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 七 どうにもならない 1
 特殊次元・特殊生物対策処理委員会特殊処理実働課
 創作小説を書く人に十のテーマより】
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2003/09/07 11:26)
神崎 真


 衝立が、まるで玩具のように宙を飛んだ。
 観賞用の植物がひっくり返され、リノリウムの床に湿った土をまき散らす。スチール製の重いキャビネットが倒れ、あたりを書類が舞った。
「応援はまだか!?」
 うずくまる福田をかばいながら、隊長が叫んだ。鞭のように襲いかかる触手を、電撃をまとう警棒で懸命に防ぐ。
「早く来てくれ! この人数じゃ相手に……うわッ」
 無線機に怒鳴っていた清水が、両腕で頭をかばった。間一髪で避けた彼をかすめ、飛来した椅子が窓を直撃する。高い音を立てて砕けたガラスが、はるか下のアスファルトへと降り注いだ。
 取り落とされた無線機は固い床で跳ね返り、遠く離れた場所へと転がってゆく。久保田は既に、壁際で動かない。
 これは、本当に現実のことなのか。
 拓也は呆然と立ち尽くし、目の前に浮かぶ『それ』を凝視していた。
 かにの甲殻とイソギンチャクの蠕毛ぜんもうとイカの触手と ―― そして何に比することもできぬ、鋭い牙を生やした円形の口を持つ、クラゲ様のフォルムを描く生物。そう形容すれば、多少はその存在を表現できるだろうか。表面を覆う緑と赤紫の入り混じる太い蠕毛が、おのおのまるで不規則な方向へと、ばらばらに蠢いている。胴体 ―― と呼んで良いのか ―― の下部からは、拓也の胴まわりほどもあろうひときわ太い触腕が伸び、倒れた衝立の向こう、黒くわだかまる闇溜まりの奥へと続いていた。
 【歪み】の向こうからは、この世のものならぬ生き物が出現する。それは確かに、前もって聞いていた。だがどれほど言葉を尽くし、資料を基に説明を受けたところで、見ると聞くとではしょせんまったく印象が異なるのだ、と。言い古され手垢のついたその表現が、いかなる時よりも説得力を持って迫りくる。
 【妖物】が現れたならば、たとえどれほど無害に見えるものであろうとも、即座にその場を離れ逃げるようにと、事前に幾度もレクチャーされていた。そしていま目の前にいるこの生き物は、どう控えめに見ても『無害』だとは思われない。すぐにでも背を向け、この部屋からも建物からも飛び出すべきだと、判ってはいたのだけれど。
 頭では理解しているその行動を、どうしても実行に移すことができない。
 それは他の隊員達を置いてはいけないからだとか、自分にもなにかできることがあるはずだからとか、そんな格好の良い理由からではなくて。
 両足が、床に貼り付いたかのように、動かない。
 身体が小さい分、身のこなしはすばしこい方だと自認する拓也だったが、今このとき、普段の身軽さが信じられないほどに身動きがとれなかった。
 逃げなければ。
 宙を走る太い触手が、さながらスローモーションのように映る。
 大の男が吹き飛ばされる威力だ。あれに直撃されれば、小柄な自分などひとたまりもないだろう。
 それが判っていてなお、拓也はその場に立ち尽くしていた。視界を、振り下ろされる触手が埋め尽くし ――


 全身に息が止まるほどの衝撃を受けて、拓也は苦痛に背中を丸めた。
 ひどくぶつけた脇腹を抱え、叩きつけられた床へとうずくまる。開いた口から震える息が漏れた。
 遠く鈍くなっていた感覚が、嘘のように戻ってくる。物の壊れる音や隊員達の怒号が、鮮明になった聴覚に飛び込んできた。
「おい、大丈夫か!」
 すぐ間近から、叫ぶような問いかけが発せられた。
 答えを返そうにも、声が言葉にならない。細く息をついで痛みを逃がすのが精一杯だ。しばらくそうしてうずくまっていた拓也は、なにかぬめるものが頬を濡らすことに気がついた。なま温かいその感触に、思わずぞっと総毛立つ。
 とっさに手を挙げ、頬を拭っていた。そうして手の甲へと目を落とし、息を呑む。
 手首から先が真っ赤に染まっていた。慌てて顔を上げれば、のぞき込んでいる清水と目があう。
「怪我はないか!?」
 問いかける清水は、顔面の半分を血で染めていた。髪の間から流れる血の筋が、顎の先からしたたり落ちている。拓也の顔を汚したのはその雫だった。気が付けば拓也は、倒れた机や椅子の間に押し倒されるようにして転がっていた。その上に大柄な清水が覆い被さっている。
 ―― そうだ。
 あの触手に襲われて、この程度の痛みですむはずなどなかった。
 おそらくは、【妖物】が拓也を捉える瞬間、清水が間に入り直撃を避けてくれたのだろう。
「……血……血が」
 震える手で指さす拓也に、清水はひとまず安心したようだった。太い眉をわずかに下げ、息をつく。
「良いか坊主。後ろは見ずに、あっちに走れ。部屋を出たらまっすぐ下に向かうんだ」
 力づけるように一度拓也の肩を揺すり、清水は扉の方を指さした。そうして【妖物】の方をふり返り、既に残弾少ない麻酔銃を腰だめに構える。
 拓也は脇腹を押さえ、引きずるように身体を起こした。息をするたびにひどく痛むが、歯を食いしばってこらえる。
「行け!」
 叫びと同時に麻酔弾が連続して発射される。
 ガスの抜ける音を背中に聞きながら、拓也は走り出した。現実のところ、彼はよろめきつつ、かろうじて進んでいるに過ぎなかったが。
 後ろでは激しい物音が連続している。ふり返るなと言われた拓也だったが、思わず向き直りかけた。しかし厳しい声がそれを止める。
「早く行けッ」
「そうだ。早く下りて救援を呼んで来てくれ!」
 隊長が後を続けた。
 現実には拓也が呼ぶまでもなく、増援がこちらに向かっていることは明らかだったけれど。そんな理由をつけてやることで、彼らは少しでも拓也の躊躇を消そうとしたのだろう。


『 ―― 【妖物】の弱点は、ね』


 色々な説明の合間に聞かされた言葉が、拓也の脳裏にふとよみがえった。


『もちろんそれは、種類によっても色々異なるんだけどね。でも、すべての【妖物】に共通した、ごく判りやすい弱みがあるんだよ』


 そう言って真藤は、眼鏡の奥で片目をぱちりと閉じて見せたものだ。
 この世界とは異なる空間で発生、進化してきた【妖物】が【こちら側】へと現れるには、やはりどうしても無理が生じるのだという。故に彼らは自分達がくぐってきた【歪み】から、そう遠くは離れることができないらしかった。人が水中へ潜るのに酸素の供給を必要とするように、【妖物】達もまた、【歪み】を通じた【向こう側】から、なんらかのものを得て存在しているようなのだ。
 だから、【妖物】を駆除するのに最大の効果を上げる方法とは、【歪み】そのものを消してしまうことなのだ。たとえ妖物自身に一太刀も浴びせずにいたとしても、その出入りする【歪み】さえ閉じてしまえば、彼らはやがて弱りそのまま自滅してしまう。
 その事実こそがなによりも、【妖物】の限度を超えた跳梁を防ぐことに役立っているのだという。


  ―― 【歪み】、を。


 その時その場にいる全員がそれを考えた。
 【歪み】を消すことさえできれば、と。
 だが今回生じた【歪み】はあまりにも大きく、なによりも【妖物】がそのすぐ近くに陣取っていた。長く伸びる身体の一部は、いまだ闇溜まりの奥 ―― いずことも知れぬ【向こう側】へと続いている。その傍らで機械を操作し、微調整しながら【歪み】を消すことなど、とうていできるものではなかった。
 今はとにかく、全力でこの【妖物】を片付けるしかない。
 【歪み】の矯正はそれが終わってからだ。
 心残りを振り切るように、オフィスの出口へと向かった拓也だったが、扉に手をかける寸前、反対からそれが開かれた。
 とっさに身を引いた拓也を押しのけるように、武装した男達二名が足音も荒く突入してくる。彼らは扉の両脇へと展開して銃を構えた。そうして室内の状況を確認し、廊下に待機した残りの者達を促す。
 ようやく現れた増援が【妖物】へ向かっていくのを、拓也はどこか気の抜けた面もちで眺めていた。これでもう大丈夫だろうという思いと、今になって震えはじめた足とが相まって、ふらりと力無く壁にもたれかかる。
 と、ひとりの隊員が素早く歩み寄ってきた。
「動けるか。ここは危険だから、こっちへ来なさい」
 拓也の二の腕をつかむようにして立たせ、部屋から出るよう促してくる。
 拓也は力無くそれに従った。逆らう理由など無かったし、これ以上こんな場所にいたくもなかった。
 が ――
「危ないッ!」
 突如挙がった声に、とっさに顔をそちらへ向ける。
 視界に飛び込んできたのは、いましもこちらに激突しようとする、人間の身体だった。
 付き添いの隊員は、とっさに拓也を押しのけて、仲間を受け止めようと両手を広げた。鈍い音と共に壁へ叩きつけられた二人は、折り重なるようにして崩れ落ちる。
 容赦のない力で突きのけられて、拓也は数度床を転がった。先刻打ちつけた脇腹が痛み、しばらく起きあがることさえできない。それでも無防備に転がっているなど、恐ろしくてとてもできなかった、懸命に床へ肘をつき、いざるようにして場所を移動しようとする。
 目の前の床から、隊員達が踏み鳴らす激しい足音が伝わってきた。
 ふと気がつくと、視界の端に麻酔銃の転がっているのが目に入る。本能的に、拓也はそちらへと手を伸ばした。わずかに届かない。這いずるように近づいて、もう一度手を伸ばす。
 ようやく指の先が銃把に触れた。もう少しと、さらに身を乗り出す。
 と、そこでひときわ大きな声が上がった。己に向けられたと感じたそれに、顔を持ち上げる。
 ―― 真上に、【妖物】の巨体が揺らめいていた。


◆  ◇  ◆


「増援がたどり着いたぞ!」
「なんだあの大きさは!?」
「データーベースを検索しろ。早く弱点を特定するんだッ」
 ビルの向かいに設置された仮設本部では、機材を前に技術者達が右往左往していた。
 事前に確認された【妖物】の大きさから、ごく小規模な【歪み】しか存在しないだろうと予想されていたのだが、あにはからんや、実際に報告されたそれは、レベルAにも部類される大型のものだった。しかも調査員がそれを発見した直後、内部から【妖物】が出現したらしい。
 調査員達が持っていたのは、【歪み】の記録装置を兼ねた検出機のみで、室内の状況はほとんど判らないに等しかった。無線から発せられる悲鳴のような増援要請に、ひとまず待機していた部隊にカメラを持たせ突入させたのだが。
 【妖物】がモニターに映し出された途端、テントに詰めていた者達は思わず声を上げて椅子を蹴った。口頭での報告こそ聞いていたものの、よもやここまでのものとは想像していなかったのだ。
「これは……また」
 さしもの真藤も、それ以上言葉が続かないようだった。
 曲げた人差し指で唇をなぞりながら、画面を凝視し続ける。その後ろに控えた尾崎が、一挙動で携帯電話を取り出した。
「フォンを呼び出すか」
 問いながら、既に番号を押し始めている。
 真藤は振り向きもせぬまま答えた。
「いや、フォンはまずい」
 相棒であるマオが骨折で動けない現在、彼をひとりで現場へ出す訳にはいかなかった。しかし風を操る志保の場合、屋内だと能力が限定されてしまう。ことに狭い空間で敵味方が入り乱れているこの状況は、彼女にとって至極不得手とするシチュエーションであった。
「だがこのままでは」
 そうして逡巡している間にも、複数あるカメラの向こうでは刻々と状況が変わってゆく。
 真藤の指示しておいた通り、ひとりの隊員が拓也を外へ連れ出そうと近づいていった。いくらか言葉をかけ、すがっている壁から離れさせる。しかしそこに、【妖物】の触手に捕らわれた隊員が、勢い良く投げつけられた。幸い直撃こそ避けられたものの、突き飛ばされた拓也は、床へと激しく倒れ込む。
 どこかを痛めたのか、彼はそのまましばらく起きあがろうとしなかった。が、やがて少しづつ身体を動かし、なんとかその場から逃れようとしている。
「無線を貸してくれ。誰かに言って ―― 」
 安全圏へ出させないと、と手を伸ばしかけた真藤だったが、拓也の動きに気がついてモニターを見直した。どうやら彼は近くに落ちている銃に気がついて、それを拾おうとしているらしい。この状況で身を守る武器を求めるのは無理もないことだ。それは良いのだが。
 しかしその、方向が。
「なにをやっているんだ、あの子供は!?」
 自ら【妖物】へと近づいていく拓也に、あたりの人間が焦った声を上げる。
 拓也自身には、もはや目の前の物しか見えていないようだった。自分で危険に近づいていることになど、全く気付いていないのだろう。
 伸ばした腕が銃へと届いた瞬間、誰かのあげた声に、ようやく上を見る。
 その顔が恐怖と驚愕に強張った。長い触手が伸び、そんな拓也の身体をからめ取る。
『 ―― うわぁッ』
 無線機から聞こえてきた悲鳴は、果たして誰のものだったのか。
 小さな画面の中で、触手に捕らえられた拓也が、為すすべもなく振りまわされる。
 かたりと音を立てて、真藤が前をふさぐ倒れた椅子をどけた。
「尾崎」
 番号を押す手を止めて待機している尾崎へと、一度視線を投げる。
「ここは頼むよ」
「……真藤」
 眉をひそめ、低い声でとがめる尾崎へと、モニターの拓也を指さしてみせた。
「こんなところで大怪我させるわけには行かないよ」
 小さく肩をすくめてテントを出てゆく。尾崎もそれ以上止めようとはせず、遠ざかる背中を無言で見送った。
 せわしなく行き来する技術者達の間を、真藤は落ち着いた足取りですり抜けてゆく。急いではいるのだろうが、けして慌てるそぶりなどは見せず、道路を渡りビル内へと足を踏み入れた。
 狭い階段をのぼりながら、彼は眼鏡を外す。度の入っていない黒太縁のそれを丁寧に折り畳み、シャツの胸ポケットへと入れた。小さく息をついて一度目蓋を下ろし ―― そうしてゆっくりともち上げる。
「 ―――― 」
 天井を、そのさらにむこうの床を見透かすように上を向く。
 その瞳は、鮮やかな黄金色の輝きを放っていた。


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