++お礼SS 骨董品店 日月堂


※第十話「紅玉残夢」より後のお話。
かつ以前のお礼SS、24(日月堂7)とも少々リンクしています。







 光が入るよう大きく窓をとった執務室で、社長である壮年の男、伴行ともゆきは来客をもてなしていた。
 革張りのソファセットの向かいに席を占め、ゆったりと紅茶を楽しんでいるのは、歳の離れた異母弟である。
 彼らの父親は、この会社を含め関連する複数のグループ企業の会長を務めていた。妻を早くに亡くしたあと、後添いを迎えたのはもう三十年以上も前のこと。すでに末弟の伴行すら十を迎えようという、難しい年の頃合いだった。他にも財産の関係や後妻の年齢がずいぶん若いこともあって、周囲はうまくいくものかと気を揉んだという。だが美しく心優しい彼女に、兄弟達はみなよく懐いた。そうして生まれた異母弟のことも、歳が離れているだけにかえって素直に可愛がることができた。
 それはもう、過保護に過ぎるとむしろ周囲から呆れられるほどに。
 あいにくその義母もまた、異母弟が幼稚園の頃に、病を得て儚くなってしまった。
 それからというもの、父と兄と自分達は、できる限りの愛情をこの異母弟に注いできたものである。

(……まあ、この子にとっては、それすらもがうっとおしいのかもしれないが)

 既に『子』と称するにはとうの立ちすぎている三十過ぎの男を、伴行は今でも内心ではそう呼んでいた。だがいつまで経っても浮いた噂ひとつなく、郊外の屋敷でただ一人、ペット達に囲まれて暮らしているのを目にすると、どうにもつい子供扱いしてしまうのだ。
 ……ただ、愛情はあふれる程に持っていたが、それでもこの子の『趣味』を、家族はみな本当の意味で受け入れることはできなかった。
 そういうものなのだと理解はし、認めることはできても、その『趣味』を隠そうともしない彼と同じ屋根の下で暮らすことは、生理的にどうしても耐えられなかったのだ。
 家族の過干渉と、それと相反する不理解に嫌気が差したのか。異母弟はある程度の年齢になると、さっさと家を出てしまった。その際には父親が住居と充分な額の株式や不動産を譲渡したので、生活にはまったく困っていないはずだ。
 それでも、こんなふうに時おりは顔を出してくれるようになっただけ、一時期よりはずいぶん良好な関係になれたのだろう。この子も、けして家族を嫌っていた訳ではないのだ。事実、いつの頃からか自分達や父が困っている時には、彼なりに力を貸してくれるようになった。産業スパイを追ったり、競合他社の情報を探り出したりといった探偵まがいの仕事をするのは、危険と隣合わせでもあるので心配もするが ―― それでも非常に助かっていることは確かで。
 今回も、開発中の製品の情報が漏れているという噂を知った伴行の頼みを受けて、異母弟は見事に漏洩元となる人物を特定してくれた。その報告も兼ねて、こうして久しぶりに歓談している次第である。
 しかし……楽しい交流のひとときを、無粋な電子音が断ち切った。
 執務机の上で、内線が音を鳴らしている。立ち上がって電話をとった伴行は、数語聞いて、眉をひそめた。
「重要な来客で手が離せないと言ってくれ」
 不機嫌そうに秘書へと告げ、受話器を戻す。
「……なにか面倒な相手ですか」
 異母弟の問いかけに、伴行は小さくため息を落とした。
「ああ、いやな。先日購入した油絵を、譲ってくれとしつこく言ってきてるんだ」
 断っても断っても引こうとしないので、正直手を焼いている、と。
 どうやら今日は、直接会社にまで足を運んできたらしい。こうなっては口実を作って会わないほか手はなかった。
 不快を露わにする伴行に、しかし異母弟はあまり興味を覚えないようで。ごく素っ気ない反応しか返ってはこなかった。伴行もそれ以上つまらない愚痴を聞かせる気はなく、自然と話題は他のことへ移ってゆく ――


 地下駐車場まで直通の役員用エレベーターを使って異母弟が帰っていった後も、伴行は精力的に仕事を続けた。彼はそういった面で非常に真面目で、あらゆる意味で手を抜くことはない。気がつけば窓から差し込んでくる陽の光は、夕暮れの赤い色を帯び始めていた。
 幸い今日は、打合せや会食の予定も入ってない。このまま定時で帰れそうだと片付けを始めたところへ、再び電話が内線の音を立てた。素早く取って耳に当てた伴行は、聞こえてくる内容に椅子を蹴って立ち上がる。


◆  ◇  ◆


 取るものも取りあえず一階へ駆け降りると、あたりは阿鼻叫喚の大混乱に陥っていた。
 シンプルなデザインの機能的なロビーで、背広姿の社員や警備の服装をした男達が右往左往している。機能的な制服を着た受付嬢は、カウンターにしがみついて甲高い悲鳴を上げ続けていた。
 そんな場面へ現れた伴行へと、警備員の一人が慌てて駆け寄ってくる。
「しゃ、社長っ、危険ですから避難していて下さい!」
 その声に他の警備員も気が付いたのか、やってきて口々に状況を説明しようとする。
「大変なんです!! 毒グモが……ものすごく大きいのが現れて!」
「殺虫剤……いや、長い棒かなにかで叩き潰せば……ッ」
「もし噛まれたらどうする!? いっそ保健所に連絡を!!」
 誰もが激しく動転し、その顔を恐怖と嫌悪に青ざめさせていた。
 訴えられる内容に、伴行もまた顔から血の気が引いて蒼白になるのを自覚する。しかしその意味するところは、目の前の人々が抱くそれとは大きく異なっていた。
「い、いや、待て。落ち着きなさい。まずそのクモは、いったいどこに……」
 問おうとしたその声を遮るように、ひときわ大きな叫び声があがった。
「危ない! 逃げて!!」
 反射的に全員がそちらを向くと、遠巻きにするようにぽっかりと人のいなくなった空間があった。
 そのど真ん中。壁際に据えられたソファに、若い男が一人腰を下ろしている。この大騒ぎを不思議に思っているのか、どこかきょとんとしたような表情であたりを見まわしていた。
 そんな彼の、すぐ真上。
 壁を伝って、大人の手のひらほども大きさがある、巨大な蜘蛛が這い降りてきていた。
 金属光沢を放つ鮮やかなメタリックブルーに、アクセントのような白い縞模様の混じった、いかにも毒々しい色合いのその姿。全身に生えた剛毛を震わせ、太く長い八本脚を蠢かせ、恐ろしいほど素早い動きで青年に迫ってゆく。
 壁を伝ってきた大蜘蛛は、彼が気が付いて逃げる余裕もなく、そのままソファの背を乗り越えた。動くものに反応してようやく目を向けたその肩へと、カサカサカサッと這い上がる。そうして ―― スーツの襟元から上着の内側へ、いっきに潜り込んでしまった。

「えっっ!?」

 青年は驚いたように声を上げて立ち上がった。
 その様子に伴行は内心で、見ていた人々は声に出して絶叫する。
 立ったその場で身をよじらせる青年に、伴行は警備員の制止を振り切って走り寄っていった。いまは一瞬も無駄にはできないのだ。早く早く早く、なんとかして彼をなだめなけなければ。下手に暴れられては、最悪、『命』に関わってしまう。
「お、落ち着いてくれ。頼む。大丈夫だか ―― 」
 パニックを起こしかけている青年へと話しかけた伴行だったが、その言葉を無視して彼は声を振り絞る。

「ちょ……待って。くすぐった……ッ!」

 笑いを堪えて身を震わせながら、青年は上着の膨らみに当たらぬよう懸命に両手を宙に浮かせている。
 あまりに場違いなその発言と仕草に、一瞬あたりがぽかんと静まり返った。
 そんな中で青年は、悶絶しつつもどうにかスーツのボタンを外す。そうして大きく前を広げ、ほっと息を吐いた。あらわになったワイシャツの脇腹に、メタリックな輝きを放つ大蜘蛛がしがみついている。太い八本の脚がしっかりとシャツの布地を掴み、大きく皺が寄っていて。
 そんな蜘蛛を、青年は間近からしげしげとのぞきこんだ。

「あの……違っていたらすみません。もしかして、浪花なみはなさんでいらっしゃいますか?」

 おずおずとしたその問いかけに、蜘蛛の前脚が一本持ちあげられた。剛毛の生えた太い脚は、ぶんぶんと縦に振られる。
 途端に青年は、満面の笑みを浮かべた。
「やっぱり! どうしてこんな所に? 伯爵と御一緒なんですか?」
 青年はポケットから白い手袋を取りだして、素早く両手にはめた。そうしてカサカサと胸元へ這い上がってくる青いタランチュラ ―― 浪花へと、臆する様子もなくその手を差し伸べる。
 巨大な蜘蛛は馴れた動きで、軽く握られた手の甲へと身軽に飛び移った。
 にっこりと微笑みかけて、それから青年は顔をあげる。
 誰かを探すような仕草で、ロビーの中をぐるりと見まわした。そこでようやく、遠巻きにしている人々の様子に気がついたらしい。ちょっと首を傾げて、それからああ、とひとつうなずく。
「ご心配なさらずとも大丈夫ですよ。彼女は無闇に人を噛むような方ではありませんから」
 笑顔でそう告げる。
 その言葉に反応できた者は、伴行を含めて誰一人としていなかった。
 しかし青年は気に留めた様子もなく、あたりをひと通り確認してから、おもむろに携帯電話を手にする。そうして短縮番号をプッシュした。
「……もしもし、いまよろしいですか。はい、あの、いまどちらにおいでですか? 私は常盤物産ビルの一階ロビーにいるんですが、そこで浪花さんにお会いしまして……ええ、その、少々騒ぎになっているようなんですけれど」
 平然と毒蜘蛛を手に乗せ ―― いわゆるハンドリングをした状態で、ごく普通に通話を始める。
 伴行はそんな彼をまじまじと見つめた。
「 ―― あの、失礼」
 軽く咳払いして声をかけると、青年は携帯を耳に当てたまま振り返る。
 濃い藍色のスーツは、趣味も仕立ても良い品であった。だが腰まである長い髪を首の後ろで縛ったその髪型など、一般的な務め人とは思えない。そしてどこか中性的な面立ちには、見覚えがあった。
「確か日月堂さん、でしたか。そのクモのことをご存知なのですか?」
 青年は数度目をしばたたかせると、電話の相手に一言断った。それから携帯をおろし、伴行へと身体ごと向き直る。
「ええ。知人と一緒におられるのを、何度かお見かけしたことがありまして。いま連絡を取りましたら、すぐ迎えにいらっしゃるそうです」
 お騒がせしたようで、申し訳ありませんでした。
 ぺこりと軽く頭を下げるその手の上で、大蜘蛛は違う違うというように両方の前脚をばたつかせている。
「ああ……いや、そうではなくて」
 言葉を濁しつつ、伴行はちょっと失礼、と手を伸ばした。
 青年が持った通話中の携帯の、ディスプレイ表示を確認する。

幸田こうだ伴道ともみち ***−****−****』

 ―― 間違いなかった。
 ついさっきここを出て行ったばかりの、異母弟の名と番号である。
 幸田伴行社長は、深々と、いろいろな意味でのため息を吐いた。それから青年へと、丁寧に依頼する。
「申し訳ないが、我々では『それ』に対処できません。異母弟おとうと……伴道が戻るまで、奥で面倒を見ていてもらえないでしょうか」
 いつまでもそんなものを野放しにして一般社員の目に触れさせていては、誰も落ち着くことができないだろう。下手をすれば保健所や警察に通報されてしまう。だがいくら相手が毒蜘蛛とはいえ、異母弟が大切にしている家族ペットだと知っている以上、むざむざ駆除されるのを看過しているのは後味が悪いし、後だって怖い。
 伴行の言葉に、青年はことりと首を傾げた。
「それはいっこうに構いませんが……浪花さんは、ご自分から他人に危害を加えたりはされませんよ」
 伯爵のお兄様だとおっしゃるなら、ご存知でいらっしゃいますでしょう? と問いかけてくる。
 まっすぐに見つめてくるその瞳は、どこまでも澄んだ曇りのないそれで。皮肉の色など欠片も浮かんではいない。
 伴行は思わず目を伏せ、その視線から逃れていた。
「……ええ、それは判っています。だが、誰もがそう信じる訳でもない」
 言い訳のように、そんなふうに答える。
 なにより自分とて、いざ伴道と同席していない単体の状態でこれらの蜘蛛と接触した場合、どうしても恐怖と嫌悪の想いが先に立ってしまうのだ。それは理性ではどうしようもない、生理的な反応で。
 そもそもそのタランチュラが ―― そんなもの滅多にこの町中まちなかにいるものではないと、頭では判っていても ―― 真実、異母弟の飼っている『聞き分けの良い』個体なのかどうか。それすらも自分では見分けが付けられないのだ。もし仮にどこかのペットショップや愛好家の元から逃げ出してきた、縁もゆかりもない蜘蛛だったなら。そうと思うと簡単に保護の手を伸ばすことなど、できようはずもなかった。
 伴行の言葉を聞き、こわごわと遠くから眺めている人々の様子を見て、青年は納得したようだった。
「申し訳ありません。窮屈かもしれませんが、少し隠れていて下さいますか」
 大真面目にそう言い聞かせてから、手の甲にいた大蜘蛛を再びシャツの胸元へと移動させる。
 そうして人目を避けるよう、そっと上着の前を合わせて覆い隠した。
 その手付きはどこまでも優しく、手慣れたものだ。異母弟がいつもそうしている仕草と、とてもよく似ている。


「あなたは、伴道の連れているクモ達を、見分けられるんですか」
 余人の目がない社長室へと案内するべく、青年をエレベーターの方へと誘導しながら。伴行は疑問に思ったことを尋ねてみた。
「完全にと言う訳ではありませんが。何度かお会いした方なら、だいたいは判ります」
 松代さんとか、菊江さん、紫乃布さんに、美和子さん ―― と指を折って数え上げる。その語り口は、どう聞いても、普通の女性を対象にしているようにしか聞こえなかった。
 自分達家族が、どうしても受け入れられなかった、異母弟の蜘蛛に対する偏愛。
 たとえ毒があろうが、どれほど気味の悪い姿をしていようが、異母弟はどの個体も愛しい娘と呼んではばからなかった。誰かが嫌悪の声を上げれば、蔑む目つきを向け二度と口をきこうとせず、傷付けでもした日には容赦のない報復を返す。それは家族に対しても同様で。いつぞやの父など、反射的に思わず払いのけてしまった結果、何ヶ月も無視された挙句に、もう絶対にやらないと何度も頭を下げて、ようやく許してもらったぐらいである。
 当然、そんな異母弟の行動をしんから受け入れる相手など一人としておらず。彼は孤独な日々を、己では寂しいとも感じぬままに過ごしていたのだが。

 しかし、この青年は。

 ……確か彼は、日月堂と名乗っていたか。
 先日購入した絵画を譲って欲しいと、頻繁に足を運んできている骨董屋の人間だった。こちらとしてはいい加減うっとおしく思い、先ほど来訪を告げられた際も、来客中だと言って会わずにすませてしまったのだが。あれからもう、三時間は経っているはず。それなのにずっと、ロビーで待ち続けていたのだろうか。

 骨董を扱う店の人間であり、なおかつ異母弟の知人。そして何よりも蜘蛛に対する、分け隔てのないこの態度。
 それらから導き出されるのは……

「もしかして、以前に伴道が指先をかぶれさせてしまった、『はるあきどの』という知り合いは ―― 」
「ああ。そう言えばそんなこともありましたっけ」

 にこにこと笑顔で答える青年は、そんな過去のいきさつなど、まったく気に留めていないようだ。
 しかしその事件は伴行ら幸田一族にとって、ひどく重要なものであった。その件があって以来、彼らはずいぶんと恩恵を受けることになったのだから。
 ……少なくとも、場所柄も問わず突然前触れなく現れる巨大蜘蛛に、必死で悲鳴を噛み殺す頻度は格段に減った。そして同じように、気が付くと皮膚が赤く腫れて、ひどい痛みや痒みに襲われるようなことも、ほとんどなくなったのだ。
 はっきり言って、どれだけ感謝してもしきれない相手である。

「…………」

 これはもう、話を聞かない訳には行かないだろう。
 さっきの大騒ぎを問題なく収め、蜘蛛の命も、そして異母弟からの信頼をも両方救ってくれた彼には、これまでのことも含めて恩義がありすぎる。
 そしてなによりも。
 あの異母弟が、はっきり『友人』だと断言した相手なのだ。あだやおろそかには扱えない。

 伴行は様々な感情の入り混じった、複雑なものを感じつつ、秘書へと上客用の菓子と茶の用意を命じるのであった ――


―― 浪花さんは、 グーティー サファイア オーナメンタル。一般的には気性が荒く、毒性も比較的強いらしいッス。



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