魔術師と強制力 ── one chance trigger 2  



 何て、不甲斐ない。
 何が天才だ。確かに、魔術に関しては比類なき才を持っている。客観的事実として。だが、どうだ。蟲如きに後れをとり、あまつさえ、素人に、囮になると言わせて。
 素人。そして、ロウウェンにとっては掛け替えのない相手だ。秤にかけるものすらないほどに、ただ、唯一の。
「…………だめだ」
 恐ろしく、昏い声。アレクシアが、初めて垣間見る、ロウウェンの暗部。
「ロウウェン!」
「だめだ……だめだだめだ、絶対に、そんなこと!」
 激しく頭を振るロウウェンに、苦悩の色が浮かんでいる。
「……頼むから……!」
 懇願。
「そんなこと、言わないでくれ……!」
「……どうして?」
 対照的に、アレクシアは静かに訊く。
「ボクの言うこと、間違ってなかったでしょう? これなら、上手く戦えると思うんだ。違う? 何でそこまでいやがるの?」
 はぁ、とため息。
「……言葉にしないと分からない?」
「分からないね」
「そこは、推し量って欲しいな」
「う〜ん……素人に首を突っ込んで欲しくない、とか。でも、それだと、ロウウェンの態度の説明としては弱いから」
 もう一度、ため息。あきらめに似た。
「……君が好きだから」
 止まる。時も、止まる。
 ぽかんと口を開けたままのアレクシアが、かくりと首を傾げる。
「…………え?」
「え、じゃなくて。っていうか、いつも言ってるだろう? 常にいつでも押し倒したいほどに大好きだって」
「……えぇぇ〜〜」
 言葉と共に、大きくのけぞるように身を引いて。
「……それって単なるセクハラじゃ……」
「違うって。本気だって。本気で押し倒してあんなことやこんなことや、悪戯しまくってすすり泣く声を聞きたいと思ってるんだよ」
「セクハラの域越えちゃってるし。ほとんど犯罪じゃん」
「まぁ、犯罪者かどうかはともかく。……僕が動くのは、君に泣いて欲しくないからだよ」
「ボク、が?」
「僕は、君がここを気に入っていることを知ってる。君が厨房の仕事に誇りを持っていることを知ってる。魔獣に蹂躙されて、君が悲しむだろうことは、容易に想像できる。あんな、蟲如きに……許せるわけがない」
「それって、ボクの……」
 アレクシアの言葉を、きっぱりと遮る。
「君の為じゃないし、君の所為でもない。これは、僕の為だ。僕が嫌だと思うから、僕が許せないと思うから、だから動く。だから、……そんな顔しないでよ」
 そんな顔と言われても、アレクシア自身は困惑してどんな表情をしていいか分からない状態だった。
「だから、本末転倒。君を悲しませない、危険な目に遭わせない、その為に動いたのに、君が囮になったら、僕がしてきたことの意味がない。そういうこと」
 分かった? とばかりに首を傾げる。
「えっと……あ、ありがとう……」
 アレクシアの顔は何となく朱い。
「うん、ありがとう。でも、……ごめん、余計に、引けないよ」
 真っ直ぐきっぱり言われた言葉に、今度はロウウェンがのけぞる。
「何で!? ここまで言わせといて!? 言っとくけど、メチャメチャ恥ずかしかったんだよ!? 普通言わないような行動理由事細かに明かして! いやいやいやいや……僕の告白、返して?」
「いや、ムリだから。」
 いつもの通りに突っ込んでから、ふっと、真剣な表情を覗かせる。
「君が君のために動くというなら、ボクはボクのために動く。ボクは、……ボクだって、
だってそうじゃなきゃ、ここまで来ないよ」
 アレクシアの瞳に、迷いはない。
「あのさ、知ってた?」
「……何を?」
「ボクにとって、君は、この国で最初の、唯一の、友人なんだよ」
「え……?」
 ロウウェンは目をしばたたかせた。
「いや、普通に、めがねメイドとか、仲いいじゃないか」
「……仲がいいのと、友人って、違うと思うんだけど。仲間はいる。仲のいい人たちもいる。でも、友人といえるのは、君しかない」
「ほ、……本当に? え、その割には、冷たくない?」
 ロウウェンの言葉に、アレクシアは深い深いため息を吐く。
「セクハラ警戒してたら、ああなるって」
「自業自得……?」
「……とにかく、ね。ボクは、友人を失いたくないんだ。君が強いのは、一応、分かってるつもりだよ。同時に、状況が厳しいことも、分かってるつもり。ボクに何かできることがあるなら、……何か、したいよ。君の弱い部分を知っていて何もしないで、もし君を失うようなことになったら、ボクは、きっと自分を許せない。だから、手伝わせて。できないことじゃなくて、できることを。君の友人として、後で隣にたてないような思いをするのは、いやだ。……自分の、ために」
 自分の為だと言われてしまっては、自分自身がそれを言った手前、何も言い返せない。発想の転換が必要だ。
 ロウウェンは素早く状況を計算する。
 魔獣の特性。
 制限時間。
 魔法薬。
 ……アレクシア。
「……分かった」
 計算を、終えた。
「これ以上言い争う時間もない。協力の申出、ありがたく受けるよ。僕は大規模な魔方陣をアレの周囲に展開する。今までで一番でかい規模になりそうだから、注意を引きつけておいてくれ」
「うん、分かった」
「君には、多分、君が思っている以上に危険が及ぶことになる。使えそうな魔法薬は全て持って行ってくれ」
「え、でも……ボクは使えないんじゃ……」
「大丈夫。トリガーとなる言葉だけで発動するよう調整しているものもあるから。あと、その……」
 ロウウェンは一瞬、苦笑いをする。
「その、フライパンに」
「……これに?」
「付加魔法をかける」
「ふかまほう?」
「おとぎ話に出てくるような魔法剣にするってこと。……剣じゃないけど」
 ロウウェンは上着を開き、苦々しげにつぶやく。
「……相当壊れたな。あの蟲め、やってくれる……」
 割れ残った瓶の中で、金色の粉の入ったものを取り出す。大きくヒビが入り、手にした途端、欠片がぽろりと剥がれ、中身が少しこぼれ出す。
「とと……これくらいの被害でよかった。さて、それ出して」
 差し出されたフライパンに、やはり苦笑いしながらその金色の粉を振りかける。タクトを手に取り、トリガーを引けば、粉はするすると複雑な紋様を描き出す。
「……きれいな模様だね」
「そう? とりあえず、その紋様が残っている間は、触手を弾くこともできるし、あの痛そうなブレスも、数回なら防ぐことも可能だろう。とは言え、かなりのプレッシャーが掛かるから、避けるに越したことはないね」
「…………ブレスって、何?」
 何かしらイヤなものを感じるのか、アレクシアの表情は不審を通り越して不快に近かった。
「ああ、見なかった? 地面とか木とかすっぱり切り取られたの」
「……見た。もしかして、アレが……?」
「そう。ブレスの痕。……止めとく? むしろその方が……」
「止めないよ、今更。っていうか……忘れてた。ロウウェン、君に渡したいものが」
 そう言ってアレクシアはごそごそと懐を探る。
「レイリーさんに頼まれたんだ。役に立つこともあるでしょうから、って」
 取り出したのは瓶。透き通った薄紅の液体が入っている。
『ナニコレ』
 二人の声は見事にハモった。
「いやいや、君、頼まれたんでしょ? ナニコレって」
「いや、そうなんだけど、でも、……これってさ、毒沼……だったんだけど」
 自信なさげな言葉に、しかしロウウェンは目を瞠る。
 毒沼と言えば、ロウウェンが失敗したと思っていた、魔力増幅薬だ。アレクシアに見つかったときは、確かに、不気味で呪われた沼にしか見えなかったのだが。
「これが!? 確かに、これは当初の予測通り……何だっていきなり…………振ったから? ひょっとして、反応速度が極端に遅かっただけで、振ることで、反応を促進できた? いや、何にしても……これは、ありがたい。この状況で、これは……!」
 アレクシアは感慨深げに何度も頷いていた。
「う〜ん……レイリーさんって、時々、すごいよね」
「基本は天然ボケだけどね」
 ロウウェンは一息に魔法薬を飲み、うげっとつぶやく。
「味は沼のままか」
 ロウウェンの黒い瞳は見る間に色素を失い、空色に光る。……時が来たのだと。
「さて……時間もない、行くとするか」
 そろって、外に、出る。




 魔獣を繋ぎ止めるロウウェンの魔法は、あと、3つ。
 庭師の物置小屋を出て間もなく、目の前で、一つ、切れた。ロウウェン曰く、切れても短時間は魔力が残っているから、迂闊に近付かない方がいいらしい。
 アレクシアは木の影から魔獣をじっと見ていた。小さな羽虫たちはどこかに消えている。
 今ロウウェンは魔獣の周囲に魔方陣を描いているはずだ。木の棒で地面に直接描くという、いたくアナログな方法で。もっと効率のいい方法を考えておくとは言っていたが、少なくともそれは、今じゃない。
 魔獣はその身を捩り、自分を戒める光の蔓に触手を絡ませ、その呪縛から逃れようとしている。アレクシアの目に光の蔓はいかにも細く頼りなく、いつ切れるか気が気でない。
 しかし、迂闊に飛び出しては自分の身が危険だし、ロウウェンから注意を逸らすという役目を果たす前にやられてしまっては、意味がない。
 音もなく。光の蔓が、また一本切れた。魔獣が、雄叫びを上げる。じれるような感覚。あと、2本。
 木々の隙間に、ロウウェンが見えた。何かを描きながらじりじりと移動している。
 魔獣が、気付いた。一瞬動きを止め、怒りの咆吼と共に触手を振り上げる。
 アレクシアとて、それをのんびり見ていたわけではない。ロウウェンが魔獣に最接近していると分かった時点で、自らも魔獣へ移動していた。魔獣がロウウェンに気付くと同時に、ロウウェンから託された魔法薬の小瓶を解放する。
「狙い撃て 業火の翼!」
 それが、トリガー。
 小瓶から飛び出す紅の煙はたちまち巨大な鳥となり、振り上げた魔獣の触手をまとめて灼き尽くした。
「……すごい……」
 つぶやく声はかすかだったものの、そこにはロウウェンに対するまぎれもない賞賛がこもっていた。
 実際、発動直前の魔法というのは、すさまじいエネルギーを内包している。それを発動しない程度に、逆に霧散させないで、魔法薬として安定させることは、誰にでもできることではない。それを可能とするのは、数少ない魔術師の、ほんのごく一部でしかないのだ。
 触手の半数を灼かれた魔獣は、アレクシアを、見る。激しい負の感情をまともに受ける。
 アレクシアはフライパンを握りしめる。見た目的にどうかと言うことは、本人が一番自覚していることだ。しかし、それが使いやすいのだから仕方がない。
 灼け残った触手が一本、アレクシアに振り下ろされる。途方もない恐怖に、臓腑が冷たく落ち込むような感覚。アレクシアは奥歯を食いしばり、勢いよく、フライパンで触手を叩く。
 常識で考えれば、アレクシアは吹っ飛んでしまうはずだが。
 弾き返していた。触手は、フライパンに弾かれ、あらぬ方向へ逸れていく。
「す……すごいっ」
 本日二度目の感嘆はつぶやきではなく、言葉になっていた。
 黒い鉄の塊に過ぎなかったフライパンは、ロウウェンにより魔力を得た。金色に輝く紋様が、誇らしげに見える。
 魔獣が咆える。今度は襲い来る触手は2本になっていた。
 アレクシアは無理をしない。決して、自分の力を過信しない。冷静に軌道を読み、余裕を持って避ける。避ける間も、目は魔獣から離さない。続けてきた第二陣も、難なくかわす。
 魔獣が苛立っている。身を捩り、蔓に触手を巻き付け、咆える。
 と、魔獣の輪郭が滲んだ。滲んだように、見えた。同時に、耳鳴りがする。
 違う。
 すぐに気付いた。滲んだように見えるのは、魔獣の周囲に小さな虫が出現したからで、耳鳴りは、それらの羽音だと。
 片手で、別の小瓶を取り出す。コルク栓に親指をかけたまま、じっと様子を窺う。
 触手が来た。それを追うように、羽虫が一斉に押し寄せる。
 つと、汗が伝う。
 軌道を読む。速度から到達時間を計算する。目の端では、別の触手が動き始めるのを捉えている。
 走る。触手がその動きについて行けずに、虚しく地面をえぐる。羽虫が追う。次の触手が軌道修正する。
 地面を滑るように急制動をかけ、同時にコルク栓を押し上げる。真後ろに迫った羽虫に向かって振りまきながら、トリガーを叫ぶ。
「眠りつけ 氷雪の糸!」
 白く輝く粉は、蜘蛛の巣状に変化する。羽虫を捕らえ、包み込み、
「……っ、やっ」
 間髪入れずにフライパンで触手を弾く。視界の端では、蜘蛛の巣に包まれた羽虫の大群が、凍り付いて地面に落下している。数匹残った羽虫も、フライパンの一振りで叩き潰される。
 苛立ち、怒り。ままならぬ事態に、魔獣は咆える。鼓膜を震わす、不快な響き。
 アレクシアは立ち止まり、油断なく構えている。軽く曲げた膝は、瞬時にどこへでも飛び出せる。
 触手が、降ってくる。ぎりぎりで走り出せば、軌道修正の追いつかない触手が、虚しく地面をえぐる。アレクシアの背を追うように、次々に触手が、地を穿つ。立木を足がかりに、最後の触手は、空中で避ける。足下で、獲物を捕らえ損ねた触手が地を叩く。目の前には、伸びきった無防備な触手。
「……や!」
 お返しとばかりに、力いっぱい、フライパンで叩く。気合いを込めて、ぶちかました。
 触手に、ヒビが入った。金色に、ヒビが。
 ぼろりと、触手が根元から崩れた。魔獣が、叫ぶ。その口の奥が、白く光る。
 消滅のブレス。
 アレクシアは迷いなく逃げる。ロウウェンの魔法があるとは言え、意味もなく受けるつもりはない。ブレス第二弾。これも、逃げる。効果範囲が曖昧な以上、ぎりぎりで避けるとか、そういった冒険はできない。走る。逃げる。触手は、避ける。
 ぎぃぃぃいいぃぃぃいい!
 叫んだ魔獣が、光の蔓を叩く。ぷつりと、切れた。弾かれた蔓が、魔力を放出しながら暴れのたうつ。
 想定外から飛来した蔓を、アレクシアはとっさにフライパンで叩き落とす。その瞬間、軽いしびれが両手に走った。相殺され残った、魔力。細く頼りなく見えるが、その一本一本に、どれだけの魔力がこもっているのか、計り知れない。
 魔獣を繋ぎ止める蔓は、残り、1。それとて、ロウウェンが発動させてから随分経つ。触手の攻撃に晒され続け、後、どれだけ保つものか。
 ぎしっ
 魔獣は、残った全ての触手を蔓に巻き付けた。蔓が、軋む。
 ここに来て、魔獣は、アレクシアが自ら攻撃を仕掛けてこないことに、ようやく、気付いたようだ。
 アレクシアは迷う。魔獣が攻撃をしてこないなら、すなわちロウウェンも安全であり、自分がこれ以上注意を引く必要もない。けれど。
 木立の間にロウウェンを探す。……まだ、作業は続いている。
 ロウウェンが作業を終えるのが先か、魔獣が縛めを解くのが先か。
 無理はするなと、言われている。無理だと思ったら、最優先で逃げるように、言われている。……ロウウェンに。
 そのロウウェンは、恐らく、逃げない。
 奥歯を、噛みしめる。気を抜いたら、鳴り出しそうだから。
 小瓶を取り出す。その拍子に、ひび割れた瓶の一部が欠け、中身がこぼれ出す。アレクシアは構わずそのまま魔獣へと投げつけた。
「奪い取れ 黄昏の牙!」
 茶色っぽい砂のようなものがこぼれだしている。さらさらとこぼれる先から、小さな小さな獣のようなものに変わっていく。無数の獣は魔獣に牙を立てる。残った触手が、体液を噴きだし、ぼとぼとと落ちていく。
 アレクシアはすでに次の……最後の小瓶を手にしていた。コルク栓を抜き、完璧なフォームで投げつける。墨のような液体が、溢れる。
「断罪せよ 常闇の楔!」
 槍の穂先のようなものが、出現した。真っ黒い、楔と言うにふさわしいそれは、魔獣の頭部、その付け根あたりに突き刺さる。
 鼓膜を震わす、魔獣の悲鳴。
 魔獣の視線がアレクシアを捉える。もし、視線で生物が死に至ることがあるとすれば、今、この瞬間に違いなかった。
 ロウウェンの魔法薬は使い切った。頼れるものはフライパンに残された魔法のみ。しかし、魔獣は全ての触手を失い、羽虫たちもいない。
 アレクシアにとって、魔獣に勝てる要素はないけれど、負ける要素も見当たらない。それだけで、十分だった。
 魔獣が、光を吐き出す。走る。また、吐き出す。また、走る。
 光のブレスは、確かに恐ろしいけれど、射程距離も範囲も、実際はそれほどでもない。冷静に対処すれば、致命的、と言うほどでもない。確かに走り続ければ体力は消耗する。それでも、厨房の仕事は、一般的なイメージよりずっと体力勝負だ。料理長も厳しい人で、生半可なことでは勤まらない。だから、まだ、いける。
 また、光が来る。アレクシアは走り出し、すぐに気付いた。
 すぐ近くに、ロウウェンがいる。射程範囲内に、彼がいる。
「…………っ」
 アレクシアは踵を返し、ロウウェンの真正面に立つ。構えるフライパンの模様が、挑発するように金色に輝く。
 光の奔流に、呑み込まれる。
 想像以上のプレッシャー。手を緩めたらフライパンごと持って行かれそうだし、踏ん張らないと、吹き飛ばされてしまいそうになる。アレクシアの表情が、苦しそうに歪む。
 光が、勢いを増した。
 一気に畳み掛けるつもりなのか。光は途切れない。さらに、激しさを増す。
 びりびりと振動が駆け抜ける。何かが軋む音が、やけに高音域で聞こえる。
 ふわりと、フライパンの表面に走る紋様の一部が、浮いた。浮かんで、弾けるように、消えた。別の場所の紋様も、浮かび、かき消え。
 ロウウェンの言葉が、蘇る。
 この紋様が残っている間は、触手を弾くこともできるし、ブレスも防ぐことも可能。
 残っている間は。
 音を立てて血の気が引いていく。その間にも、金色の紋様は次々に弾けていく。ブレスの勢いは衰えない。
 逃げる、べきか。
 一気に動けば、魔獣が反応するより速く、ブレスの射程外に出られるだろう。しかしそれでは、恐らく確実に、ロウウェンは消滅する。そうなれば、その後誰が魔獣を倒すのか。いや、そんな小難しいことではなく、誰かの犠牲の上に生き延びたのだとしたら、その誰かが、他でもない、自分の大切な友人なのだとしたら。
 見殺しに、するなど。
 後悔する。後悔しない訳がない。
 金色の紋様が、あがくように、光っている。もうじき、消えるだろう。
 アレクシアは魔獣を、睨み据えた。
 恐くはない。憎くはない。ただ、腹立たしい。
 魔獣が、腹立たしい。力のない自分が、腹立たしい。身を挺したとしても、背後のロウウェンを守りきれるか、分からないのが、腹立たしい。
 腹立たしい。
 紋様が激しく光る。決壊するように、次々に弾け消え、最後の欠片 も、弾  け



 アレクシアの腕に、添えられる手。勢いに押されていた背に、触れる体温。
「……気持ちで負けるな!」
 耳元で、はっきりと。
「ブレスももう続かない! 魔法もまだ切れてない! 気力で跳ね返せ!」
「……ロウウェン!」
 確かに。紋様は、消えそうではあるけれど、まだ、そこにある。まだ、負けてない。
 コンナ トコロデ
「……負けるかぁ!!」
 紋様は強く輝き、ブレスを、弾き返した。一瞬、辺りが真っ白な光に支配される。
 魔獣が、苦しそうに身を捩っている。
 …………ぅぅるぅぅぁぁぁぁぁ……
 魔獣の叫びは、悲鳴に聞こえた。
「ロウウェン!」
 いつの間にか汗だくになっていたアレクシアが、ロウウェンを振り返る。彼はすでにタクトで魔力を紡ぎつつ、呪文詠唱に入っていた。
 ロウウェンの低い声に呼応して、魔方陣が、光り始める。外側の円から、内側の円へ。複雑な紋様、緻密な魔法言語。
 バンッ
 音に見れば、魔獣の背に羽が生えていた。灰色の、蛾のような羽。懸命に、羽ばたかせている。逃れようと。ロウウェンの魔方陣から。縛めから。逃げようと、している。
 勝ったと、思えた。
 ロウウェンの傷も、僅かに煙を上げるフライパンも、晴れ晴れしい勲章のように思えた。きっと後には、笑い話になる。
 しかし、安堵のため息を吐くことはできなかった。
 無情にも、魔獣を縛り付けていた光の蔓が、切れた。間髪入れず、絡みついた蔓もそのままに、飛び立つ魔獣。
 魔方陣はまだ、発動していない。
「だ……だめぇぇ!」
 叫び、走り出し。ロウウェンが伸ばした手をすり抜け、のたうつ光の蔓に飛びつき。
 ──魔法の蔓は、切れてもしばらくは魔力が残っているから。
「……ぁあああああああ!」
 雷にでも打たれたように、一瞬、アレクシアの身体が白くスパークする。するりと、その手から蔓が抜け、見る間にそれも散り散りに消えていく。
 倒れるアレクシアを、ロウウェンが受け止める。見上げれば、魔獣が空へと逃れていく。
 魔方陣は完成していた。後は、トリガーを引くだけで。
 ……それが、可能ならば。



 遠いのだ。遠すぎるのだ。極大魔法は射程が短い。魔獣が飛び立った時点で、すでに、射程外。
 爆発寸前の魔方陣。制御するだけでも魔力が削られていく。魔力増幅薬の効果も、切れそうだ。なのに、どうすることもできない。
 ここまで来て。ここまでして。
 ぐったりと意識のないアレクシアを抱えたまま、ロウウェンは歯噛みする。
 アレはやがて失った体力を取り戻すだろう。負った傷もすぐに修復されるだろう。町を破壊するだろう。人を喰らうだろう。
 300年前の災厄が、再びこの地を蹂躙するだろう。
 しかし、そんなことはどうだっていいのだ。ロウウェンには、関係ないことで。
 ただ彼は、彼が怒りを覚えるのは、そこにアレクシアが絡んでいるからだ。こんなにまでして。アレクシアが、恐怖をこらえてここまでしてくれたというのに。
 何と不甲斐ない。何と無能なことか!
 間もなく魔法薬の効き目も切れ、極大魔法は制御しきれずに暴走するだろう。自身はおろか、アレクシアすらも巻き込んで。
 手立てはない。それでも。
 あきらめきれない悔しさ。




「……狙って」
「了解」
「外さないでよ?」
「あんなデカイ的、外そうったって」
 トリガーを引けば、女神の微笑が。




 飛来する、銀の輝き。
 それは見事な軌跡を描いて、魔獣へと突き刺さる。
 巨体に対して、あまりに小さな銀の色。
 しかし、ロウウェンは気付いていた。その銀の輝きが、魔力を持っていることに。その魔力が、紛れもなく、自分自身のものだと言うことに。
 つまり、あれは、礼拝堂にあった、女神の矢。
 それが何を意図するのか、考える必要も、暇も、なかった。
 トリガーを引く。女神の、銀の輝きに向けて。




「魔術師様、気付きましたかね?」
「……気付かないなら、生かしておくことも……」




 魔方陣から立ち上る魔力が、トリガーと同時に渦をまきながら一点に集中していく。引き寄せられている。同じ魔力を持つ、チカラあるものに。それはまさに、竜巻。ぐるぐると渦巻き、到底あり得ないスピードで、……吸い込まれる。女神の、矢に。
 魔獣の、動きが止まった。羽ばたきが止み、一瞬の、滞空。
 そう、一瞬。しかし、恐ろしく長い、一瞬。
 落ち始める、魔獣が、どす黒い光を放つ。そして、
 四散。
 音は、ない。全て静寂の内に、幕は引かれた。
 魔獣の身体は、粉々になり、さらに小さく小さく分解し、やがて霞のように散っていく。後に、何も、残さずに。
 ほとりと、ロウウェンの腕がおちる。大きくため息を吐くと、その手からタクトが転がる。
 抱えたままのアレクシアの様子を見る。相変わらず意識はないが、顔色は特段悪くない。このまま休ませておけば、じきに意識も戻るだろう。
 幾つかトラブルはあったが、悪くない。結果としては、そう、悪くない。もうだめかとも思ったが、あの銀の矢のおかげで……
 ロウウェンはようやく気付いた。
 あの、銀の矢。あれは、一体、誰が?
 矢の飛んできた方向を振り向き、ぞくりと、身を震わす。何か、やばい。身体が、身体の、内部が、まるで……
 逆流する、ものがある。
 びしゃりと、吐き出されたのは、大量の血。
 コレハ ナンダ?
 胸を、押さえる。熱い。痛い。身体が内側から灼かれているように、思える。
 理由は、一つしか思い当たらなかった。
 魔力増幅。
 増幅された魔力は、どこから持ってきた?
 数学ではないのだから、単純に×2はできない。ないなら、別の何かで、代用する必要がある。無から有は、生じない。
 結果ばかりを追い、過程も、その先も、考えることすら、なく。
 結果として、魔力は、命そのものから絞り出されていたようだ。これは、その、反動。
 苦鳴は、吐血を伴った。
 ロウウェンは、アレクシアに折り重なるように、倒れた。




「…………。……これ、大丈夫ですか?」
「え? 大丈夫よ、感染症じゃないから。平気平気、触っても」
「いや、分かってますよ。そっちじゃなくて、魔術師殿自身が」
「さぁ?」
「さぁって……一応、国を救った英雄ってヤツじゃないですか。もうちょっと、こう……」
「ま、そんなこと、どうだっていいから。ちゃっちゃと運んじゃいましょう。魔術師殿には、まだ死んでもらっちゃ困るし?」
「…………怖いですね」
 くすりと、口元に浮かぶ笑み。
「影、ですから」




 ケモノは消え、ヒトも立ち去り。破壊の爪痕に、太陽が降り注ぐ。
 ──残されたのは、銀の輝き。

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