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 きつね  第一話
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 調子外れの歌声が、良く晴れた夜空に遠慮なく響きわたっていた。
「こぉら、ノリが悪いぞ、ノリがぁっ」
 酔いに心地よく頬を上気させた娘が、傍らを歩く青年の背中をバシバシと叩く。
「ほら歌えっ。せ〜の!」
 問答無用で歌い始めた彼女に合わせ、背中を叩かれたのとは別の、もっと体格の良い青年が、裏返った声を張り上げた。
「ちょっと、近所迷惑でしょう! あんまり恥ずかしいことしないでよねッ」
 そんな連れ二人を、癖のない髪を肩のあたりでなびかせた、いくぶん背の高い娘がたしなめた。もっともその声も相当に音量が大きく、夜闇をつきぬけてあたりに響きわたっている。しょせんは彼女も、はた迷惑な酔っぱらいのひとりだ。
 夏休み終了直後の後期試験。終わった打ち上げに仲間内でカラオケに行ったのは良いのだが、どうもいささかアルコールを摂取しすぎたようだった。羽目を外すのは学生の特権だったが、それにしてもちとやりすぎたか。
 頃は既に日付が変わっている時分である。公共交通機関はとっくに最終を迎え、学生の身にはタクシーなんぞ贅沢千万。月がとっても青いから〜などと、訳の判らないことを口ずさみながら、徒歩で帰ろうとする女子達を送る意味も兼ね、彼ら四人の男女は一塊となって人気のない夜道を歩いていた。月は確かに皓々と冴えた輝きを放っており、散歩がてら、のんびりと4qや5q歩くのも悪くはない夜だ。……静かに、ゆっくりと、であればだったが。
 最初に叩かれていた青年が、ふたりの喉より生み出される見事な不協和音から意識をそらすように、夜空をふり仰いだ。彼は比較的酔いが少ないらしく、眼鏡の奥の瞳には、理性の色が残されている。もっともそれが、彼にとって良いことであったかというと、少々疑問の余地が残るところだったが。
「……ったく」
「でもまぁ、あれじゃない。これだけ騒がしければ、夜道でも安全は安全よね」
 さっき二人に注意していた娘が、そう言ってくすりと笑った。彼女は全体的にほっそりとした身体つきと、きめの細かい肌をした、なかなかの美人である。すっと目鼻の通った理知的な顔立ちは、見る者に才媛とか女史とかいった形容を思い浮かべさせる。
「それもそうだけどさ」
 青年も苦笑を浮かべて同意した。こちらの方は、世の人が大学生と言われてまず思い浮かべるような、平凡な容貌をしている。少々猫背がはいった細身の中背に、洗いざらしのジーンズと綿シャツ、銀縁眼鏡。地方の大学構内では、石を投げればまずこんなタイプに当たるだろう。
「確かに、こっちの方が避けられそうだ」
 そう言って肩をすくめる。
 ここまでうるさくしていれば、夜道で女の子にちょっかいを出そうなどという、危ないおじさん連中は、気後れしてしまいそうだった。かっぱらいだのひったくりだのというたぐいもそうだ。このくらいの時間帯になると、始末に負えない酔っぱらいの姿などもよく見かけるものだが、自分達はそれ以上に始末に負えなさそうだから、そちらの方も心配はあるまい。あと夜道で危険なものといえば……最近このあたりでは凶暴な野良犬がうろつきまわっているから注意した方がいい、とかいう話を聞いたような気がする。が、それもしょせん相手はけだものだ。この騒ぎなら、むこうの方から怖れをなして逃げ出すに決まっている。
「三番! 一発芸やります!」
 いつのまにやら歌合戦は終わり、持ち芸が出はじめていた。もはや手のつけようもない状態だ。どうやらここは、下手に理性など残さず、あきらめて一緒に騒いだ方が得策らしい。青年はひとつ息を吐くと、先行しているふたりに追いつくべく足を早めた。女史のほうはというと、さっさと小走りになって合流を果たしている。
「ちょっと待……」
 彼女にならって小走りに移りながら、ついでに一行の行き足を止めさせようと声を上げた。が、彼はそこでふと言葉を切った。進行方向を見ていたその視線が、連れの姿を通り越して、後ろの闇へと焦点を合わせる。
 あれは何だろうか。
 なんだかんだ言ってもやはり、けっこう思考速度の鈍くなっている頭が、のんびりとそう疑問を提示した。街灯の光も届かない、塀と塀の間。路地の入り口。墨のような黒さで塗りつぶされたその空間に、光を放つ点がポツポツと二つ、微動だにせず存在している。
 ゴミ袋か何かが光を反射しているのだろうか。いや、それにしては二つとも丸さが整いすぎている。では豆電球でもついているのか。いやいや、そんなものが住宅地の道端にあるはずがない。 ―― ああ、そうか。猫の目だ。
 得心して、ぽんと手を打つ。そこまで思考が至るのに、十秒近くかかっていた。
 蝋燭の火のように朱色に光る二つの目は、じっと彼らの方を見つめていた。一体どんな猫だろう。考えながら見つめ直して、彼はあれと首をかしげた。猫のものにしては、なんだか位置が高いような気がした。それに少々間が離れてはいないだろうか。
 頭の中で、その目に合わせたシルエットを描いてみる。……かなり大きな代物になった。どうやらあれは猫ではないらしい。となると、たぶん野良犬だろう。それもずいぶん大きな、大型犬。
  ―― まてよ、野良犬?
 頬がひくりと引きつった。
 さっきまで考えていたことが、再び脳裏に蘇ってくる。最近このあたりでは、野良犬がうろつきまわっているから注意した方がいい、と。そう……確かついこの間、犬に噛まれて大怪我をした人間がいた。
「どうしたのー?」
 足を止めて棒立ちになった彼に、かなり先まで行った三人が、ようやく振り返った。
「なんだ、トイレかぁ?」
 呼びかけてくるその位置は、光る目がひそむ、ちょうどすぐそこだった。もしもそいつが飛びついてきたならば、酔っぱらいの動きではまず逃げられないであろう、場所。彼は仲間達に注意を促そうと、おそるおそる手を挙げて指さした。が、酔っぱらい達はそんな仕草など全然気にも止めない。
「なぁにやってんだよ。早くこいッ、ほら」
 呂律のまわらない胴間声を張り上げて、手を振り差し招く。その背後でゆらりと光点が動いた。彼は何とかそれを皆に伝えようとするが、こういう時に限ってうまく声が出ない。
 ただ必死になって突きつける指の延長上で、流れるように移動した光点は、ふいといきなり闇に溶け、かき消えた。あれ、と瞬きする。
 しかし、逃げたのだろうと結論するよりも早く、巨大な漆黒の塊が、闇を突き破って飛び出してきた。
「おわぁッ?」
 真後ろからそれに体当たりされて、青年がものの見事に突き倒された。蛙が潰れたような格好で、べしゃっと顔面から地面に激突する。
「やぁだ。何やってんのよ」
 青年と一緒になって騒いでいた、小柄な娘が吹き出した。
 青年の背中を蹴って鞠のように方向を変えた黒い影は、ほんの一瞬で再び暗がりの中へ消えている。その動きは素早く、あたりが暗いこともあって、彼女の目には単に彼がひとりでひっくり返ったようにしか見えなかったらしい。黒目がちなどんぐり目を潤ませて、いかにもおかしそうにけたけたと笑い続ける。
「いま……何かいなかった?」
 女史の方は何かを見たらしく、いぶかしげな口調でつぶやいた。それを受けて、彼はこくこくとうなずく。
「犬だよ、犬。ほら、いま騒ぎになってる」
「さわぎ?」
 きょとんと聞き返してくる。忘れているのか知らないのか。彼は懸命に言いつのった。
「ほら、この間、野良犬に噛まれて大ケガした人がいたじゃないか」
「そうだっけ?」
 何とも心もとない返事が返ってくる。彼はがっくりと肩を落とした。しかし、落ち込んでいる場合ではないだろう。
「知らないならいいよ。とにかく今のうちにさっさと帰ろう。なっ」
 言いながら、急いで皆の元へと駆け寄ってゆく。彼の酔いはすっかり醒めてしまっていた。高揚していた腹の底に、固く冷たいものが生じている。
 鼻を押さえながらようやく立ち上がった青年に、横から手を貸し支えてやる。こんな所で犬に噛まれるなどごめんだった。
「こら、乱暴すんなよな」
 強引に進ませようとする彼に、青年は頬を膨らませて文句を言った。こいつも自分を転ばせたものがなんだったのか気が付いていない ―― というか、気にもしていない。
「いいから、早くっ」
「がんばれッ、ゴーゴー」
 ぐいぐいと必死にふたまわりはでかい相手を引っ張っていると、無責任な声援がかけられた。思わず膝から力が抜けそうになる。
 彼女は左手にバッグの紐を持って、その本体をぐるぐると振りまわしていた。たいして重いものなど入っていないはずのそれが、実に勢いよく回転している。と、それがいきなりすっぽ抜けたように消えてしまった。
「あれ?」
 手の中にはきちんとものを握っている感触がある。勢い余ってぐるんと肩から先を振りまわしてから、左手を目の前に持ってきてみた。確かにちゃんと、バッグの紐を握りしめている。しかし、ビニール製の黄色い紐の先には、あるべき本体が存在しなかった。指の先から10pほどの所で、すっぱりと切断されてしまっている。
「あれ?」
 もう一度彼女はつぶやいた。いくらなんでも紐が切れるほどの勢いでまわしていたおぼえはないのだが。
 と、青年が素っ頓狂な声を上げて指さした。そちらを見ると、黄色いバッグがぼんやりと暗がりに浮かんでいる。ぶらりぶらりと、かすかに揺れて。
 誰かが切れた紐を持ってぶら下げているのだ。誰か ―― 他人が持ったままのバッグの紐を、それと気付かせぬように断ち切ることができるほど、鋭利な何かと運動神経を持ち合わせた『何ものか』が。
 ごくりと、誰かが息を呑む音がした。酔った頭にも、ようやく何かがおかしいと言うことが浸透してきたらしい。
「だ、だぁれ? それ、かえしてよ」
 おずおずと声をかけた。
 相手の姿は暗がりに紛れて見ることができない。ただ明るい色のバッグだけが、浮かび上がるようにして揺れている。
「ちょっと返しなさいよ」
 女史が少し強い口調で言う。が、彼女も気味が悪いらしく、片手で大柄な青年の服を掴んでいた。
「おい! 聞こえてんのかっ」
 頼られたのに気をよくしたのか、青年が勢い良く怒鳴りつけた。しかし相手の反応はまるでない。ちなみに最初の彼はというと、何も口出しすることなく、青年の後ろにからそっと様子をうかがい見ているだけだ。
 相手に無視されたのは、かなり青年の気にさわったらしい。むっとした表情になって、そちらへと足を踏み出そうとする。彼が慌ててそれを引き止めた。
「ちょっと待ったっ。なんかやばいよ、これ」
 言いつのる彼を、青年は馬鹿にしたような目で見下ろした。
「何だよ、お前。びびってんのか?」
「だ、だってさぁ……」
 青年の陰に隠れるようにして、顔だけのぞかせているその様は、実際かなり情けないものがあった。闇に光る目を見ており、野良犬の存在に考えが至っているのは彼だけだとしても、この弱腰はいささかいただけない。青年は鼻を鳴らすと彼の腕をふりほどいた。大股な足取りで歩み寄ってゆく。
「おら、返せってばよぉ」
 そうすごむ。
 今度は反応があった。

 ぐる ぐるる

 闇の奥底から響いてくる、人間の声帯からは紡ぎだしえない異音。
 それは飢えたけだものが喉を鳴らす音だった。吐き出される、生臭い息の、そのむっとする温かさすら感じさせる、地を這う低いうなり声。
 青年は息を呑んで立ち尽くした。見上げてくる瞳と間近で目が合う。
 暗闇の中、紅い光を放つ獣の双眸。
 反射するべき光など、ろくに存在していないはずなのに、バッグの紐を引っかけたその牙が、夜目にも白く瞳に焼きつく。
 背筋の凍るような対峙は、実のところほんの一瞬だった。
 獣は素早く地を蹴ると、立ち尽くす青年の傍らを、風のようにすり抜けた。そしてそのまま一直線に、切れた紐を持った娘へと突進してゆく。
 誰もとっさに動くことができなかった。誰も声すら上げられず、ただ呆然と突っ立っていた。娘に至っては、むかってくる黒い影を、ただきょとんと眺めているだけだった。
 獲物まで数歩を残したところで、獣は一度低く身を沈めた。走ってきた勢いとためた力を四肢に込め、大きく宙へと跳ね上がる。くわえていたバッグが放り出されたようにアスファルトへと転がった。ずらりと牙の並んだあぎとが頭上に迫る。限界まで開かれた血の色の口腔に、ようやく彼女の顔に恐怖の色が湧いた。
「 ―― ッ」


 瞬間の交錯。がちりと牙の合わされる音がした。
 獣は身軽に着地して、再び闇の中へと姿を消していった。
 彼が、腰を抜かしたように、その場にへたりこんだ。その口から、深々と吐息が洩らされる。
「 ―― 怪我はないか」
 そう問いかけたのは、わずかに掠れた響きを持つ、低い男の声だった。
 この場にいた二人の青年の、どちらのものでもない。成人した男のそれだ。
 声の主は、腕の中に娘を抱いて、かばうようにかがみ込んでいた。
 男の手に肩を抱かれ、彼女はただ呆然と相手を見上げている。ショックが強かったのか、問いに対する答えはない。
 彼は、獣の牙が達する寸前、間一髪で飛び込んできたのだ。彼に助けられたおかげで、娘は無傷ですんでいる。男の服は、肩口のところでわずかに裂けていた。
 答えようとしない娘に、男は軽く鼻を鳴らすと、顔を上げた。
「お前達はどうだ?」
「えっ……と、その……」
 真正面から順に視線を合わされて、一同は思わず口ごもった。何かに押されたかのように、その上体が無意識に後ろへとそらされる。
 ひどく、印象的な男だった。
 四人のうちの誰をも苦もなく見下ろせるであろう長身。体格自体は太すぎず、細すぎず、ごく普通のものなのだが、背丈のせいですらりと引き締まって見える。その身体にまとわりつくように、長く腰まで伸ばされた黒髪。質が荒いうえに、ろくに櫛も通していないらしく、あちこちでもつれてからまっている。しかも前髪もそうでないのも一緒くたに伸びて垂れ下がった、奔放なざんばら頭だ。服装は黒のTシャツに黒いスラックス。はおった黒いロングコートは革製のようだ。さらには袖から出ている手や首から上の皮膚までもが浅黒い。その姿は上から下まで完全に、夜の闇と一体化していた。
 しかし断っておくと、彼を強く印象づけるのは、その風体ではなかった。
 まっすぐにむけられた両の瞳。そこに宿る輝き。唇の薄い精悍な口元に浮かぶのは、かすかな笑みだ。闇に溶け込むかのようなその姿とは裏腹に、その持つ野性的で健康的な生命力が、溢れて目に見えているような気がする。
 その存在そのものが、一種の力なのだと、そんな思いすら抱かされる姿。
「だいじょうぶ、です」
 かなりたってから、女史がようやくそれだけ口にした。助けた娘に手を貸して立ち上がらせていた男は、満足そうにうなずく。次いで残る二人の方へと視線を巡らせた。眼鏡をかけた青年が地べたに座り込んでいるのを見て、その目がわずかに見開かれる。
「お前……」
 男が何かを言いかけたことで、青年ははっと我に返った。安堵で力の抜けていた足を、慌てて引き寄せる。
「だ、大丈夫。平気ですから。ケガないし」
 言いながら、強引に立ち上がる。二、三度頼りなくふらついたが、何とか踏ん張ってこらえた。もうひとりの彼はというと、光る目と間近で目を合わせた段階で、思考がぶっ飛んだようだった。突然現れた男にもろくに反応することなく、ぼんやりと機械的にうなずく。
「ならいい。……お前ら、幸運だったな。『あれ』に襲われて無傷だったとは」
 自分のおかげだ、感謝しろ。とばかりに顎を上げ、上から見下ろしてくる。尊大なその態度にはカチンとくるものがあったが、彼が助けてくれたのは事実だった。あいつももう、どこか遠くへ行ってしまったらしい。
「あ、あのっ」
 助けられた本人が、うわずった声で男の注意を引いた。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
 言って、ぺこりと頭を下げる。
「ああ」
 男はうなずいてにんまりと笑った。つり上がった切れ長の目が、糸のように細くなる。そうすると意外な愛嬌が感じられた。
「お前達、早いとこ家に帰れ」
 偉そうに命令してくる声も、心なしか柔らかくなっていた。
「怪我をしたくなければ、当分夜遊びは控えろ。あいつには見境などない。次に襲われた時も助けてやれるとは限らんからな」
 背中を押して、仲間達の方へと数歩あるかせる。彼女は男の方を振り向くと、何か言いたげに口を動かした。が、うまい言葉が見つからないらしく、もごもごと口の中でつぶやいているだけだ。代わりと言っては何だが、青年がおずおずと問いかける。
「あの……その『あいつ』って、さっきの犬のことだよな」
「 ―― そうだ」
 低い声が肯定するのには、一拍間があいた。それには気付かずに、青年はためらうように口ごもった。視線を足元へと落とし、言おうか言うまいかと逡巡する。
「……あれ、本当に『犬』、だったか?」
 ややあってなされた問いは、ひどく自信なさげな響きを持っていた。
 暗がりの中、動きの早いあの影は、文字通りそのシルエットしか見て取ることはできなかった。四つ足の、耳が立ち、鼻先の尖った獣。ふさふさと毛の生えたらしい、太くて長い尾が垂れていた。それは確かに、日常見慣れた犬の姿に酷似していた。しかし……
「いや」
 男はあっさりと首を振った。
 ただの野良犬は、餌が入っている訳でもない、人間の荷物を狙ったりはしない。ああも騒々しい集団を、たった一頭で襲ったりなどしない。そして何よりも……人間の頭を遙かに越える跳躍など、足がかりもなしには絶対にできない。
 男は闇を見透かそうとするような目で、影の消えていった方向を見やった。つぶやく声音は、問いに答えるというよりも、独り言に近い。
「……あれは……狐だ。その昔、稲荷のやしろに封印された、ゲドウのな。野放しにはできん、化け物だ」
「ゲドウの狐……」
 女史が口の中で繰り返す。唇を固く結び、眉を寄せ、何かを思案しているようだ。
「 ―― とにかく」
 男は視線を一同に戻すと、口調を強めた。
「日が暮れてから、このあたりをうろつきまわるのは止めておけ。いいな」
 厳しい表情で念を押す。
 そして彼は一同に背を向けた。黒い髪とコートの裾が、ふわりと宙を泳ぎ、後を追う。音ひとつ立てぬなめらかな足取りで、男はそのまま立ち去ろうとした。
「ま、待って!」
 闇に紛れてゆくその姿を、娘の声が呼び止めた。ひたりと男は足を止め、首だけを動かしてかえりみる。
「あ、あの……あなた、いったい何者なんですかっ?」
「…………」
 男は再び視線を前へと戻し、歩き始めた。
「次郎丸」
 ひっそりと、
 問いの答えは一言だけが、闇の中から届けられた。


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