++お礼SS 月の刃 海に風


 ―― 長く患っていた母が死んだとき。
 一番最初に思い浮かんだのは、これで楽になれたという、薄情このうえない感想だった。


◆  ◇  ◆


 遠ざかっていく桟橋に、複数の人影がバラバラと走り出ていた。手を振り上げるようにして激しく立ち騒いでいるのが、遠目にもよく見えている。
「あっぶねー、危機一髪だったな」
 後ろに続く小舟の中から、トルードがそんなことを言っているのが聞こえていた。その舟は甲板まで引き上げるほどの余裕がなかったので、船尾から伸ばした綱でただ牽引している状態だ。乗っている数人が、不安定な場所でしきりと後ろを振り返っている。
 と ――
「おい、やばそうだぞ」
 後甲板クォーターデッキから固い声が降ってきた。船医のタフが、目庇まびさしを作って行く手を眺めている。視線を追ってそちらを見やれば、湾の出口を塞ぐようにして、帆船が姿を現しつつあった。船の大きさはこちらとほぼ変わらないぐらい。小舟を引いているだけ、速度の出せないこちらの方が不利か。
「むこうの足を止めないとまずいな……」
 ガイの肩から伸び上がるようにして、ジルヴァが互いの位置関係を目測した。船がぶつからないよう避けることは可能だが、いつまでも湾内でぐずぐずしていると、さらに追っ手が増えかねない。
「コウ、いける?」
「……ああ」
 問いかけにうなずいて、船縁を離れた。後部にある船内へ続く入口へとむかい、後甲板が張り出して庇のようになっている部分に手を伸ばす。
 外部からは見えない位置に、隠すように取りつけた弓を掴んだ。普段使っているものとは形も大きさもずいぶんと異なるそれを、手早くとり下ろす。手入れは日々欠かしていないが、念のためざっと全体を眺めた。
 異常がないのを確認して、はずしていた弦を張り直す。これは手早くとはいかず、体重をかけての作業になった。終わった頃には、相手の船は既にかなり近づいてきている。そろそろ甲板にいる人物の顔が見分けられる距離だ。
「下がっていろ」
 あたりの人間に声をかけ、弓を起こした。大人の身長ほども長さのある長弓は、取りまわしにもかなりの広さと、そしてこつがいる。
 矢をつがえ、大きく引き絞る。
 ぎりぎりと耳元で弦が鳴った。弓を支える腕に、普段とは比べものにならない力がかかる。ぶれそうになる狙いを慎重に定めた。距離がある。狙いはわずかに上。
 かすかな波に上下する的が、ある一瞬、ぴたりと静止したように見える。
 その瞬間を逃さず、放つ。


 すべての物音が、周囲から消えたかのようなひととき。


 だがそれは無論錯覚に過ぎず、刹那の間をおいて、どっとあたりから歓声があがる。
 矢は吸い込まれるように、狙った索具を捉えていた。帆を支えるためのそれが断ち切られ、広い布が大きく斜めに垂れ下がっている。
 さらにもう一度矢をつがえ、射る。
 残った方の索具も切れ、帆が横桁もろとも甲板へ落下した。風に乗って重い物のぶつかる鈍い音と、乗組員達の悲鳴が聞こえてくる。主帆を失えば相手は手漕ぎの小舟と変わらなかった。図体が大きいだけに、そうなればかえって身動きが取れなくなるものだ。
「よし、今のうちにすり抜ける!」
 ジルヴァの指示を受けて、甲板にいた人間がそれぞれの位置へと走った。舵を取る者、帆の向きを調整する者。全員が忙しく立ち働く中で、弓を下ろしひとつ息を吐く。
 方向を失い、波に流され始めたむこうの船から、散発的に矢が放たれた。だが普通の弓で届く距離ではない。失速した矢はむなしく海面へと落ちてゆく。


 やがて、充分に島から離れたと確信できる頃になると、一同はようやく緊張を解いた。
 牽引していた舟を引き上げる作業を横目に、長弓を片付けるべくまず弦に手をかける。
「…………」
 思わず眉をひそめ、右手に視線を落とした。指の皮がめくれ、わずかに血が滲んでいる。
「あれ、弦で切ったの?」
 肩越しにガイがのぞき込んできた。珍しいね、などと呟いている。
 昨日今日弓を始めた若造でもなし、長年弦を引き続けて固くなった皮膚は、そう滅多なことで傷などつくはずもなかった。だがこの弓は別だ。
 並のものよりはるかに射程距離のあるこの長弓は、それに見合うだけの重さを持っていた。重量という意味ではなく、弦を引くときに必要な力がという意味で。
 普通の男なら射るどころか、ただ引き絞ることさえ難しいだろう。そんな代物を使ってあれほどの精密射撃を可能とする人間は、自慢ではないがそういるものではない。
 しかし……
「それ、ちょっと変わった形してるね。初めて見た」
 大きな背を丸め、もの珍しそうに眺めてくるのが、なんとなく気に障った。
 確かに、このあたりでは見かけない型のものではある。
「……母親の形見だ」
 正確には父親が母親に与え、そして母子が家を追われる際、唯一持ち出すことができた品。
「へーえ」
 ガイは数度まばたきすると、なにが嬉しいのか笑顔になった。
「じゃあ大事な物なんだ」
 その眉間に弓の背を叩きこんで場を離れる。背後で悶絶するような声が聞こえたが気にしない。
「うっわー……容赦ねえな」
 トルードがぼそりと呟いた。縄ばしごを上がって船縁をまたいだばかりの姿勢だ。そちらに視線を向けると、慌てたように甲板へと降り立つ。つき落とされるとでも思ったのか。
 邪魔にならない場所を選んで甲板に直接腰を下ろす。そうして改めて弓を点検した。
 この弓を話題にすると、機嫌が悪くなるのを知っているのだろう。他には誰も声をかけたりしてこない。


 これが大事かと問われれば、別にとしか答えようがなかった。
 確かにこういった場合に便利な物ではあったが、なければないで別に構わない。
 そもそも船上においては、取りまわしの邪魔にならない小型の弓が好まれる傾向にあった。素早くそして数多く放つことができるそちらの方が、実際の戦いにも向いているのだ。かさばる上に数射しかできないこの弓は、ほとんど儀礼用に近かった。


 ―― こんな物を後生大事に抱え続けていた母は、いったい何を望んでいたのだろう。


◆  ◇  ◆


 思い返せば、自分は幼い頃からかわいげのない子供だった。
 母親と二人、言葉もろくに通じない貧村に放り出されたのは、たしか九つか十か、それぐらいの頃だったろう。
 その頃には既に、自分が妾の子であるということも、正妻に疎まれているということも承知していた。それこそ正妻にいた同じ年頃の子供が、あらゆる面で自分よりずっと劣っていることを知り、母親と自身の身を守るためには、つとめて愚鈍なふりをするのが一番だと、そんなことすら考えていたほどだった。
 だから、顔もほとんど知らない父親が死に、屋敷を追い出され、誰も自分たちのことを知らない場所で暮らすことになったときも、むしろせいせいしたとさえ感じたものだ。
 嘆き悲しみ、身体を壊して寝ついた母親のかわりに働くことは、正直そう辛いことでもなく。
 もちろん子供の身にできることなどたかが知れている。今にして思えば、周囲の人々の情けによって生かされていた部分も大きかったのだろう。
 だが、大人達に混じって捕れた魚をより分けたり、網の修繕を手伝ったり、そういったことに全力を尽くすのは楽しかった。怒鳴られたり殴られたりすることも多かったが、それにはきちんとした正当な理由があったから、いくらでも耐えられた。少なくとも、正妻や腹違いの兄弟とやら、はてはその息がかかった使用人達からまで謂われのない侮蔑や嫌がらせを受けていた頃に比べれば、はるかに納得のいくことばかりだった。うす暗い、あばら屋としか言いようのない家の中で、母親はいつもすまないと言って泣いていたが、そんな生活はけして辛いものではなかったのだ。
 父の家が代々弓術に秀でた名門だったとかで、基礎こそ幼い内に叩きこまれてはいたものの、漁村暮らしになってからも鍛錬を続けたのは、純粋に生きるためでしかなかった。それはけして教養としてのそれではなく、ただ口にする糧を得るための手段に他ならず。父親の背を追うだとか、いつかそれで名を上げようだとか、そんなことは考えもしていなかった。それなのに。
 十五、六を数える頃になって、ようやく大人と同じ扱いを受けられるようになったとき、もう起きあがることも難しくなっていた母親が出してきたのがこの弓だった。
 はっきり言って、目を疑った。
 なにを考えていたのかと、詰問したかった。
 こんなもの、売ってしまっていれば良かったのだと。珍しい材料を使い、滅多に見ない造りをしたそれだ。薬代になるどころか、うまくすればこの村を出て小さな店を持てるぐらいの金にはなったはずだ。こんなものを持っていたのならば、どうしてもっと早くに出してこなかったのか、と。
 だが弱った母親にそんなことを言うわけにもいかず。
 そして弓を受け取った数日後、母親は枯れた木が朽ちるように息を引き取った。


 ―― 明日からは、己ひとりの食い扶持を稼げばすむ。


 母親の遺体を見て、まずそう考えた自分はどこかがおかしいのだろう。
 弔いをすませ、なけなしの荷物をかかえて村を出たときも、この弓はあくまで金目の物のひとつでしかなかった。
 ここまで手放さずにきた理由は、ひとえに偶然によるものでしかなく ――


◆  ◇  ◆


「い……ッたぁ〜〜」
「バッカだなあ、お前。あの弓持ってるコウには近づいちゃ駄目だっての」
「知らないよ、そんなの」
「なんかね、すっごく大事にしてて、話題にされるのもイヤみたいな感じなんですよ」
「そうなんだ」
「ああやって毎朝手入れしてるの、お前だって見てんだろうがよ」

 弦のほつれを見つけ、物入れから松脂を取り出しているのを、トルードが親指で示す。

「だってオレ、朝は船長室いるしー」

 額を押さえたガイがぶつぶつとぼやく。

「前に勝手に触った水夫が、ものすごい目つきで睨まれてことありましたよね」
「あったあった。そいつ完全にびびっちまって、次の港に着いた途端、給金も受け取らずに逃げだしたんだよな」
「じゃあさ、もしも間違って傷なんかつけちゃった日には ―― 」
「お、お前、怖いこと言うなって」
「考えたくないですよぅ!」

 すぐ近くでぼそぼそととささやきあっている三人を、ジルヴァは苦笑ともなんともつかぬ表情で見上げた。

「……コウは表情に出ないだけで、その実ものすごく情が深いからね」

 本人には聞こえないよう、小さな声でそう評する。
 あの男は、これと決めた相手やもののためならば、ときに見ている方が驚くほどに想いをかたむける傾向にある。
 もっとも本人は、自分でそれを判っていないところがあるのだが。
 そしてその発露のしかたが非常に婉曲で複雑な方向を向いてしまうため、周囲もまたなかなかにそれと気付きにくかったりするのだが。

「……あー、確かに」
「面倒見とかは良いもんねえ」
「慣れるとけっこう判りやすいんですよ。慣れるまでがちょっと怖いですけど」

 一同はそれぞれに納得したような素振りでうなずきを交わす。
 そんなわけでまあ、とりあえず。
 現在この船に乗り組んでいる人員達は、本人よりもよほどそのあたりを理解しているようであった。


―― 自覚がないのは本人ばかり(笑)



本を閉じる

Copyright (C) 2007 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.