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 きつね  第四話
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


「 ―― ここもバツ、と」
 つぶやいて、涼子は手にした地図に赤いペンでチェックマークを入れた。
 そうして手元を懐中電灯で照らしていた恵美とふたりして、ため息をつき肩をすくめる。
「なかなか見つかんないね。疲れちゃった」
「そうね。もう少しあっさり判るかと思ったんだけど。案外、詳しいこと知ってる人っていないものね」
 ぼやきながら赤い×印が点在する地図を眺める。
 折しも花の日曜日。
 昨日に引き続き、四人の男女が連れだって何をしていたかと言えば、色気も何もあったものではなく、ただ町内の稲荷社をしらみつぶしに調べてゆくという、それだけであった。恵美が図書館でピックアップしていた、それらしい社や祠へと直接足を運び、近所の人間にその由来を聞いてまわるというものである。
 ある程度の苦労は予想していたものの、これが想像以上に難航した。
 それまで何とはなしに見過ごしてきていたのだが、いざ調べてみると、けっこうそのたぐいの代物は数が多かった。道端や建物の間にさりげなく置かれているそれや、雑木林の中に埋もれてしまっているもの、寺や神社の境内に末社として存在するのもあれば、民家の敷地内に祀られている場合もあった。もともとこの市には寺社が多く存在し、町名がそこから取られている地域などもある。そんな地域をしらみつぶしにしようと考える、まずそこのところから間違っていたのかもしれない。
 おまけに、そういったものの由来に関して知っている人間も、あまりいはしなかった。それもそうだろう。そこの氏子だったり、あるいは自分の家で管理をしている祠だとか言うのでもない限り、そうそう詳しいことを知っているものでもあるまい。いや今日こんにちでは、たとえそうであったとしても、まだあやしいくらいだ。
 ともあれ、夏の長い陽もついには沈んでしまい、夕食時になってさえ、まだあきらめようとしなかった女二人につき合わされ、一同はいまだに町内をうろつきまわっていた。それでもさすがに、他人宅を訪ねるのに非常識な時間だということは判っているらしく、調べきれなかった所を見てまわるだけにとどまってはいたが。
 夜になってゲドウの活動時間になった今ならば、おそらく問題の社には何らかの異常が起こっているであろう。それならば一目見れば判るはずだ、というのが彼女達の言い分である。
「少し休憩しましょうか」
 地図を畳んだ涼子の提案に、男二人は一も二もなく賛成した。それぞれ脇に止めていた自転車に寄りかかり、思いきり脱力する。自転車に乗れない恵美と、地元民ではない直人が自転車を持っていないのとで、彼らは必然的に二人乗りをしていたのだ。もちろん漕ぎ手は男の努めである。丸半日。疲労困憊するのも無理はない。
「……ったく、何で俺がこんなこと」
 靖司がぼやく。いくら涼子が美人だからと言っても、付き合いには限度というものがある。多少顔は落ちても、せめてもう少しまともな趣味をした人間に惚れておけば、こんな苦労もせずにすんだのに。
 ぶつぶつと愚痴る。しかし、そのつぶやきが彼女の耳に入らないよう気を使っているあたりで、既に彼の負けは決まっていた。しょせんは惚れられた方が勝ちなのだ。実際、お疲れさまという言葉と共におにぎりなど差し出されれば、それだけで上機嫌になって、いくらでもつき合う気になってしまうのだから。
 ぱさついたコンビニおにぎりをほおばりながら、直人は単純な靖司をうらやましげに見やった。
 なんとかコックリさんをやろうという、そのことだけは、強固に反対して止めることができた。少なくとも、他にできることを全部やってみて、それでもなおゲドウを見つけられなかった場合に限り、最後の手段として行うという、約束をとりつけた。しかし、この件からきれいに手を引こうという意見は、あっさりきっぱり却下されてしまったのだ。いくら説得を重ねようと文句を言おうと、一切が無駄。そのとりつくしまのなさときたら、たとえこの世の誰から何を言われようと、彼女達が気を変えることは絶対ないだろうと、きっぱり保証できるほどだ。
「はぁぁ……」
 がっくりと、肩を落として嘆息する。
 この先のことを考えるだけで憂鬱になってくる。いったいなんだって、こんなことになってしまったのか。
 そんなふうに道端に固まって、遅い夕食を取っていた彼らだったが、そのとき、不意に離れた所からかけられた声があった。
 別に注意を引くつもりなどはなく、つい、洩らしてしまったというような声音。
「 ―― お前ら」
「あ、あなたは」
 振りむいた涼子と恵美が、同時に舞い上がった声を上げた。
 視線の先。街灯の明かりに半身を照らし出されて立っていたのは、相変わらず黒ずくめの格好をした次郎丸だった。その手が、しまったというように、口元を押さえている。
 二人の反応は見事なものだった。
「次郎丸さんじゃないですかぁ」
「こんばんわ。昨夜はどうもお世話になりました」
 食べていたものや口元の汚れなどを脅威的な早さで始末して、いそいそと彼のもとへと駆け寄っていく。
「毎晩大変ですね。ごくろうさまです」
「もう夕御飯は食べられましたの? よろしければいかがですか」
 などとミーハー特有の黄色い声で言いながら、おにぎりを差し出したり、コートに触れてみたりする。ちなみにおにぎりは、靖司達のものと違い、しっかりお手製だった。着ている服や髪型なども、普段の三割増で気合いが入っている。
「…………」
 次郎丸は何も答えることなく、ただ立っているだけであったが、もちろん彼女達はそんなのお構いなしだった。かえって拒絶されない分、遠慮なくぐいぐいと押しつけてゆく。無表情な次郎丸の額に、心なしか冷汗が浮いているように見えた。
「あれ、あんた今朝の……」
「またお会いしましたね」
 少し離れた場所からその様子を見ていた太郎丸が、直人の言葉を受け会釈を寄こした。
「あんたら、知り合いだったんか」
「ええ」
 うなずき。
 類は友を呼ぶと言うが、女達に挟まれた次郎丸と比べてみれば、確かに相通じるところがある。今の季節にコートなど着ていることといい、黒ずくめと白ずくめといい、服装の趣味もほぼ同じだ。一般的な男にはあるまじき頭や、その言動など、こんな妙な奴等が二人も同時に存在していて、それぞれ無関係だと思うことの方が無理だったかもしれない。
「こんな所で貴方に会うとは、少々意外ですね」
 そう言いながら、コツコツと足音をたてて近付いてくる。
「今朝方お話をうかがった限りでは、貴方は分をわきまえた人間だと感じていたのですが。それともやはり、畏れも何も、好奇心に勝るものはない、と?」
 感情のこもらない平坦な口調で言って、間近から見下ろしてくる。声を荒げたり、表情を変えたりしている訳ではないのにも関わらず、そこには非常に寒いものがあった。
「ち、ちが……」
 答える声も自然ぎこちなくなってしまう。
「俺だって、こんな事に首つっこみたくなんかないんだよ。けど、彼女達をほっとく訳にはいかないから、だから……」
 ゲドウの存在の有無や、その正体を知りたいなんて思いもしない。本当は、今すぐにだって家に駆け戻って、布団かぶって寝てしまいたい。
 触らぬ神に祟りなし。その言葉は直人の座右の銘と言えた。ことわざとしてではなく、文字通りの意味で、だ。うさん臭いとか、紛い物じゃないかという危惧ももちろんあるのだが、それ以上に、本物だった場合が怖いから。
 だけど。
 女の子達を放り出して、ひとり帰る真似はできなかった。
 友人達がしているその行動を、自分が怖いと思い、危険なことだと感じているというのなら、それを黙って見過ごしてしまうのは許されないのではないか。それでは正真正銘、我が身大事の憶病者だ。現実ににそれが危険な行為なのかどうか、そういう話ではない。直人自身の意識の問題だ。
「俺じゃ彼女達を説得しきれなかったんだ。そしたら、せめてつき合うしかないじゃないか。……そりゃ、もし本当に何かがあったなら、俺なんかがいても、どうにもならないだろうけど」
 迷惑かけて申し訳ない。
 ぺこりと頭を下げる。そんな直人を、太郎丸はしばらく無言で見つめていた。
「 ―― 好きになさるのですね」
 ややあって言い捨てる。
 そして、顔を上げた直人に、素気なく続けた。
「彼女達にはせいぜい囮役を務めていただきましょう。貴方も、怪我をしたくなければ、離れずに歩くことです」
「ああ、そうするよ。……ありがとう」
 太郎丸はフンと鼻を鳴らすと、次郎丸の方へと踵を返した。きゃいきゃいと騒いでいる女達も無視して、彼に先を促す。
「なんだよあの男。嫌味な野郎だな」
「そんなことないよ」
 あまりな言い様にむかついたのか、靖司が顔をしかめて文句を言う。が、冷たく宣告されたのにも関わらず、直人は笑みさえ浮かべてそれを否定した。
 自分達のように、状況も判っていない素人などと行動を共にしていては、気も散るし、いざという時の足手まといともなるだろう。自分達の存在は、彼らにとって邪魔にこそなれ、利になどまったくならないのだ。なのに、それでも彼は言ってくれた。近くにいろと。
 怪我をしたくなければ離れるな。
 ―― 裏を返せば、離れなければ怪我などさせない、だ。彼らに対し腹を立て、愛想も何もない態度の中に、それでも確かな気遣いが存在しているのを感じる。
 太郎丸の姿に気がついて、その美貌に涼子達がまた騒ぎ始めた。
「……二人とも、仕事の邪魔したら悪いって」
 無駄だとは思いつつも、直人はそれを止めに入った。
 一緒にいる、それだけでも迷惑をかけてしまうのだ。囮のひとつやふたつこなすのはもちろんの事、少しでも邪魔の度合いを減らすのにこしたことはない。
 とはいうものの……
「うるさいわねっ」
「直人くんは、ちょっと黙っててよ」
 聞く耳を持たないどころか、こちらを非難してくる彼女達を相手にしていると、何やらひどくむなしくなってくる。
 ―― 本当に、帰りたいな、俺。
 それができない直人は、もしかしたらひどく損な性分なのかもしれなかった。


*  *  *


 昨晩にひき続き、実に星月の美しい夜だった、時がたち夜が更けてゆくに従って、町の灯りはどんどん姿を消してゆき、代わって夜空に浮かぶ月が周囲を明るく照らし出す。満ちた月の明るい輝きは、時として街灯やネオンサインなどよりもよほどはっきりと、ものの姿を浮かび上がらせた。昼間の暑さの熱も失せ、冴えた空気が凛とした雰囲気をはらんであたりを満たす。
 そしてまた、その静けさがかき乱されることも、昨夜と同じであった。
「ねえねえ、じろーまるさんってばっ」
 恵美が次郎丸の袖をつかんで、ぐいぐいとひっぱっている。
「次郎丸って、本名じゃないんでしょ? 呼び名とか、あざなとかってやつだよね。本当の名前はなんて言うの。教えて教えて。ねぇ」
「お二人は一体、どういった術を使われますの? 密教系? 神道系? それとも陰陽道とか修験道の方かしら」

挿し絵2

 大股に歩を進める次郎丸に、先刻からずっと二人してまとわりついているのだ。次郎丸はむすりと口を引き結んで無言でいるのだが、まったくめげることなく、さまざまな質問を繰り返している。
「……申し訳ない」
 自転車を手近な店に無断で停め、彼女達から数歩遅れて歩いていた直人は、傍らの太郎丸に対し、既に何度目になるかも判らぬ謝罪を述べた。
「貴方が謝ることではありませんよ」
 間髪入れず返された言葉には、しかしまったくと言っていいほど、心が込められていない。
 太郎丸は次郎丸に比べ、口調や物腰こそ丁寧だったが、代わりに彼女らを本気で快く思っていないことが、ありありと感じられた。それ故にか、さすがの二人も少し話しかけただけで、次郎丸の方にばかりくっついている。少なくとも外見に関する限りは、野性的な ―― というか、もしかしたら単なる不精者かもしれない ―― 次郎丸よりも、線の細い美形である太郎丸の方が、彼女達の好みにはまっているはずなのだが。
 靖司はというと、涼子の関心を引いている次郎丸に反感を覚えているらしく、彼にもその連れである太郎丸に対しても、そっぽをむいて知らぬふりを決め込んでいる。結果として太郎丸を相手にすることとなった直人は、内心で泣き声を上げながら、何か話題はないかと考えを巡らせていた。このまま話を続けるのはかなりの勇気が必要だったが、これ以上無言で彼の隣にいるのは、もっと怖いものがあった。
「あのさ、あんたら本当に退魔師かなにか ―― ゲドウとやらを退治するために来た呪術者なのか?」
「…………」
 答えはない。
「だ、だとしたらさ、どうして今回ここに来たんだ? 誰かの依頼でもあったのか」
 ちらりと、無表情のまま目だけがこちらを一瞥した。何を言われるかと、思わず身がまえる。が、予測したような詮索をとがめる言葉は発せられなかった。
「頼みを受けたのは、ずいぶん前のことですがね。代償も既にいただいております。充分にとは言えませんが、契約は契約。果たされなければなりません」
「頼まれたって、誰に。今回のことが、封印されてた化け物の仕業だなんて判る人なんか、そうそういる訳は……あ! もしか、ゲドウを封印してた社の関係者からとか!?」
 そのことに思い至って、直人の声が高くなった。
 封印していた当の本人達ならば、ゲドウの存在も知っているし、その封印が解けた場合にもすぐに判るはずだ。その者達に、一度解けた封印を再び施すだけの力が残されていなかったとしたならば……どこかから助っ人を呼ぶ必要に迫られるだろう。それが、この二人か!?
 ひとりで合点する直人を、太郎丸は無言で見つめている。
「じゃぁ、もしかしてあの神社が……」
「そうです。ゲドウが封じられていたのは、あの社ですよ」
 肯定する。直人はしばらく唖然として、二の句が継げられなかった。
 よもや自分が幾度となく出入りしていたその場所に、ゲドウなどという化け物が封印されていたとは。知らぬが仏とは、まさにこのことである。
 つまるところ、あそこで太郎丸と出会ったのも、よく出入りしていた直人に対し彼がいろいろと訊いてきたのも、けして偶然や気まぐれからではなかったという事か。
「あそこ、涼子さんのチェックからは洩れてたんだよな。わざわざ教えても面倒になるだけだから、黙ってたんだけど」
「それはありがたかったですね。もっとも全くの無駄だったようですが」
 容赦なく言い切る。
「……ごめん」
「だから貴方の謝ることではないと、言っているでしょう」
 にっこりと笑ってみせるその顔は、やはり目が笑っていなかった。
 だ、誰か助けてくれ。頼むから。
 多少気詰まりだろうがなんだろうが、無理に会話をしようなどとは、考えない方が良かったかもしれない。
 救いを求めてあたりを見まわすが、残念ながら助けてくれそうな人物はいなかった。恵美と涼子は次郎丸と、だいぶ離れた先を歩いているし、すぐ横にいたはずの靖司も、いつの間にか避難するように、距離をおいて後ろにいる。
 は、薄情者っ。
 恨めしげな目で靖司を見やる。
 と、その視線を追って靖司の方を見た太郎丸が、ぴくっと身をこわばらせた。同時に、先行していた次郎丸が、ものすごい勢いで振り返る。
「来た!」
 声を上げたのは、どちらだったか。いきなり一同の注目を受けた靖司が、驚いて足を止める。
 直人の傍らを、黒い疾風が駆け抜けた。それは立ち尽くす靖司へと、一気に迫りゆく。
「うわッ?」
 とっさに避けようと重心をずらした靖司をかすめ、黒い影 ―― 次郎丸は、その後ろに現れた獣へと体当たりをかける。
 背後から靖司に飛びかかろうとしていた四つ足の獣は、空中で次郎丸にはね飛ばされた。
「離れていなさい!」
 太郎丸が直人の身体を押しのけた。後ろへ下がるように、手で指示する。直人はものも言わずに従った。彼らの動きを邪魔せぬよう、充分な距離をとって離れる。
「 ―― 油断は禁物ですよ、次郎丸。今度は逃がさないで下さい」
「わかっている」
 次郎丸が、両手が地につきそうなほど低い体勢で構える。太郎丸も、両膝を曲げ腰を落とし、いつでも飛び出せる体勢で獣の方を見すえた。

 ぐる、ぐるるる

 獲物を襲うのを邪魔された獣は、少し離れた位置に着地して、威嚇するように次郎丸を睨みすえていた。鋭い牙の間から、荒い息吹と共に、喉を鳴らす音が洩れてきている。
 街灯の光に照らされて、獣は初めてその全身像をあらわにしていた。
 確かにそれは、狐と似てはいた。四本の足に、鼻面の尖った三角形の頭、いわゆるキツネ色と呼ばれる金茶の毛並みに覆われた胴体から、ふさふさと長い毛の生えた太い尾が一本。そう形容してみれば、それはまさしく狐といえた。
 しかし……その大きさは尋常の狐をはるかに凌駕していた。
 一昨夜、ちらりとシルエットを目にした時よりも、さらに大きくなっている。地面からその背中までの高さは、直人の腰のあたりほどもある。ずらりと牙の並んだ顎は、人間の頭ぐらい軽く呑み込んでしまいそうだ。太い前足の爪も、その巨体にふさわしく、長く鋭い。虎やライオンと言った猛獣を間近で見たならばこんな感じだろうか。いや、それにしたところで、これほどの禍が禍がしさは感じられまい。
「人間の恐怖を喰らって、さらに成長したようですね」
 次郎丸は、ものも言わずに地を蹴った。彼の方こそが獣のような身のこなしで、一気にゲドウへと肉薄する。
 無茶な。目を見張る直人の前で、太郎丸が右手を横に払った。鋭い気合いと共に、次郎丸を迎えうとうとしていたゲドウの正面に、炎の壁が生まれる。
 燃えるものなど何もないはずのそこに、炎は青白い輝きを放って高く噴き上がった。突如現れたそれに、ゲドウはとっさに後ろへと跳びずさる。その目前に、火炎をものともせずつっきってきた、次郎丸が出現した。
「くらえッ」
 高々と掲げられた右手が、つきだした鼻面へと振り下ろされた。五指を開いたその一撃に、どれほどの力が込められていたのか。ゲドウの頭はそのまま道路に叩きつけられた。さらに重ねて、逆の手で一発。鈍い音をたて、アスファルトが放射状にひび割れる。吠えたゲドウが振り回した前足を、素早く後ろに下がってかわした。
 そこへ、太郎丸が駆け寄っていった。頭を起こしたゲドウに対し、今度は横面へと掌を押し当てる。間髪入れず、接触面から青い炎の塊が爆発的に噴き出した。その勢いで、ゲドウは身体ごと大きく吹き飛ばされる。
「す、すごい……」
 涼子が呆然とした声でつぶやいた。彼らの動きに、完全に目を奪われている。その横では、恵美が騒ぐことも忘れて立ち尽くしていた。地図などを詰めたカバンを胸元に抱きしめ、目をまんまるにして見入っている。
 彼女達にしてみれば、今度のことは、正直言って完全にお遊びの領域だったのだ。ゲドウがどーの、退魔師がこーのと騒いではいたものの、本気で信じているとは、どちらかというと言い難かった。テレビの中の芸能人が、実在はしていても、目の前に現れることなどまずないように、今夜もただ町中をうろつきまわって何事もなく終わり、それはそれで、ああ楽しかったと笑い話で終わるのだ、と。そんなふうに思いこんでいたのだ。楽しいのはそう言うことについて騒ぐことであって、本気で超常現象を体験できるなどとは、思っていなかった。
 それなのに……いま目の前で起こっている、これは……
「目を潰すぞ!」
 叫びざま、次郎丸が大きく跳んだ。はためいたコートの裾が、ゲドウの爪に裂かれて垂れ下がる。ブロック塀の上に着地して、パンと胸の前で両手を打ち合わせた。一拍おいて離した掌の間に、野球ボールほどの大きさの、火の玉が生まれる。
 太郎丸もゲドウから距離をとった。右手を肩の高さに掲げる。その掌に白い輝きが現れた。光は徐々に明るさを増してこごってゆき、やがて一本の小刀を形成する。
「はァッ」
 タイミングを合わせて投じられた炎と小刀は、まっすぐゲドウの両目を狙っていた。小刀が見事に左目へとつき刺さる。しかし、次郎丸の放った火球は、ねらいをわずかにそれ、顔の毛皮を灼いたにとどまった。
「しま……ッ!」
 舌打ちした次郎丸めがけ、ゲドウの巨体がつっこんだ。危うく跳び離れた足下で、塀が見事に打ち砕かれる。額を割り半面を朱に染めたゲドウは、ブロックの破片を踏みにじりながら、怒りの咆哮を上げた。ひとつだけになった血の色の瞳が、激しくぎらつき憤怒をはらむ。全身からたち昇る瘴気が、勢いを増して一同へと吹き付けた。
「う、わ……」
 寒気と共に、ぷつぷつと鳥肌がたった。体温が一気に下がっていく心地がする。最初に襲われかけてから、半分腰を抜かした状態で逃げてきた靖司が、直人の足へとすがりついた。
「う、うそだろ? 何であんなのが、ほんとにいるんだよッ」
 膝をつき、情けない声を上げる靖司を支えてやりながら、直人はじっと太郎丸達の動きを見つめていた。
「いる所にはいるんだよ。化け物も、退魔師も」
 落ちついた声で言う。
「なにそんなに落ち着いてんだよ。お前が一番信じてなくて、そのくせ一番怖がってたくせに!」
 他でもない直人こそが、やたらと怪しげだの信用できないだのと連発していて、それなのにこんな事は危ないだとか、もうやめようなどと矛盾したことを言いまくっていたのに。
「 ―― 俺は、別に化け物や退魔師の存在そのものを疑ってた訳じゃない。ただ、彼らが『本物』であるのかどうかを疑ってただけだよ。この手のものって、思い込みとか詐欺が多いからな」
 もっともその疑いにしたところで、太郎丸と言葉を交わしている内に、そんなことなどないと確信がいったのだが。
「彼らなら信用できる。頭のおかしい変人でもなければ、人の弱みにつけ込む、かたりの詐欺師でもない。足手まといの俺らも、ちゃんと護ろうとしてくれてる……いい人達だよ」
 きっぱりと言い切る。
 靖司は理解できないものを見る目で直人を見返した。
 なんだってこいつはこんな状況で、なおもそんな冷静に分析していられるのだ。あんな化け物を目の当たりにして、訳の判らない術を使って戦っている奴等を眺めて、どうしてそんなに動じずにいられるのか。
 混乱していると、不意に直人がその身体をもぎ離した。乱暴な仕草で、力任せに彼を突き飛ばす。
「危ない!!」
 同時に、血相を変えた次郎丸の叫び声。
 靖司を突き離した反動で自らも移動した直人をかすめ、高く跳躍していたゲドウがその場へと着地した。つい一瞬前まで二人がいた空間を、鋭い爪を生やした前足が薙ぎ払っていく。
「……ッ」
 間一髪難を逃れた直人は、至近距離でゲドウと視線を合わせ、ごくりと息を呑んだ。
 血の色をたたえたその瞳は、さながら燠火のようにぎらぎらと輝いていた。おぞましいことに、そこには確かに知性の色があった。自らの欲望をとどめることを知らぬ、けだものの知性が。生臭い息を吐く口元からは、殺戮の期待に、ぽたぽたと涎が落ちている。
 とっさに身構えこそしたものの、直人はそのまま動けなくなった。蛇に睨まれた蛙のように、硬直してゲドウを見つめることしかできない。
 空を切って飛んできた小刀が数本、ゲドウと直人の間に突き刺さった。続いて駆け寄ってきた太郎丸が、直人を背後へとかばう。
 客観的に見れば、ほんの一瞬の対峙だっただろう。しかし、すさまじい緊張感を持っていたそれから解放されて、直人は思わずその場にへたりこみかけた。
 一方、小刀を指に挟んだ太郎丸と正面から向き合ったゲドウは、あっさりと直人のことをあきらめた。警戒しながらじりじりと二三歩後ろへ下がり、そしていきなり別の方向へと身をひるがえす。逃げをうつのかと思いきや、その先にいたのは ――
「涼子さん! 恵美ちゃんッ!」
 直人が叫んだ。目を見張って立ちすくんだ二人をめがけ、ゲドウが大地を蹴りつける。
「させるかぁッ!」
 その前足が涼子へと届く寸前、間に割り込んだ次郎丸が、ゲドウの巨体を受けとめた。爪のかすめたその頬が、ざくりと裂けて血を吹き出す。
 特に逞しいとも思えないその身体の、どこにそれほどの力が秘められているのか。左手でゲドウの前足を、右手で喉元を押さえこみ、後足で立ち上がった格好のゲドウと、がっしり組み合う。
 涼子が腰を抜かして、ぺたりと座り込んだ。傍らの恵美も、カバンを抱え込んで震えている。
 小刀を投げようとした太郎丸は、眉をひそめて動きを止めた。次郎丸とゲドウの力関係はほぼ互角。互いに互いをねじ伏せようとしながら、危うい均衡で組み合った体勢を維持している。下手に横から干渉しては、力のバランスを崩してしまい、かえって次郎丸を傷つけることになりかねない。
 ゼイゼイと荒い息を交わして、金茶の瞳と血色の瞳が間近で睨み合う。押さえられていない方のゲドウの前足が、次郎丸の肩を浅く引っかいた。コートが破れ血が滲むのにもひるまず、次郎丸はゲドウの喉をぎりぎりと締めあげる。
「い、いや……」
 一対一の勝負に水を差したのは、恵美だった。呆然と立ち尽くしていた彼女は、半ば焦点の合わぬ目をしてふるふると首を振りながら、手にしていたカバンを震える手で開いた。
「いやぁッ! あっちいけぇ!!」
 絶叫して、恵美はカバンの中身をゲドウにめがけてぶちまけた。ハンカチ、ちり紙、筆記用具や懐中電灯に混じって、たくさんのお守りや数珠、十字架などがまき散らされる。
 それらは、もしゲドウに襲われたらどうするんだと、夜歩きに反対した直人に対し、得意げに見せびらかされた品々だった。魔除けの塩に、各種お守り。陰陽五行説によれば狐は土に属する獣で、土の性を持つものは金や木の性を持つものが苦手なはずだから、出雲大社の鈴と鏡、榊の枝を用意して、それから憑きものの狐が嫌いだという、山葵わさびと塩辛。硫黄の粉に鉄粉と。厳島神社の狐落としのお札や、晴明神社の護符は忘れられない。ついでにパワーストーンやら幸運を呼ぶ八卦図やら、白蛇の指輪やらと、いままで集めに集めてきたさまざまなアイテムをありったけ。
 ふっ、これで完璧さっと笑って胸をはって下さったのは、つい数時間前のことである。それに対し、直人は額を押さえて唸り声を上げたものだったが。
 しかし、そんなうさん臭さばかり感じさせるオカルトグッズは、意外にも効力を発揮した。薄っぺらい和紙製の護符が一枚、ひらりと風に乗って一人と一匹の間へ舞い込み……

 じゅ

 肉の焦げる音をたて、顔面が灼かれる。苦痛と驚愕のいり混じった悲鳴が発せられた。
 ―― 次郎丸の口から。
 両目をきつく閉じ、首をねじ曲げてそむけられた顔。苦痛に歪められたその半面。なめした上質の革のように、しなやかでなめらかな金褐色の肌が、無惨に焼けただれ、薄青い煙を上げている。
 体勢を崩した次郎丸の隙を、ゲドウは見逃さなかった。次郎丸を押しつぶすように上からのしかかり、鋭い牙の並ぶ顎で右肩を咬み砕く。骨の折れる音と次郎丸の絶叫が響きわたった。のけぞった身体がびくびくと痙攣する。
 太郎丸が吼えた。
 全身を眩いばかりの白光が包み、束ねられていた髪が紐を引きちぎってざわりと広がる。まなじりがつり上がり、口が耳元まで裂けた。
「次郎丸ッ!!」
 怒号と共に跳んだ。それはまさに獣の動きだった。鋭い肉食獣の牙が、ゲドウの首へとつき立てられる。変形し節くれだった両手から伸びる長い爪が、厚い毛皮を引き裂いた。
 ゲドウは苦痛の声を上げると、身をよじって太郎丸をはじき飛ばした。その弾みに牙が抜け、次郎丸の身体が投げ出される。
 地に転がった次郎丸に、直人はとっさに駆け寄っていた。
「次郎丸!」
 うつ伏せに倒れた身体を抱き起こそうとして、その傷のひどさに息を呑んだ。濃密な血臭が鼻をつく。

挿し絵3

「お、おい……しっかりしろよ、なぁ……」
 手を触れていいのかすら見当がつかず、直人は傍らに膝を落としたまま声をかけた。それが耳に届いたのか、その背中がうずくまるように丸められる。
「ぐ……ぅ……」
 歯の間から押し出すような呻き。無事な方の手を地面について、なんとか上体を起こそうとする。
「ま、待てよ。動かない方が……」
「大……丈、夫だ……」
 とてもそうは聞こえない声でつぶやいて、荒い息をつく。無理矢理上げた顔の中、金茶の瞳が光を放ち直人を射た。
「……ッ!?」
 直人はびくりと震え、とっさに身をひいていた。
 直人を見る、闇の中浮かび上がる双眸。それは縦に長い獣の瞳孔を持っていた。つり上がった目尻と、大きく裂けた鋭い牙の並ぶ口元。野生味あふれる端正で精悍な顔立ちが、その面影を残しながらも、異形のそれへと変じている。
 今さらながら、目の前で見た太郎丸の変貌に思考が向いた。次郎丸の負傷に気を取られ、とっさに頭から追い出していたそのことが、いま間近に突きつけられる。
 相次ぐ二人の変貌。その様は、怒りや苦痛に形相を変えるというレベルではなかった。
 ゲドウに対してふるわれる、尋常な人間の使うものとは思われぬ技。信じられぬほど軽い身のこなしと怪力。そしてなにより、恵美の護符によってついた、次郎丸の火傷。
「こ、こいつら……バケモンだッ。人間じゃねぇぞ!!」
 靖司が悲鳴のような声で叫んだ。
 恐怖にゆがんだ顔が、戦っているゲドウと太郎丸に向けられる。抜けた腰で這いずるように後ずさる姿は、ゲドウも太郎丸も区別なく忌避するものだった。恵美と涼子も、地面に座り込んで抱き合っている。ガタガタと震えながら二人を見るその目に、先刻までの好意的なものなど、かけらも残ってはいない。
「稲荷の……きつね、か……? 黒と、白の……旅の行者に、社に封じられた……」
 次郎丸を見る直人の表情にも、おそれの色があった。血の気の失せた唇が、呆然と言葉を紡ぐ。
 その昔、他者にとり憑き害を為したという、憑きものの狐。狐持ち達によって使役されていたそれは、旅の行者に退治され、稲荷の社に封印されたという。黒狐と白狐を祀るその神社を護るのは、行者にさとされ改心した持ちの家系。地元の人間は、憑きものを祀る場だからと、崇めながらも畏れていた。
 ―― だが、この二人がその狐だというのならば、あのゲドウは……
 靖司の叫びと直人のつぶやきを聞いて、次郎丸はようやく己の姿に気付いたようだった。苦痛の表情に驚きが混じり、変形した手を愕然と見下ろす。
 が、太郎丸の声を耳にして、次郎丸は視線をそちらに向けた。ひとりでゲドウを相手取っていた太郎丸が、走りだそうとして、思いとどまったところだった。唇を噛んだその視線の先では、ゲドウの姿が既に闇に呑まれかけている。逃げをうったゲドウを追う、その足を止めさせたのは、負傷しうずくまった次郎丸の存在。
「……何を……しているッ!」
 次郎丸は、ためらう相棒を怒鳴りつけた。ふらつく身体で強引に立ち上がろうとする。
「次郎丸!」
 止めようとする太郎丸を、底光りのする目で睨みつけた。
「追うぞ」
 短く言って足を踏み出し、そしてふらりと前のめりに倒れる。いや、崩れ落ちたかに見えたその身体は、漆黒のとしか言いようのない、不思議な色調の光に包まれて、質量と形状をなめらかに変えてゆく。
 黒光りする毛並みを持つ、体長1mほどの優美な狐。鼻の頭から尻尾の先まで見事に黒い中で、胸から首のまわりにかけてだけ、襟巻きでもしているように、きつね色が入っている。鮮やかに暗闇に浮かぶ、二つの瞳と同じ、黄金の色だ。
 黒狐は、身を低くして跳躍すると、傍らの塀の上へと飛び乗った。そしてもう一度力をため、今度は高々と空に舞い上がる。
 夜空に溶けこむ体色の中、首元の毛皮が流星のように、残像の尾をひいた。家々の屋根を渡り、その姿はすぐに視界から消えてしまう。
 呆然とそれを見送った直人を一瞥してから、太郎丸もまた跳んだ。白銀の光をその身にまとい、ふわりと屋根の上に着地する。
 次郎丸を追って太郎丸も見えなくなってしまってもなお、直人は立ち上がることができず、その場に膝をついていた。
 目の前の地面には、夜目にも黒くわだかまる、おびただしい量の血痕。ゲドウがつっこんだブロック塀はひび割れて倒壊しており、アスファルトにもそこここに亀裂が走っている。民家のあまりない地域とはいえ、あれだけの騒ぎを繰り広げたのだ。遠からず、野次馬なり警察なりがやってくるだろう。その前にとっとと逃げておかないと、面倒なことになる。
 まだ震えて腰を抜かしている三人を、促さなければ。
 そう思いながら、それでも彼は、しばらく動くことができなかった。


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今回の挿絵協力はSACHiさんこと如月伊万里様ですvv
本当に有り難うございました。


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