焦がれし過去への先導者達よ(三)


 人は、過去を求めてやまない。
 もう取り戻せない刹那を欲して、何処までも何処までも深い底へと潜り続ける。

 それはいつか夢見た楽園のようであると、確証のない信仰を抱いて。刻みつける今が明らかな光であると信じるあまり、もとは確かに今であった過去へも、同じ幻想という眼差しを向けて。

 過去は美しいものだと焦がれてやまない。

 美しくなければいけないのだと、あらゆる相違は闇へと閉ざして。
 間違ってなどいない。きっと裏切られてなどいない、裏切ってなどいない。そう、悲しいまでに信じ抜く事でしか、人はまやかしでさえ自らの罪から逃げられないから。

「ごめんなさい、アレン。折角あんなに沢山くれたのに……私、転んでしまって……」
「転んだ!? 怪我は?」
 猛暑にはほど遠く、けれどその日を予感させる太陽の眩しさの中。不安そうに問いかけてきた年上の少年に、エレオナは透き通るような白い肌に微笑みを浮かべて首を振った。
 木陰の下で、そんな仕草をなぞった様に木漏れ日が揺れる。目を奪われる現実味の無い光景に、相手の少年は頬を赤らめ黙るしかなかった。年の割には比較的背の低い、華奢とも言える細めの骨格。褐色の髪に深い青の瞳を持ったアレンは、ただ、人にあらざるような目の前の存在を眩しそうに見つめた。
 きっと、触れてはならない存在。
 けれど何故、そう思えば思おうとする程、彼女だけを胸の内で求めてしまうのか。
「アレン?」
「さっきさ……君の家に来てた人。随分親しそうだったけど、誰?」
「さっき……ロキの事?」
 意外な問いかけに、エレオナは不思議そうにアレンの横顔をその蒼い瞳で見つめる。
 こんなにもあからさまな感情の正体を、彼女は未だ気が付いていなかった。この美しい少女と向かい合えば、誰もがこんな熱のこもった瞳を向ける。そんな現状がある限り、これは無理もない事なのかもしれなかった。
 けれど理由は、それだけではない。そんな事はあり得ない、あってはならないのだと、エレオナの心の底には恐怖にも似た感情が未だ燻り続けている。
 失う為に産まれてきたと、知っているから巻き込みたくない。安堵は未来の新たな傷だと、過去の記憶が証明している。
 他人に哀しみしか与える事が出来ないのなら、誰かと関わる事さえ、本当は許されるべきではないのだろうか。
 そんなふうに、考える事すらあった。
「ロキは……リシェーラの弟なの。時々こっちに遊びに来てくれるのよ」
 誰も定めに触れてはならない。強すぎる流れは全てを攫って、跡形も残らず、悲しみだけを残すから。
 だから誰にも、触れたりしない。誰も求めたりしない。
 手に入れた幸福以上の失う傷が、必ず訪れるのだとわかっているから。だからずっと、何もかもを恐れてルエルの影で震えていた。触れる事全てに臆病な自分を感じ、エレオナはその場から動けない。鎖の絡んだ片方の翼が、引きちぎられる痛みを宿す。助けを求める微かな声すら、誰の耳にも届かない。
「それだけ? ……本当に、それだけ?」
 探るような視線に、胸の奥が痛んだような気がした。リシェーラ、ロキ、今は小さな子供達。幾日も関わり、言葉を交わして大切になっていった沢山の人々。
 関われば失うと、わかってるのに。
 鼓動が早まり、胸が痛い。
「……少し、不安なんだ。やっぱり僕は、君にとっては他の奴等と変わらないのかな。僕はこんなに、君の事……え……!?」
 ふと視線を少女に戻して、アレンは驚きに言葉を切るより他に無かった。エレオナが苦しげにうつむき、両手で胸元を握り締めたかと思うと。
 そのままぽろぽろと、宝石のような蒼い瞳から涙をこぼし始めたのである。
「えっ、エレオナ。どう……」

「あーっ!! おまえ、なにしたんだよー!」

 突然、離れた場所から聞こえたのは、幼い子供の高い声。
 現れたのは四、五歳程度の栗色の髪と橙色の髪の少年だった。二人は崩れるように膝をついて泣き出したエレオナの前に立ちふさがり、アレンを厳しい目で睨む。
「おまえ、ねえちゃんになにしたんだよ!」
「そんな! ぼ、僕は何もしてない!! 誤解だディーノス!」
「なかせたんだろ!? あやまれ!」
 橙色の髪の少年がアレンと言い争い、その間に、彼の兄と思われる栗色の髪の少年がエレオナをそっと覗き込む。けれど彼女はただ弱々しく震えて、何かを拒否するように繰り返し首を振るだけだった。
 次々と落ちる雫は、色の無い透明を保っているはずなのに。光を吸い込み、落ちていく度きらきらとした水面の反射を見せている。
「ねえさん、アレンに何かされたのか?」
 呟きは微かで、きっと誰にも聞こえはしない。痛みを増す胸に頭の芯がくらくらして、吹き出す恐怖が拘束を強める。

「助……けて……」

 誰か助けて。彼の未来を。

 どんな力も奪われるしかないこの身では、助けを叫ぶ事さえ許されていない。
「もう嫌……! もう、見たくない……失うのは嫌。……ロキ……ロキが……」
 世界は美しくなったはずなのに。誰もが定めを振り払い、今という時を生きているはずなのに。
 何故、解放が許されない。

 過去は彼女を異端者だと言う。
 同じであっては、ならないというのか。




 その昔。まだ神々が地上に住まい、彼等の楽園が世界の大半を覆い尽くしていた頃。
 太陽の王はひとりの娘に想いを寄せた。
 その娘、レイリアは人の身でありながら奇妙な術を使い、周囲を惑わし。魔に魅入られた存在であった。悪魔のしもべとなりし美しき娘は、やがて恐れる人々の手に捕らえられて裁かれる。あらゆる者が松明を手にし、火刑台に戒められた娘を焼こうと取り囲む。
 だがそこで、レイリアを愛しく想う王は禁忌を犯して人の里へ降り立った。そして身に纏う熱で彼女を捕らえた者達を焼き殺し、娘は神々の領域へと連れ去られる。
 レイリアはそこで魔を払われ、王に仕える事となるのだが。彼女は決して王を愛そうとはしなかった。女神の地位を与えても、独占欲に束縛しても。彼女は自らを焼き殺そうとした人間が恋しいと泣き続けた。
 神の領域に迷い込んだ青年に出会い、恋に落ち。共に地上へ逃げるまで。
 太陽王カーリュオンは嫉妬に狂い、逃げる二人を何処までも追い詰める。人は太陽の輝きからは逃げられない。最後には青年も、そして恋した娘さえも、近付き過ぎた太陽の熱に焼かれて死んだ。

 女神の亡骸を抱え、我に返った王は愛する者を自ら焼き尽くした哀しみに暮れる。

「そして……王は死んでしまった女神レイリアを川に葬り、その川だけは決して枯れさせないと誓いました。彼は人を愛した女神を想い、他の神々が地上を去った後も迷える人々を導き続けて。それでも時折雲に隠れ、女神を思う度に涙の雨を降らせるのだそうです。……要約すると、こんなものでしょうか」
 ロキと、ジオラ。
 そして四十代前半程度の男ひとりが見張りとして向かい合う居間は、静寂の中にあった。語られているのは、この状況の原因となった今は遠き神々の物語。
 自分がどういった理由で巻き込まれたのかと、この話をせがんだジオラは気分が思わしくなさそうだった。頭部の出血が収まらず、ぽたり、ぽたりとゆっくりではあるが確実に服は血の染みを増やしている。
 大丈夫かと問いかけると、ジオラは良くない顔色で大きく溜め息をついて苦笑した。
「悲恋だが、こんな事される程じゃねえな」
「……神話の悲劇はしばしば表だっては伝えられない、真実が隠されている事があるんです。カーリュオンは、公国デュロウの前身である帝国デュロウザーの初代大帝の本名ですし。この辺りで崇拝される女神像の中に、水と踊りを象徴するレイリアという女神がいます。これはひとりの踊り子と、まだ大帝ではなかった頃のカリオン・デュロウザー・ハーネストの物語なんですよ」
「ふうん……デュロウにすれば、偉大なはずの建国の王が女に狂って庶民に手をかけたなんて、信じたくねえか」
「それから……初版本や暗号的にちりばめられた発音の崩しからして、大帝カリオンは民間人の虐殺をおこなった可能性があります」
「成る程。国史にとっちゃ不名誉だな」
 けれど今のデュロウ領主は、初代大帝と何の血の繋がりもない。大国との共存を計り、国力も増強された善政のさなかだ。確かに問題にはなるであろうが、この発表によって国の基盤そのものが揺らぐ事にはなり得ない。ロキも、その点は充分考慮した内容に仕上げているつもりであった。
 領主にも、教皇にも。この結果を伝え、公開の許可を受けている。過去が歪んだままでは歪みから生じた今が歪む。過ちを過ちと認め向き合い、それ以上を手にしたいと。
 彼等は、言ってくれたのに。
「家に保管してある分は、これで全てか」
 廊下からの足音の後、再び扉が開かれる。見張りの男を含め、侵入者は四人。その中のひとりがロキの目前まで進み出て、手にした何百枚という大量の書類を床の上に広げた。
「我々が目的とする資料だけを示せ。……おまえの研究資料は、歴史に価値ある物だと聞き及んでいる。それには手をかけない」
「この状況で……随分と無茶を言いますね」
 ロキは、完全に体の自由が利かない状態にあった。後ろ手に縛られ、体は座り込んだ状態でテーブルの足にくくりつけられている。両足も御丁寧に雁字搦めだった。
 弱ったように広げられた資料へ視線を落としたロキに、男は僅かに瞳を細めて感情の無い言葉を返す。手負いのせいか腕の拘束だけで済んでいるジオラに向かい、抜き払った長剣の切っ先を突きつけながら。
「友人、らしいな。どうせ放っておこうと同じだろうが……今すぐこの苦痛から解き放ってやるという手もある」
 それに対し、ジオラは不愉快に眉を動かしただけであったが。ロキはさっと顔色を変えて動揺した声を放った。
「待っ、待って下さい! 彼は……」
「人質は幾らでもいる。この男に関しての許容は十秒間だけだ。一、二、三」
「……論文は、右上に……下書き清書を問わず二本青い線を入れてある物です。参考資料は、同じ色で付箋が貼られています」
 脅す為の嘘ではない。
 四十も間近な、鋭い銀の眼の男は本気だった。それがロキにもわかる以上、ここは口を割る以外に道は無い。
 背が高く、短く刈った黒紫の髪の傭兵。幾らかは衰えているのか、それとも元々の体質なのか。彼の筋肉は引き締まっていてもそれ程頑強には見えなかった。
「ティーダ、リヴェル」
 呼ばれて、傍の若い青年が共に目当ての資料を探し当てていく。実直そうで落ち着いた声音、隙を見せない身のこなし。真面目なあまりに思い詰めた神官達が信用し、こちらへ送り込んだ理由がわかるような気がした。
「いいのかよ……。どうせ俺達は殺されるってのに、大事な資料まで処分されるんだぜ」
 問いかけてきたジオラは、何故か不満そうだった。それでも気分は悪いのか、だるそうに壁に背を預けながら瞳を閉じている。
 その仕草に幾ばくかの不安を感じつつも、ロキは彼と同じように小声で返した。
「命は……一度失えば、もう二度と生き返りませんから。過去には意義がありますが、僕には今の命とか、癒せるはずの傷とか……そう言うものの方がずっと大事な気がします」
「じゃあ、何で研究をやめなかったんだ? 問題提起より自分の命が大事だろ」
 ジオラはロキの真意が察しきれずに、瞼と共にその視線を上げた。灰色の双眸はもはや笑みを浮かべていない。静かで揺るぎない強さが、普段は穏やかな瞳に宿っている気がする。
 不思議な奴だと、その時思った。
 対して、ロキは思考に疑問符を浮かばせてしまう。いきなりジオラが自分の事を凝視したかと思うと、面白そうに口の端で笑ったのである。彼はまた壁に背をつけ瞼を降ろし、機嫌の良い口調で唇を開いた。
「おい。人間が死ぬ理由ってわかるか?」
「……ジオラ? 急にどうかしたんですか」
「いいか。人は、生きていたから死ぬんだ。永久に死なないんじゃ、そいつが生きてるかどうかなんてわかんねえからな。……死んで初めて、生きてたんだって気付く。だからこそ証ってやつが必要なんだよな」
「何の話です」
「昔、そんな奴がいたんだよ。……俺はまだ死ぬ人間じゃ無い。もう少し賭けてみるさ」
 掴み所の無い表情だった。ジオラは、過去に何かを背負っているのかも知れない。その頃にしていたであろう、特に悲しげでもない諦めたような顔を浮かべてうつむいた様が。それが、却って取り戻せない苛立ちを現しているかのようだった。
 立ち入るのは無粋な気がする。直感的にそんな事を感じて、ロキは前方に視線を戻して論文に目を通す男達を眺めた。このような仕事を請け負うからには、彼等にも何らかの過去が有るのかもしれない。そう思うと、不意に寂寥にも似た想いが込み上げてくる。
 過去が有るからこそ、人は今を生きていけると誰かから聞いた。それが深い後悔であればある程、過ちを拒む標になると。

「……これは……!」

 不意に、男達の表情が動いて空気が揺らいだ。それに対して響いた声は、先程からは信じられぬ程、静かで落ち着き払っていて。僅かばかり、淋しさが滲んだ。
「やはり……貴方達には知らされていなかったんですね」
「どういう事だ。まさか、ただの迷信だとばかり思っていたが……。史実、なのか?」
 立ち上がり、銀の目の男は少年にしか見えない歴史学者を見下ろす。それは今まで押し殺していた私情を僅かに垣間見せた、明らかな動揺であった。彼の様子にもうひとり、椅子に腰掛けていた中年の男も若い青年達から資料を受け取る。
 彼等の目の前で拘束され、それでも生気の宿った眼差しを向けてくる青年はあまりにも若い。そのはずなのに、不意に幼い程の空気が掻き消え、単純な力とはまた違う威圧を感じてしまうのは何故なのだろう。
「本来の任務内容は、資料には一切目を通さず全てを焼き払ってくる事だった。……その理由がこれだったとはな」
「何故そうしなかったのですか」
「……我々は金銭だけで動く者ではない」
「成る程……僕は刺客が貴方であった事を、感謝すべきでしょうね。……大帝カリオンに征服され、今は形態を変えて国教として認定されていますが……」
 領主は公開を許した。教皇は認め、今の正道を貫く教訓とするのだと誓った。
 それでいて尚、肝心の神官達が反発し続け闇に葬ろうとした真実とは。
「宗教を背景とし、無実の人々を焼き尽くした……魔女狩りは、確かにあったんです」
 国の安泰を願ったわけではない。王の名誉を重んじたわけでもない。
 彼等は自分達の地位が弱体化する事を恐れて、遙か昔の大罪を隠蔽しようとしていたのである。
「始まりは……純粋すぎる、恐怖の捌け口であったのかもしれません。しかしそうだったとしても、それが魔女として、ただの人間が苦しみの中で命を落とすに充分な理由になりうるでしょうか。……魔女狩りは現実にあったんです。些細な厄災が起きる度、人々の不満が宗教に向けられそうになる度に」
 二の句が告げずにいる男達を、ロキは順々に見回し言葉を室内に響かせていった。
 現代の世では特異な能力を持つ者の存在が認められ、場合によっては崇められてさえいるというのに。そんな時代が、現実に存在していた。人々は異端者を恐れと拒絶の目でしか映さず、僅かな疑いだけで手をかける。
 捕らえられ、あらゆる責めをその身に受けて。あらゆる手段で生け贄達はおとしめられた。無実を叫べば拷問で死に、偽りに認めれば、人々の罵声と共に炎にまかれ。
 彼等は確かに、同じように不安に震える人間であったはずなのに。
「しかし。今更何百年も昔の事実を曝し、今の民を傷付けるなんて……」
 リヴェルと呼ばれていた最も若い青年の言葉に、ロキは思わず声を荒げた。
「過去はもう変わらない!! 知っているかいないかの違いだけで、僕等は確かに罪を犯した。偽りの理由を掲げ、人を殺し続けた!」
 泣きそうにもみえる灰色の瞳を、失われた過去を探るように細めた仕草が。やりきれない、悲しさに満たされている様に見えた。

 救い出してやりたい。
 永遠に閉ざされるはずだった闇から。

「命は、決して甦らない……。僕達が存在を認めなければ、彼等は永遠に異端者の烙印の中です。認めなければ、永久に歪められた事実が彼等を追い立てる。僕達は偽り、忘れるという罪を重ね続ける。……我々は、知る必要が無いのですか? この事実を受け止める必要は無いと。知らず、また同じ過ちを繰り返しても仕方がないと……」
 そこでロキは、にわかに彼等から視線を外してうつむいた。漆黒の鳥が、その美しい翼を片方だけ広げたような。悪魔の印とされるあざが脳裏に過ぎって。
 人は知らずに繰り返す。
 知っていれば、彼等は選択者を闇に追い詰めはしなかっただろうに。

―――……救い出して、やりたい―――

 救い出してやりたい。
 人々を囚われた過去から救い出してやりたい。
 同じ過ちを繰り返すのは、その過去から進めていない何よりの証で。人はそれに気付かないから、逃れようともしないで深淵に自ら潜り込む。正気と信じ狂気に委ね、あらゆるものを傷付ける。自身にさえも刃を向ける。
 人は、あまりに真実の記憶を持たない。
 知らないが故の感情、興味、形の無い茫漠とした不安。そう言った全てが、今を狂わせ誰かを傷付けていたなど知りようがないのだ。
「真実……それ自体が、現在を生きる誰かを傷付ける事もあると思います……。でも、それに本当に偽りが無ければ。人は乗り越え、強くなれるはずなんです」
 真実の刃は鋭くて、虚実の影は跡形もなく溶かしてしまう。消えて何も残らぬくらいなら、しがらみを意識し切り払ってでも進みたい。人はそれすら出来ぬ程に汚れきっているとは、ロキにはどうしても思えなかった。
 人はもっと強くなれる。人はもっと何かを守れる。
 もっと……光の強い未来を、選択できるはずなのだ。
「……僕は決して、譲れない……。それは、許されない事なのですか……?」
 次第に、上手く言葉が繋がらなくなってきた。ロキが黙り込むと、急にその場は静まり返る。男達は暫しの間、葛藤が生じたかのような視線をお互いに交わらせていたが。
 床を軋ませた足音が近付いてきて、視界の中には鋭利に輝く刃が映った。
「顔を上げろ、ロキ・クレリック博士。私の名は……バージェス・フラッグだ」
 突然の名乗りに、ロキは思わず言われた通りの行動をとってしまった。その瞬間、露わになった喉へと男の手にした剣の切っ先が定められる。照準を合わせる為か手袋をした左手をかざして、震えのない確かな正確さで鉄の刃はロキとの距離を広げていく。
 凝視した銀の瞳に、にわかな躊躇が浮かんでいるのが読みとれた。行動には迷いがないのに、表情からは後悔の色が滲み出ている。
 彼等は本当は、今回の仕事を好んで請け負ったわけではないのかも知れない。
「我々の任務は、おまえを抹殺する事だ。だが……だがもしも、今回の依頼が他の者に来ていたら。私はおまえを守っただろう」
 そしてまた、バージェスの瞳からは一切の感情が消える。同時に細い糸を張りつめたような、ロキの喉と彼の持つ剣の先端との距離が静止した。

 と、その時。

「……来る!!」
 今まで黙り通しだった最年長の男が太い声を放ち、全員が剣や銃を引き抜いた瞬間。
 廊下へと続く扉が激しい音を立てて開き、舞い込んだ影が内ひとりの銃をたたき落とした。
 男は無防備になったみぞおちを蹴り込まれて、数瞬にして、意識を手放す。相手が崩れ落ちる様を確認しようともせずに、影は斬りかかってきたもうひとりの剣を横凪ぎの一閃ではじき飛ばした。
 身のこなしにあわせて光沢の流れる漆黒の髪や、額に結ばれた黄色のスカーフ。整いきった端正な容貌に厳しさを増した墨色の瞳。手にしているのは、白銀の煌めきを保つ中短剣であった。
 ロキにとって見慣れた青年の姿。それは確かに、ルエルだったのである。
「なっ……!」
「ガスト!! 食い止めろ!」
 何故ここに。そう、声にならない疑問が形を取るよりも早く。既に二人目を沈めたルエルに振り返りもせず、バージェスが叫んだ。それに呼応するかのように、名を呼ばれた男はルエルの剣に自らのそれを振り下ろす。目を閉じるとか、瞬きをするような余裕すらロキには無かった。
 張りつめられた糸が、遂に緊張に耐えられずねじ切れたかの様に。逃れる事もできず、剣の切っ先を一瞬にして喉へと突かれる。
 はずであった。
 少なくとも、このまま何事も起こらなかった場合は。
 けれどこの場に違う未来が訪れたのは、いつの間にか両手の縄をほどいたジオラが、咄嗟にバージェスの足に飛びかかったからである。
「ジオラ! いっ……」
 思わず身じろぎをして、ロープの結び目を更にかたくしてしまった。皮膚の擦れた痛みに耐えかねて目を閉じ、再び開けたその後。

 再び、空間は静止する。

 唯一。時の流れをあらわす風が一陣だけ舞い込み、散乱した書類を僅かばかり舞い上げていっただけで。
 バージェスは、仰向けに倒されたまま額にあたる冷たい銃口を感じていた。腹部の重みはルエル。利き腕はとうに踏みつけられ、剣を引き剥がされている。視線だけを横にずらせば、倒れ伏す仲間の姿が認識できた。
 そしてまた、ルエルの墨色の双眸を見据える。驚きで微かに見開かれた瞳で、けれど変わらず、口調だけは落ち着き払って。
「……その中短剣に、見覚えがある。まさかおまえは……」
「持ち主であったルストルドは、死んだ」
 ルエルの声も、感情がこもらずただ静かで通りが良い。
 お互いの抱く想いが複雑であればある程、押し殺して曝せないのか。
「……ひいてくれ、バージェス。俺はもう誰も殺せない。おまえを……討てない……」
「そうか。ルードは、死んだか……。それは奴が視た未来に準じての事か? ルエル」
 お互いの名を知っているという事は、二人は何らかの面識があるのかもしれない。そう感じたロキの前で、バージェスは初めて微笑み、ゆっくりと頷くように瞬きをした。
 互いの記憶に横たわる、それぞれの過去。それがあまりに重過ぎて。だからこんなに、淋しい瞳に見えるのかも知れない。
「……いいだろう。おまえの道を阻みたくはない。デュロウも、黒き鷹の名を聞いてまで手を出す愚挙には及ぶまい。……望まぬはずの過去も、思わぬ幸運を運ぶものだな」
 感情を封じた墨色の瞳。けれど影は苦しげで。それを見上げた銀の瞳は笑みの形に細められ、たったひとつの雫を落とす。
 こめかみに一筋、涙が伝った。

「過去は、重いな。……狂いそうだ……」

 そして彼等は去っていた。あまりにも味気なく、あっけなく。
 別離の言葉すら、交わさずに。




「本当にありがとうございました、ジオラ。それから……巻き込んで、すみません」
「まったくだぜ。言っとくが、これは貸しだからな。返して貰うから覚悟しとけよ」
 暫くして。
 戒めを解かれ自由を得たロキが礼と共に頭を下げた相手は、煙草をふかしながら愉快そうに笑ってそんな返答をした。
「さすがに戦争屋には、こんなもんが刃物には見えなかったらしいな。役に立つもんだ」
 そう言って、ジオラが片手で回しているのは細い黒塗りのペンである。しかし、それは彼が言うにはペンであってそうでない、設計士独特の必需品であるらしい。どういう場合に使うのか、聞いてもあまりに専門的でロキには良くわからないが。とにかくペン軸の締め具合によってインクが出たり、刃先が出て紙が切れたりするらしい。
 ジオラはこれで、自分を縛っていた縄を切ったのだった。
 どれ程感謝してもし足りないような気がして、ロキはもう一度頭を下げた。自分の命が助かったからというだけではない。顔を上げると視界に映る、長身で黒髪の青年についても、この行為は関係している。
 もうとっくに剣を収め、手際よくジオラの頭に包帯をとめているルエルは全くの無傷だが。もしもあの時、ロキの首へとそのまま剣先が突き抜けようとしていたなら。
「出血は包帯の圧迫だけで止まるな。このままにしておけば問題ないだろう。二、三日後に様子を見に来る」
「どうも。ま、あんたなら別に心配する必要なさそうだな。医者を見る目は持ってるさ」
 ルエルは、どんな最悪な状況に置かれようと必ずロキを助けただろう。ただしそれは、彼自身を引き替えにして。
 もしも、ジオラが数瞬でもバージェスの動きを止めなければ。まだ決着の付いていないもうひとり男に躊躇い無く背を向け、彼はその刃を受けていたのかも知れない。
 ロキの身の安全と、引き替えに。
 ルエルはそういう人間なのだ。過去に様々な想いを背負っていながら、それでも自身よりも他人を守る。ロキは、それを充分に理解できていたはずなのに。
 捨てたはずの剣を取らせ、危険に曝した。
「ロキ?」
 様子のおかしさに気付き、ルエルがロキに数歩近寄る。すると不意に灰色の双眸が揺れて、思い悩んだような陰りが映った。
「過去は、重い……。バージェスさんの言葉が頭を離れません。わかっているつもりでいても、やはり誰かを傷付ける事には変わりありませんから。どんな理由でも、どんな形でも、僕は結局デュロウの神官達を追い詰める事になったんです」
「おまえ、死にそうになったくせにまだそんな事言ってんのかよ。お人好しだな」
 呆れた声と共に椅子に背中を預け、煙草を灰皿にもみ消したジオラにロキは上手く笑い返す事が出来なかった。平安を取り戻し、外の明るさや鳥の声ばかりの光景に不似合いな感情が胸の内を支配して。
 ルエルが、僅かに瞳を伏せて足下に落ちていた紙片を拾い上げる。
 口調はいつも通りに静かであったが、その仕草は何処か遠い、いつかの過去を垣間見ているようでもあった。
「誰も傷付けずにいられるなど、出来るはずがない。その数が多いか少ないかの違いだけだ。……ロキ。バージェスは、おまえを殺さなくて良かったと思っているだろう。重い過去に苦しみ、逃れたい、触れられたくないと思っていても……心の何処かに、それ以上に救われたいと願う部分が必ずある」
 それは彼自身の事でもあるのか。それとも彼が、今まで出会い感じ取ってきた人々の声なのか。
 本人にも認識出来ない形をとらぬ過去への回帰は、聞いたロキを掴み所の無いものを見せつけられたような気分にさせる。
 それでも少しは救われた気がして、ロキは緩く微笑みを浮かべた。ルエルは慰めた事を気付かれたくないのか、照れくさそうに笑みを消して机の上に書類を戻す。
「セイルティアに行くぞ。……エレオナを泣かせた詫びは、必ず入れてもらう」
「泣かせた……エレオナが? どうして」
「おまえが出た後、急に……だからここへ来たんだ」

 人々には無い望まぬ力、課せられた運命。

 過去は彼等を異端者だという。
 けれどそれでも、哀しい程に人を見据える瞳は澄んで。

 二人は確かに人間で、我等は確かに受け入れるのだと。声を大にし、躊躇いも無く言える時が来るのだろうか。




 更に、幾ばくか経過して。
 夜の闇衣を纏う満ち足りた月が、微かで冷たい輝きを藍色の空に暗く放ちだしている頃だった。
「エレオナ……入りますよ」
 冷えた外とは隔離された板張りの廊下で、ロキは数回のノックの後に扉を開く。足を踏み入れたエレオナの部屋は真っ暗で、後ろから差し込んだ色の無い明かりが、銀の光を取り留めもなく浮かび上がらせる。
 左頬がまだ痛んだ。ルエルに連れられ彼の家に入るや否や、子供達が安堵したように駆け寄ってきた所までは良かったのだが。次の瞬間、ロキはリシェーラから力一杯の平手打ちをお見舞いされたのである。
 心配をかけまいと黙り通していた報いなのだから、これに文句は言えないが。この分だと明日も腫れが残っている事は確実だった。
 明かりを付け、部屋を見回す。エレオナはベッドの上に座り込み、顔を見られたくないのか大きなぬいぐるみを抱き締めこちらに背中を向けていた。
 それぞれの態度で出迎えてくれたみんなの中で、彼女だけが唯一、黙って自分の部屋へと駆け込んだのだ。
「……すみませんでした……。僕は、貴方を随分と悲しませてしまったようです」
 そう、心の底から謝罪を述べる。けれどロキの声に一層エレオナはぬいぐるみに顔を押しつけ、嫌がるように何度も何度も首を振った。
 そんな幼さの残る仕草を目にして、ロキは自分でも気付かずにほっとする。彼女は、まだ子供なのだと。
 未だ幼いこの少女に抱こうとしている感情は今よぎった答えとは違う。そう、信じ切れぬ想いを無意識の内に否定しようと、心の奥へ押し込んで。

 けれど。

「エレオナ?」

 宥めるように語りかけ、隣に座ってそっとぬいぐるみを取った途端。
 想いは、認めるよりも先にはっきりとした形を取った。

「……恐い……」

 ぽつりと、震えた弱い声を耳にして。その声を紡いだ薄紅の唇を目にし、縄の痕が残る手首に触れた細い指を意識して。
 ロキは初めて、自分がこの少女にどんな感情を抱いているのかを認めるに至った。
 夏の木々が纏う深緑のような、濃い睫毛に縁取られた蒼の瞳は酷く悲しげで。ぽろぽろと落ちていく涙に胸が痛む。自分は彼女にこんな涙をこぼさせるのか、そう考えてみるだけで、先程までの思考も全てがどうでも良くなっていきそうだった。
 弱く震えてゆっくりと瞬きをする姿も、全てが綺麗で儚く、息苦しい。
 ロキはエレオナにこんな顔を、こんな目をさせるつもりはなかった。動揺が酷くて言葉が出ない。
「エレオ、ナ……。その……僕は」
「……もう、嫌なの。みんな消えるの。私の前から……みんな……。許して、くれない。笑いあう事も言葉をかわす事も、共に生きる事すら……私には、許されないの……? もう嫌……失うのは、嫌……。……恐い……」
 ロキは、癒す方法の無いエレオナの過去を揺さぶり起こした。痛々しい程、今は無い恐怖に震える肩。首を振る度、淡いつやを動かして流れる銀色の巻き毛。
 深い後悔が胸の内を渦巻いている。
 この少女以上に価値のあるものなど、自分には何も無いはずなのに。
 その頬に触れ、もう大丈夫だと溢れる雫を拭ってやりたい。銀の髪ごとその肩を抱き締め、ここにいるからと包み込んでやりたいと思う。けれどそれが出来ずにいるのは、きっと、拒まれた時が恐いから。更に傷付けはしないかどうしようもなく不安に駆られ、それでも守りたいと、葛藤を覚えて。

 きっと理由は、好き、なのだ。

 ロキはこの幼さの残る少女を、世間一般が恋と呼ぶ程強く。こんなにも強く焦がれていたのだ。
「恐い……。奪わないで、何も……」
「……エレオナ」
 エレオナは過去を失ってきた。過ぎ去った時を証明する、あらゆるものを失ってきたから。
 だから今にも未来にも、恐れを感じて動けずにいて。
「すみません……もう、二度とこんな事は」
 握り締めた頼りない手は、いっそ冷たい程なのに。触れた場所が熱を宿して、ロキの体温を上げていく。

 失いたくない。

 きっと、彼女がロキを失う事を恐れている以上に。自分はエレオナを求めているのだ。
「すみません。エレオナ」
 声にすれば、同じ音しか奏でられない。けれどいつか、ロキはこの少女を失くした過去へと導いてやりたいと思った。
 今この瞬間が、既に過去へ変化しようとしているように。いつか自分という存在が、何も無い過去からこの少女を連れ出してやれる時が来るのなら。
 導いてやりたい。

 時が過ぎても決して失う事の無い、過去へと変わる現実の未来に。







 ―完―





祝!完結★
☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆へ(^○^へ)(ノ^○^)ノ☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆

ああもう、素晴らしかったですねえ……(←余韻を噛みしめている)
随所にあれこれと思わせぶりな記述が多いこのお話。引っかかるところのほとんどは、やまじんさんのサイトに置かれている、本編に繋がっています。もうあれやこれやとあまりにも盛りだくさんで、シリーズのファンである神崎には、転げ回るほど嬉しい作品でしてvv

それにしても、こうして読了すると、タイトルの『過去への先導者』という言葉にさえ、深い意味があったのだとしみじみしてしまいます。
いいなぁ、こういうタイトルつけられるセンスって……



このお話の本編が発表されている、やまじんさんのサイトはこちら


本を閉じる