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 きつね  第五話
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 明け方。まだ陽も昇りきらぬ、薄暗い時刻。
 ひとり社へと続く石段を登る、直人の姿があった。雑草に覆われ、泥にまみれたひどく歩きづらい道を、一歩一歩、踏みしめるようにして上がってゆく。
 静かだった。夏休み前に通っていた頃は、これくらいの時間から、うるさいほどに蝉が鳴いていたというのに。今朝はまったくと言っていいほど何も聞こえてこない。もう夏も終わろうとしているという事だろうか。昨日はもう少し、鳥の声などしていたような気がするのだが。
 石段を登りきると、木々に隠されて下からは見えなかった鳥居が現れる。
 境内に誰かが足を踏み入れた気配はなかった。新たなゴミもなく、破損された形跡も見られず、ただひっそりと静まりかえっている。
 いつも傍若無人に荒らされおとしめられていたそこが、今は確かに、特別な所なのだと思えた。俗世間から分け、隔てられた場。神域。
 その空気に圧倒され、直人は鳥居をくぐったところで、一度足を止めた。自分のいる場所を確認するように、あたりを見まわして、それから改めて中へと踏み込む。
「……太郎丸」
 呼んだ声は、ごく小さなものだった。
「次郎丸? いるんだろう……」
 ひそめられた、響きを押さえた声音で呼びかける。
 通い慣れたはずの場所。幾度も幾度も、数え切れぬほどに足を運んできた社なのに、今はまるで生まれて初めて訪れたかのように感じられる。新鮮さと、そして居心地の悪さと。
「太郎丸?」
 境内のあちこちを見やりながら、数歩進む。
「次郎丸?」
 左手からぐるりと右へ流した視線を、再び正面に戻す。
 そこで、立ちすくんだ。
 目の前の石畳。
 ついさっき見た時は何も存在しなかったそこに、一頭の狐がいた。
 稲荷の狐と言われて、誰もが思い浮かべるであろう、神々しさを備えた白狐。処女雪のような白銀の毛並みが、薄暗がりの中でぼんやりと浮かび上がって見える。頭頂部から尾のあたりまで、たてがみのようにきつね色の毛が生えていた。狐の体色、金茶色。それは秋に実る稲穂の色だ。
 直人がその姿を目にしたのは、ほんの一瞬のことでしかなかった。はっと目をしばたたかせた時には、そこにはひとりの青年が立ち、直人を見返している。
「たろ ―― 」
「何をしにいらしたのです」
 直人の呼びかけをさえぎって、太郎丸は問いかけた。
 丁寧な言葉遣いと、穏やかな口調。端正に整った顔にはうっすらと笑みが刷かれ、ゆっくりとなめらかな足取りで歩み寄ってくる。
 直人は動けなかった。言わなければならない事、聞かなければならない事がたくさんあるはずなのに、まるで金縛りにあったかのように、息することすらままならない。
 白いコートを揺らめかせ、優雅とさえ言える動作で傍らに立った太郎丸は、もう一度質問した。
「何をしに、いらしたというのです。今さら ―― 」
 見下ろしてくるその目には、笑みの色などかけらもなく、乾いて抑揚のない声音は、どこかゾッとするものをはらんで響いた。
「 ―― っ」
 干上がった喉を上下させ、直人は唾を嚥下した。はりつこうとする喉をどうにか湿し、答えを絞り出す。
「あ……あやまんなきゃって……あんたらに。そう、思ったから……」
「謝る?」
 単調に繰り返す太郎丸に、こくこくとうなずいてみせる。
「夕べさんざん邪魔して……俺らのせいで、ケガまでさせちゃって、だから……」
 手に提げていたコンビニの袋を差し出して、深く頭を下げる。
「謝って済むことじゃないかもしれないけど。ごめん」
 半透明の袋からは、稲荷寿司やおはぎ、赤飯といった供えものの定番が透けて見えた。
「…………」
 太郎丸はしばらく、無言で直人の後頭部を見下ろしていた。うわべだけの笑みすら消したその顔から、内心をうかがい知ることはできない。やがて、つとその手が伸ばされた。
 ハッと顔を上げた直人の首を、指の長い手がわしづかみにする。さほど力を込めたようには見えなかったのに、気が付くと直人は、石狐の土台に背中を押しつけられていた。
「次郎丸は死にます」
 太郎丸は言った。
「この程度の供物くもつでは、役に立たない。謝られても仕方がない。全くの無駄です」
「え……」
 素気ないほど淡々と言われた言葉に、直人はその内容をつかみそこねた。間の抜けた表情で、二三度まばたきする。しばらくして、ようやく言葉の意味が心に浸透してきた。
「……嘘、だ」
 無意識のうちに、否定が口をついた。鉛を呑んだかのような重苦しいものが、下腹のあたりにわだかまる。
「嘘だ、ろう?」
 今度はきちんと意識して問いかけた。そんなことなどあるはずがない。これは何かの冗談だ、と。
 そうだ、昨夜あまりにも非道いことをしてしまったから、その報復と戒めのために、彼はこんなことを言うのだ。そんなことなどされなくとも、自分は充分に反省している。いくらだって謝るし、できる償いならなんだってする。だからそんな、洒落にならないようなことを言うのはやめてほしい。いくらなんでも心臓に悪すぎるではないか。
「なぁ」
 必死に訴えかけてくる直人に、太郎丸は何も答えようとしなかった。否定の意も、肯定の意も表すことない沈黙は、しかし何よりも雄弁に問いの答えを語っていた。
「そんな……」
 呆然とした表情で、直人はかぶりを振った。認めたくないというように、何度も。
 あの男が……死ぬだって?
  ―― 総毛立つ心地がした。


*  *  *


 あれから、
 頭が痛くなってくるくらいに、多くのことを考えた。出会ってからの二人のことを、何度も繰り返し思い出して。口にした言葉、とった行動。表情の動きや口調、ささいな仕草まで、思い出せる限り記憶をまさぐった。
 彼らが退魔師などではないことは、たしかにこの目で確認した。彼らの使う不可思議な技は、人間が修行することで得られる通力によるものではなく、その身が獣のさがを持つ化け物であったこと。人間の姿に重なるようにしてあらわれた獣の相は、醜く恐ろしいものだった。闇の中で光を反射する異形の瞳も、大きく裂け、とがった牙と長い舌をのぞかせる口元も、鋭く伸びた爪を生やした節くれだった手も、みな醜悪で、おぞましいとしか思えなかった。
 あんなものは、正しい存在ではない。人でもなく、獣でもなく、双方を無理矢理重ね合わせたようなあの姿は、あっていいものではないと感じた。恐怖し身をひいたことを、自分でも当然だと思う。
 ……けれど、
 本性を完全に現わし、狐と化して夜空を駆けた次郎丸の姿は、目を奪われるほどに美しかった。黒曜石のような艶を持つ肢体は、流れるような絶妙の曲線を描き、首まわりと瞳の黄金が、黒い毛皮に美事に映える。バランスの悪い不自然さ、醜さなど微塵も感じさせない、素晴らしい造形。
 あんな姿を持つものが、はたして悪しき存在なのだろうか。
 外見など、善悪を判断する基準にはならないだろう。美しい顔をして性格の悪い者など山ほどいるし、その逆もまた然りだ。そんなことを判断の材料にするのは間違っているかも知れない。それでも……それでも、
 あんな、神々しいとさえ思える姿をとれるものが ――
 そうして思い出す。次郎丸がどうして負傷する羽目になったのかを。どうして彼らが、自分達と行動を共にしてくれていたのかを。
 どちらも直人達のためだった。直人達を、守ろうとしてくれたためだった。
『怪我をしたくなければ、離れずに歩くことです』
『させるかぁッ!』
 不愛想に、迷惑だと態度に出しながら、それでも彼らは守ってくれたのだ。守る義理など存在しない、全くの他人。勝手にずかずかと彼らの領域へと踏み込み、何も知りもしないまま、ただ好奇心だけで行動していた、この愚か者達を。
 そのおかげで自分達にはかすり傷ひとつなかった。それなのに、自分達が彼らにしたことといえば……
 彼らが本当は何者なのか、それは判らない。その昔、害を為して封印されていたという憑きものの狐なのか、あるいは別口の化け物なのか。どうして自分達をだましていたのか。いや、こちらが勝手に思いこんでいただけで、彼らは最初から嘘など何も言っていなかったかもしれない。それとも、いま真実だと思っていることさえも、すべて間違いなのか。
 何ひとつとして、はっきりとしていることなどない。だけど、ただこれだけは言えた。
 守ってくれた。助けてくれた。
 目に見える事実を無視してはいけない。たとえ相手が出会ったばかりのよく知りもしない存在であろうとも、そして人間であろうと化け物であろうと、なんにしても。
 謝罪と、感謝と、償いを。
 そして、できるならば、ことの次第の説明がほしかった。彼らを化け物と、ただ怖れいといたくないからこそ、いっそうに納得のゆく説明を聞きたい。
 のこのこ顔など出しては、どんな目に遭うかしれない。自分達のやったことを思えば、たとえ罵られ暴力を振るわれたとしても、文句など言えはしないだろう。
 それでも ――


*  *  *


 しかし、決死の覚悟に対してもたらされたのは、あまりにも重い現実だった。
 己らの為したことが、とり返しのつかない事態を招いてしまったのだ、と。失われるのは一人の ―― いや、ひとつの存在そのもの。ほんのつい数時間前まで、話し、動き、自分達を守ってくれていたそれ。
「なんで……」
 首をつかむ太郎丸の腕を、直人は震える手でつかみ返した。
「なんで、だよ。だってあんたら、すごい力持ってるじゃないか。火、出したり、ナイフ出したり……あんなことできるんなら、ケガぐらい、すぐ直せるんじゃないのかよ?」
 それこそ恵美や涼子の好きなファンタジー小説を見てみれば、善玉悪玉に関わりなく、圧倒的な自己治癒力、もしくはヒーリングの能力を持っているのが定番だ。なにしろふるう力が並ではない。あれほどの破壊力を持って立ちまわりを演じては、まともな人間なら身体がいくつあっても足りないではないか。
「破壊はた易く、再生は至難。……神力をほとんど失った今の我々では、かすり傷を癒すことすらままなりません。あれほどの怪我では、手の施しようもない」
「力を、失った……?」
「人間との契約、そして捧げられる祈りこそが、あやかしを『神』とし、神力を与えます。神が『神』として、人間の為に力を行使するのには、人間の想いが欠かせぬもの。……祈りを失い、存在を忘れられ、はふりの血すら絶えた稲荷の狐に、一体どれほどの神力が残されていると思うのです?」
 目尻のつり上がった目を細め、頬が触れるほどに顔を近づける。きらめく黄金の瞳は、縦に長く変化していた。
 『神』とは、人間の為に ―― 人間の為『だけ』に存在するものだ。自分達の安全な、幸せな暮らしのために、人は『神』を祀り、それに祈る。災いを避けたいと望む気持ちも、願いを叶えてほしいという想いも、しょせんは人間側の欲望を押しつけているに過ぎないのだ。人は神を崇め、供物を捧げ、祭りを行う。そのことこそが、神に力を与えるから。
 そして神は、人の願いを叶え、その代償として祈りを……それによってもたらされる神力を得る。
 それが太古の昔から続いてきた、人間と神との在り方。妖しが『神』へと変化する由縁。
 ―― しかし、人の寿命は短く、その世の移り代わりは激しい。重ねられる世代交代の中で、人は神との契約を忘れ、その存在を見失った。祀りはすたれ、畏敬の念は消えゆき……もはや彼らに神力を与える者はいない。妖狐を稲荷神たらしめた、人の祈りは失われた。今ここに存在しているのは、わずかばかりの妖力を持った狐の変化へんげに過ぎない。どうして瀕死の次郎丸を癒すことなどできようか。
「何も……何もできないのか」
 藁にもすがる想いで問いかけた。
「俺でできることなら、何でもするよ。祈れっていうなら祈る。供物がいるなら、いくらでも買ってくる。だからッ」
 必死の形相で訴える。
「なあ!」
「……何でもする、とおっしゃいましたね」
 太郎丸の目が、いっそう細められた。
「ああ! する。するからッ」
 即答した直人の眼前で、太郎丸はゆっくりと微笑んだ。
 温かみのかけらもない、残忍で酷薄な表情で。
「そうですか。では ―― 」
 直人を押さえているのとは逆の手を、掲げてみせる。爪が、鋭く伸びて輝いていた。
「その生き肝でも、捧げてもらいましょうか」
「え……?」
 服の胸元が、音を立てて引き裂かれた。
「人間の肝は、もっとも濃密な生気の宿る場所。喰らえば次郎丸も、少しは楽になりましょう」
 言いながら、むき出しになった素肌に指を這わせる。
 生き肝を喰らうと精がつく、というのは昔話でもおなじみのものだ。よく勘違いされているが、ここで言う肝とは、肝臓ではなく心臓を指している。古来より人間は、心臓こそが生命の中核を成し、全身のエネルギー、生命力が集中している部位なのだと考えていた。温かく赤い血液は、生命の流れ。その中心が生命の源なのだ、と。そしてそれは、あながち迷信とも言えない。
「……ッ」
 直人がびくりと身体を強張らせた。背をかがめた太郎丸の舌が、音をたてて胸を這う。鋭い犬歯が肌に当たり、赤い血玉が生まれた。じわじわと大きくなるそれを、長い舌が丹念に舐めとってゆく。
 声にならない悲鳴をあげて、直人はその頭を掴んだ。柔らかな髪に指を潜りこませ、ひき離そうと力を込める。猛獣に胸を喰い破られる予感に、全身の毛が逆立つほどの恐怖を覚えた。
 ―― が、数秒後。
 髪を引く力が失われたのを感じ、太郎丸は舌を動かすのをやめて、顔を上げた。不審そうに、己が押さえこんでいる青年を見上げる。
 直人は、その両目を固く閉ざしていた。目だけではない。やはり閉ざされた顎は、こめかみに血管が浮くほどきつく喰いしばられている。背後の石狐に背中をあずけ、太郎丸を解放した両手は岩角を握りしめている。よほどの力が込められているのだろう。指先にうっすらと血が滲んでいた。全身がガタガタと、おこりのように震えている。
 体中を恐怖に強張らせ、足元も定まらぬ程におびえた姿。
 それでも彼は、立ち続けていた。鋭い牙の前に、無防備な身をさらして。
 太郎丸はいぶかしげに ―― どこかとまどうような表情で、動きを止めていた。事実、こんな反応は予想していなかった。ゆっくりと胸から顔を離し、上体を起こす。
「何故……」
 太郎丸が口を開くと、直人の肩がびくっとはね上がった。ますます身体に力がこもり、首がすくめられる。太郎丸はかまわず言葉を続けた。
「どうして抵抗しないのです。私は貴方を殺そうとしているのですよ。命が惜しくはないのですか」
 問いかけながら、しかしそうではないことなど判りきっていた。今にも腰を抜かし、泣きわめかんばかりの怯え方は、けっして『ふり』などではなかった。当然だ。誰しも死ぬのは恐ろしい。痛いことも苦しいことも、できるだけ避けて通りたい。それはどんな存在であっても変わることのない、本能というものだ。太郎丸の行動に対し直人が恐怖し怯え、震えているのは当たり前。自殺志願者や被虐趣味者マゾヒストでもあるまいに、どうして平然となどしていられよう。
 だが、怯え、震えながらも、彼は逃げようとはしなかった。助けてくれ、殺さないでくれと口にすることすらせず、悲鳴を噛み殺し、わななく指で岩を握りしめ ―― 太郎丸の裁きを待っていた。
 太郎丸は直人を拘束する手を離した。そしてそのまま肩へと乗せる。直人ははじかれたように目を開け、顔を上げた。
「答えなさい。何故命乞いせぬのです」
「……それ、で……あいつが、助かるんなら……」
 命じられて、ようやく直人は言葉を絞り出した。乾いて貼りついた喉を何度も上下させ、震えたかすれ声で答える。
「俺らのせい……で……死ぬような目に、遭わせて……それなら、今度は俺が……助けなきゃ、って……」
 次郎丸達は命がけで自分達を救ってくれた。自分の身も守れぬくせに遊び心で首をつっこんできて、足手まといになっていたのを、見捨てもせずに。それなのに、そんな二人に自分達がしたことは ――
 恵美が持っていた護符のために次郎丸が傷ついてしまったことは、不可抗力だっただろう。二人はその正体を明らかにしていないのだ。よもやあのような紙キレが、彼らに害をなすだなどとは想像もできないではないか。また顔を灼かれた次郎丸の隙にゲドウがつけ込んだことも、間が悪かった、不運だったといえるだろう。問題は、そんなところではないのだ。
 重傷を負い、苦痛に呻く次郎丸に対し、靖司はなんと言った? 獣の性を顕わにし、力を尽くして闘う太郎丸に、涼子と恵美はどんな目を向けた? すまないと、守ってくれてありがとうと口にしたか? 心の内でだけでも彼らを応援したか!?
 見知らぬ他人に等しい直人達を、彼らは誠意を持って守ってくれた。先に彼らを化け物と呼び、怯え恐れたのは自分達のほう。礼も謝罪も忘れ、忌まわしいものを見る目で見てしまった。それこそが、一番ひどい罪だろう。
 次郎丸の命を己の命で贖うことができるのなら……もともと彼の命が失われようとしているのは、自分達四人の命を守ってくれたが為なのだ。ならば、ここで自分一人の心臓を捧げても、差し引き三人の命が救われたことになる。そう、自分達の命は、自分達自身で守るのが筋というものだ。そしてその役目には、危険を薄々知りながらも、友人達を止めきれなかった自分こそが相応しい。
 三人の命の代償として、彼らに対して働いた、礼を失した態度の詫びとして、次郎丸という存在をこの世に留めおくため ――
「やる、よ。心臓でも、何でも。……ごめん。それから、ありがとう。この社のぬしが、あんたらみたいなので、良かった……」
 口の端をぎこちなく上げ、ひきつった笑みを浮かべる。そして再び目を閉ざした。いつ太郎丸の牙がつき立てられてもいいように、震える全身に力を込め、必死に身がまえる。
「……あなたは」
 太郎丸は、直人の肩に乗せた手に力を込めた。直人を見る目から冷淡な輝きが消え、まだどこか空虚な諦めの色を帯びてはいるものの、温かみのある柔らかい口調で言う。
「 ―― もう、いいです。貴方を殺したりはしません」
 え? と目を開けた直人に対し、寂しげな微笑みを見せる。
「たとえ貴方の心臓を喰ろうたところで、次郎丸の命は助かりません。せいぜい一時、その苦痛を和らげることができるかどうか。その程度のために貴方を殺しなどしても、あれは喜びなどしませんよ」
「そ……」
 口を開きかけて、直人はそのままずるずるとへたりこんだ。極度の緊張から解放された反動と、生死の瀬戸際を脱した安堵感。そして……やはり次郎丸を救うことはできぬのだという、絶望。それらが一度に襲ってきて、全身から力が抜けてしまったのだ。
「非道いことを言いました。申し訳ありません。八つ当たりしていたのですよ、私は」
 直人が腰を抜かしたことで宙に残された手を、力無く引き戻して握りこむ。
 太郎丸と次郎丸は、『神』だった。人間と契約を結び、人間によって神力を得、人間の為に力を行使してきた。数百年の長きにわたり。たとえ人間の側がそれを忘れてしまったとしても、契約の存在が消えてしまう訳ではないのだから。そう、たとえ……『知っている者が誰一人いなくなった』としても。
 契約とは守られるために存在するもの。彼らにとって一度なされた契約は、その存在そのものさえ賭けて守らなければならない。それは、契約を交わしたその時から覚悟していた。だから、ゲドウの封印が解け、神力を失った今の自分達ではおそらく太刀打ちできないと悟った時も、迷いはなかった。たとえ己が身に代えたとしても、ゲドウの跳梁は防ぐ。契約を果たす。それは考えてみる必要すらない、当然の行動だった。落ちぶれたとはいえ、『神』の名を持つ存在であるのならば。
 だが ――
 守護するべき存在に拒まれ、化け物と呼ばれる。しかもその相手は契約のことなど何も知らず、祈りを捧げたこともなければ、供物を寄こしたこともない人間だ。そんな奴等のために、次郎丸は死の床にある。契約を果たすという、神としての最後の誇りすら奪われて。そして、相棒を失っては、太郎丸とて早晩その後を追うことに違いなく ――
 世代交代の中では、契約さえも忘れてしまえる、人間という存在への憤り。理不尽な仕打ちに対する怒りと、次郎丸を失う悲しさ、悔しさ。自分達のこれまでは一体何だったのかという……やりきれなさ。混然とした感情の持っていき場がなくて。自分達の悲しみと苦しみを、少しでも思い知らせてやりたくて。ことさらに直人を傷つける真似をした。死の恐怖に怯え、無様に泣きわめく様を目にすれば、少しは気も晴れるのではないか、と。
「けれど……貴方には、貴方にだけは、してはならないことでしたね」
 この青年だけは違ったのに。祈りをくれた。供物をくれた。誰もかえりみることのない荒れはてた社を手入れし、その荒廃を心から嘆いてくれていた。昨夜とて、負傷した次郎丸へと駆け寄ったのは、彼だけだった。二人の変貌を見て、驚きおそれはしても、忌み蔑みはしなかった。彼が ―― 彼ただ一人だけが、太郎丸と次郎丸を畏れ敬い、今の代に神としてあらしめてくれていたというのに。
 太郎丸は腰をかがめると、玉砂利に片膝をついた。へたりこんで見上げていた直人と視線を合わせ、手をさし伸べる。そして目の前に出された手の意味を理解できないでいる彼に、優しく言った。
「次郎丸に、会ってやっていただけませんか。あれは貴方の持ってくる供物を、とても気に入っていましたから……」
「……いいの、か?」
 呆然としたままで聞き返してくる。うなずいた。
「貴方の祈りでなら、彼の苦痛も少しは和らぐでしょう。どうか看取ってやって下さい」
 そして明日は自分を、と胸中でつぶやく。
 直人の表情が情けなく歪んだ。目尻がたれ、口の端が下がり、今にも泣き出しそうな顔になる。それでも寸前でこらえた。ぎゅっと唇をかみしめ、おずおずと手をとる。


*  *  *


 社の薄暗がりの中に溶けこむようにして、稲荷の玄狐くろぎつねはひっそりと横たわっていた。
 太郎丸の手を借りて段を登ってきた直人は、息吹の気配も、生きているものが持つ存在感すらも感じさせぬその姿に、息を呑んで立ち尽くす。
「さぁ……」
 太郎丸に促されて、おそるそる近付いてゆく。
 乾燥しひび割れ、ところどころ穴のあいた床板が、足を踏み出すたびにぎいぎいと嫌な音をたてた。体重を受けて上下する床にあわせ、次郎丸の身体も揺れている。が、それに反応するような動きは見られなかった。
 二つ並んだ狐像の右側。口に鉤状のものをくわえた玄狐げんこの像の足元で、直人は静かに両膝を落とした。床に手をついて上体をかがめ、横たわる次郎丸の耳元へと口を寄せる。
「……次郎丸」
 ささやくような声で呼びかける。
「次郎丸……なぁ、聞こえないのか……」
 喉の奥に引っかかって言葉がかすれた。両目に熱いものが盛り上がってきて、思わず口元を手で覆う。
 次郎丸の全身は、ズダズタに引き裂かれていた。直人達の前で咬み砕かれた、肩だけではない。腹も、手足も、顔も、暗がりの中でさえそうと判るほどに、傷ついている。昨夜はわずかな星と街灯の明かりだけであれほど美しく輝いていた毛並みも、今は血で汚れ、見る影もない。首まわりの黄金色さえろくに判別できず、まるで投げ捨てられたぼろ雑巾の塊。それが、直人達を守ってくれようとしたが為に訪れた、無惨で哀れな末路。
「触れてやって下さい」
 音もなく近付いていた太郎丸が言う。傷に触られる苦痛よりも、今はその手の温かさこそが必要だから。
 そっと手を伸ばして、比較的傷の少ない首筋に触れる。ごわごわとした、固くて冷たい手触り。血と、埃や泥で、毛がよじれて固まっている。傷に障らぬよう、注意して手を動かす。何度も、何度も、頬から首にかけてを撫でさする。
 と、その手にほんのわずか、筋肉の動きが伝わってきた。力無く閉ざされていた目蓋が、ごくゆっくりと引き上げられる。
“……お、まえ……は……”
 ため息のような、かすかな思念が発せられる。直人は撫でていた手を止め、その頬を包みこむように置いた。
「見舞いと、お礼に来たんだ。それから、夕べのこと、謝りに。ごめんな。怒ってるか?」
 努めて軽い口調で言う。
「稲荷寿司とか、おはぎとか……たくさん持ってきたんだ。守ってくれたお礼。御利益満点だったよ。この神社。なにしろ、神様がじきじきに命を救ってくれたんだもんな。これからは、もっと熱心にお参りしなきゃ」
 にこっと笑ってみせる。少しでも深刻な素振りをしては、そのまま泣き出してしまいそうだった。この男が見る最後の光景を、そんなもので汚したくはなかった。
“寿司……か。良いな。……おぬしの持ってくるものは、いつも旨い……有り難く、もらうとしよう……”
 床から頭を持ち上げる力も残っていないらしい。ゲドウに潰されたのか、血で塞がっているだけなのか、左の目だけが開いて直人を映している。まるで黄玉のような、哀しいまでに澄んだ色の、静かな瞳。己の状態を理解して、待ち受けるものを受け入れてしまった者だけが持つそれ。
 太郎丸が、彼から見える位置に稲荷寿司をひとつ置く。笑みを浮かべたのか、次郎丸の目がわずかに細められた。
“訊いて、良いか……?”
「なに」
“我らは、おぬしにとって……神、たりえたのだな。これまでおぬしが捧げてきたものに相応しい……守護者として、あれたのだな……?”
「あぁ……ああ! 立派な神様だよッ。あんたらは……」
 叫ぶように答えて、直人はうつむいた。こらえきれなくなった涙が、目から溢れてこぼれ落ちる。
 もはやそれも見えてはいないのだろう。次郎丸は視線を宙にさ迷わせると、満足げに息を吐いた。
 たとえただ一人のためにだとしても、己は確かに契約を果たし、神の名の元に死んでゆけるのだ。
“ならば、良い……”
 つぶやきと共に、目蓋が下りてゆく。二度と開かれることのない、永遠の眠りへと。
「おい……」
 引き止めるように直人が呼ぶ。しかし、もう応えはない。ひっそりとした、死の静寂が下りてこようとしていた。直人はふるふるとかぶりを振る。
「や……だ……。次郎丸……次郎丸ッ!!」
 抑えていた感情が、堰を切ったように溢れだした。傷のことも忘れ、血に塗れた身体をかき抱く。
 こんなのは嫌だった。この男はこんな所で、こんな死に方をしていい存在ではない。それは自分達のせいでとかいった、罪悪感からくる想いではなかった。そんなちっぽけな、自分達を責めればすむような想いなど、とるに足らないことでしかなくて。
 格好の良い男だった。
 それは外見のことなどではない。持つ雰囲気、語る言葉。ほんのわずかに時を過ごしただけなのに、それらは直人の脳裏に強烈に印象づけられていた。野性的で、精悍で、見る者の心を強く惹きつける男。迷惑そうな顔をしていても、いざという時はしっかりと守ってくれていた。無愛想な態度の中で、笑顔が妙に愛嬌あって、成人した男の力強さと、どこか子どもっぽい心とが不思議に同居しており、その持つ生命の輝きが、溢れて目に見えるような気さえしたものだ。
 その彼が、死のうとしている。身も、心も、ボロボロに傷つき果てて。みっともなくて、無様で、哀れみを誘う死に様。
 そんなものはふさわしくない。この男はいつだって輝いていなければならないのに。たとえ死にゆくその瞬間までも、先に逝くぜとうそぶいて、笑って果てる。それこそ彼のとるべき死に方だ。そうでなければ、彼は『彼』でなくなってしまう。それなのに……
 どうして次郎丸は助からないのか。どうして自分達は次郎丸を助けられない。できることならば何だってする。この命を捧げたっていい。彼と同じだけの痛みを、苦しみを、この身に受けることすらいとわない。
 この世に全知全能の『神』が存在するならば、それを信じれば願いが叶うというのならば、今こそ自分は信じるのに。祈ることで救いの手がさしのべられるのなら、全身全霊をかけて祈りを捧げるというのに。
 彼らを、この『神々』を、その称号にふさわしき姿に。強く、優しく、雄々しい力に満ちた、稲荷の狐、神狐へと ――
 どれほどの間、そうして次郎丸を抱きしめていただろう。肩へと手を置かれて、直人は己の内から現実へと、心を引き戻された。
「大丈夫ですか?」
 温かく労りに満ちた、この男にしてはひどく珍しい口調。膝を落として合わせた視線も、瞳は縦に長い獣のそれなのに、とても優しい色で直人を見つめてくる。
 次郎丸を失う気持ちは彼も同じ ―― いや、もっとずっとはるかに強く、深く嘆き傷ついているはずなのに。
 向けられる微笑みの温かさを理解できなくて、直人はぼんやりと太郎丸を見返した。何故だろうか、視界がぐらついて定まらない。頭がズキズキと痛みを訴える。
「 ―― 人間ひとの想いとは、こわいものですね。ろくに形も取らぬ恐怖が集まっただけで、ゲドウ狐をああも成長させ、またただ一人の祈りだけで、死に瀕した神を黄泉返よみがえらせもする。まこと……人間こそが、一番畏るるべき存在なのかもしれませんね」
 最後のつぶやきには、本当に畏れの色が滲んでいた。神とは人間の為に生まれた概念。人間の祈り、願う心こそが妖しを神たらしめる。そのことを、改めて見せつけられた気がした。
「え……?」
 言葉にされてもまだ判らなくて、直人はぱちぱちと目をしばたたいた。力の抜けた腕から、次郎丸の身体がずり落ちそうになる。慌てて抱き直した。
「 ―― ぁ、あれ?」
 掌にあたる感触が、先刻までと異なっていた。
「あたたか、い? 体温が……戻ってる……!?」
 驚いて腕の中へと視線を落とした。
 生気などまるで感じられない、ぼろ切れの塊のようだった肉体に、温かい血液の流れが通い始めていた。とく、とく、とかすかな拍動が腕に伝わってくる。胸のあたりがゆっくりと上下していた。静かな、しかし深く、規則正しい呼吸がくり返されている。
 直人の腕の中で、一度は失われようとしていた生命の活動が、ゆっくりと再開され始めていた。
「なんで……」
 信じがたい事実が、夢ではないのか確認しようと、直人は腕に力を込めた。次郎丸の身体をもっと持ち上げようとする。と、その視界がくらりと回った。上半身が大きく泳ぎ、そのまま横へと倒れ込みそうになる。
「無理はいけませんよ」
 太郎丸が危なげなく受けとめた。次郎丸ごとその胸に抱き込んで、肩に腕をまわす。
「あれほど長く、深く、一心に祈り続けていたのです。貧血を起こしても無理はない」
「祈り……俺が……?」
 そんなことなど、してはいなかった。絶対者かみがいるのならば祈るのに、とは思っていたが、そんなものは実在していないのだから。自分はただ、己の内面でぐるぐると思考をまわらせていただけだった。どうして次郎丸が助からないのか。できることなら何でもする。だから助かればいいのにと、わめいて哀しみ続けていただけだった。ただ、それだけだったのに。
「それを、祈りというのですよ」
 太郎丸がつぶやく。
「我々を、我々のあるがままにあれと願ったでしょう。そのために、想い全てを捧げて下さったでしょう? 人間が何かを想う時、そこには『力』が生まれます。多くの場合それは無為に散り、やがては大気に溶けて消えていってしまうのですけれど……まれに方向性を与えられ、何らかの形で役立つこともあります。祈りとは、想いの力を方向付けるもの。我々へと向けられた貴方の想い ―― 確かに受け取らせていただきました。貴方が望んで下さったから……我々は再び神力を得たのです……」
 うっとりと、夢見るような笑みをたたえる。それはまさしく、慈愛の微笑みだった。神と呼ばれる存在が、守るべき人の子に向ける、どこまでも温かい全てを包みこむような表情。
 だが、残念ながら、直人にはそれが見えていなかった。太郎丸が言ったことすらも、どれだけ理解できているか怪しいものだ。たび重なるショックや緊張で頭はふらふら、睡眠不足も手伝った貧血のおかげで、視界は半分がた暗くなっている。ぐったりと脱力して太郎丸に寄りかかっている姿は、客観的に見ると少々みっともなかったかもしれない。
 それでも、腕の中にある生命の気配だけは、確かに感じとっていた。
 次郎丸がそこにいる。次郎丸は死なない。
 今はそれが全てであり、そしてそれで充分だった。
「少し、お休みなさい。貴方には休息が必要です」
 すっかり明るくなった社の中、太郎丸の声を子守歌にして、直人は穏やかな眠りの淵へと堕ちていった。己が救った神を抱いたまま、己を守ってくれる神の胸で……


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