店内から専用駐車場へと一歩を踏み出したところで、ジーンはふいに妙な声を上げて立ち止まった。
隣を歩いていたカインが、わずかに先へ行ってから振り返る。
「ちょっと待てよ、確か……」
ぶつぶつ言いながら買い物袋を探って、彼女はやがて小さく舌打ちした。
「やっぱり、ガムテープ忘れてるぜ」
「……まだあるだろう」
「いや、昨日使い切っちまったんだ。買い足しとかねえと」
そう言って、彼女は足下に置いていた袋を持ち上げ、相棒へ向かってつき出した。
「先に積んどいてくれ」
広い駐車場の隅に止めた、メタリックな
車体のレンタカーを指さす。二人で荷物を持ったまま戻るよりも、手分けした方が早い。無言でうなずき受け取ったカインに、ジーンはちょっと手を挙げてきびすを返した。
「じゃ、行ってくる」
「ああ」
そうして二人は逆方向へと別れた。それはごくごく自然な、日常のやりとりに他ならず ――
一時間後、銃を手にヒステリックなわめき声を上げる強盗犯を、ジーンは床に両膝をついた姿勢でにらみつけていた。
まったく、何の因果でこうなったものか。
買い忘れた品物を手に
精算を終えた彼女は、そこで運悪く武装した強盗と鉢合わせたのだった。
人数は三人。目だけに穴をあけた覆面を頭から被り、手に手に銃を構えている。
はっきり言って、手際は悪かった。
ろくに
警備員すらいない一般のスーパーを襲うのに、武装した三人がかりで、しかも興奮していたためだろう、ろくに金すら取らぬ内に通報されている。いま男達は、数名の客と従業員を人質にし、店内へと立てこもっている状況であった。
ジーンの目から見れば、しょせん無能なチンピラでしかない。
が ――
その無能なチンピラどもを相手に、為すすべもなく人質になっている己は、それ以上の役立たずに他ならず。
ぎりと、噛みしめた奥歯が嫌な音を立てた。
強い光を放つ目で犯人達を見すえながら、彼女の両手は目の前の怪我人をなんとか治療しようと、懸命に動いていた。
とはいえこの状況で、できることなどたかが知れている。
持ち合わせていたハンカチと、手近な棚からこぼれ落ちていた衣料品を使い、出血する傷口を押さえる。丁寧とは言い難いその手つきに、腹を撃たれた女性が苦痛の声を洩らした。その呻きに、犯人の一人が肩を跳ね上げ、銃を向けてくる。
「騒ぐんじゃねえ!」
落ちつきなく揺れる銃口。ジーンは静かに目を伏せた。
下手に刺激などすれば、この男達はためらいなく発砲するだろう。今はただ、黙っておとなしくしているしかできない。
動かないジーンに安心したのか、男は再び店外へと注意を戻す。
外には、既に警官隊が集結していた。
犯人を興奮させない配慮か。広い駐車場はそのままに、店の前を横切る道路を封鎖し、
遮蔽物を築いている。おそらく既に裏手へも手が回っているはずだ。男達は退路を断たれ、閉じこめられている。だが人質が存在するため、警察もそれ以上の手は出せずにいるようだ。
せめて、カインが一緒だったならば。
そう思わずにはいられない。
犯人達が武器を取り出したとき、ジーンは彼らのもっとも近くにいた。
男達は非力な少女を第一の人質とするべく、まず彼女に対して銃を向けたのだ。
驚愕しながらも、ジーンはとっさに
首飾りへと手を伸ばしていた。強力な武器となるそれを引きちぎりつつ、近くの物陰に飛び込もうとする。
だがそれよりも早く、彼女の前へ身を投げ出した人物がいた。
予想外の動きにジーンの反応は一瞬遅れ、そしてやはり突然のことに驚愕した犯人が、威嚇のはずだった銃の
引き金を引いていた。
放たれた弾丸は、その女店員の腹へと、あやまたず吸い込まれ ――
怪我人が出たことで興奮した犯人は、当初の計画に大幅な狂いを生じ、そしてジーンもまた、己をかばって負傷した店員を見捨てることはできなかった。
そうして膠着状態に陥って、既に数十分。
犯人の足元に倒れた店員と、その傍らに座り込むジーン。他の客達は壁際で別の一人に銃を突きつけられている。
増えてゆく警官隊に、男達にも焦りの色が見えていた。だが、焦っているのはジーンも同じだ。店員の傷は急所こそはずれているものの、けして楽観できるものではない。一刻も早く病院に担ぎ込む必要があるのだが。
事態がこうなる前に、なぜ防ぐことができなかったのか。
仮にも腕利きのトラブルコンダクターを名乗りながら、と歯がみする。事実、あの時この女性が飛び込んでなどこなければ、もう少し事態は違ったものになったはずだ。しかし現実にこの女性は、幼い少女であるジーンをかばおうとし、その結果としてジーンは反撃の機会を失い、彼女と共に人質となってしまった。そしてこう真正面から銃を向けられていては、もはや迂闊に抵抗もできず。
起動にある程度の時間がかかるうえ低い駆動音を発する『
蟲』は、この状況では使用できない。まして相手は複数だ。一人をどうにか倒したとしても、残る二人のうちどちらかは、確実にジーンか、もしくは他の人質を撃つだろう。
それが予測できる以上、いまできるのはただ、目の前の女性を手当することだけで。
―― もしも、
ふと、暗い思考が脳裏をよぎる。
もしも自分が、かつてのように屈強な肉体を持つ男であったならば、と。
小さな手で傷口を押さえつつ、ジーンは己に対して問いかけていた。
否、それがけして問いなどではないことを、彼女は充分自覚していた。しかし自覚していて、それでもなおわき上がる思いは、もしもという質問の形をとって彼女の脳裏を浸食してゆく。
星間警察の現職刑事であった、ジェフ=
A=ジンノウチ。この場にいたのが彼であったならば、今の状況はもっと違ったものになっていただろう。たとえ非番で丸腰の状態であったとしても、なにかできることはあったはずだ。少なくとも、こんなうら若い女性に庇われて、あげく大怪我をさせるような、そんなふがいない真似だけは断じてしなかった。そもそも銃を向けられたのが屈強な男であったならば、この店員は身を挺してまで守ってやろうとは考えもしなかっただろう。
傷口に当てた布は、既に重く染まっている。出血が止まらない。焦って力を込めれば、女性は再び呻いた。
「大丈夫か?」
顔をのぞき込めば、彼女は気丈に微笑んでくる。冷汗に濡れる青ざめたその顔に、どうしようもなくいたたまれないものを感じた。
「……すまない」
絞り出すようにそう言うが、彼女は小さく頭を振る。幼い子供に心配をかけまいとしているのだ。そんなふうに気遣われなければならない己の無力さが、わめき出したいほどに悔しい。
顔を上げ、店の外をうかがった。広いガラス窓の向こう側に人垣が見える。地元警察の制服がせわしなく行き来していた。
―― カイン。
心の内で、祈るように呟く。
頼みの綱とも呼べる、相棒の名を。
あいつであれば、きっと、と。
もはや己にできることはないと、望みを託して、ひたすらに時を待つ ――
◆ ◇ ◆
警察の指揮車が
警告灯を回転させ、あたりに赤い光を振りまいていた。
駐車場を挟んだ店の前の道は、野次馬を含む多数の人間で埋まっている。完全に路面がふさがれ、車の通行など不可能になっていた。しかし犯人を刺激せぬよう、あらかじめ最寄りの交差点で道路を封鎖し、一般車は迂回するよう誘導されている。警察側としては野次馬も排除してしまいたいところだろうが、中には人質になっている者の関係者も混じっており、強制的に退去させる訳にもいかないでいるようだ。
やはり関係者の一人であるカインは、それを楯に、止める警官を無視して強引に入り込んでいた。素早くあたりの配置を見て取り、指揮の中枢近くに位置を定める。
周囲は無線と、それに対してわめき返す声で騒がしい。
しばし無言で耳を傾け、情報を収集した。カインのいる場所からは角度が悪く、内部の様子がほとんど判らない。だが彼が相棒を見まごうはずもなかった。固まって座る人質達から離れ、ベビーピンクの頭が小さく見える。
「監視カメラの映像は捉えられたか」
「いま回線をつないでます。もう少し待って下さい」
「店内の様子が判らなければ手の打ちようがないんだ。さっさとしろ!」
怒鳴る声が聞こえる。どうやら手間取っているようだ。店側の協力も受けているだろうに、手際の悪いことだ。相棒であれば、ものの数分でそれぐらいの
侵入など完了させてしまうというのに。
「…………」
思考が彼女のことに触れて、カインはかすかに眉根を寄せた。濃いバイザーの下に隠されたその表情は、誰の目に触れることもなかったけれど。
すぐに元通りの無表情に戻った彼は、顔を上げて視線を巡らせた。この場の方針に影響を与えることができる、発言力のある人物を捜す。
そうして見つけた相手へと、無造作に歩み寄っていった。
要点だけを不必要なまでに簡潔な言葉で告げられた刑事達は、思わず目を剥いて絶叫していた。
「 ―― な、なにを無茶なッ」
「人質がいるんだぞ!?」
泡を飛ばす勢いで詰め寄ってくるのに、カインはごく短く答える。
「問題ない」
手元に目を落とし、慣れた手つきで武器を点検する。
そうして彼は、きびすを返して歩き始めた。もはや刑事達の言葉に、耳を貸すつもりはない。わざわざ自分の目的を彼らに告げたのも、単に邪魔をされたくないと思ったからであって、別に許可を求めたり協力を得ようというつもりではないのだ。
迷いのない足取りで隣のビルへと向かうカインを、刑事達があわてて追いかけてくる。
◆ ◇ ◆
耳を聾する破壊音に、犯人を含めた店内の人間が、いっせいに振り返った。
集中した視線の先で、突き破られた天井板の破片が、ばらばらと床へ降りそそいでいる。
「な ―― ?」
反射的に銃口を巡らせた犯人達は、しかしとっさに何が起きたのか判らなかった。その一瞬のとまどいが、致命的な隙を生じる。
構造材の破片と共に、黒い塊が落下してきた。『それ』は床へ着地すると同時に跳ね返り、壁際めがけて突進する。
人質に銃を突きつけていた男は、意識を失うまで事態を把握できなかった。
すさまじい
速度で肉薄したカインが、片手に持った
電撃銃で男を殴り倒す。炸裂音と共に青白い火花が散ったが、あるいは電流など必要なかったかもしれない。一瞬で昏倒した男には目もくれず、すかさず振り返ったカインは、さらに数m離れた位置にいた別の男へと、用済みになったスタンガンを投げつける。
「くッ」
顔面目がけて飛来するそれを、男は銃を持った手で避けようとした。
はじかれたスタンガンが床へと落ちるより早く、体勢を崩した男の鳩尾をカインの膝がえぐる。
ここまでわずか数秒の出来事だ。
「て、てめえ、動くな!」
最後に残された男が、ようやく引きつった声をあげる。
「動くとこのガキの命はねえぞッ!」
もっとも手近にいた人質を抱え込み、その頭へと銃をつきつけている。
震える人差し指が
引き金にかかっていた。少しでも刺激すれば、はずみで撃ってしまいかねない。
遅れて天井の穴から顔を出した警官達が、おそれていた事態に唸り声を上げた。
迂闊に突入すれば、こうなると判りきっていたのだ。複数いる犯人を同時に取り押さえなければ、必ず人質が危うくなる。かえって興奮させたぶん、自暴自棄になった犯人が何をするか予測できないのだ。下手をすれば、場にいる人質すべてを道連れにもしかねない。
せめて警官達が追いついてくるのを待つか、正面玄関からの突入とタイミングを合わせてくれれば。
絶望と非難をない交ぜにした視線を受けて、カインはゆっくりと上体を起こした。
意識を失った男の身体が、支えをなくして床へ沈む。それすら気にもとめず、カインは歩み始めた。無造作に数歩進み、転がったスタンガンへと手を伸ばす。
「う、動くなって言ってるだろうが!」
犯人が絶叫する。警官達もまた目をむいた。
「おい、やめろ! 刺激するな」
「人質がいるんだぞ!?」
口々に叫ぶ。
が ―― 武器を拾い上げたカインは、悠然と振り返った。
そうして黒いバイザー越しに、警官達を見上げる。
「問題ない」
乾いた、感情のうかがえない声。
「な……」
一同絶句した。
この状況のどこが問題ないというのか。あまりにも厚顔な発言に、返す言葉を失う。
「こ、この野郎 ―― ッ!」
無視された形になった犯人が激高した。
人質に突きつけていた銃を、正面のカインへと向ける。いくら相手が素早くとも、この距離で身を隠す物もない以上、外すわけがない。
「死ねやぁッ」
残酷な笑みすら浮かべて撃とうとした男は、しかし寸前でびくりと動きを停止した。
その頭頂部と天井を、糸のように細い深紅の光条が繋いでいる。
「ぅ……あ……?」
信じられないと言うように、男は呻き声を洩らした。ぎくしゃくとした動きで己の腕の中を見下ろす。その仕草に連動するように、光の糸が消滅した。後に残ったのは、ただ一点ぽつりと色を変えた天井の焦げ痕と、そして、蛋白質が燃えるときに放つ、独特の異臭。
「 ―――― 」
血走った目の凝視を、ジーンは無表情で受け止めた。
手のひらに収まる、ごくごく小さな護身用の
光線銃を、慣れた手つきで構え直す。
「急所を避けてやれるほど、腕が良くなくてな」
恨みたきゃ勝手に恨め。
低く呟いて、胴体にからみつく腕をうっとおしげに払った。ささやかな子供の力で為されたそれに、太い腕は抵抗する気配もなく、あっさりと人質を解放する。
絶命して倒れる男をかえりみもせず、ジーンは天井に開いた穴の真下へと向かった。見下ろしてくる警官達を、精一杯首を曲げてふり仰ぐ。
「怪我人がいる、すぐに医者の手配を」
目線で横たわる店員を示す。
警官達は、呆気にとられているようだった。
無理もない。
彼らの腰丈までしかないようないかにもか弱い少女が、微塵のためらいもなく、大の男を射殺したのだ。小さな手に握られた光線銃は、いまだ油断なく、いつでも発射できる状態を保ったままだ。いかにもなじんだ様子からして、彼女がその武器に、そして人を撃つ行為に慣れているのは明らかだった。
「聞こえないのか。医者を呼べと言ってるんだ」
苛立たしげに声を強くしたジーンに、一同はようやく我に返る。
「け、怪我人がいるんですね」
「だからそう言ってる」
「ちょ、ちょっと待ってて下さい」
狭い天井裏で窮屈そうに動き始める。それを眺めてジーンはため息をついた。
どうやら正面で待機している者を呼んだ方が早い。
駐車場へ出る自動扉に向かおうとして、ふとジーンは視界の端で動くものをとらえた。顔を向けてそちらを確認する。
と、ようやく銃口から解放された人質が、それぞれに動き始めている所だった。緊張の糸が切れその場に崩れる者や、よろめきながら立ち上がり、店外へ助けを求めようとする者など、どの顔もいまだ生々しい恐怖に青ざめたままだ。
そんな彼らは、しかしジーンの視線に気がついて凍り付いたように動きを止めた。
「 ―――― 」
人質を救った功労者の一人であるジーン。
そんな彼女を見る彼らの目は、犯人達に向けられたものと変わらぬ、怯えと恐怖に彩られていた。
たったいま、人ひとりを手に掛けて、それでもなお興奮すらすることなく、平静に言葉を綴る少女。武器や戦闘とは全く縁のない、ごく平和な生活を送る一般人達にとって、彼女の存在は信じ難く理解不能なそれでしかなかった。たとえそれが ―― 正真正銘、命の恩人であったとしてもだ。
無言でそんな彼らを眺めていたジーンに、近づく人影があった。気配を感じてふりかえれば、黒衣の相棒が間近から見下ろしている。
「…………」
光るバイザーに、たたずむ彼女が映っていた。しばしそのまま動かない相棒に、ジーンはああと肩をすくめた。
「怪我ならねえよ」
それを証明するように、両手を広げてみせる。小さなその身体には、平手の跡ひとつありはしない。手をあげて抵抗を封じる、それほどの警戒すらも、あの犯人達は抱こうとしなかったのだから。
こんな子供が相手では、それも当然のことだ。
暗い自嘲の笑みを浮かべながら、ジーンは改めて相棒を見上げた。
「それにしても無茶をやったな。一人でも取りこぼしたら大ごとになってたぞ」
相手が一人か、せめて二人であったならば、ジーンの手でもどうにかできたのだ。隙をついて一人を、そしてその混乱に乗じてもう一人を倒す。確かに難しくはあったが、その程度なら不可能ともいえなかった。だが三人となると話が違ってくる。それはたとえ腕利きのカインであったとしても同じだ。現実、最後の一人はジーンを人質に取って抵抗しようとした。もしも銃をつきつけられたのが彼女以外であったならば、今頃事態はかなりまずいことになっていたはずだ。
てっきり警官隊と手を組むなりするだろうと予測していたジーンは、強引な突入を果たした相棒に疑問の目を向ける。それなりの勝算があってやったのだろうとは思うが、それにしても無謀だったのではないか。
軽い非難を含んだ視線を、カインは表情を変えずに受け止める。
「予定通りだ」
「……あ?」
相変わらず、この男は決定的に言葉が足りない。思わず眉をひそめた。
いったいあれのどこが予定通りだったというのか。重ねて言うが、もし人質に取られたのが銃を隠し持ったジーンでなかったなら、どんな惨事となっていたかもしれぬのだ。それなのに ――
「あれだけ近くなら、外すはずがない」
そう言って、カインは転がる死体を顎で示した。
ほぼ真下の至近距離から、
光条で撃ち抜かれた頭蓋。銃口と目標物の間は10センチとなかったはずだ。それほどに犯人はジーンと密着していた。なんの警戒も抱くことなく。
犯人グループの最後の一人に、もっとも近く存在していたのが、彼女と負傷した店員。カインの登場で混乱した犯人が何をするにせよ、そのすぐそばにはジーンがいた。人質とするのであれば、床に横たわる負傷した店員よりも、抱え込みやすい小さな身体の少女が選ばれるのは明らかだった。仮に男が別の人間に手を伸ばしたにせよ、その時はジーンが割り込み、己が身を捕らえさせたはずだ。
また逆上した犯人が彼女らには目もくれず銃を乱射しようとしたならば、注意がそれた時点でやはり、ジーンが間近から男を撃つ。
つまり犯人は無防備に彼女のそばに立っていた段階で、すでにカインにとっては警戒の対象外となっていたのだ。そして、犯人がそれだけ用心もせずジーンを近づけていたのは、彼女が他でもない、年端もゆかぬ少女であったからで。
―― もしも、
それは、なんの意味も持ち得ない、ただ自身を貶めるだけのむなしい仮定だった。
自分が、かつてのように屈強な肉体を持つ男であったならば、と。
しかし、もしもこの場にいたのが現職刑事、ジェフ=Aであったなら、おそらく犯人は警戒を緩めなどしなかっただろう。
いつ抵抗するかも判らぬ彼に対し、油断なく銃を突きつけ、あるいはとうに身動きなどできぬよう、相応の暴力をふるい、拘束していたかもしれない。
だが現在の彼女はまったくの無傷で、そうして人質達も既に解放された。
ようやく開かれた店の扉から、続々と警官や救急隊員が姿を現してくる。
もちろん、それはあくまで仮定の話。実際に『そう』であった場合にどうなるかなど、本当に起きてみなければ判ることはなく。そうして事実そんな事態が起こりえない以上、どれほど『もしも』を積み重ねてみたところで、しょせんなんの意味もない言葉遊びにしかならない。
それでも。
けして、負傷した店員に対する引け目が、消えるわけではないけれど。
けれど、それでも……
「ジーン」
低い呼びかけに、彼女はうつむいていた面を上げた。
「ガムテープは」
あまりにも日常的な単語を耳にして、思わず目をしばたたく。
一瞬おいて、ジーンは吹き出した。
上体を折って腹を抱え、たががはずれたように笑いはじめる。
「か、買って、ある……そこ……ッ」
震える声で呟いて、床に落ちたままのビニール袋を指さす。
バランスを崩しそうになって片手でつかまる相棒を、カインはしばらく無言で見下ろしていた。
やがて、笑いの発作が収まりそうなのを見て取って、低い声がその唇から発せられる。
「 ―― おかえり」
その言葉に、彼女はうつむいたままで応えた。
服の裾をつかむその指に、笑いからくるものとは異なる力を、ほんの少し込めて。
「ああ」
「ただいま……相棒」
―― 彼女の帰りを迎えてくれる相棒は、この男の他には誰もおらず。
同じように。
この相棒が迎えようとする者もまた、『彼女』以外にいるはずもないのだった ――
Copyright (C) 2003 Makoto.Kanzaki, All rights reserved.