++お礼SS 月の刃 海に風


 心地よい潮風と明るい陽光とを浴びながら、ガイは船縁を見上げたその目をわずかに細めていた。
「ちょっとあそこは……危なくない?」
 日よけ代わりにかざした左手はそのままに、右腕で支えた船長の方へと振り返る。
 図抜けた長身とたくましい筋肉とを兼ね備えた彼の腕には、今日もこの船の指導者たる銀髪の青年が収まっていた。曲げた肘に腰掛けるようにして、ガイの肩に腕を乗せている彼は、わずかに首を傾げてその視線を受け止める。
 長く伸ばされた癖のない髪が、さらりと流れ落ちてきらめいた。どうして陽に焼けないのかと誰もが首を傾げる白い肌といい、ほっそりと華奢なその身体つきといい、一見したところでは女性にしか見えない姿である。それも絶世のとか傾城のといった枕詞がつくたぐいのだ。
 白銀の睫毛に囲まれた濃い紫水晶の瞳が、ゆっくりと一度まばたきする。
「 ―― そうかな」
 問いかけるようにして返された声は、中性的な響きを持っていた。女性のそれにしてはいささか低く、しかし男のものとするには澄んだ穏やかさをまとった声音。
「でも、せっかくだから波を近くで見てみたいし」
 だから、乗せて。
 そう言って舳先近くの船縁を指し示す。
 ガイは困惑したようにその指先とジルヴァとを見比べていた。
 船長が指さす船縁は、大人の背丈近い位置にあった。ガイであれば人ひとりぐらいたやすく持ち上げられる高さだったが、そのすぐむこうは海面であることを思えば、ためらいを覚えずにはいられない。
「ほら、揺れるし」
 荒れているとはお世辞にも言えない、むしろ気持ちのいい絶好の航海日和だったが、それでもそこは船。足下の船体は波にあわせてゆったりと上下に動いていた。船縁のような不安定な場所では、均衡をとるにも気を遣わねばならぬだろう。
「船なんだから当たり前じゃない」
 ガイよりもよほど航海経験の長いジルヴァは、むしろきょとんとしたようにそう答えた。彼にとっては揺れのない船など想像の外なのだろう。
「掴まるとこないけど……」
 足の不自由なジルヴァだから、他の水夫達のように索具や板の隙間を使って身体を固定するのは難しいはずだ。そうなると頼りになるのは腕の力だけだが、見たところ周囲に支えとなりそうな物はあまりない。
「そんなのいくらでもあるって」
 縁そのものでも斜檣スプリットでも、いざというときには充分手がかりになる。そう続けるジルヴァに、ガイはなおも問いかけた。
「ほんとに平気?」
「…………ガイ」
 ジルヴァの声が心なしか低いものになった。それに応じてガイは小さくため息を落とす。
「わかった」
 でも危ないから、ちゃんと掴まっててよ?
 そう言いながらジルヴァの身体を持ち上げて、木製の船縁へと座らせる。そうしてきちんと安定しているのを確認するように、そっと腕を放ししばらく様子をうかがった。
 一方乗せられた側のジルヴァはというと、慣れたように数度身じろぎすると、潮風にあおられる髪や服を手で押さえた。甲板よりも一段高く、船でももっとも先頭に位置するそこからは、なににも邪魔されることなく行く手の海原を一望することができる。常日頃、通常よりも低い視点でいることの多い彼は、滅多にない開放感に思わず口元を緩めていた。
 が ――
 すぐになにやら視界の端で動くものが気になり、その視線を船上へと引き戻すこととなる。
「……なにやってるの」
 船縁に足をかけよじ登ろうとしているガイに、低い声でそう問いかける。
 きわめて大柄な青年は、ひょいと顔を上げると満面の笑顔で答えた。
「ん、いや危ないから、横で支」
 みなまで言い終えるより早く、鈍い音と振動があたりに響きわたった。

「うっとおしい」

 甲板へと一撃でたたき落とされた巨体の上に、冷酷な声が降り注ぐ。
 見下ろす瞳は刃にも似た、容赦のない光を宿していた。
 たおやかとしか表現しようのない繊手が為した暴挙に、見ていた周囲から怯えとも感嘆ともつかぬため息が洩れ聞こえてくる。が、ジルヴァもガイもそれを気に止めることはなかった。
「そ、そんなこと言わないでさ〜〜」
 這いつくばったまま上目遣いで見上げてくる青年に、ジルヴァは小さく鼻を鳴らしてそっぽをむく。途端にガイはうちしおれたかのように広いその背を丸めた。


「…………犬」
「犬だな」
 離れたところからそんなやりとりを眺めていたコウがぽつりと呟き、さらにその横で料理長兼船医のタフが苦笑混じりに同意していた。
「え、犬? どこどこ?」
 通りすがりに聞きつけたザギが、きょろきょろとあたりを見まわしている。


 船首ではガイがあきらめ悪く、いつでも支えられるよう、船長の足下でまとわりつくように待機していた。



―― エピローグ前の一幕。
イメージは飼い主にじゃれすぎて怒られたあげく、しおたれてる大型犬でひとつ。



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