橙色の祈り
 
 
 

凛、と張り詰めた黒い空に、ぽかりと空いた穴のような、白い月。その淡い光に晒されて、彼女は静かに立っていた。闇に溶けるような黒髪は長く、透けるような肌は月と同じく白い。薄い橙色のワンピースに、裸足。彼女は聖母のような微笑みを浮かべ、ゆっくりと右手を振りかざした。
 さく、とまるで林檎でも切るような軽い音と共に、私の胸に銀色のナイフが突き立てられていた。ぽたり、と紅い雫が私の身体から落ち、土草を染めた。痛みを感じない私は、両の手を血に染めながら、そのナイフを静かに引き抜いた。途端、鮮血が溢れ出し、私は思わず笑い出した。可笑しい訳ではなかった。只、哀しかった。目の前の彼女は、小さく首を傾げ、同じように哀しそうに微笑み、漸く口を開いた。
「怖くないの?」
 鈴の音のような声は、ころころと転がりながら、私の耳に心地よく響いた。
「何が、怖いと云うの?」
 私は聞く。
 彼女はゆるゆると首を振り、再び首を傾げながら、云った。
「あなた、死ぬのよ」
 そうなのだろうか。全く痛みを感じないのに?
 不意に強い風が吹いた。彼女の黒髪が、さらさらと闇に靡く。私は両の足に力を入れた。吹き飛ばされるのなんかごめんだ、倒れるものか、そう思った。
「もう残り少ない命だというのに、それでもあなたは倒れたくないの?」
 風の中で彼女は云う。
「わたしは」
 漸く恐怖に震えた。
「最後までわたしでいたいの」
 風の向こうの、彼女の表情が、見えない。霞む世界、揺らぐ私。
「最後まで、”生きたい”の……」
 声も、出ているか判らない。耳鳴りでもう何も聞こえない。
 それでも私は、立っていた。たとえこれでもう、終わりであろうと、私は私らしく、最後の瞬間まで生き抜いてやる。

 金木犀の香りがした。

 私は立っていた。
 夜空には、白い月が浮かんでいる。もう風は吹いていない。
 ゆっくり、胸に手を当てた。もう鮮血は溢れていなかった。もう彼女もいなかった。
 私はその場に座り込んだ。今のは何だったのだろう。夢?  それとも幻?
「金木犀……」
 月の光に照らされた金木犀は、橙色の花を微かに震わせた。
 私はずっと右手に握り締めていた、銀色のナイフを、土の上に置いた。左手の手首を切る為に持っていた、銀色のナイフ。でももう要らない。私は、まだ死ねない。
「ありがとう、金木犀……」
 あれは、あなたが見せてくれたの?  私はその橙色の花に、そっと口付けた。

 ちょっと、荒療治だったけど、結構効いたでしょう?

 あの、鈴の音のような声が、聞こえた気がした。


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