目覚めの朝の
 あまりにも強い心地良さ

 身体を起こすと全てが霞の中のようにとりとめがなく
 意味の無い不安で足が竦んだ

 このまま、溶けて消えるような気がして


 怖くなって
 見つけたその背に縋り付いて

 泣いた

 消えてしまったいつもの自分を

 この人ならば
 見つけてくれると


 振り返った、墨色の瞳


 ふと気付いたように額に触れた
 長く綺麗な指の冷たさ

 離れたくなくて彼の服を握りしめたら
 宥めるように言葉が流れた


『……今日は、寝ていろ』


 冷たい手の平

 ……優しかった、人








   冷たい手の平








 気持ちのいい、珍しい程暖かな早春の朝。
 空は青く、雲は白く。次々と芽吹く若い緑が黒い土を覆い始める、当たり前こそが何よりも美しいこの世界。世界は何者にも定められる事は無く、望んだ姿への闊歩を始める。
 この世は理に縛られない。
 風も、大地も、その中を生きる動物や植物、人々も。誰ひとり決められた運命など持っていない。
 今はもう、誰ひとり。
 天使は束縛された翼を切り捨て、自由を手に入れその足で立った。


「っくしょい!」
「あらあら、珍しいわねえ。風邪かしら」
「か、風邪って……ハックシュ! やめ、やめてください! 仕事に遅……くしゅんっ」
 まだ外を歩く人々の少ない、完全な朝。クレリック家はいつにも増して騒々しかった。
 床の上に転がされ、バタバタともがいてくしゃみを繰り返すのは、家長とも言うべき歴史学者の青年。そしてその青年、ロキに乗りかかって楽しそうにコショウを振りかけているのは彼の母であるマーヴェラだった。
 別段二人は普段からこんな事ばかりしているわけではない。だが今日はどういう訳か、ロキは母からの理不尽な急襲に曝され混乱するに至っていた。一体全体、どういう会話からこんな事態になってしまったのか。
「うふふっ。エレオナちゃんを独り占めしてる罰よ。ロキったら急に格好良くなっちゃって。情けない方がしっくりくるのにねえ」
「何ですかそれはーっ!! 食べ物で遊ばないでください! ……の前に、いい年した母親がいい年した息子に、何してるんですか!!」
 既婚者でもある三十一の息子に、この扱いは酷過ぎる。マーヴェラがいくら楽しかろうが、ロキにはこの辺りが限界だった。必死の思いで魔手から逃れ、息を切らせて立ち上がると髪からコショウの残骸が落ちていく。
「あんっ。もう、ケチねえ。もう少し遊ばせてくれたっていいじゃないの」
「遊ぶって、母さん……っクシュッ! 床のコショウは、自分で拭いてくださいよ」
 朝からいきなり疲れてしまったと、ロキは不本意そうに頭や着ている青色のカラーシャツを払う。そんな様子にマーヴェラはくすくすと笑ってその穏やかな色の瞳を細めた。
「いいですか、そもそも……」
「勿論お掃除します。放っておいたらエレオナちゃんにやらせる事になっちゃうものね。優しくて気が利いて可愛くて……何から何まで、だーいすきっ」
 ちょっとした空気の流れにも動く茶色の髪が、ふわりと流れてマーヴェラはモップをとりに物置へ小走って行った。
 咎めたつもりが心底幸せそうに妻の名を口にされ、顔を赤くしたロキは思わず閉口してしまう。そんな風に言われては、これ以上は何も言えず、椅子に腰掛け溜め息をつくしかなかった。
 今日もいいように遊ばれてしまった自分を情けなく感じつつ、冷めかけたコーヒーに手を伸ばす。テーブルに置いてある仕事用の鞄を引き寄せ懐中時計を引っ張り出すと、家を出る時刻まではあと二十分という所だった。
 近視用の、縁のある眼鏡をかけねば二十歳前にもとられかねない童顔は相変わらずだったが。結婚後のロキの空気は、全体的に落ち着いてきていた。散髪したばかりのすっきりとした薄茶の髪に、資料の字列を追う灰色の瞳は心なしか内面の深みが出ているような。昔はまるで似合わなかった背広も、近頃では違和感のこもった視線が刺さってこない。
 以前は頼りないという言葉が必ず付いて回ったロキであったが。妻を得るというそれだけの事が、こんなにも自分に変化をもたらすなど思いもしなかった。
「それにしても、珍しいわね。エレオナちゃんがお寝坊さんなんて」
「……疲れているんだと思います。大分、付き合わせてしまいましたから」
「毎日残業だものねえ。ロキは大丈夫でも、いつも待ってるエレオナちゃんは大変だわ」
 見た目の頑強さは並み以外の何物でもないロキだが、体自体は意外に平均以上の丈夫さを持っている。何日も残業や泊まり、それに伴う徹夜が続く過酷な職業にありながら、彼は今まで咳風邪くらいしかひいた事が無い。
 が、そんな過酷な毎日を過ごすロキの習慣に、エレオナを付き合わせるとなると。
 寝ていていいのだと言っても、疲れて帰ってきているのだからと待っていてくれる。眠そうに目を擦ってうたた寝から覚め、迎えの言葉を述べる彼女が可愛くて。
 こういう事が、きっと幸せなのだろう。
「今日は早く帰れるの?」
「多分、無理でしょうね。何だか妙に締め切りが近い論文が多くて……」
 瞬間。廊下で何か物音がしたような気がして、二人は自分達から対角線上にある扉へ視線を向けた。すると少々の沈黙の後にドアノブが動き、扉がゆっくりと開かれる。
 現れるのが誰なのか確認するまでもなく、ロキはそこへ柔らかい笑顔を向けて朝の挨拶を交そうとした。

 だが。

「あ、おはよう。エレオ……」
 瞬間。彼は言葉の続きよりも先に、現れたエレオナの様子にカップを置いて立ち上がっていた。見ないで置いた為に多少ソーサーにこぼれたのだが、彼女から視線を外して下を向くなど、現段階では出来そうもなかった。
 この世の美しいもの全てを集めて創られたような、誰もが酔わずにいられぬ美貌。丁度肩を覆う長さの星屑のような銀髪、夏の木々のような深く澄んだ蒼の双眸。花弁の様な唇の可憐さも、白く透けるような肌も。
 何も、褪せてはいないのに。
「……どうしたの? エレオナちゃん。ケープなんて羽織って、暑くない?」
 同じく彼女の異常に気付いたマーヴェラの問いに、エレオナは少し首を傾げてゆっくりと瞬きをした。寝起きでぼんやりとしているのか、あまりはっきりとしていない口調で。
「暑い……? なんだか、寒くて……」
 ひとつひとつの動作が鈍くて、妙な間が空く。歩こうとして足を踏み出しかけると、ふらりと揺れて壁に華奢な肩を押しつけた。二年前の事件が元でエレオナは視力を失っていたが、それでも、一年も暮らした場所でここまで足下がおぼつかなくなった事はない。
 赤らんだ頬、気怠そうで潤んだ瞳。呼吸が少し荒い気がする。
 異常の理由に感付き始めたロキが数歩彼女に近付くと、エレオナはその気配に微笑んで唇を開いた。
「ごめんなさい。寝坊、して。今……あ」
「エレオナ!」
 台所へ続く段差で崩れたエレオナを、ロキは反射的に駆け寄り支える。殆ど抱き締めるような格好のまま膝をつくと、彼女の体は確認するまでもなく熱くぐったりとしていた。
「なっ……!? 熱が、こんなに……! エレオナ! エレオナ!!」
「う……ん……」
 狼狽して上げたロキの声が響くのか、エレオナは力無くその胸にもたれて弱々しい呻き声をこぼす。閉じられていた瞼が上がり、それでやっと意識があると察する事が出来た。
「あ……? 私……」
「じ、じっ、じっとして! 君、熱が! 何処か……いや、どう考えても悪そうだけど。他に、具合とか目眩とか、昨日は何を食べて……僕と同じか。とにかく酷い熱……痛!」
 朦朧としたまま立ち上がろうとしたエレオナを引き寄せ、慌てふためくロキをマーヴェラがモップの柄で小突いてその横に屈む。
「もう、落ち着きなさいな旦那さん。ちょっとごめんなさいね、エレオナちゃん」
 寒気を感じているのかロキのシャツに縋り付くエレオナの額に、少し荒れた手の平が触れる。するとその冷たさに驚いたのか、熱っぽい蒼の瞳が僅かに揺れた。実際のところ、温度差の理由は彼女の方が酷く熱いからなのだが。ロキも同じように柔らかな銀糸をよけ、現れた額に触れるとエレオナは急に不安そうな顔でこちらを見上げてきた。
 マーヴェラが納得したように立ち上がり、経験から来る確実な見解を一言で述べる。心配そうに、優しい声で。

「可哀相に、風邪だわ」

 そのあまりにも簡潔な一言に、ロキは一瞬にして顔色を失うに至った。真っ青になってエレオナに向けた灰色の双眸は、既に先程以上に追いつめられ余裕が無くなっている。
「風邪!? こんなに熱が高いし、ふらついているのにですか?」
「そういうのを風邪って言うのよ? エレオナちゃんをロキなんかと一緒にしちゃいけないわ。そうでしょう?」
「それは、そうですが。でも……」
「そうねえ。こんなに酷いのは、疲れが溜っていたのかもしれないわね」
「……疲れ……」
「はいはい。わかったらベッドに運んで、寝間着に着替えさせてあげてー……それからタオルと、冷たいお水と、お医者様の準備をしましょうね。その後だったら落ち込んでいいけど、今はちょっと邪魔になっちゃうわ」
 黙り込んでしまった息子に呆れたように微笑み、マーヴェラはいつも通りのおっとりとした口調で扉を開けて手招きをした。
 白い肌の中で、薔薇色に染まった頬が今日は何だか痛々しい。自分に縋って震える指先の力無さや、浅く苦しげな吐息が気になって仕方なかった。
 どうして、昨夜の内に気付けなかったのだろう。
 ロキは黙り込んだまま、細く頼りない身体をもう一度強くその胸に抱き込んだ。




 そして丁度、十五分程が経過した頃。
 同じくクレオニードの村に住まいしている青年の腕時計の分針が動き、彼は短くなった煙草を灰皿に押し付けマッチをしまった。職業柄どうしても必要になってしまう大きな設計図を数枚選び、慣れた手つきでそれ用の入れ物に丸めて入れる。
 今日は、長袖によって両二の腕のグリフォンは隠されていた。
 蜂蜜色の髪がかかる耳に並んだピアスを外し、ワインレッドのハイネックシャツにネクタイを通す。最後に掴んだ三つボタンのブラックスーツは背後からのシルエットが栄える、地味過ぎでも派手過ぎでもない、すっきりとした形のものである。
 ありがちな服装や難しい取り合わせも、こうして着こなす彼ではあるが。特定の仕事以外で、このような背広を着る事はまず無い。
 ふと、オレンジ色の双眸が玄関に向く。こんな朝に、誰かが訪ねてきたのである。
「ジオラ君、ジオラ君。おはよう」
「はいよ。……ああマーヴェラさん。おはようございます。どうしたんスか? ソレ」
「お出かけの所悪いんだけどね。ちょっと、コレも持っていってくれないかしら」
 扉を開けると、そこにはいつも通りにおっとりとした笑みを浮べたマーヴェラが立っていた。
 いつもと何が違うのかと言えば、その右手に重そうな鞄、その左手にじたばたともがくロキを引きずっている程度。それはそれで驚くべき相違なのかもしれないが、受け答えするジオラは全く以て冷静だった。
 意外そうに瞳を開いたのは、彼女の行為ではなくその台詞の方である。
「この子ったら、今日はお仕事に行かないって言うのよ?」
「へえ、ロキが? 珍しいな。おまえ仕事以外になんか出来る事あったのかよ」
「げほっ! ごほっ! それは、特には……余計なお世話です。母さん、いい加減に離してください! く、苦し……うえっ」
 色々と足掻いて見るものの、掴まれた襟首の位置が絶妙で外れない。けれどそんな彼の言葉はジオラ達に届く事無く、二人は楽しく会話に花を咲かせ始めた。
「それがねえ、エレオナちゃんが風邪で倒れちゃったのよ。今は季節の変わり目だし、疲れと寝不足とが重なったみたい」
「ふうん。そりゃロキのせいだ」
「……!」
「お、撃沈」
 いきなり核心を突かれ、ロキの抵抗がぷっつりとやむ。一気に肩を落とした彼を見てからかうような笑みを見せた辺り、恐らく確信犯なのであろう。
 対するマーヴェラも、笑顔のままであっさりとそれを認めた。
「ええ。毎晩毎晩、遅く帰ってくるロキが悪いの。待っててあげるエレオナちゃんは偉くて優しいだけで、なーんにも悪くないわ」
「ははーん。じゃあ出勤拒否ってのは……」
「責任感じて、心配してるみたいなのよ。傍にいたいみたいで。でも、病人の傍にロキを置いておくなんて危な過ぎるでしょう?」
「だな。喧しくて安静に出来ねえし、下手すりゃ病人を殺すかも」
「柱に縛っておいても邪魔なだけだし……ジオラ君がピアスを取ってるって事は、町に行くって事よねえ?」
「まあ仕事で。今建て替え中の歴史学校、俺の設計だから」
「じゃあ、はいっ!」
 ずい、と差し出されたものはまさしくロキとロキの鞄であった。それにジオラは心得たように口の端で笑い、極々自然にそれらを受け取る。
「いーっスよ、別に。どうせ通るし、研究所に置いてくるくらい」
「まあ、ありがとうジオラ君。よろしくね」
「……って、ちょっと待って下さい! 僕は行かないって、ぐはっ」
 勝手に進んでいく会話にやっと我に返ったロキであったが、すぐジオラに首根っこを掴まれ引きずられ始める。
「ほれ、馬車が出ちまうぞ」
「いってらっしゃい。帰ってこなくていいわ」
「う、げほっ……帰って来ますよ!! 絶対に! 絶対に残業しませんからねーっ!!」
 ムキになって声を荒げる童顔の友人を引きずりながら、ジオラはひとしきり笑って少しだけ歩く速度を落としてやった。
 そして、不可解な台詞を耳打ちする。
 人の良い彼なら絶対に信じるだろうと、つくづく自分の人の悪さを実感しながら。

「……なあ、ロキ。風邪は治すよりうつした方が手っ取り早いって話、知ってるか?」




―――それが熱だと、理解したのはどれ程幼い頃だっただろう。

 定まらぬ世界が怖くて、不安で。足下が揺らぐのに駆け出そうとして、転んで。意味も無くポロポロと涙をこぼしていると、母が抱き上げ額に手を当ててきた。
 いつも暖かい、少し荒れた手。なのにその時だけは身にこもる熱を逃がしてくれるように冷たく、心地良くて瞼を降ろした。
 冷たい手の平。優しい冷えに、自分は大丈夫なのだと安堵した。
 この熱に溶かされ、消えていくわけではないのだと。

『エレオナが熱を出したって?』

 いつもならば、夜中に目が覚める事も無いのに。断続的な眠りの合間に、遅く帰った父の声が遠く聞こえて。
 近付いてきた二人分の足音。温かく大きいはずの手が、この日だけは安らかな冷えを抱いて熱と寂しさを取り去っていく。

『この子の熱はいつも高い。可哀相に……苦しいだろうな』

 苦しくない。そっと触れる父母の手が何より安心できて、息苦しさも忘れてしまう。
 だから。その手が離れ、隣の部屋へ行こうとする度泣き出して困らせていた。この存在が消えると思った、それだけで。吹き出す熱が苦しくて、どうしようもなく淋しく、怖くて。行かないでと泣いた。
 もう、ひとりにしないでと。

『大丈夫だ。……ずっと、ここにいる……』

 たとえ言葉にあらわさなくとも、彼は少し悲しそうな目をしてその指で銀色の髪を撫でてくれた。目が覚めると必ず傍にいて、眠りに落ちても触れていてくれるのだとわかる。
 少しの明かりできらきらと光る漆黒の髪。強い光も吸い込んでしまう、墨色の双眸。
 沢山の我儘で困らせていた。見つめていて欲しくて、置いていかないで欲しくて。どんな時でも、どんな場所でも、自分の存在が全てであって欲しくて。必要として欲しくて。

 冷たい手の平。
 離れたくない。行かないで欲しい。

 凍えそうになれば暖かく、溶かされそうになれば冷たくて。必要な時に、一番優しい温度に変わる。

 行かないで。傍にいて。

 ……お願い、その手を遠ざけないで……。

 淋しくなる。怖くなる。
 動けぬ私をこの場に置いて、二度と巡り会えぬ場所に……消えるのでは、ないかと。

 どうしようもない程、繋ぎ止めておきたい。

 冷たい手の平。
 ずっとずっと、離れないで触れていて。




「ええと……ここ三週間、帰りは全部最終の馬車で……。なのにいつも起きて待っててくれて。そういえば、この前の夜は寒かった。じゃあ……やっぱり僕のせいだー!!」
「うるさい!! 黙れ! 貴様は死ね!!!」
 夕方といえど、まだ勤め人が帰るには早い時間の国立資料館付属三十八番研究施設。
 大抵の人間は略称で呼ぶこの建物の二階では、自己嫌悪に陥るロキと、それに容赦なく鉱物図鑑を投げつける地学者のハルバランが異様な空気を醸し出していた。
 今この部屋にいるのは彼等二人と、班長故に逃げられぬ理学博士のアウル。そしてアウルに捕まった言語学者、エイトファレスの計四人である。
「……ムロウを学会に出すんじゃなかった」
「いないとホント、荒れますよねえ……。ハルバランの奴、論文の〆切が近いのにデータが揃わないらしくて。なまじ優形な色男の先入観があるから……荒れますねえ」
「何か言いましたかっ!?」
 ギラリと光った銀色の瞳に、年長者二人は慌てて明後日の方向を向いて緑茶に手を伸ばした。
 本当に、今の彼は目の下にクマまでつくって苛々としている。いつもは小綺麗にしている白衣やネクタイにもしわが寄っているし、近くの女教師達から評判の若草色の髪も間延びして寝癖がついていた。
 勿論、この修羅場の後には必ず成功の二文字が待っている彼なのだが。
 普通、学者と名の付く職業で三十代から地位の高い国立研究所の一斑に入れるなど有り得る話ではない。それ程までに彼、ハルバランはこの業界において貴重で優秀な人材なのだ。が、ここはどういうわけか、そんな人間ばかり集まる非常に珍しい場所なのである。
 その最たる例、たったの二十歳で一斑に上がったロキを視界の端に収めて、アウルは不可解そうに顔をしかめた。結婚をして少しは落ち着いてきたかと思ったら、何やらブツブツと呟き七転八倒を繰り返している。
「あいつは何だ。残業続きで壊れたのか?」
 それにエイトファレスは苦笑気味に首を振り、荒れ放題のハルバランの耳には届かないよう音量を下げて問いに答えた。
「違いますよ。独り言といえど敬語を使わない相手なんて、決まってるでしょう」
「……女神様か。喧嘩でもしたのか?」
「風邪をひいて寝込んだらしいです」
「風邪? なんだ、それなら早く言え。おいロキ! おまえ上がっていいぞ」
 不意にかけられた一言に、ロキは勢いよく項垂れていた顔を上げてアウルの笑みを凝視してきた。ひとりの世界にのめり込んでいた分、現状の理解に戸惑っているらしい。
 ひとつ深呼吸をして、やっと伝わったらしく急に表情が輝き出す。分かり易い奴だと視線を交した上司と年上の同僚に、彼は立ち上がるなり背広を掴んで声を上げた。
「あ、あのっ。本当にいいんですか?」
 確認している割には、手元は既に広げた資料を片付けている。ここで冗談だと言えば、まず間違いなく再起不能に陥るであろう。
「ああ、行け。人より大事な仕事なんぞ、世の中そうそうあるもんじゃないからな」
「ではエイトファレス! 今日のノルマは済んだので、文書の確認をお願いします」
「おおっと」
 日々残業であるというのに、常に元気な彼の原動力とはこれ如何に。目の前に大量の原稿用紙を積み上げられて泡を食うエイトファレスなど既に眼中に無く、ロキはすぐさま部屋から姿を消してしまった。
 本当に、風の如く。
 そしてある意味、風よりも質が悪く。
 椅子を蹴り倒し、積み上げた本をぶつかって崩し、とにかく様々な物が床一面にぶちまけられている。少しでも慌てるといつもこうだと、二人は大きく溜め息をついた。
「しかし、妙だな。仕事のペースは上がってるのに、ちっとも余裕が出来てこない」
「うわあ……誤字が凄いです。左脳が動いていないんじゃないでしょうか」
 それぞれの疑問に二人は腕組みをして唸るが、前者の問題は意外に早く解決を迎えた。
 ノックも無しにいきなり扉が開いたかと思うと、ロキの後輩であるランディが疲れ切った顔でふらふらと中に入ってきたのである。その両手に抱えているのは、彼がまとめたと思われる大量の資料。
「あれ……? 先輩は」
「ロキなら帰したぞ、嫁さんが風邪ひいたって死にそうな顔してたからな。今の課題はそんなにきついのか?」
 真面目で優秀な彼が、ここまで疲労困憊になる程依頼を受けさせた覚えはないが。手招きをしながら労いの言葉をかけたアウルに、ランディはふらりと歩いて小さく言った。

「……所長……僕は、もう限界です……」

 すり減らした神経は、せっぱ詰まった段階に来ているらしい。がくりと床に膝をつき、藤色の瞳はにわかに涙を滲ませる。
 差し出された二枚の紙は、この先の研究課題の消化予定と、現在の課題の進行状況だった。あるものは予定表の日付通りに、またあるものはそれよりも早く、順調すぎる程順調に進んでいる。が、しかし。
 それは、アウルどころか横から覗き込んだエイトファレスでさえ顔色を無くす、実に衝撃的な内容が記されていた。

「うわああああーん!! どうしてひと月先の研究まで、急ピッチでやらなきゃいけないんですかー! 僕は先輩のような、有り得ない速さで仕事をこなすなんて出来ませんよ! 限界だ! もう限界だあああ〜っ!!」

「班長……こ、これは……」
「……おい。進行の予定表、ひと月間違ってるぞ。あいつ……部下を殺す気か」

 日にちは合っているのだが、月が違う。
 泣き崩れるランディを前に、アウルはどうしようもない呟きと同時に肩を落とした。とうとう糸が切れ、吹っ切れた様に立ち上がったハルバランの声を遠い所で聞きながら。
「ああっ、畜生! 駄目だ! もう今日は駄目だ!! 来いランディ! 今日は潰れるまで飲め! そして倒れて、お互いささやかな休日を手に入れるんだーっ!!」




 もう、夜なのだろう。瞼を上げても一欠片の光さえ差さなくなった今となっても、時間の感覚は朧気に感じる。
 熱は、下がっていないようだった。自分の周囲がぐるぐると回って、起きあがろうとしても気分が悪い。額から落ちたタオルは、既にぬるくて用をなさなくなっていた。
 マーヴェラが夕飯を作りに部屋を出て、どれ程時が経ったのだろう。病気の時は誰でも気持ちが不安定になるが、自分の場合は、それを理由にしてしまって良いのだろうか。
 前触れもなく潤んだ蒼の瞳に、エレオナは熱い溜め息をついた。

 何故、涙が浮かんだのかわからない。

 寂しいのだろうか。それより怖いのかもしれない。身体が熱いと、あの時の記憶が言いようの無い不安となって蘇るから。
 引きちぎられた翼、沈み込む意識。溢れていく熱が全てになって、自分自身が消えるのかと思った。暗く深い熱さの中で、全身を貪られる恐怖。あの日迄、確かに自分は定めの檻に囚われていた。
 強く抱き締め、揺り起こしてくれたロキの手が冷たかったのを憶えている。彼の腕が、焼き切れそうになった体から熱を奪って。自分はここにいるのだと、ここにいてもいいのだと、教えてくれた気がした。

(……ロキ)

 柔らかな唇が、音を伴わないまま短いその名を口にする。そして再び眠りの中に落ちようとして、ふと長く綺麗な睫毛を上げた。
 急に玄関の辺りが騒がしくなると同時に、呆れ返ったマーヴェラの声と、たった今口にした、その人の声が聞こえたのである。
「まあ、やっぱり帰って来ちゃったのねえ。やろうと思えば出来るんじゃないの」
「もう残業はやめます! エレオナは……」
「まだ元気じゃないわ。手洗いとうがいをきちんとしたら、お見舞いに行ってよろしい」
 それから少し、聞き取れない会話が続けられ。バタバタと騒がしい足音が廊下を行き来し、静かになって。不思議に思ったエレオナが顔を上げようとしたところで、いきなり部屋の扉が開け放たれた。
 大分急いで帰って来たのだろう。閉まる扉に振り返りもせず、ロキは軽く息を弾ませたまま転がり込む様にベッドの横へ膝をつく。そしてエレオナが目を覚ましているのに気が付くと、酷く心配そうな目をしてその額や頬を指先でそっと撫でてきた。
「エレオナ……具合は? 熱は? 喉は渇いて……もしかして、起こした?」
 オロオロとせっぱ詰まった声が幾つもの問いを放って、探るように押し黙る。それがあまりに子供っぽくて、いつもの優しい微笑みとはまるで違った彼がいる。
 言葉の全てが、心地良い手の冷たさが。
 まるで、大切なのだと言ってくれているような気がして。
 エレオナは小さく首を振って答えた。暗闇の向こうにいるはずの、不安そうな顔をしているであろうロキに向かって。
「……平気……」
 その答えに、浮かんだのは納得いかないと言いた気な表情だった。ロキの目に映るエレオナといえば、朝よりずっと辛そうなのだ。自らを思考の外に置き、相手ばかり気遣う彼女の癖はまだなおらない。だから自分自身、こんなに酷くなるまで体調の不具合に気が付かなかったのだろう。呆れると同時に、ロキは酷く自己嫌悪を覚えた。
 それならそれで、真っ先に自分が気付けばいいと考えていたのに。
 エレオナが気付けないなら、自分が先に気付けばいいと。真綿で包み込むように、そのままの全てを守るのだからと。
 そう、誓ったはずだったのに。
「……ごめん」
 謝ると、不思議そうに蒼い瞳が瞬いた。そんな何気ない仕草にさえ、酔いしれるような艶が滲む。ほんの二、三年前までは愛おしいという想いと同時に、強い焦燥感に襲われていた自分があった。
 この微笑みを、この眼差しを知っているのは、自分だけではないのだからと。
 誰しもを引きつけ酔わせているのに、それに全く気が付かないで。捕らえようとする手に身構えもせずに触れ、何も知らない無垢な彼女が傷つくのではないかと。どうしようもなく不安になった。
 大切で、どんな傷さえ付けたくないのに。
 自分もまた、彼女を傷つけてしまうひとりなのではないかと。
「ごめん……君が、好きだ……」
「ロキ……?」
「好きじゃ足りないくらい、好きなんだ」
 何の脈絡も無いロキの台詞は、高熱に意識が定まらないエレオナが理解できるようなものではなかった。けれどそれでも、じっと灰色の双眸を見つめ返す薄紅の頬が、逡巡したように更に赤い色付きを見せる。
 こんな重大な事に気が付いたのは、いつ頃だっただろうか。エレオナの見せる様々な表情。
 誰にでも同じなのだと、そう思い込んでいたのは自分だけだったと。
 同じ声、同じ瞳に、同じ仕草。全てが同じはずなのに、それは自分に向けられた時だけそこに込められた感情が違う。この声も、この瞳も、この仕草も。同じように見えても、ロキだけが知っている様々な彼女。

 それに、甘え過ぎていたのかもしれない。

 ベッドの端に片膝を乗り上げると、その周囲が沈んでエレオナが苦しそうに身じろぎをした。
 意識の混濁している相手に、不謹慎とわかってはいるが。唇で触れた彼女のそれは少し乾いて、いつもと違って酷く熱い。いたたまれない気持ちになって、ロキは優しく、繰り返し口付けを落としていった。
 これで互いの熱が入れ代わるのなら、その方がずっと楽なのに。
 段々眼鏡が邪魔に思えて、一度取ろうと身体を起こす。と、その時。
「え……」
 眼鏡を置こうとサイドテーブルへと伸ばされた手が、重みを感じてがくりと下がった。
 重みの正体はエレオナの手で、けれど震えて力が入らないのか、すぐにほどけて毛布に落ちる。あっという間に翠玉の瞳から涙がこぼれていく様は、酷く弱くて、儚気に映った。
「……や……駄目、行かないで。ここに、居て。ここに居て……!」
「エレオナ」
「傍に、いて。行かないで……」
 ほんの少し、離れただけなのに。孤独を恐れて震える指が彷徨う。
 病で感情が乱れるにしても、それが普段では聞く事の無いエレオナの小さな我儘だった。
 日が落ちて、月さえ傾いても帰ってこないロキを待っている時。彼女はいつも、こんなふうに感じていたのかもしれない。お願いだからと繰り返す痛々しいまでの哀願に、か細い手を取りロキはそこにも口付けた。

 抑え付けていた定めが消えても、それだけではきっと、自由になったと言い切れない。

 ずっと重みに耐えかねてきた中、急に軽くなっても浮き上がるばかりでしっかりと立てずに。同じように、存在が消えていく不安を感じるだろう。ひとりでいる時、本当はとても、怖かったのかもしれない。
 籠から出ても、空を舞った事の無い小鳥はその方法さえ知らずに飛び立てない。本当はもっと傍にいて、触れ合って、存在の確かさを教えてやるべきだったのだ。
「……大丈夫。もう残業はしないし、明日からは早く帰ってくるよ。ずっとこうしてるから。君が眠っても、絶対に離さない」
 その言葉に、エレオナは少し安堵したようだった。小さく頷いて、まるで人を疑わない微笑みが微かに浮かぶ。
 それにロキも穏やかに灰色の双眸を細め、耳元でそっと囁いた。

「僕が、離さないから……。君はもう、消えたりしない」

 また、何か答えようとしたエレオナの唇を塞ぐ。それはまるで子供じみたまじないか、願掛けでもしているかの様だった。

責任とって、エレオナさんにいっぱいキスしてやらなきゃな

 からかうような、ジオラの言葉が思い出される。
 不可解な台詞にその意味を問うと、彼は冗談ともとれる口調で笑いながら答えた。

虫歯と風邪はキスでうつるんだぜ。おまえ知らねえの?

 うつせば治るなんて、そんなものは迷信に決まっているが。けれどそれでも、心からの懺悔と彼女への穏やかな愛しさに。
 ロキはエレオナにキスをした。絡ませた指に、ほんの少し力を込めて。

 少し、胸が熱くても。


 心地良い冷えを唇から、手の平から。






 ―完―





『やまじん博士の文字文字研究所』のたけ☆やまじんさんよりいただきましたvv
やまじんさんのオリジナル『オールドストーリーシリーズ』の番外編です!
本編はすっごく長くてすっごくシリアス。曰く『未知の力と救国の英雄のお伽話が信じられた世界で、‘決めつけられた’運命しか歩む事を許されない、定めの子を中心に回る物語』なのですが、ご覧の通り魅力的なキャラクターが満載で、ぐいぐいと引きつけられてしまいます。
特にこのお話に登場のロキ君は、神崎お気に入りのひとりで、ついつい彼のお話をリクエストしてしまいます(ちなみに今回のリクエストは、「エレオナ風邪ひき事件。ラストはロキをほんのり幸せに」でした/笑) こういうのほほんとした、でも実は有能な人って大好きなんですよね。
『オールドストーリー』は既に完結されているので、ぜひ安心して読みに行ってください。マジお勧めです!

『オールドストーリー』が発表されている、やまじんさんのサイトはこちら


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