焦がれし過去への先導者達よ(二)


「そういえば半年ぶりになるのねー。あんたと会うのも、あんたがこの村に遊びに来るのも。みんな大きくなってるでしょ」
「そうですね。ラフィッシェルも、後二ヶ月もすれば二歳ですか。……重くなりました」
 くすくすと、見上げて映る艶やかな赤い唇が笑みをつくる。室内でも真昼の明るさに透ける、大きな焦げ茶の瞳が床に仰向けとなったロキを見下ろしていた。彼女は茶のかかった肩までのオレンジ色の髪を一房耳にかけ、指をそのままこちらに伸ばす。
 ロキの双子の姉にあたるリシェーラは、いつ会っても躍動的な輝きが眩しい人だった。
 そしてやはり今日も、それは少しも損なわれる事無くここに存在している。度の入っていない眼鏡を奪われてしまうが、身動きが出来ない今では苦笑を返すのが限界であった。
 今、ロキは動くに動けない。
 仰向けになった彼の上には、自分にしがみついて愛らしい寝息を立てる姪、ラフィッシェルが乗っているのである。
 子供らしい柔らかい頬、高い体温。先程までは開いていた元気な墨色の瞳や、光沢の強い漆黒の髪は父親譲りと思われる。けれどどちらにより似ているかと問われれば、それは母親であるような気もした。天真爛漫な表情の作り方や、無邪気なまでの人懐っこさや。
「んー……おぃちゃん〜……」
 妙に幸せそうな顔をしてすり寄ってくるので、思わずロキも口元をほころばせてその黒髪を撫でてやる。
「はいはい、僕はここにいますよ」
「……う〜。きんぎょ、たべちゃいや……」
「きっ、金魚ですか? 金魚は流石に食べませんね」
「……ロキ。寝言なんだから、真面目に返事したって無駄でしょ」
 脱力しながらリシェーラが言葉を発し、体を起こしてテーブルへ向かう。ロキもこれくらい眠りが深ければと、小さな体を抱き留めていた腕の片方を外してみた。
 右手をそっと絨毯にうずめ、僅かに身じろぎをしてもラフィッシェルはすやすやと幸せそうにしている。少しずつ少しずつ、細心の注意を払って絨毯の上へとずらしていった。
「でも助かっちゃった。この時間ってルエルがいないから……。子守ありがとね、ロキ」
「いいえ。何でも出来る人というのは大変ですね、忙しくて。……よいしょ」
「あんたは歴史しか出来ないのに忙しいじゃない」
「それは触れないでいただけますか」
 青いグラスに飲み物を注ぐ後ろ姿を見やりながら、静かに小さな体から両腕を放した。
 やっとの思いでラフィッシェルを自分の隣に横たえたロキは、上半身だけを起こしてほっとした様に息を付く。如何に寝転がっていたとはいえ、やはり圧迫感のある状態で動けないのはそれなりに疲れるのだ。
 玩具は、先程まで一緒になって遊んでいた上の兄達が片付けていってくれた。きっちりと箱に収まっている積み木に対し、番号もばらばらに本棚に詰め込まれた絵本。それぞれの性格がこんな所にも現れているのが、なんだか妙に可笑しかった。
 礼と共にリシェーラからグラスを受け取って、ロキは平和そうな顔で口を付ける。外の陽気は今の季節にすれば暑い方で、開け放たれた窓からの風が気持ち良かった。
「今日はいつ頃帰るの? お昼は食べていくんでしょう?」
 元気過ぎる子供を三人も相手にし、半ば放心しかけていたロキはその問いにはっと我に返る。
「えっ? あ、はい。まだ学会の準備があるので昼食の後、ルエルに経過を伝えてから。カミュに会えないのは残念ですが……学校から帰ったら、よろしく言っておいて下さい」
「うん。あの子ねえ、この前作文で賞を貰ったの。頭もいいし、優しくて顔も綺麗だから凄く女の子にもてるのよ。でも自覚がないから照れちゃって。ホント可愛いんだから」
 長男のカミュを産んだのは、リシェーラではない。けれどその嬉しそうな口振りから見れば、彼女が本当にあの少年を可愛がっているのだという事は明らかだった。
 自分の子供と同じようにだとか、自分の子供としてだとか。そんな感情の前置きは必要無い。大切で必要で守りたい者、共に生きて心地良い者。
 以前ルエルが少年を引き取る為に家を空けていた時、迷いは無いかと問いかけたロキに、彼がそう感じたなら自分にとってもそうなるからと。彼女は迷いの無い微笑みをたたえて言っていた。
 辛い過去、苦い過去も全て受け入れる事が出来たなら。繰り返す過ちの痛みを、憶えたままでいられるのなら。
 やがては必ず過去になる未来を、少しでも後悔の無いものに出来るかもしれないと思うのに。

 偽られた過去という幻に魅了され、盲目の中でそれを守ろうとする者もいる。

「うーん……まあ、ロキも……。童顔過ぎるだけで、キリッとすれば悪い顔じゃないと思うんだけど。キリッとしてないもんね」
「ほっといて下さい。ルエルやカミュと比べる事自体間違っていますよ」
「そっか。比べる以前の問題かもね」
「……肯定もやめて下さいよ。一応、傷付きますから」
 からかわれているとわかってはいるが、事実である為ロキは少々落ち込んでしまう。暗い空気を背負ってうつむく彼に、リシェーラは可笑しそうに笑って先程取り上げていた眼鏡を返してきた。
 そして受け取ると同時に、真剣な目をして互いの距離を詰める。
「あたしが言ってるのは、男としての甲斐性よ! 大体あんた、硬派でもないくせに女の子の事大切にしないんだもの。前の彼女も結局あんたが仕事仕事ってデートもしないで、ほっぺひっぱたかれて終わったんじゃない。だからもてないのよ! 普段お人好しのくせに、なんで恋愛となると朴念仁なのよ!!」
 忌々しげにロキを睨んだかと思うと、彼女はいきなり彼の両頬をつねってきた。
 本気で悲鳴をあげようかという程に、かなりの力でぎゅうぎゅうと引っ張って。
「ひつつっ! い、痛いです痛いです!」
「大体ねえ。本気の恋はした事あるの?」
「いっ……! う。そ、れは……その……」
 痛いところを突かれたような気がして、ロキは思わず押し黙る。
 女性の存在は皆無に等しいとされる学者という職種が影響してか、持って生まれた資質のせいか。彼はそういった感情に酷く無関心なところがあった。多くはないが、今までに恋人と呼べる存在になった者はいる。けれどそれは結局、ただ呼べる程度でしかなった。
 好きという感情はあっても、ロキの場合はそれだけである。抱き締めなくとも一向に構わない。愛し合う者同士がするであろう口付けも、僅かな触れ合いも、離れた一時の淋しさも。彼は、感じた事が無い。
 欲の無い恋は、所詮本気ではないのだろうか。
 自分でも薄々感付いていた事を指摘されて、ロキはリシェーラの手を振りほどいて深慮を始めた。
 赤みを帯びた頬をさすり、うつぶせに姿勢を変えたラフィッシェルを視界に収める。子供を愛しいという想い。家族が大切だという想い。それ以上に強い感情というものが本当に存在し、自分の中にもあるのだろうか。
「……僕は……情が、薄いのでしょうか。昨日だってジオラに、初対面で既に女っ気が無いとか子供とか未発達とか好き放題に……」
「え? あ、ちょっと」
 急激な速さでに暗くなっていくロキに、今度はリシェーラが焦る番だった。からかってやろうとしただけなのに、想像以上に気にしていたらしい。言われなければ、平和に笑って全く以て思い出しもしないくせに。
 普段は忘れている悩みだからこそ、思い出した時が酷いのだろうか。気の毒とは思うのだが、あまりの激しいへこみようにリシェーラは何だか可笑しくなってきてしまった。
 思わず吹き出すと、灰色の双眸が焦げ茶のそれを哀れっぽく睨む。
「リシェーラはいいですね。ルエルがいて」
「ごっ、ごめん。なんか、可笑しくって。でも気付いてるなら大丈夫じゃない? 意識してれば、ちゃんと見つかるわよ」
「はあ。そういうものですか」
「そういうもの! ……ロキは鈍いから、好きになっても気付けるか心配だけど……あ」
 断言の後、諸注意の途中でリシェーラがふと外を見て立ち上がる。そして暫し何かを考え込んだような顔をして、苦笑気味にロキへ耳打ちをしてきた。
 ここには、二人と完全に寝入ったラフィッシェル以外に誰もいないのに。それでも彼だけに聞こえるように、低い声で囁く。

「幸せにする自信と、ルエルに殺されてもいいって覚悟があるなら……エレオナという手もあるわね」

 一瞬、というよりも数秒間。ロキは自分が何を言われたのか理解できなかった。
 エレオナとは、リシェーラの夫であるルエルが妹として側に置く少女の名。実際には何の血の繋がりも無いが、彼があの少女をどれだけ大切に守っているのかはロキも知っている。そしてそんな事よりも、エレオナとロキの年齢は十も離れていた。
 七歳という、ほんの子供の頃から親しくしていた少女に今更そんな感情を抱くなどあるはずがない。そう言おうとすると、リシェーラはますますその笑みを深くして言った。ラフィッシェルを抱き上げ、酷く楽しそうにくすくすと笑って。
「わかってるわよ。第一、倍率が高過ぎてロキなんかじゃ絶対に無理。相手も純真無垢の可愛い天使で、そういう目には危なっかしい程鈍いし……。じゃ、あたしは花瓶取ってくるついでにラフィをベッドに寝かせてくるから。お姫様の事、出迎えててちょうだい」
 花瓶が入り用とは、一体。それもまた疑問だったが、リシェーラは足早に奥へと消えてしまう。
 よって、ロキは出迎えという部分に思考を移しす事にした。この部屋は玄関のすぐ横にある。廊下との隔ては壁ではなく僅かばかりの段差で、誰かがこの家に入ればすぐに確認出来るようになっていた。
 扉の開く音に、思わず振り返る。そして現れた少女の姿に、灰色の瞳を僅かに開いた。
 舞い込んだ風の匂いが少し甘い。
 色を持たないはずのその場の空気が、急に塗り替えられたような気さえする。

「ただいま。……リシェーラ、いるの?」

 人の気配を敏感に察した、澄んだ声が鼓膜を震わせた。
 聞き覚えがある、耳慣れていたはずなのに違う誰かの声。甘い風の正体は、その細い腕に抱かれた大きな花束のせいだろう。細かな花弁が溢れ返って、それがロキから少女の顔を隠してしまっていた。
 相手にしても、それは同じ事らしい。少女も進めかけた足を躊躇いがちに止め、また、短く言葉を綴る。
「……誰……?」
 響きに不安が混じっていて、ロキははっと我に返って立ち上がった。そういえば返事すらしていなかったのだと、今更ながらに気が付いたのである。そのまま彼女へ向かって歩を進めて、迎えの言葉を何とか返す。
「あ、お、お帰りなさいエレオナ。僕です」
「……ロキ? いらっしゃい、久しぶりね」
 嬉しそうにエレオナが微笑んだ気配に、何故かロキは妙な気持ちになる。けれど理由に考えが辿り着くよりも早く、眼前には長い銀の巻き毛が揺れる光景が飛び込んできた。
 抱えた花束に視界を塞がれたエレオナが、段差につまずきこちらへ向かって倒れてきたのである。
「心配したのよ。昨日は……あっ」
「わっ!? うっぷ……!」
 咄嗟に受け止めたが、顔面に直撃した花束に視界を塞がれる。
 青や赤に、ピンク、黄。目の前を鮮やかな影が次々と通り過ぎ、噎せ返る甘い匂いに頭の芯がくらくらとした。
「だ……大丈夫ですか? 怪我は……」
 そこまで言って、ロキは続く言葉を無くしてしまう。僅かばかりに視線を下げれば、そのすぐ間近にエレオナ存在があったのだ。
 六年前、出会った頃から何ひとつ輝きが色褪せない。
 長く濃い睫毛に縁取られた、深い蒼の瞳がこちらを緊張した面持ちで見上げている。きめ細やかな白い肌に、絡まった指からあっけなく逃げる星屑のような銀の髪。細く頼りない首筋や、支える為に掴んだ華奢な肩や。夢見心地になる程の玲瓏さは、幼い頃から何も変わっていないのに。
 何故か、何処が違って見えた。
 些細な表情も、微かな身じろぎも。今まで意識していなかった事にさえ、ロキの神経が引き寄せられる。
「あ、ありがとう。ごめんなさい」
「……いいえ……」
 はにかんだように、うっすらと頬を染めたエレオナの笑顔。それにロキは、言いようのない躊躇を覚えた。
 今まで、自分はこの微笑みを当たり前のように受けていたのかと。彼女に触れた腕が、熱を宿しているような気さえする。高鳴った鼓動に、胸の辺りがにわかに痛んだ。
「えっ? あ、あのっ」
「……ロキ?」
 薄茶の髪に触れてきた指に狼狽えて、ロキは思わず後ずさる。エレオナは問いかけるより他に無いだろう。彼女にすれば、ただそこに絡んでいた花びらを取ろうとしただけなのだ。
 困惑気味に小首を傾げた仕草は、酷く愛らしくて無防備で。他の誰にもこの姿を見せているのかと思うと、ふと不安になった。
 けれど何故、不安なのか。ロキにはその理由がわからない。様々に入り組んだ感情は全てが強い困惑と繋がっていて、上手く言葉が紡げなかった。
 お互いの間に、微妙な緊張感が横たわる。困り果てて視線を背後に回すと、一枚の花弁が現実感の無い頼りなさでひらひらとロキ目の前を落ちていった。
 そこへ、大きな花瓶を抱えたリシェーラが戻ってくる。
「お帰りエレオナ。……ロキ、あんたまたドジふんだわけ?」
 呆れたような言葉に返事が出来ない。
 後ろでは、潰れてしまった花束を申し訳なさそうに抱えてエレオナが唇を開いた。
「違うの。私が転んで……ロキが助けてくれたのよ。折角もらったのに、アレンに悪い事しちゃった……」
「そんなにあるんだから、無事な分だけで充分じゃない。何本あるの?」
「百三十本って言われたわ。私の、十三歳のお祝いにって」
「一ヶ月遅れで? ……狙ってたわね」

 そうだ。エレオナは、もう十三歳になったのだ。

 これから少しずつ子供から大人へと成長を始める。そんな当たり前の事実に、ロキは今更の様に瞳を開くしかなかった。
 彼女は、やがて成長していく。
 透き通るような美しさを増しながら、無垢で真っ白な心を少しも曇らせないままで。
 少女もやがて大人になって、誰かに肩を抱き寄せられて。それを深い蒼の瞳で見つめ返す日がくるのだと。

 何故、考えた事すら無かったのか。




 しかし、アレンとは一体誰の事であろう。
 この辺りの風土からすれば、確実に男の名前である。花束の中身は高級とされる種が多かったし、しかもそれを百三十本誕生日祝いにエレオナに送ったのだ。どう考えても、彼女に気があるとしか思えない。
 アレン。その理由もわからないのに、妙に気にかかって仕方がなかった。

「アレン? 少し離れた南の町の、商人の息子だ。アレン・キュスレンド・フェルディ。領主の血を汲んでいて、確か今年で十六になるはずだが……。それがどうかしたのか」
「え?」

 昼食を終えた満腹感からか、積もり積もった疲労からか。眠気にぼんやりとしていたロキに聴診器をあてていた青年の声に、彼は鈍い動きで顔を上げた。ロキは意識せずして、思考の一部を言葉にして呟いてしまっていたのである。
 極力感情を込めないはずなのに、微かな優しさが滲む通りの良い声。光さえ吸い込むような墨色の瞳と、正反対に光沢が強く癖のない漆黒の髪。
 ロキの目の前に座る端正な容貌の青年の名は、ルエルと言った。
「様子がおかしいかと思ったが……体は異常がないな。喉に疲労があるだけだ」
 形のいい眉の曲線、通った鼻筋、整いきった顎の輪郭。開かせたロキの口を覗き込み、そして離れて聴診器を机に置いた簡単な動作ですら絵になってしまう。ボタンを元通りにしめながら、越えようのない高みに思わずロキは苦笑してしまった。
 気を抜けば抱く微かな不安を、無意識の内に紛らわせようと。
 彼の外見は、あの選択の瞬間から時の流れを失ったかのように。何ひとつ変化していなかった。六年が過ぎ、四人の子の父となっても。彼の年齢は二十二、三歳程度にしか見えないのである。
 エレオナと言いルエルといい。
 神は何故、定めの子をこんなにも美しく創造したのであろうか。特別な愛故に、あんなにも重く、つらい宿命を背負わせたのか。
 神の子の証は、悪魔の印。ルエルがいつもバンダナで隠す額の片隅には、暗い過去の象徴である黒い片翼のあざがしっかりと刻まれている。ロキのあずかり知らぬ、今の彼を形成してきた過去を思うと。
 創造者の意思と、今を生きる地上の意思とが食い違っているような気さえした。
「お前の場合、今回は体よりも心の方かもしれないな」
「心? 近頃特に嫌な事もありませんが」
「……獅子の国の事だ。まだカードは送られてきているのだろう。本当にこのまま警団に知らせず、放置しておくつもりなのか?」
 ルエルが少し離れた椅子に腰掛け、長い足を組む。彼の言葉に、ロキは思い出したように持ってきていた鞄をとった。
 蓋を開けて逆さにすれば、同じ紋章が刻印されたカードがばらばらと机に散らばり落ちる。
「そういえばそうでした。僕は、デュロウの神官達に脅されているんですよね。いやあ、すっかり日常になりかけていました」
「……リシェーラ達に知られないようにとなると、俺が付くにも限度がある」
「そんなに心配しなくても大丈夫です。ルエルだって、暫くはこのまま抗議や中傷だけだろうって言っていたじゃありませんか」
「あの時からどのくらい経ったと思っているんだ。もう、その暫くは過ぎ去っている」
 ロキは呑気に笑っているが、笑っていられるような状況ではない。そんな彼に、ルエルは微かに眉根を寄せると散らばったカードの一枚に視線を落とした。
 刹那、瞳に過ぎった空気はこの村で暮らす医師としてのものではない。
 今ではもう捨て去っているはずの、戦を生業としていた頃の肌を刺す緊張感を宿した光。
「答えが否であり続けるなら、我等は神の御為、神の教えに背かねばならぬ……。これはそのまま、戒律を破ってでも研究の発表を妨げるという事だろう。……それでも、やめる気は無いんだな」
「勿論です」
 瞳を上げ、射抜いた灰色の双眸に込められた意志は強い。ある程度は悩んだ跡が見受けられるが、少なくとも今に関しては、ロキはそう言ったものにしっかりとけじめを付けてあるように見られた。
「知らぬままであるべき事も、中にはあるのだろうとは思います。でも……知らなければならない、知って乗り越えなければならない過去も必ずあります。歴史に埋もれさせたままでは、また僕等は繰り返すでしょう。過ちを知って、向き合って……それは凄く大切な事なんです」
「それなら尚更自分の身を守るべきだ。軍に連絡を取れば、すぐに精鋭が飛んでくるぞ」
「国の間に溝が出来てしまいます。ルエルの読みでは、中堅層の先走りなんでしょう? デュロウの公主も教皇も、この国との友好を望んでいるはずですよ。……すみません」
 自分の我が儘のせいで相手に心配をかけている。そういう自覚があるのか、ロキは言葉の最後に謝罪を付け足した。それにルエルは軽い溜息を吐き、明るい外の光景へと首を巡らせ懐から細い煙草を取り出した。
 暫し、その場には静寂がたゆたう。
 ロキも思わず言葉につまり、暗い影を落として伏せる、墨色の瞳を見つめているしか無かった。
 知らぬままであったなら、罪と知らずに苦しむ事もなかったのかもしれない。けれどルエルは全てを知って、その全てを抱え込んで今という時を重ねている。
 捨てもせず、肯定もせず。痛みと向き合い傷付いていく。
 ロキには、彼が癒される事すら望んでいないように思えてならなかった。

 それは何処か危うくて、それでも純粋な強さが傷を隠して。

「……エレオナには、俺によって封じられた過去がある」
 ロキは、ルエルとエレオナの出会いを知らない。だからこそ彼はこんな話をするのかもしれなかった。
「俺が封じて覆い隠した。……そうでなければ、心ごと壊れると思った……。だが、それでも傷は深いまま残って消えていない。エレオナは決して強くはなれない。脆いまま、過去や定めのしがらみに捉えられている」
「ルエル……?」
「俺自身がその一部である以上……解き放ってやる事すら、出来ない」
 普段、滅多な事では強い感情を表にあらわしたりはしないのに。いつもルエルは、エレオナに関してだけは僅かな表情の変化を見せていた。
 それが二人の繋がりの深さというものであるなら、残酷だと思う。
 こちらに向き直った墨色の双眸は酷く苦しげで。既に慣れきったはずの鈍い痛みに、心の何処かでは耐えかねているように見えた。

「ロキ。おまえには出来るのか……?」

 声には感情がこめらず、極静かで荒だちが無い。隠し通す事に慣れ過ぎて、彼は今も傷の全てをロキに曝してはいない。
「エレオナは、やがて俺の手から離れる。必ず……必ずだ。その時おまえは、傷付けずに守り通す事が出来るのか?」
「……何、を……? どういう意味ですか。勿論僕だって、ルエルに及ばないまでもみんなの事は考えています」
 ふと、ルエルが微かに瞳を開く。そして意外そうに煙草を銜えて、煙を緩やかに吐き出してからこちらを向いた。
「まだ自覚していなかったのか」
「自覚?」
「……今日、急に見る目が変わった」
 何の事を言っているのだろう。思い当たる節が無くて首を傾げたロキに、ルエルは溜息をまじえてゆっくりと頭を振った。黒髪に栄える光沢が流れて、そこに立ち上る煙が絡んでは離れる。
 エレオナは今まで彼の目に、彼の手に守られて育ってきた。彼女の全てはルエルにあって、ルエルの前でしか見せない表情も沢山ある。そう考えると急に胸の中で広がるこの違和感の正体が、彼にはわかっているのだろうか。
 ロキ自身、まだこうして感じたばかりの変化に戸惑っているのに。
「何でもない。……ただ、これだけは憶えておいてくれ」
 まっすぐにこちらを見据えた眼は、今までに受けたどれとも違う。
 寒気を感じそうになる程厳しく、それでいてここにいない者を想い、一抹の淋しさが滲んでいるような。
「おまえが求めるものは……傷付く為に生まれ、抗いにも入らない僅かな身じろぎすら禁じられた存在だ。救い出すには、過去へ導き鎖を断ち切れる先導者がいなければならない。それに……おまえはなれるのか……?」




「……誰もいねえのかよ。来て損した」

 クレオニードという名の小さな村の一角、【クレリック】と表札の下がった家屋の中でひとりの青年が呆れたように呟きをこぼしていた。
 オレンジの瞳にかかる程長い、柔らかな蜂蜜色の前髪。銜えた煙草を形の良い指で外したジオラは、幾ら呼びかけても反応の無い家の奥を見やって踵を返す。扉が開いていたから、聞こえないだけかと中に入ったというのに誰もいない。
 彼はここの家人、つまりロキを訪ねてきたのだが。生憎一家全員出払っているらしかった。
 おかげで無駄な労力を使ったと足を進めかけ、ふと傍のテーブルに置かれた書き置きに目がとまる。お手本のように形を崩さず、流暢な文字で書かれた文はロキの母親からの物であろう。

―――ロキへ。お母さんは被服のお仕事が立て込んできたので町へ行きます。明日にならないと帰らないので、御飯は自分で作ってください。前みたいにしょうゆとこしょうを間違えないでね―――

「……液体と粉だろ? どうやって間違えんだよ」
 思わず呟いてしまうが、ここにその答えを持つ者がいるわけでもない。やはり昨日の歴史学者は何から何まで変な奴らしい。
 少しどころか、かなり変わっていた方が学者というものは大物になれるのだろうか。昨晩、家に帰って開いた雑誌の特集にロキの考察文を発見した時は流石にジオラも驚いた。印象からして、まだほんの駆け出しかと思っていたのだ。
(同姓同名の別人……なわけでもなさそうだよな。こんなもんが俺の荷物に紛れ込むって事は)
 胸ポケットから取り出し、光に透かした封筒の中には一枚のカードが入っている。
 ジオラは昨夜、ロキの物と気付かずその内容を読んでしまったのだ。
 刻印された紋章は、海蛇の絡んだ双頭の獅子。書かれていた文面は、どう考えても彼の研究内容に関する脅迫である。返すついでにどういう事か聞いてみようと、好奇心も手伝いジオラはここへ足を運んだのだが。
 取り敢えず今日の所は出直そうと、廊下へ戻って玄関に向かう。どうせ同じ村の中に住んでいるのだ。ロキ自身は忙しくともその周辺から近付く手は幾らでもある。もっともそこまでする必要性は感じないが、ジオラは彼を面白い奴だとは思っていた。
 四年前。あの出来事があって以来かもしれない。
 自分からこういった形で他人に興味を抱くのは。
「おっと」
 扉を開き、ジオラは一瞬身を固くする。瞳に映るはずであった晴れ渡る屋外の光景が、屈強な体つきの男数名によって塞がれていたのだ。
 向こうも突然に扉が引かれて面食らった様な顔をしている。けれどすぐに視線を交わしあい、先頭のひとりが確かめるように口を開いた。

「……ロキ・クレリック?」

「はあ? ……あー、そうか。そりゃそう思うよな。残念だが……」
 人違い、と言い終わらぬ内にいきなり腕を掴まれ、手にしていた封筒を凝視される。
「ロキ・クレリックだな」
 周囲は心地よい風ばかりが吹いて、茂った草花を揺らしていく。咄嗟に周囲を見回し、彼等以外の人影が認められないとジオラが認識したその直後に。
 鈍い振動を後ろから感じ、目の前が突如として音の無い闇に変わった。




 やがて、それ程の時間をおかずして。
 村同士を行き来する馬車から降りたロキは、考え事をしながら自宅へと足を進め始めた。
 ルエルの言葉、取り戻せない過去。偽られて、止まったまま動く事の出来ない遠い真実の一欠片。
 ……囚われたまま動けないのは、そうあるように創られた為なのか。
 何だか様々な想いが思考に偏りを与えて、いつものように結論や予想を立てて納得する事が出来なかった。仕事と割り切ってしまえば、興味と探求だけに自分の精神を沈めてしまえるのに。けれど、この問題に関してだけは、そうしてしまうと全てが狂うような気がする。
 埋もれた過去を救い出し、ねじ曲げられた真実を陽のもとに曝して。そうする事が自分の存在意義だと思うのは変わっていない。けれど彼等の抱える問題は、それだけが必要なわけではないのだ。ルエルも、そしてエレオナも。
(……エレオナ)
 今日という日の光景が消えないのは、どうした事か。
 彼女は綺麗に微笑む。誰にでも警戒心が無く、無防備に相手を信頼してその頼りない手で触れてくる。しかしそれは、傷付いた事が無い故の純粋さではないように思えた。
 きっとエレオナは気付いていない。彼女は時折、ルエルがいないと取り残されたような不安気な瞳をする事があった。今の安堵に委ねたいと願うからこそ、より鮮明に甦る明かりの無い闇。
 脆いまま、過去や定めのしがらみに捉えられている。

 ならば支え手があれば、少しは揺らがずにいられるだろうか。

 そこまで考えが及ぶと、急にロキは玄関前で蹲った。
 そして両手で頭を抱えて、そのままぐしゃぐしゃと薄茶の髪を乱して唸る。
「……う〜……! どうしてこう、ルエルとエレオナの……エレオナの事ばかり! こんな調子で、次の締め切りどうするつもりなんですか僕は!!」
 そう。ロキは今日という休日を満喫し終えたらすぐ、一週間で論文の総仕上げをして発表会場へ出発しなければならないのだ。その学会への出席だけは、何が何でも逃すわけにはいかない。
 今回発表する研究内容こそ問題になっている、現在デュロウの神官から内々に抗議を受けている地方伝承なのである。発表してしまえば手だしが出来ないとわかってはいるが、日を延ばせば流石に身の危険が増す。
 それくらいは、いかに彼とて理解できていた。
 立ち上がり、扉を開いて家へと入る。しかしその途端、ロキは視線を足下に落として表情に僅かな躊躇いを浮かべた。
 床に、不自然な赤い染みのようなものが出来ていたのである。
「……血?」
 無意識に自分の体を確認するが、何処も負傷は見あたらない。その赤い染みは間隔をおいて居間の方へと続いて、何やら人の気配がするような気がする。
 不思議に思ってそこへ足を向け、中をのぞき見た途端。ロキは、思わず叫んでこの不可解な現象のもとになっていた者へと駆け寄った。

「ジオラ!?」

 赤い染みの正体は、確かに血である。うつぶせに倒れ、意識を失った青年はジオラに間違い無かった。
 蜂蜜色の髪の所々が彼の血を吸って黒くなり、含みきれなかった赤が床の上に毛先から落ちている。
「ジオラ。しっかりして下さい! 何がありました!? ジオラ!!」
「……う……」
 すぐさま脇に膝をついて呼びかけると、瞼が動いて煩わしげに眉根が寄せられる。自分へかけられた声に反応してか、ジオラは酷く気怠げに頭を上げるとすぐに片手で顔を覆った。
 重力の向きが変わり、大きく息をつくと同時に額やこめかみに鈍い赤が細く伝う。そこで初めて彼はロキの灰色の双眸を捉え、苦笑気味に呟きをもらした。
 自分の状態を理解した上で、相手に微かな同情を込めて。
「……ロキ、おまえ……どんな機密事項に首突っ込んだんだよ……。巻き込んだら殴り倒すって、言ったはずだってのに……ったく。いてぇな畜生ー」
「しっかりして下さい、一体誰に。何があったんですか」
「おまえの事なんだから、自分で……考えろよ。……取り敢えず、後ろ向いて……。現状を、理解しろ」
「後ろ?」

「動くな」

 振り返ろうとした瞬間、全く聞き覚えのない男の声が響き渡った。
 同時に小さな金属音と、数人分の靴音が床を震わせる。後頭部に押しあてられた固い物は明らかに銃口で、目の前に突きつけられた物は研ぎ澄まされた短剣だった。
「川辺の女神と太陽王。……その資料を何処に隠した」
 問いは強制を含んで、静かであるのに強引さが目立つ。ロキが黙って前にいる男を睨み付けると、相手は再び問いかけてきた。
 彼等は明らかに獅子の国の人間だろう。ただし、今口にした伝承を世に知られたくない神官自身ではない。おそらく神官に雇われた、こういった事を専門にしている人間。
 任務に何処までも忠実である。それを全身で表現するかのように、彼等の声は底冷えする冷たさで以て綴られていた。
「言いたくなければ、順序を選べ。家ごと燃やし、記憶ごとお前を殺し、お前の研究を知るあらゆる人間の息の根をとめる」
 短剣の切っ先が喉へと下がり、息も出来ぬような沈黙が横たわる。
 何に対してなのかはわからない。けれどロキは悔しそうに奥歯を噛み締め、無言のままに瞳を閉じた。

 救い出してやりたい。
 囚われた過去から。






 ―☆続く☆―





二話目です〜〜〜〜vv
ああもう、やまじんさんてば、ほんとに筆がお早くって★
素晴らしいったらないですよ、もう……(ため息)
本当にこれ、あと1話で終わるんですか?ってぐらいに盛りだくさんで、神崎目がぐるぐるしております。どうなるんだろ〜〜どうなるんだろ〜〜と、モニタの前でのたうちまわっていたり。
こんなにわくわくしてるのって、久しぶりな気がします。
ビバ★やまじんさん。


このお話の本編が発表されている、やまじんさんのサイトはこちら


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