魔術師と反発力 ── terrible black one 2  



 荊の離宮は、そこだけ異様な静寂に包まれていました。ぴりぴりとしたそれは、静寂より、狂気の方が近いかも知れません。
 見上げるスオーラは、苛立ちを隠そうともしません。
「……なんでこっちにはヤツらがいねぇんだよ……」
 スオーラのつぶやきの通り、離宮の周囲には、あの最狂の虫が一匹も見えませんでした。ここに来る途中までは、魔術師殿がほとんどやけくそのように草花や立木などを盛大に巻き込みながら黒光りするモノたちを蒸発させてきたのですが、気付けばその必要は全くなく。
 ロウウェンは憂鬱なため息を落とします。
「魔力の垂れ流しで、一体どんな異変が起こるかと思っていたが……Gの集団発生とはな。なんともえげつないことだ。全く、よりによって、だ」
「やっぱあいつか」
「当然だろう」
 スオーラは何か思いついたようにロウウェンを振り向きました。
「お前、何か魔法実験とかやらかした?」
「はぁ? 何を突然……ぁぁ、そういうことか。いや、してない。だから、これは、最初から狙って為されたことと考えていいだろうな」
 豆の狙撃手は、垂れ流された魔力とロウウェンの魔法とが不可思議反応を起こして生まれたものです。Gも同じような不可思議反応で……と考えるのも無理ありません。
「陰湿だなぁ……何でGなんだよ気持ち悪ぃなぁ」
「そうは言うが。考えてもみろ、もしGじゃなくて鼠が大発生していたらどうなったと思う?」
「あ? ぁ〜……城の食料が全滅したかな」
 何とものんきな答えに、ロウウェンはふっと短く息を落とします。
「……そんなんで済むわけないだろう。Gが最狂なら、鼠は最凶だ。食料どころか、人体でさえあっという間に喰い尽くされてたぞ」
 だけでなく、鼠は様々な病気の運び手でもあります。駆除の後には、大量の死体と、大量の病人とが残るでしょう。
「まじで? 大袈裟じゃね?」
「集団を舐めるな。Gでさえ死者が出てるんだぞ。鼠は、Gの捕食者だ。より強くて、より悪質だ」
「ね、……鼠恐えぇな」
「まぁな。さて、アレに会いに行くぞ。気を引き締めろよ」
「へいへい。言われなくても」
 荊をくぐり、重い扉を細く開き。
 ……光の帯の中に、青白い顔が小さく浮かび上がりました。誰かが、倒れている。
 ロウウェンとスオーラは一瞬顔を見合わせ、急いで離宮内に踏み入ります。
 内部は、まず、血臭が鼻につきました。館内で、相当量の血が流されている。空気が重い。粘つくような、気がする。
 うつ伏せで倒れていたのは、数日前の夜中、ロウウェンを屍のある地下へ案内した、一番年若い近衛隊士でした。虚ろな瞳に、生気はありません。袖がまくられた右腕は、ごっそり、肉が剥がれ落ちていました。骨まで見えているのに、何故か、引っ掻いた跡が見られました。肉が落ちた後、に。古びた絨毯に立てられた左の爪に、血と肉とがこびり付いています。
「……何だ、コレ」
 つぶやくスオーラの声は、聞いたことのない程固いものでした。
「…………」
 ロウウェンは無言で兵士の身体に手をかけ、仰向けにしました。思わず、息を呑む。
 ……おかしいとは思ったのです。仰向けにしようとした時、何だか妙に、
「……妙に軽いと思ったが、これか……」
 ずたずたに切り裂かれた着衣。喰い破られたような、腹部。中にあるべき臓器類は、ほぼ、ない。ひっくり返した時に、腰がねじれたようで、むき出しの背骨が、今にも折れそうに、見える。
 ひゅぅ
 空気の漏れる、音。
 ぎょっとして音の漏れた方を向けば、生気のない彼の目が、意志を持ってこちらを見ている。
「嘘だろ……」
 スオーラの声がわずかに震えて聞こえる。
「生きてんのかよ……この状態でっ」
 この状態。臓器をほぼ失い、心臓でさえ半分喰い千切られて、すでに……動いていないというのに。
 生きていると言えるかどうかさえ、分からない。
 ひゅぉ
 微かに動く唇。漏れ出す、空気。
 言葉にはならない。それでも、分かる。
 殺、シテ
 虚ろな瞳から、血の混じった涙がこぼれる。こんな状態でも、彼は人間であり、人間たることを望む。
 ロウウェンが頷けば、瞳が、ほんの少しだけ、穏やかになる。
 スオーラを脇に押しやり、自身も一歩引き、トリガーを引く。骨の一欠片も残らぬほどに、一気に、灼き尽くす。
 スオーラが乱暴にロウウェンの肩を掴みました。
「おいっそこまでする必要があるのか? 遺族に、なんて言うつもりだ! 骨も残りませんでしたってか!?」
 ロウウェンはその手を払いのけます。
「……あんなになってまで生きて……いや、死にきれないなんて、魔法と言うより、いっそ呪いだ。僕は、呪いの解き方なんて知らない。首を切り落としたら死ぬのか? 身を灼いて骨だけにすれば死にきれるのか? それでも死ななかったら、どれだけ死の苦痛を味あわせればいい? その限界点を見極める気は、僕にはない」
「そっ……れは…………」
 スオーラは言葉を詰まらせました。
 無言で地下室を目指す魔術師を、国王も追います。
「……怒ってんのか?」
「当然だろう。ここまでコケにされたんだ、あの屍野郎……ただじゃおかない」
 ロウウェンの怒りが自分に向いていない事で、スオーラはあからさまに安堵します。
「あ、そっちね」
「何言ってる?」
「いや、何でもねぇ」
 不機嫌そうに、地下室へ向かう隠し扉に手をかけたロウウェンを、スオーラは力任せに引っぺがします。
 直後、振り下ろされる、爪。
 扉の前に立ったのは、近衛隊第一小隊長。……随分と様変わりして、年若い近衛隊士を見ていなければ気付かなかったかも知れません。
 落ち窪み、血走った目。ところどころ剥がれた皮膚や肉。異常に鋭くのびた爪は血と肉で汚れ、口の周りも中まで真っ赤で、明らかに……喰らったと思われる姿。狂気の、姿。
「……呪いだな、やっぱ」
 ロウウェンはつぶやき、タクトを構え、次の瞬間、小隊長、だったモノは、何の予備動作もなく、突っ込んでくる。
「……!」
 かろうじて風を壁にする。しかし、彼は、吹っ飛ばされることなく、耐える。靴底が、床に跡を残す。吹き荒れる風の中、じわじわと、迫る。長い爪が、風を抜け、顔の一部が風を抜け。風に切り裂かれる肉から霧のように飛沫が飛ぶ。
 ロウウェンから、舌打ちが漏れます。
「スオーラ! 代われ!」
「は?」
「は? じゃない! 突破される前に代われ! 僕が魔法を構築する時間を稼げ!」
「あ、無理無理」
 珍しくせっぱ詰まったロウウェンの言葉にも、スオーラはのんきに手を振ります。
「俺、今、手ぶらだもん」
「……何ぃぃぃぃ!?」
 振り返れば、確かにスオーラは帯剣していません。
「君は、馬鹿か!? 何で丸腰なんだ!」
「馬鹿言うなっ 大体、常日頃から帯剣してねぇっての」
「威張れることか!?」
 風の音が変わりました。爪が、風を切り裂くように、こじ開けるように……
 凍り付き、身動きできなくなる。
 そして呪われしモノが、風を突き抜ける。振り下ろされる、爪。




 爪は、見事な弧を描いて斬り飛ばされました。両者の間を分かつ、白銀の輝き。
「陛下、ご無事ですか」
 いつもと変わらぬ淡々とした声と、いつもと変わらぬ殺人鬼然とした風貌と。
「お、フェンリルじゃん。何だ、やっぱり無事か」
 フェンリルは冷たく一瞥しただけで何も言いませんでした。逆に、それが恐かったりもするのですが。
「それより、……これは一体、何なのですか?」
 変わり果てた彼を見るフェンリルの目が、僅かに、動揺して見えます。
「垂れ流された魔力の汚染によるものですよ、きっと。退がってください」
 フェンリルが一歩引けば、間髪入れずトリガーが引かれる。蒼い炎。灼かれる顔は歪み、皮膚も肉も蒸発し、骨すらも、残らずに。
「ま……魔術師殿!?」
 かっと眼を見開いて、フェンリルはロウウェンを素早く振り返ります。
「何故、そのような……っ 助かる方法が……!」
「僕は、知らない」
 殺気に満ち満ちたフェンリルを、ロウウェンは真っ正面から見据えました。
「勘違いしないでもらいたいんだが。……魔法は万能じゃないし、解明されていない事の方がずっと多い。どうにかなるかもしれないでどうにかなるほど甘いものでもない。元に戻す方法が見つかるかもしれない。元凶たる屍を消せば、元に戻るかもしれない。……確かに? そうなるかもしれないし、……そうならないかもしれない。そのあやふやな可能性だけであんな危険なものを野放しにしろって?」
「しかし……! ならば、せめて、」
「止めとけ」
「…………っ」
 フェンリルの言葉をを、スオーラが冷たく制します。
「……一片も残さず灼き尽くすのは、むしろ、慈悲だ。あの姿見たろ? 明らかに、何かを喰らってる。で、この状況なら、何かは、どう考えてもヒトだ。なら、生き残ったところで、待つのは絶望だけだ。今度は、精神が死ぬ。」
 フェンリルは苦しそうな声を絞り出しました。
「では……では、他の者は? 生き残った者は? 全員、死んだと言うのですか!?」
「わからない」
 冷静に……少なくとも、声だけは冷静に、ロウウェンは言います。
「ここに来た時、20歳くらいの隊士がここに倒れていた。ほとんどの臓器を喰われて……多分、さっきの彼にだろうが、それでも、生きてた」
「生きてた! 彼は、今、どこに!?」
 フェンリルの顔に、僅かな希望が生まれる。それを、昏い目をしたロウウェンが斬る。
「……殺したよ、僕が」
「……っ」
「おい、ロウウェンっ」
 咎めるようなスオーラの言葉が虚しく響きます。
「殺した……? では、何故、遺体がないのですか? さっきの小隊長のように、骨まで消滅させたと言うのですか!?」
 剣の柄にかけた手が、白くなっている。
 一触即発な状況に、スオーラがちょっと待てと、割って入る。
「いや、違うんだフェンリル、殺したってのは、正確じゃない、その……」
 フェンリルは重い息を吐き出しました。
「……申し訳ありませぬ、陛下。少々……取り乱してしまいました」
 息を吐き出し、白く強張った手を柄から離し。
「……ほとんどの臓器を失って尚生きているのは……それはむしろ、死にきれないだけ。小隊長と同じように、…………慈悲、だったのですな、魔術師殿」
 ロウウェンは素っ気なく背中を向けます。
「……どうでもいいでしょう。それより、元凶たる屍が気になります。行きましょう」
 隠し扉を開くと、かびくさい湿気と共に、何かしら昏いものを感じます。そして、それすら霞んでしまうほどの、怒り。……魔術師殿の。
 スオーラが顔をしかめます。
「俺、すっげぇ行きたくねぇ」
「そうですか。でしたらどうぞ、外でお待ちください。魔術師殿と私で見て参りますから。いえ、むしろその方が何かと」
「え? あ、いや、……それも何だかなぁ。だって、見たいし? って、待てよロウウェン、置いていくな」
 独りさっさと階段を下りる魔術師を、国王と近衛隊長が追います。降りたところで、ロウウェンは舌打ちしました。
「……閉まってる」
「そりゃそうだろ。開け放さねぇよ。フェンリル、鍵、持ってんだろ?」
 ロウウェンは不機嫌なため息を落とします。
「鍵の存在じゃない。魔力で、封印されてるんだ」
「開かないのか?」
 何気ない一言に、ロウウェンはむっと眉をしかめました。
「そんな訳ないだろう。この程度の封印、解除するならともかく、開けばいいだけなら破壊するまでだ。退がってろ」
 ロウウェンはタクトを振り魔力を紡ぐ。構築した魔法は炎の塊。トリガーを引けばそれは業火の尾を引きながら扉に激突し、粉々に破壊しつつ内部へと吹っ飛んでゆく。
 そして、そこにいるのは、屍。




 男が、振り向く。屍、だった男が。
「クソっ……もう来たか」
 男は手にした腕を、放り投げる。放り投げられた先には、バラバラにされた、死体。多分、小隊の、残りのメンバー。
 床には、巨大な魔法陣。明らかに血で描かれている。先ほど投げた腕も、ペン代わりにされていたのだろう。
「…………ゲスだな」
 ロウウェンがそう吐き捨てます。
「……ロウウェン殿、これは一体、何事ですかな」
 がっつりと剣の柄を握り、至って平坦な声でフェンリルが問いかけます。しかしその表情は、怒れる死神そのものに見えるのです。
「そうですね、つまり、バックにいる誰かは、多少なりとも魔法を使えるものを送り込んだという事ですね」
 へぇ、とスオーラが気楽に相づちを打つ。
「魔術師って、もっとレアなものかと思ってたけどな。意外に探せばいるのかもな。よし、今度探させてみよう」
「陛下、黙っていて頂けますかな」
 フェンリルの一睨みでスオーラは沈黙しました。
「……こやつは何をしているのですか。何を……しようとしているのですか、魔術師殿」
「良からぬ事、ですよ。とりあえず、生け捕って下さい。話はそれから」
「承知」
 男が、慌てたように短剣を抜きます。が、次の瞬間には短剣は手から弾き飛ばされ、きりきりと宙を舞う。そして男の首もとに突きつけられた、死神の剣。
「……じじいのくせに素早いったらねぇよな」
「何か文句でもおありですか、陛下」
「いんや、なんも」
 フェンリルは男の腕を背後でねじり上げる。男は身体を折り曲げ、苦悶の表情を浮かべる。
「……頼む!」
 男が叫ぶ。
「見逃してくれ! これを成功させないと、俺の……俺の……!」
「俺の? ……はぁ、人質ね。えげつないまねさせるよな、実際。……誰だか知らねぇけどよ」
 スオーラは気軽に肩をすくめる。男は、痛みからか、恐怖からか、暑くもない汗を滲ませ、震えている。
 ロウウェンがふっと憂鬱そうに息を吐き出す。
「……人質の命がないとでも? 例えそうだとしても、見逃す理由にはならないな。いや、如何な理由でも、ないな」
 男の目が吊り上がる。憎悪が吹き出す。
「……ならば、……ならば、死ぬがいい!」
 男は自らの描いた魔法陣の上で足を踏みならしました。途端に鳴動する魔法陣。何かの力が、働いている。
 フェンリルは、さすがに手をゆるめたりはしませんが、焦ったように辺りを見ます。建物が、揺れている。
「おい、ロウウェン!」
「……甘いな。スオーラ、焦る事はない」
 ロウウェンは懐から小さなビンを取り出し、放り投げます。素早くトリガーを引き、ビンを撃ち抜き、煤のような粉が辺りにばらまかれます。粉はさらに細かく空気中に分散し、すぐに目に見えなくなり、……気付けば建物の揺れも、魔法陣の鳴動も、止んでいました。凍り付いた、ように。
「何……? これは、一体、どういう……何が起こった?」
 男が呆然と辺りを見ています。
「何故だ……何故、発動しない!? 手順も、紋様も、間違ってはいないはずなのに! 何故……!?」
 男は焦り、何度も床を踏みならし、何故と繰り返す。
 くくく、と低い嗤い声。ロウウェンが、黒く、嗤っている。
「……分からないか。そうか。君の実力は、その程度でしかないんだな」
「ぁ? ……ロウウェン、何が分かったんだ?」
「慌てるな。今分かり易く説明してやる。
 つまり、この城を混乱に陥れたい誰かがいて、その誰かの下には、それなりに優秀な魔術師がいるようだ」
 ぴんと来ない様子で、スオーラは男を指差す。
「こいつだろ? その、魔術師って」
「違うな。多少の下地はあるようだが、」
 ロウウェンは男に目をやり、鼻で嗤った。
「……この状況が分からないようでは、たかが知れてる。この男は、使い捨ての駒に過ぎない。……視えない君に、教えてあげよう。今現在、この周囲の魔力は、完全に、フリーズ状態にある。確かに君は手順を間違わなかったかもしれない。しかし、発動は、しない。分かるかな? 発動するには、魔力が魔法として構築されなければならない。しかし、構築前に魔力自体がフリーズしてしまったらどうなる? 当然、魔法は構築されず、発動もしない」
 男は呆然としたままで、代わりにスオーラが感嘆の声を上げます。
「おお? 何だかよく分かんねぇけど、すげぇカンジじゃん? 魔法発動させないって、それって、最強じゃね? 無敵じゃね?」
「……残念ながら、万能じゃない。
 話を戻そうか。黒幕の下の魔術師は、自分の手を汚さずに城を内部から攻撃する手段を考えついた。それが今回の屍作戦。魔術師はこいつに時限付きの仮死魔法をかけた。屍は屍たる間中、汚染魔法を垂れ流し続け、その結果がGであり、死にきれない呪いであり。で、時間が来て目覚めたこいつは、予め教えられた手順通り、死体を付近から集め、その血でこの魔法陣を描いた。失敗したら人質の命はないとか何とか言い含められて。違うかな?」
 男はひたすら首を横に振り続けていました。ひたすら、だだをこねるように。
「頼む、頼む……! そこまで分かっているなら、頼む! 俺は、どうなってもいい、だから、頼む! 頼みます! この魔法陣さえ発動させれば、それでいいんだ! あ……あんた、すごい魔術師なんだろ? 天才だって、聞いている! 発動しても、すぐに片付けられるだろ!? お願いだ!」
「ふぅん……天才、か。で、この魔法陣は何を召還するのかな?」
「そ、それは……」
 男は言いよどみ、視線は彷徨います。
「言いたくないなら、僕が言おう。紋様から推測するに、これは300年前、ファンロウを襲った魔獣を召還するものだ。……違うか?」
 男は汗を滲ませています。スオーラとフェンリルは開いた口が塞がりません。
 やがてスオーラはゆるゆると頭を振ります。
「おいおい……こりゃまたすごい事するな。アレって、アレだろ、国の半分を滅するとか何とか。出現さすからちょっと片付けといてって、あっさり言えるようなシロモノか? 勘弁してくれよ」
 スオーラは大袈裟に両手を上げつつ、ロウウェンの前に出ました。何の気負いもなく、何の重みもなく。
「あのな、お前のどんな大切な人の命が懸かってるか知らんが、その理屈、今日死んでいった者達に通用すると思うか?」
 言葉には気負いも威厳もなく、けれど背筋が震えるような憤怒だけは感じられ。
「自分の守りたい者が守られればいいって考え、そりゃ、よく分かる。誰だってそうだ。けどよ。よく分かるからこそ、……他人には、受け入れられない」
 冷たい、ナイフのような言葉は、死刑宣告に等しく。
「当たり前の事だよな。お前の守りたい者は、俺の守りたい者じゃない。……そりゃそうだ」
 男は俯き、わなわなと震えています。その背に、絶望がのしかかるのが、見えるようでした。
「……スオーラ、人を呼んでこの床の魔法陣を消させよう」
「うん? ……これ、発動しねぇんだろ? 後でいいんじゃね? ってか、お前の魔法でちゃっちゃと消しちゃえば?」
「発動しないのは僕の魔法が効いている間だけで、もう一つ言うなら、その間、僕も魔法が使えない」
「え……まじで?」
「ここら一帯の魔力そのものがフリーズしてるからな。誰も使えない。言ったろ、万能じゃないって。それにこれ、バランスの調整が難しいんだ」
「バランス?」
 く……
 ロウウェンとスオーラは会話を止め、
 くくく……
 振り返ります。
 フェンリルに両手を封じられた男が、俯いたままで、不気味に、嗤っています。沸き上がる不安と、後悔。
「フェンリル……フェンリル隊長! 彼を、押さえろ!!」
「遅い!」
 朱い飛沫が飛び散りました。ごぼごぼと、男の口から溢れる、朱いもの。
「こ……こやつ、舌を……!」
 男の戒めが、外れる。それはフェンリルが応急処置をしようとした結果。直後の、男の動きに、一切のムダはありませんでした。
 全てが、ゆっくりと流れているよう。
 男がフェンリルを突き飛ばし、ポケットから小さなナイフを抜き、構え。刃を水平にし、右から左へ、ナイフが男の喉を貫通する。
「…………!!」
 声なき声は、それを見ている者から。
 男が、ニヤリと嗤う。ナイフを持つ腕を前に突き出せば、切り裂かれ、吹き出す血飛沫。びゅうびゅうと。
 どさりと、男の身体が倒れます。自らの描いた、魔法陣の上に。
「…………ぁぁ……クソ……!」
「……ロウウェン?」
 見れば、彼は片手で頭を押さえていました。悔恨の表情も顕わに。
「最後の最後で……! 僕は、なんて愚かなんだ!」
「何だ? 一体、何だってんだよ!?」
「バランスだ! バランスを崩された!」
「はぁ!? 男が死んだだけじゃねぇかっ」
 ロウウェンのせっぱ詰まった声に、スオーラもつられて声が高くなります。
「血はチカラだ! 血に潜むチカラは、特に召還魔法に関しては、絶対的な魔力になる! だから、見ろ! 血で描いた魔法陣は、単なる悪趣味なんかじゃない!」
「じゃぁ何だよ、どうなるってんだよ、魔獣が召還されるってか!?」
 ずぐん
 何かが、震えました。怒鳴る声も一気に潜まり、確信とも呼べそうなほどのいやな予感に、一同は魔法陣を振り返る。
「何だよ……ありゃ……」
 魔法陣の中心から、黒っぽい霞のような、煙のような、不可思議な何かが漏れだしています。それから、ゆらゆらと揺れる、
 ……触手。
 大人の腕ほどの太さのある白いそれは、ぷつぷつとした表面を持ち、ぬるぬると光っています。肌が泡立つような、嫌悪感。
 するりと、触手が動きます。するすると、倒れた男の方へ、血の臭いに引かれるように。ぐるりと巻き付き、引き寄せる。
「……化け物風情がっ」
 フェンリルが白刃を閃かせる。あっさりと、白い断面を見せる触手。
「……うげ……」
 斬られた触手は重力に従ってぽとりと、落下する。その、斬られた断面から、糸のようなものが出てくる。大量に。両方の、断面から。
 糸は互いを求め、絡み合い、再び……結合する。
 気持ちの悪い、光景。
 百戦錬磨のフェンリルでさえ、その光景に一歩身を引く。
「おいおい……すげー気持ち悪ぃカンジで再生しやがったぞ!?」
「ぁぁ……そうか……歴史書にあった記述は、こういう事か……」
 ロウウェンのつぶやきに、フェンリルがはたと振り向きます。
「歴史書? ああ! 確かに、刃通じぬとありましたな! 失念しておりました!」
「ぉぉ……お前ら、ちゃんと歴史書読んでんだ。エライな」
「陛下!? 歴史書は皇太子時代の必須科目ですぞ!? それを……」
「内輪揉めは後にして下さい!」
 確かに、そんな事で揉めてる場合ではありません。何事もなかったように再生した触手は、再び男の死体をずるずると引き寄せています
「な、なぁ、ロウウェン、アレは、何をしたいんだ?」
「当然、喰らうつもりだろう。歴史書にも、よく喰らったと書いてあったぞ」
「グルメかよ! ってか、剣が通じないって、どうすりゃいいんだ!? だいたい、300年前はどう対処したんだ!?」
「後でじっくり歴史書読め。とにかく、今は僕が何とかするしかないだろう」
 男の死体が、黒い霞へと引きずり込まれていきました。一拍遅れて飛び散る赤い血。喰らっている。……喰らっている。
「何とかなるのか?」
 スオーラの言葉に、ロウウェンは面白くなさそうに鼻を鳴らします。
「知るか。でも、斬っても再生するんじゃ、魔法で何とかするしかないだろう」
「そうか……そうだな」
 ロウウェンは盛大なため息を吐き出し、ぐしゃぐしゃと頭をかきました。
「とにかく……とにかく、もうすぐフリーズが解除される。そしたら……」
「そしたら?」
「仮封印を施して時間を稼ぐ。今のこの状態じゃ……とても魔獣なんかと戦えない」
 身一つ、タクト一つで戦うには、伝説級の魔獣は荷が重すぎます。小細工も隠し技も、手段に拘わらずあらゆる策を講じる必要があるのです。
 さすがにスオーラも険しい顔をしています。
「それで、俺たちはどうすりゃいい?」
 迷う様子もなく、ロウウェンは応えます。
「今すぐここから出て、城の人間を避難させろ。僕は魔獣を足止めしてここで決着をつける。もし失敗したら、何でもいい、矢でも大砲でも、ありったけ打ち込め。傷が付かない訳じゃないんだ、再生するより破壊する方が多ければ、倒れるかも知れない」
「な、なるほど、物量作戦か。それって、ジリ貧だよな」
「だな」
 一つ、頷き、
「よし、分かった。フェンリル、聞いた通りだ、先に行け」
「は? 先も何も、いいから行けよ」
 ロウウェンは眉をひそめます。
「言うな言うな。仮封印が成功するかどうか見届けてやるよ。何にしても、それが成功しなきゃ、避難も迎撃準備も、何もできないだろ?」
「それは……そうだが……」
「なれば陛下、私も残ります。それが近衛隊長としての務めであり、私の、誇りですから」
 ロウウェンは諦めのため息を落とします。
「…………じゃぁご勝手に。どうなっても、僕の邪魔はしないように願いますよ」
 ロウウェンは懐からまた別のビンを取り出します。今度のビンには、きらきら輝く白い砂のようなものが詰まっています。右手にタクトを構え、魔法陣をにらみ据え。魔法陣からは、男を喰い終わったようで、再び触手が姿を見せていました。辺りを探るように、ゆらゆらと揺れている。
 ロウウェンの視界で、硬直していた魔力が息を吹き返すように、震え始める。
「……切れる」
 伝う、汗。
 ロウウェンが聞き取れないほどのスピードで魔術言語を口にするのと、空間がびりびりと魔法陣と同調し始めたのは、同時でした。地の底で何かが咆吼を上げるのが聞こえる。明滅を繰り返す魔法陣の方、から。何かが、迫ってくる、気配。
「……っ」
 スオーラはたまらず何か言いかけ、直前でそれを飲み込みます。言葉を発すれば、それはきっとロウウェンの集中力の妨げになり、結果は……考えたくはないけれど、火を見るより明らか。
 地響きと共に、何かが、遙か地の奥底から、マグマのように吹き上がってくる。その、プレッシャー。
 きらりと、小ビンが宙を舞いました。間髪入れず撃ち抜かれ、砂粒が舞い散る。魔法陣から、複数の触手が突き出てくる。
 封印魔法、発現。
 唐突に発生した白い荊が、全ての触手を絡め取る。地下から、怒りの咆吼が響く。
 気付けば白い荊は地下室中を覆い尽くしていました。地下から突き上げる衝撃。何かが、すぐそこに、いる。
 ロウウェンが深い深いため息をつきました。
 我に返ったスオーラは、自分が緊張で呼吸すら止めていた事に気付きます。
「やった……んだよな?」
「ああ、とりあえずはな。しかし、反発が予想以上に激しい。半日くらい余裕が欲しいところだが、1、2刻くらいしか保ちそうにない」
「1、2刻か。ま、ゼロよか全然マシじゃん。上出来だって」
 スオーラは軽く笑います。例えそれが虚勢だとしても。
「じゃぁ俺ら、避難とか物量作戦の準備とかするからよ、お前はお前でやれる事をやってくれ」
「ああ。了解だ」
 またも、咆吼。




 大臣連中を乗せた馬車が、爆走する。車輪が石に乗り上げ、大きくバウンドする。それでも、スピードは落ちない。文官達が走る。髪を振り乱し、慣れない全力疾走に胸を押さえながら。メイドも、庭師も、料理人も、走る。整理に当たる兵士の声は割れている。
「……しっかり!」
 メイドが、傷だらけの同僚を支えつつ、急ぐ。
「大丈夫、絶対、助かるから!」
 支えるメイドも傷だらけ。支えられるメイドの状態は、さらにひどい。えぐられた足を引きずり、脇腹の傷は相当量の出血を伴っている。こんな状況では、応急手当すらできない。
 絶えず声をかけるのは、意識を失えばそのまま二度と目を覚まさないと本能的に分かってしまっているから。
「大丈夫、きっと、……きっと、間に合うから……!」
 誰より、彼女自身が、間に合うと、信じていない。だから涙が、止まらない。
 と、一人の青年が、二人の前に立ちました。驚き顔を上げる目の前で、青年は半ば意識を失いかけているメイドを抱き上げる。走り抜けようとする馬車を無理矢理止め、怒鳴り散らす大臣を無視し、その隣に座らせる。連れのメイドも、押し込む。
 馬車なら、間に合うかもしれない。車中で応急手当ができれば、きっと。町まで、保つ。
 そのまま立ち去ろうとする背に、メイドが声をかけます。
「待って! どこへ行くの!? そっちは、ダメ……!」
 青年は、何も応えません。ただ、避難するもの達とは逆の方へ、走り去ってゆきます。その背も、すぐに人波に消え。

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