ他の誰が許してくれたとしても、自分自身が許せない。
 だから、
 二度と同じことは繰り返さない。無知ゆえにと、愚かなあやまちを犯しはすまい。相手が化け物だからと、己のとがから目を逸らすな。自分の行いの責任は、たとえ命に代えても、自分でとる。
 そうでなければならないと、そのとき自分は教えられたのだ。
「だから、ですか」
 太郎丸が得心したようにつぶやく。
 この青年が、どうしてああまでも真摯に神仏を畏怖していたのか。自分達、稲荷の狐やゲドウの存在を認め受け入れ、対処できたこと。オカルトおたくの恵美や涼子に劣らぬほど ―― いや、それ以上の知識を持っている理由も、それで納得できる。それから……
『……それ、で……次郎丸が、助かるんなら……』
 太郎丸に生き肝を要求され、鋭い牙の前にその身をさらしながら、それでも彼はそう言った。
 二度とあやまちは犯さない。自分の責任は自分でとる。そう口にするだけならば簡単だ。けれど、直人はそれを実行しようとした。恐怖し、怯え、全身をわななかせながら、それでも己に課した誓いを果たそうとしていた。
 あやまちとは、誰でも犯してしまうものだ。それは太郎丸や次郎丸達、神だとて同じこと。この世に全知全能の絶対者は存在していないのだから。しかし、一度犯したあやまちを正面から見すえ、その教訓を以降に役立てることができたとき、そのあやまちは経験という名を得て、正当なものへと変化する。
 この青年はそれをやり遂げたのだ。
 温かな目で見る太郎丸達の前で、直人は遠くへと合わせていた焦点を、再び現実に戻した。まっすぐな、真摯な面持ちで二人を見つめる。
「あんたらがゲドウを封じ直すの、俺も手伝う。いや、手伝わせてほしい。俺は、次郎丸を怪我させてしまった償いはできたかもしれないけど、あんたらの邪魔をしてしまった分は、まだできていないから」
 囮でも何でもかまわない。どうか力を貸させてほしい。
「 ―― こちらの方から、お願いしようと思っておりました」
 太郎丸がうなずく。
 膝をただし、すっと姿勢よくその背が伸ばされた。次郎丸が膝から下りて、直人の方へとむき直る。とった姿は違えども、黒白こくびゃく二匹の稲荷の神狐が、神秘的な雰囲気をまとってそこにあった。
 瞬時にして、場の空気の色が変わっていた。ひっそりと静かな、しかしその奥底にぴんと張りつめたものをはらんだ、神域の空気。
 縦に長い瞳孔を持つ、人外の瞳が二対、黄金色に輝いて直人を射抜く。
「我ら、ゲドウを封じし社が神狐。これなるは金気ごんきを生み出す白狐が太郎丸」
“同じく、水気すいきを制する玄狐げんこが次郎丸”
 それぞれに名乗りを上げる。
“我ら二匹、れの身を守護し、ゲドウの跳梁ちょうりょうを防ぐに力尽くすことを、ここに誓おう”
「見返りは汝が祈り。その祈りもて神たる身に、神力を与えしこと。承服とあれば、名をこれに」
 促されて、直人はこくりと唾を呑んだ。緊張して渇いた喉を、そうして湿す。
「直人。河原直人だ」
 名とは単なる音ではない。直人という存在そのものを表す言葉だ。
 言葉というものが、単なる情報伝達の手段という、音の羅列と化す前の、嘘という概念すら存在しなかった頃、言葉は大きな力を持っていた。言葉として発せられた約束は、その通り守られることが不思議でも何でもなかった。
 証文を交わした訳でもない。破棄した場合の罰則が定められているのでもない。けれど、名乗って交わした約定は、たがえられてはならぬもの。自分自身の存在すらかけて。契約とは、本来そういうものであるのだから。
 特別な力など何も持たぬ、一学生と、神力を失った稲荷の狐。
 儀式などなく、呪文のひとつも唱えず、朽ちさびれた社の中で、新たな契約は静かに結ばれた ――


*  *  *


 陽が沈み、あたりが夜のとばりに閉ざされると、社のたたずまいはいっそう神秘的なものを増した。
 頃はそろそろ9月の半ば。夜ともなれば虫の鳴く音が聞こえてくる時分だ。しかしここは違った。周囲を田んぼと雑木林に囲まれた自然色豊かな場所でありながら、しんとした静けさが境内を満たしている。まるで今夜に限り、生き物という生き物がみな、この社に近付くまいとしているかのようだ。実際、いつもならやって来て騒いでいる学生どもも、今日は訪れる気配さえ見せない。
 己の呼吸する音がやけに大きく聞こえて、直人は思わず胸元を手で押さえた。息を殺そうと試みて失敗し、かえって大きく息をついてしまう。
「…………」
 狼狽したようにあたりを見まわして、ここにいるのが自分ひとりなことを思い出す。肩から力を抜いて、背中を丸めた。
 直人が座っているのは、御神体の狐像の正面だった。正確には、むかいあう二匹の狐に挟まれた、床の穴の正面だ。時刻はそろそろ日付の変わる頃。明かりひとつない暗い社内を、差し込む月光がほのかに青く浮かび上がらせている。 祈りに距離は関係ない。おぬしは安全な場所にいろ、と二人が直人を置いて出て行ってから、ずいぶんと時間が過ぎていた。最初は言われた通り一心に、二人がゲドウを倒せますようにと祈っていた直人だったが、刻一刻と時がたつにつれ、その集中が乱れてきた。
 直人はメンタルトレーニングだの座禅だのをやったことがある訳でもない、ごく普通の学生だ。ただ座して祈りを捧げるなどという行為を、3時間も4時間も続けていられるほど、達観できてなぞいない。まして自分の祈りが本当に彼らに届いているのか、実感すらできぬ状況。今この瞬間にも、彼らは町のどこかで危機に瀕しているやもしれぬのに。
 自分がいたとしても足手まといにしかならないことは、昨夜の件で充分に判っている。それでも、今すぐ彼らの元へと駆けつけて、その無事をこの目で確認したい。自分が確かに彼らの役に立っているのだという、証拠がほしい。ただひとり、危険から離れた場で安穏としているのは耐え難かった。
 祈るばかりではいられない。祈るほかにも何かしたい。自分に何かできることはないのか。 ―― だが祈りをたやしてはいけない。祈らなければならない。一心に。しかし心配だ。彼らは無事なのだろうか。いや考えるな。今は祈りこそが大切なのだから。祈れ。ひたすらに。祈らなければ、ならないのに……
 焦る心は雑念を呼び、祈りに雑念が混ざることは、さらなる焦りを誘発する。
「 ―― くそッ」
 吐き捨てて、直人はぶんぶんと頭を振った。脳みその中をぐるぐると巡っていた思考を振り払い、あぐらを解いて立ち上がる。
「祈りひとつ満足に捧げられないのか!」
 自分で自分を罵倒する。そのまま直人は足を外へ向けた。こんな雑念ばかりの状態では、届く祈りも届くまい。夜気にあたって少し頭を冷やした方がいい。
 社を出て空を見上げると、満月をわずかに欠けた、見事な月。
 ……そういえば、次の十五夜は中秋の名月だ。ここでなら、あたりに街灯も民家の明かりもほとんどないから、さぞや風情のあるお月見ができることだろう。
 晧々とした銀盤を眺めていると、少し気分が落ち着いた。ひっそりと静かな空気が、改めて身に染みこんでくる。
「人の想いはこわいもの、か……」
 ひとりごちる。
 自分の祈りが『神』に力を与える。今にも死にゆこうとしていた次郎丸を、この世に引き戻しさえした。それが信じられなかった。
 彼にとって、今回のような経験は初めてではなかった。例の知り合いの関係で、様々な人間ひとならぬものや呪術者達と出会ったことがある。それらの存在が架空のものではないことを、直人は嫌と言うほど知っていた。
 けれど、
 彼は今まで、単なる傍観者でしかなかった。特殊な力を持っているのは、いつも別の誰か。生まれながらに異能を持つ者、あるいは厳しい修行によってその潜在能力を開花させた者達。直人は常に、守られるだけのお荷物であった。当然だ。彼はどこにでもいるような、ごく当たり前の一市民でしかないのだから。
 それなのに、直人は今ここにある。とるに足らぬはずの一般人の祈りが、神にとっての力となるから。同じように、何の力も持たなかった人々の祈りが、ゲドウという名の化け物を生み出したように ――
「考えてみれば、ゲドウもかわいそうな奴だよな。勝手に悪者にされて、最初から悪者として生まれて……それじゃあ、あいつも立つ瀬がないよな」
 一説によると、狐憑きとは村八分を合理的に行う為に考え出された、方便の一種であるという。
 憑きもの筋の家系に裕福な家が多いと述べたのは涼子であったが、これは実際のところ、あながち嘘でもない。村落内の一定水準よりも富んだ家、ことにある時より急速に財を蓄えた家筋が、『持ち』と呼ばれるようになる傾向があるのだ。
 それまで他と変わらぬ暮らしをしていた者が、ある時ふと、何らかのきっかけで成功をおさめ、一歩ぬきんでる。そうなれば当然、他の者達はおもしろくない。自分達だって、そいつと同じように汗水たらして働いているというのに、どうしてそいつだけが富み、自分達は貧しいままなのだ。羨み、妬むのは誰もがすることだろう。しかし、自分達の努力が足りないとは考えないものだ。あいつは運が良かっただけなのだと毒づいてはみても、まだ気持ちは収まらない。
 自分達は悪くない。悪いのはあいつの方だ。だからあいつを妬んでも、自分達に非はないのだ。
 妬む心の醜さを正当化し、合法的に相手へ八つ当たりできるよう、彼らは考える。いや、合法的に転じさせることで、それは八つ当たりではなく、必然的な罰と化す。
 あそこの家が急速に富んだのは、本来うちの物である財を盗んでいっているからだ。だからうちはいつまでも貧しいけれど、それはうちが怠けているからではない。何もかもあそこの家のせいなのだ。
 いくらなんでも無茶なこじつけだ。天才的な大泥棒でもあるまいに、そうそう他人の所へ盗みに入って、見つかりもせずに逃げられるはずがなかろうに。そんなふうな反論に、彼らはこう答えてよこす。
 あそこの家では、不思議な生き物を飼っているのだ。その生き物は、どんな小さな隙間からも忍んでき、財をくわえて行ってしまえるのだ。だから誰にも防ぐことはできない。相手は化け物を使っているのだから。
 理に合わぬことは摩訶不思議な妖術へと押しつけ、彼らは胸を張って主張する。だからあの家は罰せられてしかるべきなのだ、と。
 憑きものを使役し、悪事を働くから迫害されるのではない。迫害するための理由として、憑きものの存在と悪事を推測してゆく。その課程で推測は既成事実へと変わり、まことしやかな噂は、尾をつけ鰭をつけ、具体化してゆく。
 さては先日うちの倉をのぞいていた狐は、狐持ちの操るものであったか。このあいだ道で蛇を見たあと財布を落としたが、ではあれも。そう言えば、あの家で犬が死んだというが、きっと自分で殺して犬神にしたのに違いない。噂は噂を呼び、伝聞は断定と化す。
 おさき狐。鼠とイタチの雑種のような外見をしており、色は橙もしくは茶、灰色。頭から尾まで黒い一本の線が入っているものもある。これは飼い主の無意識中の殺意や欲望を読みとり行動に移す性質を持つ。代々持ち筋の家系の女性に受け継がれ、その数は七十五匹にもなるという。
 とうびょう。杉箸すぎばしほどの大きさの蛇で、身のうちは淡黒色、腹部だけは薄黄色で、顎の所に環の模様がある。台所の地中に埋めたかめで飼い、酒を注いで養う。使い手の恨みを受けて、他者の皮膚と肉の間に潜り込み、責め殺す。
 犬神。飢えた犬を頭だけ残して土中に埋め、その目の前に肉を置いておき、飢え死にする寸前に首を跳ねて殺し作った悪霊。これが憑くと驚くほどよく物を喰い、死ぬとその全身に犬の歯形がついている。
  ―― 人間の心が生み出した、悪の化身。語られるその恐ろしさとは裏腹に、不合理さを、妬みを憎しみを押しつけられ、切り捨てられる犠牲の羊。
 架空の存在であったならば、それもまた良かったかもしれない。迫害を受けていた筋の者にとってさえ、憑きものはスケープゴートとなり得たのだから。
 けれど、ゲドウは実体を持ってしまった。血を得、肉を得、心を得て存在してしまった。最初から、憎まれ、恐れられる、そのためだけに。もう持ちの血筋は絶えてしまったというのに、いまだに彼らに向けられる非難を正当化するために悪事を働き続ける。それはあまりに哀れと言えるのではないだろうか。
 ……それとも、最初から『彼』には辛さを感じる心など、備わってはいないのか。
 沈んだ表情で物思いにふけっていた直人は、ふと何かを感じて顔を上げた。誰かに呼ばれたような、そんな気がして周囲を見まわす。
“直人!”
 今度こそ呼び声が脳裏に響きわたった。同時に白い流星が視界に飛び込んでくる。
“逃げなさいッ!”
「え……」
 雑木林の梢を軽々と越えて、地に降り立った白狐は、間をおかず再び跳躍した。何事かと戸惑っている直人の襟をくわえ、急ぎその場を飛び離れる。
 一瞬おいて、それまで直人が立っていた位置にゲドウが着地した。やはり木々を飛び越えてきた巨体は、地響きすらたてた気がする。暗がりに浮かぶ燠火色の目が、タッチの差で獲物をかすめ取った太郎丸を捕らえ、憎々しげに歪められた。
「あ、ゲドウ……何でここに?」
 いきなり姿を現したゲドウに、直人はついそんな間の抜けた言葉を口走っていた。この場所は、ゲドウが長年にわたって封じ込まれていたところだ。そして太郎丸と次郎丸に対する信仰の象徴でもあった、社のある場。故に封印から解放されたゲドウは、ここには近付こうとしないであろう。太郎丸と次郎丸はそう主張していた。だからこそ、直人を一人で放置しておくという真似ができたのだが。
“判りません。急に方向を変えたかと思うと、一直線にこちらへ”
 直人をかばうように前に立ち、頭を下げて威嚇しながら太郎丸。よほど必死に先回りしたのだろう。その背が大きく上下している。
 着地に失敗して尻もちをついていた直人は、前かがみになると、姿勢を変えた。足を引き寄せ地面を踏み、いつでも立って走り出せるよう、準備する。
「戦況は」
“四分六分です”
 端的な答え。ふさふさとした襟巻きのような尾が、ぴんと立てられた。その尾をうねるように打ち振ると、周囲に青白い火花が飛び始める。それは即座に大きく育ち、いくつもの狐火となって彼らを取り囲んだ。
“直人! 無事かッ”
 遅れて現れた次郎丸が叫んだ。ゲドウの注意が一瞬そちらへと逸れる。その隙を逃さず、太郎丸は全ての狐火をゲドウへと放った。同時に地を蹴って、後を追うようにつっこんでゆく。その姿はなめらかに人型へと形を変えた。自由になった二本の腕が、器用に動いて狐火の動きを操る。
 己を囲いこもうとする光が生み出す、青い軌跡に眩惑され、ゲドウは闇雲にその場から逃れようとした。数ヶ所毛皮に焦げ目を作りながら、強引に光の籠を突破する。が、その正面に次郎丸。
 右耳を喰いちぎられたゲドウは、怒りの咆哮をあげて猛り狂った。
「やった!」
 拳を握って快哉を叫ぶ。と、次郎丸が振り向いてわめいた。
“早く逃げぬかッ”
 切羽詰まったその声に、反射的に腰を浮かせる。しかし何もそれほど必死になることもないだろう。二人の攻撃は見事に効果を上げている。昨夜の恵美のように余計な手出しをする者がいない以上、そう苦戦することはないだろう。できることなら、この目で決着を見届けたいのだが。
 そんなことを考えていた直人は、続く場面で己の呑気さを思い知らされた。
 大きく打ち振られたゲドウの前足が、まともに次郎丸をとらえた。ゲドウの半分もないその身体は、ひとたまりもなく地に叩きつけられる。続いて方向を変えたゲドウは、近くまで来ていた太郎丸に頭から突進する。正面から腹へとぶち当たられて、太郎丸は声もなく跳ね飛ばされた。
「次郎丸! 太郎丸!」
 思わず叫んで立ち上がる。二人とも、とっさには起き上がることができないでいた。何もできないと判ってはいても、ついそちらの方へと駆け寄ろうとする。
 が ――
 その直人の正面に、ゲドウの狐が立ちふさがっていた。
 大型肉食獣の巨体と迫力。禍が禍がしい瘴気をその身にまとい、赤く燃える目で直人を見つめてくる。
「……っ」
 一瞬で直人の喉が干上がった。その姿が大地を蹴って突進してくるのを、まばたきひとつできぬまま、見つめているしかできない。
“直人ッ!!”
 次郎丸が絶叫した。
 さっきの太郎丸と同じように、ゲドウの身体がまっこうからぶつかってくる。
  ―― そして、するりと直人の中に入りこんだ。
「あ……?」
 想像した衝撃も何もないことに、直人はきょとんと目をしばたたいた。あ然とした面もちで、ゲドウが消えた腹部を見下ろす。別に何も異常は見られない。服は破れてもいないし、ゲドウの毛筋一本残されている訳でもない。あれほどの存在感を持っていた巨体が、文字通りかき消えてしまっている。
「な、に」
 おそるおそる腹のあたりを押さえようとする。と、急に視界が暗くなった。がくんという衝撃が来る。自分が膝をついたのだと認識した時には、既に地面に倒れ伏していた。
「……う、ぁッ」
 胃のあたりに、猛烈な不快感を覚えた。思わず両手で腹を抱え込む。背中を丸めると、どっと冷や汗が吹き出した。
「なんだよ……これッ」
 苦しさを紛らわせるように、無理矢理声を絞り出す。
 と、その手の下で、もぞりと何かが動いた。そこに、何かがいる。何かがいて ―― 皮膚と肉との間で、蠢いている。次の瞬間、すさまじい激痛が全身を貫いた。
「 ―― ッ」
 直人は、声も出せずにのたうちまわった。おぞましさと苦痛とに、全身の毛穴が開いたような心地がする。
 狐にとり憑かれた者は、総身がおこりのように震え、狂乱して熱を発し、苦悶するという。そして皮膚と肉の間にもぐりまれ、あるいは腹中に入り、ついには内蔵を喰い荒らされてしまうとも。
「直人!」
 砂利を踏む音が間近でして、冷たい手が直人に触れた。いささか乱暴とも言える手つきで肩を引き、身体を仰向けにさせる。
「しっかりしろ。いま落としてやるから!」
 言葉と同時に、カッと腹部が熱くなった。不快な熱ではない。じりじりと灼かれそうな、それでもこの苦しみに比べれば、心地よさすら感じさせる熱さ。
 ふっとその熱が消えると同時に、全身を襲っていた苦痛も抜き取られたように失われた。
「大丈夫か?」
 何も見えていなかった視界が、ぼんやりと焦点を取り戻す。人型をとった次郎丸が、どこか情けなさすら感じさせるほどの気遣いを精悍な顔にたたえ、問いかけてくる。
「ぁ……」
 答えようと直人は口を開きかけたが、とても言葉を紡ぐことはできなかった。まるで鉛でもつめこまれたかのように、身体がぐったりと重く、だるい。冷えた汗が体温を奪ってゆき、濡れて肌に貼りつくシャツが気持ち悪かった。
 直人の腹に腕をつっこみ、無理矢理ゲドウをひきずり出した次郎丸は、彼をいたわるように強く抱きしめた。その背中に、太郎丸の叫びがかかる。
「後ろ!」
 言葉と同時に、太郎丸のはなった火球がゲドウの鼻先で爆発した。次郎丸にひきずり出され、放り出されたゲドウが、報復を阻止され後ろに吹っ飛ばされる。
 しかし至近距離で炸裂した勢いで、次郎丸達も反対側に飛ばされることとなった。直人をかばってもろに衝撃を受けた次郎丸は、うめき声を上げてうずくまる。無理もない。いくら外見上は元に戻っていたとはいえ、彼はつい今朝がた死にかけたばかりだ。全快などしているはずもない。今こうして立ち回りを演じていられる、その方が不思議なくらいなのだ。
 一方ゲドウはといえば、昨夜受けたはずの傷は、全く見あたらなくなっていた。それどころか、ついさっきできた毛皮の焦げ跡すらも、心なしか小さくなっている。
 攻撃の技術や成功率は、太郎丸達の方に分があるかもしれない。しかし回復力となると、ゲドウの方が段違いに上だった。いくら手傷を負わせても、それはいっそうゲドウを猛らせるだけで、ほとんどダメージとなっていないのだ。そしてゲドウの攻撃は、確実に二人の力を削いでいる。分が悪いのは、こちらの方だった。
 それでも直人がいたからこそ、四分六分の四分であれたのだが……
「立ちなさいッ、直人!」
 ゲドウの動きをひとりで抑えながら、太郎丸が叫んだ。
「立って逃げるんです。早くッ」
 何故だか判らないが、ゲドウは直人に興味を覚えているようだった。今も、太郎丸を振り切って直人に近付こうと、執拗に動いている。このままここに彼を置いておくのは危険すぎた。
 ぴくりと動かされた直人の肩を、うずくまったままの次郎丸が、手を伸ばして押しやる。
「そうだ……行け。祈りは、何処からでも、届く……」
「け、ど……」
 確かに直人がこの場に留まることは、彼らの足手まといになることでしかなかった。ここでひとり逃げ出すことは、けして悪いことではない。むしろ自分のなせるただひとつ ―― 祈りを捧げることを行うため、有効な手立てだ。そう判断できるだけの頭を、直人はきちんと持ち合わせていた。持ち合わせては、いたのだが……はいそうですかと逃げ去って、ひとり安全な場所で勝利を祈るなどと言う真似など、到底できはしなかった。それは先刻までの心理状態で、よく判っている。しょせん彼は、何もかもを割り切って、理屈で行動できるほど人間ができてもいないし、冷めてもいないのだ。たとえここにいても、どうにもできないのだと判ってはいても、苦戦している彼らを置き去りにするなど、どうしてもできなかった。それに……
「……ご、めん」
 つぶやいて、直人は必死に持ち上げようとしていた頭を落とした。地面に食い込むほど力を込めていた指を、力無く握りこむ。頬が砂利でこすれ、ざらりと鳴った。
 情けないぐらい、全身が重く感じられた。立ち上がって逃げるどころか、這いずることすらおぼつかない状態。
「動け、な……」
 言葉の途中で息が詰まった。あまりのみっともなさに、涙がにじんでくる。
 これでは夕べの恵美達のことなど、何も言えはしなかった。文字通り、正真正銘の足手まとい。彼らの手伝いどころの話ではない。力を貸す? 償いをする? どのつら下げて言えた言葉か。己が身ひとつ守れぬくせに、戦いを二人に任せて、自分は結果を見届けたいときたものだ。二人の苦戦に気付きもせずに。
 よく見てみれば、判ったはずだ。次郎丸の息の荒さと、それに相反する顔色の悪さ。太郎丸のコートが幾重にも引き裂かれていること。 ―― 彼らのとる人型が仮りそめのものである以上、まとった衣服でさえも、その身の一部であるのだ。
「ごめ……」
 悔やんでも、謝っても、動く力は出てこない。逃げることなどできはしない。状況は変わることなく、直人はここに転がっているしかしようがない。
 ならば、今やれることはひとつだけだった。自分は何のためにここにいたのか思い出そう。それ以外に、やるべきことなどありはしないのだから……
 うずくまった体勢からなんとか立ち上がろうと、次郎丸は思うように力の入らない手足を叱咤していた。回復にはほど遠い状態だった身体は、新たな負傷と、ゲドウの放つ瘴気に蝕まれ、言うことをまるできこうとしない。悪寒と貧血。発熱するほどの体力は既にない。
 だが、それでもまだ、直人よりは動けるはずだった。自身は何の力も持つことなく、傷を負えばほんのかすり傷でも、癒えるのに数日もの時を要する、か弱き人間。彼を、守ってやらなければ。
 歯を食い縛り、渾身の力を奮い起こしていた次郎丸は、ふと全身にかかっていた負荷が軽くなったような感覚を覚え、ぱちぱちと目をしばたたいた。
 一方、ひとり直人へ向かおうとするゲドウを相手どり、奮戦していた太郎丸は、完全に上がっていた息が急に楽になったのを感じた。
 二人の体内に、ごくわずかにではあるが、とても温かな『力』が湧き上がってくる。
 少しでもいい、彼らの力になりたい。
 自分の祈りが役に立つのなら。
 彼らに力を。
 この二人の神が、その努めを果たせるように。
 願いを叶えるための祈りではなく、純粋に神そのものへと向けられた想い。何かを要求するが故にではない。ただ神を敬い、その力の増すことを望んだそれ。
 振りかえれば、見つめてくる直人と視線があった。自分自身、満足に動くこともできない状態のくせに、汗で貼りついた前髪の間から、一心に二人を案じる瞳がのぞく。
 自分ができるのは、ただ祈りこれだけだから、と。
「…………」
 知らず、太郎丸は微笑んでいた。
 既に残り少なくなった力を数個の狐火に変え、ゲドウの両目へと叩きつける。直撃は避けられたが、間近をかすめた炎に、ゲドウは一時的に視力を失ったようだった。うなり声をあげて後退し、身を低めて防御の態勢にはいる。その隙に、太郎丸は直人達の傍らへと移動した。ゲドウの方に顔をむけたまま、背中越しに問う。
「動けますか、次郎丸」
「……ああ」
 ふらつきながらも起き上がり、はっきりとうなずく。
「次で決めましょう」
「そうだな」
 短い言葉だけで、次郎丸も察した。あるいは同じことを考えていたのか。伊達に永の年月を共に過ごしてきた訳ではない。
 二人どちらも、残された力はわずかだった。いかに直人が一心に祈ってくれようとも、おのずと限界がある。もてる力を振り絞ったとしても、ゲドウを封じきれるかどうかは判らなかった。けれど、もしここで失敗してしまえば……直人は確実に殺されることだろう。それだけは、なんとしても防がなければならなかった。だから……
 その身に宿る力の全て。自分達の存在を維持する為のそれすら利用して、文字通り渾身の一撃を放つ。堕ちたりとは言え、神と呼ばれるものであれば、その存在エネルギーはかなりのものがある。二人分を一度に叩きつければ、いかなゲドウといえども、ひとたまりもあるまい。
 両者の身体から、霊気がたち昇りはじめた。太郎丸の白銀と、次郎丸の漆黒。隣り合う二つの霊気は微妙にいり混じりながらその輝きをましてゆく。
 伏した直人からは見えなかったが、二人は満足げな笑みを浮かべていた。
 存在エネルギーまでも使い尽くせば、その先に待つのは消滅でしかない。魂そのものを削って力に変換するのだ。そこには生まれ変わりも救済もありえない。
 死ぬことへの覚悟は、最初からつけていた。たとえかなうことはなくとも、命かけて神としての誇りを守ろうと、そう心に決めていた。彼らにとって肉体の死とは、あくまで次の段階へと進むことでしかない。記憶を、しがらみを、大切に想うもの全てを失ったとしても、それでもそれらは、また新たに得ることができる。自分という魂の存在が有り続ける限り。
 だから、彼らにとって死とは、恐れ厭うべきものではあるのだが、それでもまだ、それ以上に優先されうるべきものも存在するのである。
  ―― だが、死ぬことと消滅することとでは、全く話が違ってきた。
 己という意識の消失。完全なる無への移行。絶対的なそれは、あまりにも恐ろしかった。生き物である限り、本能として恐怖せずにはいられない。だが……
「直人よ。そなたに感謝するぞ」
 次郎丸がつぶやいた。
 朽ち、忘れ去られた契約に対する意地故にではなく、今この時、信者を守って果てることができる。それは、神として最高の死に様だろう。何を恐れ、悔いる必要があろうか。
「行きますよ」
 太郎丸が促した。既に視力を取り戻したゲドウが、攻撃態勢をとる。二人の様子に何かを察したのか、直人が必死に頭を上げた。しかしその口から言葉が発せられるよりも早く、二人はゲドウへとつっこむべく、大地を蹴る。漆黒の光と白銀が、流星と化して宙へと舞った。


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