焦がれし過去への先導者達よ(一)


 焦がれし過去が、望まぬ残酷さで人々を責めさいなんだ時。
 まっすぐな瞳を、澄んだ目を、汚してしまうと恐れた時に。

 全ては、覆い隠され没するのだろう。

 水に流され、砂に埋もれて、深い木々の中に全てが消えて。
 何もかもが忘却に委ねられて、人は今を選び続ける。

 そして、あらゆる罪を忘れるのだろう。
 遠い痛みも悔やまれる過ちも。自らが感じた事ではないからと語って、弱い足掻きをただ繰り返す。
 偽りの安堵や潔白がただ輪のように巡る幻の中で、彼等は朽ちて消えていくのだ。

 苦しみも過ちも、誤解や哀しみという感情ですら。
 輝かしい未来の道さえ閉ざして、暗黙の闇に溶かしてしまう。
 暗き昔を恐れる余り、穏やかな熱を宿した刹那さえ捨てて生きようと願う。

 閉ざされた闇へ注がれんとする光。
 導く者を、彼等は許しはしないだろう。

「過去への先導者。それは闇を光へと浄化する御使いであると同時に、混乱への煽動者である。……そうは思わぬか?」

 響いた音は声となり、言葉という意味を宿して相手に伝わる。
 老人は口元を引き締め、絨毯の敷き詰められた礼拝堂の中を緩やかに進んでいた。
 彼の後に続くのは、数名の若い修道者達。その中のひとりが、白磁の女神像の前に跪く老人の背中に問いを投げる。
 静寂に吸い込まれていくあらゆる音が、この空間に放たれ消えていた。
「歴史は、汚してはなりませんか」
「事実がどうであれ、それが真理に反してはならない。我等の全てが否定される」
 女神が差し出す右手の甲は、すべらかでいて常に清らかな、決して汚れぬ湧き水のように冷たい。
 老人はそこへ静かに口付けを落とすと、また立ち上がって足下まである漆黒のマントを風に委ねて翻す。純白の糸で織られた法服が、擦れる度に高く優美な衣擦れの音を伝えていた。

「真理を守る為に、戒律を犯す事になろうとはな。……神よ、これが我等に課せられた使命なのか……」

 彼等は知らない。この世界は、既に神に見捨てられた領域である事を。
 何も、知らない。人は産まれおちたその時より、神の意志に逆らい長らえるのだという事を。栄えも、進化も、今の全てが神から離れた結果なのだという事を。
 神と悪魔の争いも。その遺志を宿した、定めの御子の悲しい心も。
 それに触れる事の出来た、ほんの一握りの者達をのぞいて。

 人は、真実を知り得ない。

「……ロキ・クレリックか」
 誰も知らない。
 神に愛され悪魔に疎まれ、そして楽園の中で産声を上げたと。
 そう信じてこんなにも焦がれ、幼い憧憬を宿して追い求める過去の姿が。

 ただの、幻に過ぎないのだと。
 知らされないから人はまた繰り返す。





 緑に覆い尽くされようとしていたこの世界が変革を迎えて、もう五年が経とうとしていた。
 砂も、水も、木々も風も、何もかも全てが以前と違う姿で存在している。選択を迎える以前の、あるがままに立ち戻ろうと。
 人は全てを知らぬままである。
 ただ緑の勇者の物語だけを伝え、その裏に隠された真実を、ほんの一部の胸に刻み込んだままで。
 誰もがまだ、偽られた事実しか知らない。真実は覆い隠されているのだと、実感できている者はこの世界では少なかった。

 ここはイララザという町の、西の外れに位置する研究所。
 窓を隔て、外の世界が徐々に夕の赤に染まり始めた丁度その頃。建物の一室では、二十代も半ばという若い学者達がのんびりと日常会話に勤しんでいた。
 皆、日頃の激務にいい加減疲労が溜まっているらしい。それぞれの机に山積みの書類を放って、半ばぐったりと椅子の背もたれに寄りかかっている。
 たったひとり、端の机にはそれどころではない人物がいるのだが。
「全く、よくやりますよね」
「うん。僕もハルバランと同意見だな。背広くらい脱ぎなよー。……あー、このお茶美味しい〜」
「無理ですってヨルドさん。今のロキには何言ったって聞こえませんから」
 彼等は揃って隣町の学会に出かけ、そのままこの研究所に戻って来た為背広を着用しているのだが。
 唯一に白衣で、若草色の柔らかい髪に青味がかった銀の瞳を細めた、伊達男として通る地学者のハルバラン。並びに元々目が細く、お茶を飲んで和みきっている黄土色のくせっ毛を持つ数学者のヨルド。ただ今の会話はこの二人のものであるが、彼等が話題にした班内で最も若年の青年は無反応だった。
 二十三にしてはあまりに幼い眼鏡の奥の灰色の瞳と、そろそろ散髪も間近となった薄茶の髪。どんなに真剣な顔をしても平和そうで穏やかな空気は抜けず、輪郭も、女性のそれに近くほっそりとしている。
 ハルバラン達は彼の発表の補助に学会に出席したのだから、当然格好は同じように背広だが。彼の場合はどうも視覚的な違和感が拭えなかった。簡単に言うと、子供が面白半分に大人の服を着ているように見えるのである。
 名は、ロキ・クレリック。
 少々頼りない見かけに反し、たった三年で研究所内で最も高度な研究を担う一班に配属されてしまった強者である。
「君も一息いれたらどうだ」
 余程目を通している資料に集中しているのか、当のロキは話しかけられている事に気がついていない。
 無意識の内に青いネクタイを弛め、縁の太い伊達眼鏡を懐に押し込み。そのまま、理系二人組みにはわからない単語を呟き始めた。
「……もう少し……マシェフキャレィル後期に集中させた方がいいかもしれませんね。しかし、そうとなればランゼン、シラ、パルノティーに分ける必要が……うーん……」
 彼の専門は歴史学、それも特記すれば伝承史に分類される。こう見えて世間一般ではなかなかの逸材と称されいるロキは、つい先程の学会でもかなり重大な問題提起をやってのけてきたばかりだった。
 が、本人はそういう世間一般の評価と言うものに全く自覚が無い。その理由は興味が無いとかそんな高尚なものではなく、単に鈍すぎるだけなのであった。
「……何語?」
「さあ?」
「前霊朝初期から瑾香の争いが……ん? あああっ!!」
「うわっ! びっくり」
 ヨルドの問いにハルバランも首を傾げたのだが、直後にロキが大声を上げて座っていた椅子から立ち上がる。
 途端に、彼の机に積み上げられた書類がばらばらと床に散らばり落ちた。全てが貴重である為慌てて拾うが、そこがやはりロキと言うべきか。拾っている間に本棚にぶつかり、更に大量の資料をぶちまけてしまっている。
「あ、あわわ……ど、どうしましょう。全部順序立てて並べていたのに」
 取り敢えず、今日使った分だけ探り当てて拾い集める。しかし隙間から封筒が一枚こぼれて、右手を離したところでまた左手に抱えていた書類が散らばっていった。
「うっ……」
「あーあー。全く、後でエイトファレスさんを呼んでやるから」
 固まりかけたところで、上からの声に顔を上げる。ハルバランは笑いを噛み殺しているような表情のまま屈んで、足下まで滑ってきた手紙を拾い上げながら口を開いた。
 ほんの少し、同情も含めて。
「君もなかなか大変だな。幾ら言語学者の補助があるとはいえ、これだけのものを三、四人でまとめなければならないとは」
 散乱する書類に認められる筆跡は、全てロキのものである。走り書きであったり、びっちりと隙間無く考察が記されていたり種類は様々であるが。難しい事が書かれているのだ、という程度はハルバランにもわかる。
 やっと自分が話しかけられた事に気がついたロキは、同僚の言葉に曖昧な苦笑を返すより他に無かった。
 続いたものが、一応途中までは褒め言葉だったからである。
「でも、仕事は早いんだよな。いい文章書くし。だから依頼も増えるんだろうが」
「まあ……。しかし僕の場合は、本当に歴史の知識しか取り柄がありませんからね」
「確かに。君のドジは長所で補って有り余るからなあ。班長の機材にぶつかって壊すわ、私のコレクションケースをひっくり返すわ、ヨハルヴァが培養した微生物を間違って飲むわ……思い出しても数限りない」
「方向音痴だしねー。知らないで地図持たせたら、遭難しちゃって死ぬかと思ったしー」
「そ、それは……その、本当に反省しています。すみませんでしたってば」
 お互いにしみじみと頷き合うハルバランとヨルドから察するに、彼等も他の研究員同様色々なとばっちりを受けてきたのであろう。ロキとてそれくらいは自覚しているので、この場合は弁解のしようが無い。
 本当に、自分でも大分まいっているのだ。その内直るだろうと楽観的に構えているものの、一生付き合っていく可能性も拭えない為つい溜息も出てしまう。

 その場はひとまず、三人分の溜息が揃って吐き出されて沈黙が続いた。

「はあ〜……あ。ああっ!? そうでした! 思い出したのに忘れていました」
 再び、ロキが酷く焦燥感を背負った目をして立ち上がる。それによってまた辺りの資料が散らばったのだが、もう彼はそれを視界に入れられる状況ではなかった。
 狼狽えながら鞄を掴み、華奢な鎖の通された時計を引っ張り出して青い顔になっている。
「ハルバラン! 今日の日付は!」
「今日? ……六月十九日だな。何かあったのか?」
「母の誕生日なんです!! 遅れたらリシェーラに……まだ死にたくありません! 今日は残業をしないと班長に伝えておいて下さい」
 そしてそのまま、ロキの姿は激しい扉の開閉音と共に消し去られる。残った二人はあまりにも物が散乱した室内を見渡し、途方に暮れた視線を交わし合った。
 上司にひとり、真面目で几帳面で礼儀と整理整頓にうるさい人間がいるのだ。
 とにかく、ここにいてはいずれ見つかって有り難い説教を二時間は受ける羽目になる。彼等は暫しの沈黙の後、白を切って逃げる選択をしたらしい。それぞれのお茶を一気に飲み切り、薄情にも急いでその場を後にしてしまった。
 基本的に元気でちゃっかりしている彼等であるが、それでも抜けない疲れに無理矢理あくびや伸びをしながら。
 まったく。この職場で最も忙しく、最も要領の悪い学者はロキであるというのに。ああまで体力が持続するとは一体何で出来ているのだろう。幾ら好きだからと言っても、限度を超えているのではなかろうか。
 言葉にしないまでも、二人の思考にはそんな疑問符が充満していた。
 と、ハルバランの白衣から一通の封筒がこぼれる。空中で受け止めようと咄嗟に手を伸ばすと、それは指先に弾かれ却って遠くへと滑り落ちた。
「……っと、さっき拾ったやつだな。ロキに返し忘れてた」
 小走りで追いかけ、拾い上げた封筒は既に封が切られている状態にあった。こういった単純な作業でさえあの青年の不器用さは発揮されているらしく、裂け方が悲惨である。
 こんな封切りの仕方では当然中身は微かな衝撃にこぼれて、カードに書かれた黒い文字がハルバランの目にとまる。

「……なっ……!?」

「ハルバラン? どうかしたの」
 不意に、先を行っていたヨルドが振り返ってかがみ込んだ彼に声をかけた。
 カードを拾い上げると同時に、ハルバランの表情が固く強張ったのである。
「海蛇の絡んだ双頭の獅子。この紋章……確かデュロウ公国の」
「……えーっ!? ちょっと貸して!」
 途端にヨルドも驚いた様子で駆け寄って、半ば奪い取るようにそのカードの文面を確認する。
 二、三度。緊張した面持ちで読み返すと、ヨルドは上等な背広にしわが寄るのにも構わず胸元を握り締めた。内容の理解は、そのまま胸騒ぎとなり不安に駆られる。内容から察するに、差し出した方も受けた方も、これが初めてでない事は明らかであった。
「どうですか? ヨルドさん」
「……うん。間違いないよ。獅子の尾が左を向いているって事は、領主寄りというよりは教皇寄りかな。あの国は神官が政治に口を出すからね」
「はっきり言って危ないですね。班長に連絡どころか、警団が必要になるかもしれない。全く! 何で黙ってたんだあの脳天気は……!」
 短い文面、節々に見られる苛立った言葉。その理由を知る二人は互いの役割を確認すると、いつになく速い歩調で薄暗くなった廊下を別れていった。
 ロキが現在、緑の勇者の伝説と平行して進めている地方伝承の研究。
 その中にひとつ、獅子の国にとって触れられたくない、暗い影が見え隠れする物がある。





 ……が、その頃。同僚に衝撃を与えた当のロキはと言うと。
「あっ! ……持ち帰りの資料を忘れましたね。ひとつ残らず」
 定期馬車が出ている大通りへの道を急ぐ途中、思い出した失敗に無意識の呟きを漏らしていた。
 何かを忘れる、というのはいつもの事と言えばそうなのだが。その対象が仕事の物というのは久々であった。どうやら、自覚できている以上に自分は焦っているらしい。
「い、今から取りに……無理ですか。ここは腹をくくって、自宅資料でなんとかしなければなりませんね。……この忙しい時に」
 なんにせよ時間が無いし、忘れた物はどうしようもない。自宅にある分でこの二日は我慢しようと、再び止まっていた足を動かし夕焼けに染まりきった道を行く。
 間違えていないか確認に辺りを見回してみると、学生、職人、子供達など、帰路に付く様々な人が同じように足を速めているのが目に付いた。
 この風景は昔から何も変わらない。けれど確かに、変化したのだ。同じ風景を同じように形作る、時を動かす風の行方が。
 現実の中でも埃っぽい風が吹き、思わずロキは目を瞑ってぐっと息を止める。そしてすぐにその先を追おうと、焦点を少し遠くに合わせた。
 風は巻き上がって空気を乱し、空に散っては消え失せる。
 今日はロキの母親である、マーヴェラの誕生日だった。彼が家路を急ぐのはそれを祝う為でもあるのだが、理由は他にもうひとつある。家には今頃、同じように母を祝う為に訪れた、姉夫婦とその子供達が来ているはずなのだ。近頃、複数の学会や研究の消化日程が立て込んでいたせいで、ロキは長らく彼等に会っていない。
 皆、変わりなく過ごしていたのだろうか。特に二歳になる末のラフィッシェルなどは、そろそろ言葉も増えてくる頃だ。甥達もやんちゃな盛りであるし、それくらいの年頃の遊びと言うのも懐かしくて好きである。

(……ルエルの事も、気になりますしね)

 そこまで考えが達すると、思わずロキは瞳から光を消してうつむいた。
 時と共に、証である片翼のあざが薄くなってきたのだと。言葉の拍子に垣間見た、困惑の滲んだ微かな微笑みが思い出される。
 光沢の強い漆黒の瞳、光さえ溶け込むような墨色の双眸。まるで始めから知っていたかのように、彼の口調はいつもと同じく感情を込めないものだった。
 それがやがて、どんな意味を持っていくのか。
 選択者の末期は、知らされた過去と同じ道を辿るのだろうか。
 あの哀しげに澄んだ、けれど隠し切れぬ優しさが滲む瞳は真実を隠す。ロキなどでは推し量れない過去がルエルにはあるから、誰にも話さずただ強さばかりが前に出て。
 溢れた閃光、揺らいだ大気。漆黒の髪から滴り落ちる血の先に横たわる、赤い髪の緑の勇者。ほんの刹那で砂に還って、跡形もなく掻き消えてしまったあの一瞬が。
 記憶に鮮明に残ったままで、離れない。
 あの時の言いようの無い胸の震えと、鈍く刺さった痛みが強くてまだ消えない。その時の誓いが、今も尚続くロキの信念であり続けるように。
 ……これ以上考えるのはよそう。
 そう、揺らぎを振り払うように頭を振って顔を上げると。丁度通りの向こうでは、彼の乗るべき馬車が御者の手により動き出す寸前の所であった。
「あっ! 待って下さい、乗ります!!」
 慌てて駆け出し声を上げると、咄嗟に引き綱が絞られ馬が踏み出しかけた足を戻した。良い具合に、中肉中背の御者は彼の顔馴染みである。
「ロキ? 珍しいな、こんな時間に帰るなんざ。ほら、おまえで最後だぞ」
「助かります!」
 馬が低いいななきを見せ、殺された勢いに不機嫌そうに首を振る。それにロキは助かったとばかりに馬車へ手を伸ばし、踏み台へ足をかけようとした。
 が。

「ちょっと待った。その権利譲れ」

 いきなり、聞き覚えのない声が響くと同時に腕を掴まれ、ロキの動きが封じ込まれる。
 驚きと焦りに勢いを付けて顔を上げると、そこに立っていたのは旅装束を纏った青年だった。瞳にかかりそうな長い蜂蜜色の前髪に、オレンジの双眸。年齢は、見かけ通りであるなら大体二十歳前後かと思われる。
 何よりも目立つのは、左耳だけでも四つはある粒や輪のピアス。この分だと髪に隠れて見えない右側にも、かなりの穴があけられていると思われた。濃い色のシャツを肩までまくり、それによって視界に映るのは両二の腕に黒一色で刻まれているのは翼を持った動物の入れ墨。ロキの知識に間違いがなければ、確かこれは北の神話に登場するグリフォンである。
「この馬車、クレオニード行きだよな」
 飄々、と表現するのが正しいだろうか。取り敢えずロキが思いつく中ではそれが最も近い口調で、青年はこちらに問いかけてきた。
「俺、まだこの辺りは慣れてねえんだよ。その点おまえは……見た所、この辺に住んでるんだろ?」
「……は、はあ。クレオニードに自宅がありますが」
 困惑をありありと浮かべたまま答えると、何かを企んだような一癖のある笑顔が返る。悪戯っぽい笑みがよく似合うと、ロキは嫌な予感と共にそんな感想を抱いた。
「クレオニードか。俺もそこに用がある」
「そうなんですか? 奇遇ですね」
「だから、この場は大人しく俺に譲っておまえは歩け」
「だから歩……って、なんでですか! 今日は駄目です、無理です」
 あまりにさらりと言われたものだから、思わず調子を合わせそうになってしまった。
 慌てて断りを入れようとすると、青年は少し不機嫌そうに眉根を寄せる。
「ケチるなよ。おまえがどんな用事で急いでるかなんて知らねえが、多分俺の用事の方が重大だぜ。何せ一刻一秒を争うんだ」
「え。そんなに大事なんですか? だったら引かないでもありませんが。一体どんな」
「眠いんだよ」
「……それ。用事どころか、理由にもなっていないじゃありませんか」
「つべこべ言うな、年功序列だ。ガキは健康と成長に配慮して運動しとけ」
「が、ガキって。僕は……」
 どうやらいつも通り、完全に年下として見られているらしい。どう言おうか迷っている内に、青年はさっさと乗り込もうとロキを押しのけにかかる。しかしここは譲るわけにはいかなかった。眠いからという、ただそれだけの理由の為に死にたくはない。
 そんなある意味不毛な駆け引きを繰り広げている二人を待って、御者は暇そうにあくびをしていた。そしてはっと遠くを見やり、またこちらに向かってくる人影にやれやれと声をあげる。
「メグ! 面倒だからおまえが乗っちまえ。にいちゃん達、悪いが女の子がひとりで林道を歩くのは危険なんでな」
 息を切らせ、駆け寄ってきたのは十二、三歳かという三つ編みの少女である。
 確かにこの辺りは比較的犯罪発生率も低く、近隣諸国に比べればずっと治安も安定している平和な場所であるが。完全に安全かと言えば、そうでもない。人気の無い森の中をこんな少女独りで歩かせるのは、いつの時代も極力避けるべき事柄である。
 が。そういう常識の理解は出来ているのだが。
 あまりに唐突で、ロキは勿論横の青年さえもが少々狼狽え固まりかけた。

「えっ? そんな、待って下さ……」
「良かった間に合って! あらこんにちはロキ、久しぶりだけどゆっくりしてる時間が無いの。おじさん、出来るだけ急いでね!」
「あいよっ。それ!」
「お、おい」

 青年有利かと思われていた形勢は、一気にどちら共を劣勢へ追い込む。
 三つ編みの少女が二人を押しのけさっさと馬車へ乗り込み、馬車は有無を言わさぬ馬のいななきの後、綺麗さっぱり消え去ってしまった。
 その場に虚しく残されたものは、溜息混じりに長い前髪をかきあげた青年と、がっくりと絶望に沈むロキの哀愁が漂う長い影。空はますます茜色を深くして、時の経過を無情に彼等へ強調している。
「……ちくしょう、眠気も覚めちまったぜ」
「次の馬車は二時間後……。もう駄目です。リシェーラに殺される」
「おっかねえなあ。……ま、しょうがねえだろ。子供でもばあさんでも妖怪でも、女だったらそっちが優先。鉄則だよな。そう落ち込むなって」
「薄情と思われたくないんです。折角残業も断ってきたのに……はぁ〜……」
 一気に表情を暗くし、地面に膝をついて項垂れるロキに青年は面白そうに笑って話しかけてくる。
 懐から一本の煙草を取り出し、火を付けながら目の前にしゃがみ。
「なんだよ。おまえデートの予定でもあったのか? その、リシェーラって娘と」
「いえ、リシェーラは僕の双子の姉です」
「ふーん……おまえの姉ちゃんなら美人かもな。あ、でも双子って事は同じ顔か?」
「……二卵性なので、美人です」
「そうか。ものは試しだ、紹介しろよ」
 今日、初めてあったばかりだというのに。この馴れ馴れしいまでの人懐っこさと、人を食った笑顔は何なのであろう。ロキも人の事は言えない性格である為、何の疑問も感じず平和そうに笑っているが。
 お互いに、まだ相手の名前も知らないという事実を忘れているらしかった。
「無理ですよ。姉は結婚していますし」
「へー。……ん? なんで嫁に行った姉ちゃんに殺されるんだよ」
「今日は姉夫婦とその子供達が家に来る事になっていたんです。もともと近い村ですし、母の誕生……あれ? どうしました?」
 言葉の途中で、ロキは困惑気味に青年の顔を覗き込んだ。青年は突然、目を見開いたかと思うとそのまま銜えていた煙草を地面に落としてしまったのである。
 そのままでは危ないので、取り敢えず地面に近い自分が拾ってもみ消してやったが。それでも相手は与えられた難問を解く事が出来ないらしく、難しい顔でくしゃりと自分の髪を乱した。
「夫婦と……子供、達? って事は姉ちゃんの年は……でも、双子なんだよな」
 呟きに、やっと何に悩んでいたのか理解する。
 そしてロキは、青年へ少々不機嫌気味に解答を与えてやった。
「誤解があるようなので言っておきますが、僕の歳は二十三ですよ」
「……はぁ?」
 ますます青年の眉根が寄る。まず、完璧に理解できていないと言っても過言ではなかった。そこでもう一度同じ言葉を正確に繰り返すと、彼はやっと脳内の思考回路が動き出したらしく声を上げる。
 かなり切羽詰まった、まるで異生物を見たかような視線と共に。
「二十三!? おまえどう見たって十四か五だぞ! やめろよそういう紛らわしい顔は!!」
「すみませんね! 僕も好きでこんなに酷い童顔に産まれたわけじゃありませんよ! 文句なら遺伝子に言って下さい」
「……嘘だろ……。三つ上かよ」
「人を騙すのは好きじゃありません。お願いですから、信じてください」
「……ついでに言っとくが、遺伝子だっておまえの一部なんだから、おまえに言うのと遺伝子に言うのは同じ事じゃねえのか?」
「えっ? ……あ、そうですね。反論の仕方を間違えました。この場合、最も有効な反論は……えーと……」
 ここは不快を示すのが妥当であると思われるのだが、何故かロキは深慮を始めてしまった。それに青年はまた意外そうな顔をして、この眼鏡をかけた少年風の青年をまじまじと見据える。
 そして、また急に笑って煙草を取り出し唇に挟んだ。
「……面白い奴だな。ほれ、名前は?」
 どうやら、ロキは気に入られたらしかった。
 立ち上がると同時に青年から手を差し出されて、ロキは思わず掴まってしまう。勢いを付けて引っ張ってくる彼の手や指は、ロキに同じく力仕事を職としない人間のものであると察しが付いた。荒れてもいないし皮が厚いわけでもない、ペンを持つ指だけが少々硬めに感じる程度の、綺麗なものである。
 背負われた荷物の様子や、席を争った時の口振りから言ってこの辺りに越してきたと考えるのが自然だろう。しかしそれは一体、どんな目的があってか。
 今まで単に成り行きのまま会話を続けていた二人であったが、ここでやっとお互いについて共通の興味を抱いた様だった。
「名前は、ロキ・クレリックです。一応史分野の研究を生業にしていますが。貴方は?」
「学者かよ。ますます合わねえな。……俺は建築設計士のジオラ・ハーン。仕事場をこっちに移そうと思って引っ越してきたんだ。ほら行くぞ」
 手を離したかと思うと、ジオラはいきなりロキに荷物の半分を渡して歩き始めた。
 どういうつもりかと慌ててその後を追うと、今度は丁寧に四つ折りされた紙を渡される。疑問のままにそれを開いたロキの目に映ったものは、この辺り一帯を描いた最新の地図であった。わかり易く、読み易く、余程の事がなければ迷いようが無いと思われる完璧な出来。
 ロキはなんだか、自分が酷く嫌な予感を抱えている事に気が付いていた。
「こ、これは……もしや……」
 恐る恐る問いかけてみると、振り返ったジオラは煙を静かに吐き出してから予想通りの答えを語る。
「決まってんだろ、クレオニードまで案内頼むわ。馬車二時間なんて待ってられねえし、歩いたってせいぜい一時間もしないだろ」
「……無理です」
「無理?」
「僕は……地図にはとことん好かれない人間なんです。方向音痴が酷くて、自力で目的地に辿り着けた試しがないんです」
 夕焼けの赤に、ロキの薄茶の髪は完全に染め上げられてオレンジ見える。それが彼の姉であるリシェーラの髪と全く同じ色だとは、今のジオラには知りようのない事だった。
 取り敢えず彼は、暗い空気を背負って首を振るロキに呆れたような顔をする。
「なんだよそれ。いつも通ってる職場から、いつも帰ってる家に戻るだけだぜ? しかも地図まである」
「だっ……駄目です。自信がありません」
「いいから案内しろよ。文句言わねえから」
 渋るロキを結局はジオラが言い負かし、二人はまた夕闇に染まる空気を切って歩き出した。空気は徐々に冷えてきている。流石にひとりでは心許なかったのだが、こうして人の良さそうな地元の人間の案内も得られたと。そう、ジオラは安堵にも似た感情でまた煙草の煙を吸い込んだのだが。

 数十分後、その全てを後悔する事になる。
 案内人がロキである以上、無事に目的地に辿り着けるなどあるはずがなかったのだ。

 彼は南と東を間違えても、三日間は気が付かない男である。





 そしてやはり、ロキ達は道に迷った。
 彼等が無事自宅であるクレオニードに辿り着いたのは、夜もとっぷりと暮れた四時間後の事である。
「いやあ、やっと着きましたね。時間はかかりましたが辿り着けましたよ」
「……かかり過ぎだろ……ったく、てめえはぁ!! 結局俺が地図持ってやっと帰れたんじゃねえかよ! 馬鹿かおまえは!」
「うわわっ! お、怒らないって言ったじゃありませんかぁ〜」
「限度があるだろ!! 明らかに超えてるじゃねえか!」
 極度の精神的疲労か、それとも実際の肉体的疲労か。ジオラが寝静まったであろう近所への迷惑も顧みず、声を荒げてロキの胸ぐらを掴み上げる。本当に人選を誤った。確かに道中の会話は面白かったし、退屈はしなかったが。ここまで酷いとは普通思わないであろう。
 なんだかいわれのない災難に酷い脱力感が襲ってきて、必死に謝罪してくるロキをジオラは溜息混じりに解放した。
「すみませんでした。慣れた地図ではなかったものですから。本っ当にすみません!」
「……あー、もういい。おまえはさっさと家帰って寝ろ。俺は疲れた……」
「うっ……すみません」
 海よりも深く反省するロキに背を向け、ジオラが手をひらひらと振って答える。どうやら彼は、心の底から気分を害したというわけでは無さそうだった。こうまで災難に遭っていながら珍しい人種である。
 今夜は満月に近いせいか、その遠ざかる後ろ姿がロキの目にもくっきりと映った。
 途中で歩みが止まり、振り返っていきなりこちらをさした指の動きも。
「言い忘れるとこだったぜ。いいかロキ、おまえの言動はかなり面白い。はっきりいって俺は気に入った。……が、これ以上そのドジに巻き込んだら殴り倒すからな」
 表情までは見えないが、口調から察するに本気かもしれない。確約できずにロキが困ったように笑うと、彼はそれで満足なのかさっさとこの場を立ち去ってしまった。
 そう言うジオラも、なかなか面白い方に入るのではなかろうか。自分に関する事案以外はある程度常識を持っているロキは、そんな感想を抱きつつ疲れた体で自宅の扉を引き開ける。
 彼の家は村の入り口にある為、二人が別れたのは玄関先であったのだ。
 案の定、屋内は真っ暗で誰も起きている気配が無い。
「ただいま帰りましたよ」
 取り敢えずそれだけは呟いて、居間の明かりを付けてみる。テーブルの上にはこうなる事を正確に予想していたであろう夜食と、母からの丁寧な書き置きが残されていた。
 書き置きの内容からして、姉夫婦達は二時間程前に自分達の村へ帰ったらしい。三男のディーノスなどは随分待っていてくれたとの文に、にわかな罪悪感が込み上げる。

―――明日はお休みなんだから、お詫びにセイルティアに遊びに行きなさい。もう半年はみんなに会っていないでしょう? ちなみに今日のの御飯は、エレオナちゃんが作ってくれました。とても美味しかったのでロキも感謝して食べなさい―――

 そういえば、置かれた料理はマーヴェラがつくる類の物とは違う。

―――それから、貴方宛に手紙が来ていました。恋文ではなさそうなのが残念です。どうしてこう、もてないのかしらねえ……―――

「……余計なお世話です」
 文字から溜息が聞こえてきそうで、書き置きを手放し隣に置かれた手紙の封を切る。

 そして、空気が張りつめられた。

 入っていたカードの短い文面、隅に記された紋章は海蛇の絡んだ双頭の獅子。
 幾度と無く繰り返され、もう何が書かれているか分かり切っているのに。それでもロキは、灰色の双眸を真剣なものに変えてうつむくしかなかった。

「……ゆずれません……」

 誰も聞いていないとわかっていても、そう言って目を閉じ思いを馳せる。これに頷いてしまえば今までの自分が、これからの自分の信念が、全て否定されてしまうから。
 消し去られた真実が、再び形を取ろうとしている。それをまた歪めて葬り去るなど、ロキに出来るはずがなかった。

―――答えが否であり続けるなら、我等は神の御為、神の教えに背かねばならぬ―――






 ―☆続く☆―





『やまじん博士の文字文字研究所』のたけ☆やまじんさんより、サイトで1501番を踏んだ記念に戴きました。やまじんさんのオリジナルシリーズの番外編です!
しかもこの話、前中後編で、まだあと二本いただけることが確定済みで。もう、こんなに幸せでいいのか私ッ。
このシリーズ、すごい格好いいんですよ!!長編で、もう完結していることもお勧めのひとつです。是非是非見に行ってみて下さい。
神崎のお薦めはこのお話に登場しているロキ君と、そしてもうお一方、実にうるわしく最強な某領主様です。ちなみに今回のリクエストはロキ君の日常&親友(ジオラ)との出会い、だったのですが、よもやここまでしっかりとしたお話を書いていただけるとは……(感動)
ありがとうございました、やまじん様!そして続き、楽しみにしておりますね♪


このお話の本編が発表されている、やまじんさんのサイトはこちら


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