広大な吹き抜けの空間。高い天井には半透明の素材がはめこまれ、淡く色づいた陽光がホールを柔らかく満たしている。
高い手すりつきの
露台から、ローズは羽化場を見下ろしていた。
繊細な刺繍を施された
長衣の背に、六枚の翅を大きく広げている。盛装姿だ。
彼女の傍らには、同じ装いをまとったやはり六枚翅を有する青年が、並んで立っている。
「始まったようだ」
「…………」
ローズは無言で、ただわずかに顎を引いた。
ミレーナ人の羽化は、世代ごとにいっせいに行われる。中にはローズのように例外的な存在もまれにあったが、同じ年に産まれた者達は、おおむね同じ年、同じ日にさなぎから成体へと変化した。
良く晴れた、陽射しの暖かい昼下がり。彼らは競うかのように次々と固い殻を破り、ようやく得ることのできた双翅を、きらめかせながら伸ばしてゆく。
亜成体達が、さなぎの間を忙しげに行き来しはじめた。
羽化したばかりの成体達を世話するためだ。まだどこか朦朧としている彼らを柔らかな布で清め、生じたばかりのもろい翅を痛めぬよう、姿勢を楽にさせる。数百人がいちどきに変態するのだから、その混乱はかなりのものがあった。
「順調そうだな」
「ええ」
半数ほどのさなぎが孵ったところで、再び彼らは言葉をかわした。
どこか心あらずというローズの風情に、青年はいぶかしげな表情になる。ローズは身を乗り出すようにして羽化するさなぎ達を眺めていた。どこか必死なものを思わせるその横顔に、青年は開きかけた口を閉じて、己も再び階下へと目を落とす。
そうして、ふと呟いた。
「……黒髪とはまた珍しいな。肌も黒い。変異体か?」
その言葉に、はっとローズが振り返る。
この惑星の人類は、総じて淡い色彩を持つ者が多い。ましてこの
生息地で今年成人する世代の中で、黒髪黒い肌といえば、該当する者は一人だけだった。
「どこに ―― ッ」
手すりにしがみつきそちらを見下ろしたローズは、その途端ひゅっと息を吸い込んだ。
絶句する彼女の横で、青年が愕然と言葉を紡ぐ。
「馬鹿な……いまどき同じコロニーで、この短期間に……!?」
細かな茶褐色の薄片が、ぱらぱらとその浅黒い肌からはがれ落ちてゆく。
腰から下は、未だ形を保った外殻の中へおさまったままだ。ゆっくりとのけぞるように上体を起こし、降り注ぐ柔らかな光を浴びているひきしまった肉体。濡れそぼった黒髪が、よじれたように肌へと貼り付いている。
そして、少しずつ皺を伸ばしてゆく、双翅。
網目状の翅脈を巡る透明な体液が、天井からの光を受けて虹色にきらめく。
三対六片の、見事な ――
「六枚翅……」
ローズが手すりを乗り越えた。
澄んだ音と共に翅を広げ、飛び立つ。
突然の行動に、広間を埋める亜成体達が驚きの声を上げた。それに促されたのか、閉じられていたカインの瞳が、ぎこちなく目蓋を上げる。
まだどこか茫とした光を宿す銀灰色の双眸が、飛翔するローズの姿を映して、まぶしげに細められた。
上体を支えていた両腕を、舞い降りてくるローズを迎えるように、さしのべる。
汚れることも厭わず頬をすり寄せたローズを、カインはしっかりと抱きしめた。
ローズもまたカインの首に両手をまわし、その首筋へと顔を埋める。
「 ―― 俺も、生きる」
「……うん」
「愛してる」
「うん」
震える言葉と共に、温かい雫がカインの肩を濡らした。
―― 次世代を、子孫を残すことはできずとも、自分達は同じ時間をともに生きることができるのか。
ローズにとってのそれは、予測さえすることの無かった ―― けれどなによりも喜ばしいことで ――
* * *
通信装置のパネル越しに目にした姿は、一年ぶりにも関わらず、まるで変わりを見せてはいなかった。
「久しぶりね」
『ああ』
言葉少なにうなずく仕草も、記憶の中にあるままのそれだ。
「なにかあったの? あなたの方から連絡くれるなんて、珍しいじゃない」
ローズはほっそりとした首を傾げるようにして、問いかける。
彼女とカインが、それぞれ駐在大使として異なる惑星へ居住するようになって、既にずいぶんと長い時間が過ぎていた。
六枚翅の持ち主である以上、彼らもまた、行政に関わる者としての責務から逃れることは許されなかった。六枚翅自体の個体数が少ないだけに、彼らの為すべきことはいくらでもあり、繁忙を極める中、そうそう顔を合わせることすらできない日々が続いた。
そうして時を過ごしてゆくうちに、やがて彼らは、徐々に自分達の異質性に気がついていった。
繊細で、平穏と芸術を愛するミレーナの気質は、彼らにとっておだやかに過ぎたのだ。
争いをいとう姿勢は事なかれ主義の弱腰に、現在の生活を守ろうとする閉鎖的な政策は、変化をおそれる保守的な臆病さにしか感じられず。
ただでさえ特異な羽化をしたローズや、見た目の異質なカインは、孤立するとまではいかずとも、周囲との関係にぎこちないものを生じるようになりつつあった。
いっそこの惑星を離れた方が良いのでは。
いつしかそんなふうに考えるようになり始めた頃だった。幾つかの星に駐在していた大使が帰郷することとなり、新たな者を任命する必要が生じたのは。
迷わなかったといえば、嘘になる。
数光年を隔てた遠い星へと別れれば、きっと今まで以上に会うことは難しくなるだろう。
けれど、このままミレーナで過ごすことは、既に彼女達にとって苦痛すら感じさせるものでしかなかった。
―― 言葉を交わすことは、通信でもできるわ。
そう口にしたローズに、カインは無表情のままうなずいた。
―― 幸いアタシ達には時間があるもの。二度と会えないって訳でもないし。
―― ああ。
―― ……止めないのね。
あまりにもあっさりとしたその返答に、どこか寂しいものを覚えて。自分から言い出したことであるのにも関わらず、言葉には責めるような響きが混じってしまった。けれどカインは、怒りもせず、かぶりを振ってみせたものだ。
―― 離れれば、変わるのか?
この想いが。
互いを想うこの自分達の心が。
距離や時間をおくことで、はたして変化などするというのか、と。
そしてその答えは、いまさら問うまでもないことで……
「……話は聞いてるわ。エスレイルの方、大変なことになってるそうね」
『ジェルディン政府は、エスレイルに派遣していた軍を全て撤退させ、全面的に手を引くことを、決定した』
「あれだけ横から余計なくちばしを挟んでおいて、戦局がややこしくなってきたら、今さらなにも無かったことにしようって言うの? ずいぶん無責任な判断ね」
カインの説明に、ローズは形の良い眉をひそめた。
カインが大使を務める惑星ジェルディンは、ミレーナの他にも多くの惑星や国家と同盟関係を結んでいた。エスレイルもまた、その内のひとつだ。
国家エスレイルが存在する惑星には、統一政権というものが存在せず、大きなひとつの大陸を複数の国家が分割して統治していた。その中でも、特に力を持つ二つの勢力のうち片方と、ジェルディンは交流を持っていた訳なのだが ――
数年前、危うい
均衡を保っていた勢力図が、ついに変動をみせた。エスレイルが対立国家の武力侵攻を受けたのだ。双方の軍事力はもともとさほどの差を有していなかっただけに、不意を打たれたことはかえって致命的とも言える事態を招いた。
同じ惑星上の他国家は、日和見を発揮して傍観の姿勢をとり、自然エスレイルは外部へと救助を求めた。下手に関わることは内政干渉となるが故に、ほとんどの同盟惑星はそれを退けたが、ジェルディンは違った。そこには、エスレイルで産出する
希少金属に関する利権も絡んでいたのだろう。
多くの軍需物資と人員が、ジェルディンからエスレイルへと送り込まれた。
予想外の介入に、計画を狂わされた対抗勢力は、やはり外惑星へと助力を募り ―― 内戦は、いつしか代理戦争の体を為す泥沼と化していった。
ミレーナ人の中では気性の激しさが目に付く二人だったが、それでもけして無用な争いを好む性分ではなかった。あえて他国の紛争にまで首を突っ込もうとするジェルディン政府のやり方には、もともと同調できないものを感じていたのだが……
『派遣部隊に、知り合いがいる』
ぽつりと告げられたカインの言葉に、ローズは目を見開いた。
「なんですって」
この青年が『知り合い』と形容する対象は、はっきり言ってひどく限られている。
情が薄い ―― と言うわけではない。むしろこれと決めた相手に対する彼の優しさ、思いいれの深さは、並大抵のものではなかった。ただ、それを発揮される相手が極めて少ないことと、そしてそういった相手以外の者に対する無関心さが、輪をかけて際だっているだけで。
そんな彼をして、そう呼ばしめる人間が、かの地の紛争に関わっているとなると……
『彼らは撤退命令を無視し、エスレイルに留まると言っている』
「軍紀違反じゃない」
カインは小さくうなずいた。
『 ―― 仲間を、見捨てては行けないそうだ』
派遣軍として、数年を共に戦ったエスレイルの民達を、いまさら見放すことなどできない、と。そんなふうに言っているらしい。
「それで……」
ローズは乾いた唇を舌で湿し、まっすぐに問い返した。
「どうするつもりなの」
答えは、聞くまでもなく予測がついていたけれど。
『行く』
短い、けれどはっきりとした意思表示。
迷いと呼べるようなものはそこになく、ただ既に決定したことだけを告げる言葉。
「アンタに何ができるって言うの? ジェルディンは介入を放棄して、ミレーナだって余所の星の内戦になんて、関わりたがるはずないわ。国力の後押しがない一個人に、できることなんて……」
一国の大使として、政治的介入をしようというのなら、判らなくもない。だがジェルディンは既に対応策を定め、保守的なミレーナがカインの主張に耳を貸すはずもなく。ならば彼一人がエスレイルへ赴いたとして、いったい何ができるというのか。
『資金と、命がひとつある』
「カインッ!?」
悲鳴のような声を上げたローズを、カインはただ、静かな瞳で見つめ返した。
『わずかだが、それでも、ないよりは良い』
駐在大使として、少しづつ貯まっていったもろもろの金品。全てを持ち出せば、ある程度まとまった金額にはなる。
これからは、消耗戦になってゆくだろうかの地の戦闘で、資金はわずかでも多くあった方が良い。そして、武器を握る腕もまた ――
「カイン……あんた……」
『死ぬ気は、ない』
それだけ言って、彼は口を閉ざす。こちらの言うべきことは、すべて言った、と。
だが通信を切るでもなく、彼はただローズを見つめていた。変わらぬ静かな瞳で彼女を眺め……その言葉を待っていた。
ローズは、コントロールパネルについていた手を、そっとカメラの範囲から遠ざけた。
「後悔、しないようにするのね」
その声は、内容とは裏腹に、ひどく優しい響きを持っていた。
「アンタのやれることを、やってくると良いわ」
そう言って、柔らかく微笑んでみせる。
『必ず戻る』
「ええ。待ってるから」
―― だって私達は、離れても変わることはないのだものね……
冷たく震える指先を、手のひらへと握りこんで。
それでも彼女は、愛しい男へと心から笑ってみせたのだった。
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