++お礼SS 骨董品店 日月堂


「……申し訳ない」
 珍しく、伯爵は真剣な面持ちで謝罪していた。
 胸元まで持ち上げられたその手の中では、白地に金属質な紫の縞模様が入った、手のひらほどもある蜘蛛がうずくまっている。目立って長い脚部を身体に引きつけるようにして小さくなったその様子は、どこか恐縮しているかのような印象を与えるものだ。
「いえ、見た目ほどひどくはありませんから」
 笑みを浮かべてかぶりをふった晴明は、隠すように自身の手をもう一方に重ねた。
 右手の指先。時に女性とも見まごうほど白く形整ったその指先が、今は無惨にも赤く腫れ上がってしまっている。
「私には耐性があるので、配慮に欠けたようだ。本当にすまない」
 伯爵は手の中の蜘蛛へと視線を落とし、そっと撫でる。節のたった長い手指はどちらも剥きだしで、毛羽立った身体へと普通に触れている。
 撫でられた蜘蛛の方はというと、普段ならば嬉しげに戯れるような仕草を見せるのだが、今日は大きな身体を精一杯縮めたままだ。
紫之布しのぶさんに毒の毛がおありなのは知っておりましたし……私の不注意もありましたから」
 くり返す晴明の言葉は、おそらく慰めなどではなく、心底からそう思ってのものなのだろう。だからといって ―― いや、だからこそと言うべきか ―― あっさりと聞き流してしまうことは、さすがの一人と一匹もできないようで。


 ―― そもそもの事の発端は、いつものように日月堂へと顔を出した伯爵が、連れてきた蜘蛛の何匹かを、店内で自由に遊ばせていたことだった。
 主に中南米やアフリカなど温暖な地域を生息地とする、徘徊性の大型種 ―― タランチュラと呼称されるそれらは、毒蜘蛛の代名詞としてことに名高いが、実際にはそこまで猛毒を備えていると言うほどではない。もちろん現れる症状は、種類や噛まれた人間の体質、体調によっても左右される。しかしどちらかというとその姿の巨大さ、たくましさから、恐ろしいというイメージが先行してしまっている事実の方が大きいだろう。
 そう言ったわけで、蜘蛛伯爵 ―― 伴道が可愛がっている蜘蛛達は、姿を現しただけであたり一帯がパニックとなってしまうのが常であった。伯爵自身はそのことについて日頃から非常な憤りを感じていたりするのだが、それでもなにも知らない一般人達の前で、進んで騒ぎを引き起こそうとまでは、さすがにしない。
 そしてそれだけに、騒ぎにならないと判っている場所 ―― もっぱらそれは同じ術者達の前であったり、血の繋がりのある家族のもとであったりするのだが ―― では、日頃不自由をさせている反動だとばかり、無頓着に蜘蛛を解き放つ傾向がある。
 伯爵のつれている蜘蛛達は、確かに普通のものとは異なり、言葉もそれなりに解せば不必要に人を襲ったりもしない。せいぜいそこらへんを歩きまわったり、隙間に潜り込んだりするだけだ。その様子を眺めて伯爵は機嫌良く笑みを浮かべ、晴明もまた特に咎めることなく、同じように微笑ましく見守っていたのだが。

 が、である。

 蜘蛛達の中でもひときわ鮮やかな色合いを持った一匹が、棚に並べられた小物の合間を歩いていた時のこと。
 長い脚を器用に動かして、隙間を縫っていた彼女だったが、ちょっとした弾みに小物のひとつに触れ、わずかにその位置をずらしてしまった。そしてそれを見つけた晴明が、何の気なしに手を伸ばし、ずれた物を直した。
 それだけと言えばそれだけの ―― この店においてはこれといって特筆することでもない、日常的な光景に過ぎなかったのだが。
 しかし再び伯爵との談笑に戻った晴明の様子が、じょじょに妙なものになっていった。話を続けながらもなにかに気を取られているようで、しきりに指先を動かしてはこすりあわせるような仕草をしている。
 訝しげにそれを眺めていた伯爵が、はたと事情を察したときには、既に晴明の指先は痛々しく腫れ上がってしまっていた。


 タランチュラの中でも南北アメリカに住むオオツチグモ科の仲間には、腹部に刺激毛と呼ばれる毒の毛を持つ種類が存在する。主に外敵から身を守るためのものなのだが、これが他の生物の皮膚に付着すると、かぶれたような状態になって、激しい痒みや痛みを生ずることとなる。
 そのことは晴明も把握していて、その種の蜘蛛については直接触れないよう、きちんと気を配っていた。しかし今回は、彼女が歩いたあとにその毛が落ちていた為、こんなことになってしまったらしい。


 赤くなった指をどうにか手当てしてやろうと、指を伸ばしかけた伯爵だったが、はたと気が付き慌ててその手を止めた。
 考えてみれば、原因となった当の蜘蛛 ―― 紫乃布を素手で持っていた彼にも、毒毛は確実に付着しているはずだ。伯爵自身には耐性があるため、特にどうということはなく、実際、彼女達に毒があることすら彼はほとんど意識していない。だがその手で迂闊に触れたりしたならば、晴明の症状は余計にひどくなることだろう。
 結局、本当に大丈夫だからとくり返し、自身で手を洗い薬を塗る晴明を、伯爵と大蜘蛛はただ恐縮して見守ることしかできなかった。


 ―― ちなみに後日この話を聞いた和馬や沙也香などは、晴明に対しこんこんと説教をくり返した。
 いわく、いかに異形のものに親しみを感じていようとも、晴明自身はごく普通の生身の人間に他ならぬのだから、差別はしたくなくとも区別は厳然として必要だろうと。


 そして一方伯爵の方はというと、さすがに深く心の底から反省したらしく、これまで余人を気遣うことなく、得手勝手に蜘蛛を解き放っていたのを、多少なりと控えるようになったらしい。
 少なくとも本当に毒性を持つ蜘蛛が徘徊した後は、他人に迷惑を掛けることがないよう、他の蜘蛛に掃除させるといった ―― 彼なりの気遣いは見せるようになったという。
 ……もっともそれが本当に気遣いになっているのかは、意見の分かれるところであるのだろうが。


 さらに追記するならば、後日、日月堂へと伯爵の家人から見舞いと感謝の品が届いたというが ―― それを見る限り、少なくとも一部の人間にとっては、非常に有り難い変化だったのは確かなようである ――


―― えー、伯爵の家族は、全員ごく普通の一般人です。そして伯爵は末っ子で、上に三人ほど兄がいたり。



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