魔術師と反発力 ── terrible black one 1  



 それは、絶叫から始まる。

「いやっいやぁっ助けて、いやぁぁぁ!」
「大口開けるな! 体内に、入られるぞ!」
 すでに目の焦点の合わないメイドと、ぎりぎりで自分を保つ兵士と。

 それは、一般によく知られた虫。よく知られ、毛嫌いされ。

 走るメイド。行く手に、黒い固まり。ぞわぞわと。のぞき見える、白い手。そこから流れ出る、朱い液体。まだ助かるか、事切れているか。事切れていることを、祈る。助けられないなら、いっそ。それに、それは自分自身の、近い未来。

 黒光りする羽ね虫。素早く走り、思いがけなく、飛翔する。
 貪欲な、虫。

 大群でまとわりつかれ、囓られ、傷口はたちまち広がる。吐き戻すほどの嫌悪感と、恐怖と、絶望。
 逃げ切れないと分かっていても、逃げ場はないと知っていても。足は、止まらない。止めることなど、できようはずが。
 涙でぼやける視界。顔面に飛来した黒光りする羽ね虫を、むしり取る。
 狂ってしまえば楽だろうか、自害した方が楽だろうか。
 どちらも、選べない。本能が、拒否する。アレに、埋もれるなど。

 その日コーリン城に突如として姿を現した、黒い虫。あり得ないほどの大群で、襲ってくる。
 イニシャル、G。最狂の虫。




「きゃぁっ」
 悲鳴と共に、メイドは壁から飛び退きました。そこには、かさかさと壁面を走る黒い虫。あっという間に、壁と柱の隙間に消えてしまいます。
「いやだ、気持ち悪い。厨房でもないのに、何でこんなとこにいるのよ」
 口をとがらせ、聞く人もなく、文句を言います。
 コーリンはかなり寒冷な気候に属するので、大陸の諸国に比べれば、害虫の類は比較的少ないと言えます。大陸とは海で隔たっているし、貨物船の行き来でさえそう頻繁にないので、外来種が入り込むことも、あまりありません。
 それでも、太古からしぶとく生き残ってきたその害虫は、数は少ないものの、しっかり、コーリンにもいるのです。
 気味悪く思いながらも、メイドは掃除を再開します。廊下をしばらく拭き進んだところで、またも悲鳴を上げて飛び退きます。
 廊下を、黒い羽ね虫が横切っていく。
 本格的に、冷や汗が出始めました。俗に、一匹見かければ30匹潜んでいるなどと言われている害虫です。あらゆるところに、そいつらが潜んでいるような気がしてなりません。
 固まる彼女の視界の端で、小さく蠢くモノを見た気がします。
 素早く振り返り、しかし何も見つけられず、不安だけが募ります。奴らに、取り囲まれているような。恐くて、動けない。今にも背後から襲ってきそうで。
 気配が、満ちる。
「どうしたのですか」
 呪縛を解く声に、メイドは振り返りました。めがねに三つ編みの同僚がそこにいます。思わず吐き出した息は、安堵に満ちていました。
「レイリー……どうしたの、それ」
 今までの恐怖も忘れて、指さします。
 無理もありません。レイリーは、育ちすぎたスペアミントを両腕いっぱいに抱えていました。ミントは引っこ抜いてきたのか、根っこに土が付いています。
 レイリーは照れたように笑います。
「薬草園で、もらってきたのです。いっぱい育ってるのですよ」
 どこから持ってきたか、言われなくとも予想は付きます。ミントの大群など、どこにでもあるものじゃないのですから。だから、そう言うことを聞いているのではないのです。
「じゃなくて、そんなにたくさん、……どこにもっていくの?」
「どこというわけではないけど……」
 レイリーは小首をかしげ、可愛らしく笑います。
「必要かも、って」

 同時刻。
 朝から何だか胸騒ぎがする。
 そう、メイドのルーチェは思っていました。何だか分からないけど、良くないことの、ような。
 ため息をつく腕の篭には、決裁書類が入っています。自分の仕事を思い出し、ルーチェは足早に軍の営舎へ向かいます。
 軍の営舎は、城の本宮と大正門を入って直ぐの一の中庭とを隔てるようにそびえ立っています。両サイドの城壁を結ぶ、まさに、壁。内部施設は、そこだけで完結できるほど、充実しています。鍛錬場あり、武器庫あり、作戦会議室も、調理場も食堂も、軍医の詰める医療室もあります。ないのは礼拝所と魔法実験室くらい。軍人しかいませんが、ちゃんと執務室だってあります。軍属の事務方が詰めています。決裁書類はそこまで運ぶことになります。
 無骨この上ない軍の施設内を通って書類を運ぶこの仕事は、メイドさん達にはえらく嫌われています。曰く、無愛想、恐い、不親切、セクハラされた、等々。ベテランメイドともなれば全く気にならなくもなるのですが、いかんせん、場違いというか、アウェイ感は否めません。
 見知った顔が側にいるならともかく、ただ独りでは、いかにルーチェと言えど気分は重くなりがちです。
 なので、営舎に向かう渡り廊下でフェンリル近衛隊長に気付いた時には、ルーチェは思わず安堵していました。
「お疲れ様です、フェンリル隊長。これから、訓練ですか?」
 軍の営舎には、国王直属の近衛部隊の駐留施設もあり、基本的には食事当番や軍事訓練も合同でこなしています。だから当然、訓練指導官にフェンリルが就くこともあるのです。
 振り向いたフェンリルは、良く見知ったメイドに笑いかけます。……死神に例えられるほど恐い顔で。
「いや、今日はもう上がりだ」
「……非番ですか」
「ああ。今日と、明日までな。たまにはあの頭のイタイ御仁から離れてゆっくりしたいものでな」
 ニヤリと片ほほをつり上げ。フェンリル的には悪意も何もないのですが、それを見る一般人的には、言葉の裏に死亡フラグを感じずにはいられないという、微妙に気の毒な話だったりするのです。
「ぉぉそうだ、ルーチェ、今日は何かあるのか?」
「え……?」
 ルーチェは内心の動揺を隠します。不安を、言い当てられたのか、と。
「特に今日は……何もありませんが……何故でしょうか」
「いや何、三つ編みのメイドが山のように草を抱えておったから、何事かとな」
「三つ編みの……メイド、が……?」
 つぶやくルーチェの胸中は、澱のように不安が溜まっていきます。
「どうした……心配事か?」
「いえ、あの、……はい。彼女は時々、……鋭いんです。もしかしたら、何かが、…………」
 死に神は、しかめっ面のまま器用に片眉を上げました。

 しばらくののち
 朝の仕事も一段落し、厨房では質素な朝食をとっているところなのですが、その片隅で新人のフェイが首をひねっていました。壁一面を占める棚の一番下の引き戸には、厨房必須アイテムが仕舞われているのですが。
 複数あるボトルの本数が、足りない気がするのです。まだまだいっぱいあるし、数本なくなったからとて実害があるほどではありません。とはいえ、不可解は不可解。
 誰か持って行ったのか。何のために。
「フェイ、どうかした? 早くしないと、時間なくなっちゃうよ」
 1年先輩のアレクシアに声をかけられました。先輩とはいえ、厨房の中では同じ下っ端。雑用も片付けも一緒にします。一緒にあわただしく、朝食の片付けをしているのです。
「あ……いや、何でもないっす」
 フェイは慌てて一本手にします。扉を閉じ、……ミントの香りが、漂いました。




 それは、昼前に、訪れました。
 最初の出現場所がどこなのか、おそらく、事件が全部終わった後でも、特定することは困難でしょう。あえて言うなら、同時に、出現したのです。城の、至るところで。
 メイドが掃除している客室に。
 文官が書類を整理している執務室に。
 夜勤明けの兵士が着替える営舎に。
 その恐怖は、どこから来るのか。何故、いつから、こんなにも恐怖の対象になっているのか。魂に、刻まれているとでも言うのか。
 戦慄の気配に、振り向く。突如として湧き出てきたような、黒く光る波。凍り付く。呑み込まれる。悲鳴は、絶望の響き。
 G、出現。
 ほぼ同時に、城中で響き渡る悲鳴。一瞬にして、恐慌状態になる。

 埋め尽くす黒光りする羽ね虫を踏みつぶしながら、走る。追ってくる、黒い波。すでに何匹ものGにたかられている。這い上り、齧り付き。髪の中で蠢くもの、耳の側でごそごぞと不快な音を立てるもの。嫌悪。嫌悪。嫌悪。
 泣き出したい。──いや、もう泣いている。
 叫び出したい。──いや、叫び続けている。
 助けは来ない。助かる方法など分からない。それでも、止まれない。本能に突き動かされ、走る。逃げる。でも、──どこに?
 踏みつぶした虫の体液で、足が滑る。走り続け、疲労の溜まった身体は大きくバランスを崩し、絶望の、波に
「…………!!!」
 蠢くGのまっただ中に、倒れ込む。待っていたように襲いかかる、群れ。同時に、目の前の小山が崩れる。崩れるように、現れるもの。
 囓られ、事切れた、顔面崩壊寸前のメイド。
 それは、数分後の彼女。




 最狂の虫は、当然、ロウウェンの部屋にも出現しました。
 一匹出現。同時に、塵も残さぬほど見事に蒸発。立て続けに二匹出現。ほぼ同時に消滅。一匹飛来。爆発。
 かつてないほどの戦慄に部屋を見回せば、扉の隙間やら壁の僅かな亀裂やら、そういったところからぞわぞわと入り込んでくる、G。大量の、G。
 一瞬の判断で、ロウウェンは風を自分の周りにまとわせました。吹き荒れる風の壁を。飛んできたGが、まとう風に粉砕されます。
 ロウウェンは悲鳴を殺します。下手に叫べば、パニックになりそうです。
 部屋はすでにGに埋め尽くされていました。一匹でも不快この上ないのに、がさがさと集まる、その、嫌悪感たるや。
 ロウウェンは自分を中心に超高温の蒸気を発生させます。消滅する黒いの。同時に近くにあった書類や書籍も消滅していましたが、この状況下では、些細なことです。
 ベッドに向けてトリガーを引けばシーツやマットレスに穴が開き、テーブルセットに向ければ、黒い消し炭だけが残る。
 それでも、減ったように見えないG。
 叫び出したいのを呑み込み、Gごと扉を消滅させます。Gを消滅させつつ、廊下に飛び出せば、そこもまたGの波。吐き気をこらえつつ、業火のトリガーを、引く。
 燃え上がるG。と、人影。
 人影。
「……!!」
 ロウウェンは意志の力だけで炎を消します。慌てて駆け寄れば、すでに事切れた死体。表面は少し焦げている程度で、どうやらロウウェンの炎が死因ではなさそうでした。なにより、腹部の傷口から覗く、……G。
 ロウウェンは駆け出していました。それ以上、その死体を観察することなど不可能でした。傷口から、身体の開口部から、体内に潜り込んだ、虫。蠢く、黒いの。
 胃から逆流してくるモノを、何とかこらえました。吐き戻してる場合じゃないのです。Gどもを何とかするにしても、まずはしなければならないこと。
 アレクシアを、救出する。
 ここにこんなにGが溢れていて、厨房に出ない、なんて事、あり得ません。いや、厨房にこそ、Gはつきもの。
 貪欲なGが、厨房の……
 ロウウェンは不吉な考えを振り払います。まだ、間に合うと言い聞かせます。
 モシモ、失ッタラ
 最悪の状況は、考えまいとしても、つきまとって離れません。タクトを握る手に力がこもります。
 暴風でGを吹き飛ばしつつ、ロウウェンは走ります。心臓にこれ以上ないほどの負担をかけながら。
 角を曲がり、殺傷力のない爆風で厨房前にたむろするGを一掃します。勢いよく扉を開け、
「アレクシア!」
 霧のような何かが、視界を覆う。




 何度も吐いた。吐きながら、走った。
 城内は、Gで溢れている。逃げるなら、外しかないと思った。
 黒い羽ね虫の群れを踏み潰し、ヒトガタになった羽ね虫の山から目を背け。窓から出たいところだけれど、手すりを乗り越える間にヤツらの餌食になるのは目に見えていたから、一番近い渡り廊下に、向かって。走って、走って。
 明るい日差しの下に飛び出して、過ちに、気付く。
 甘かった。
 外は、確かに城内と比べれば、Gの密集率は格段に低いけれど、それよりも、
 ……奴らには、ハネがある。
 恐ろしいことに、奴らはおおっぴらに飛んでいる。自在に飛翔し、空から集団で襲いかかってくる。
 まとわりつく数匹を、払い落とす間などない。服の下を這いずり、柔らかい皮膚を囓られても。全力で、走り続けるしかない。背後に、迫り来る、黒い固まり。逃げ切れないとは分かっている。それでも、本能が……逃げろと、叫ぶ。嫌悪感が、背中を押す。
 止まるな、止まるな、転ぶな、
 ……転んだ。
 全くもって、絶望的なそのタイミングで、足が、もつれた。戦慄の羽音が、迫る。
 脳裏に、過ぎる、光景。Gに埋もれ、悲鳴も埋もれ、長く長く、苦しみながら死に至る。
 イ ヤ ダ 
 目を閉じ、口を閉じ、絶望し、その背に黒いのが襲いかかり。
 ……ばさり。
 まとわりついたそれらが、唐突に離れていく。
 ばさりばさり。
 場違いにすがすがしい、ミントの香り。
 目を開け、振り仰げば、育ち過ぎなミントを抱えたレイリーの姿。ばっさばっさとミントの束を振り回してGを払っている。面白いほど、遠く逃げ去っていく黒いの。
 光が、見えた。
「薬草園に行くのです!」
 力強いレイリーの言葉は、希望そのもの。
「こいつらは、ミントを嫌います! そこに、逃げるのです!」
 レイリーは抱えたミントをひとつかみ、押しつける。
「これを持って、走るのです! 振り返らないで!」
 吐き出したいほど、気持ち悪い。でも、そんなのは……後でいい。
 また、走り出した。振り返るなと言うなら、振り返らない。ただひたすら、走ろう。
 薬草園へ。

 手にしたボトルの中身を、直接ぶちまけ。
「ルーチェ!? 何をする!」
 臭いにむせる国王も血相を変える近衛副長もなんのその、ルーチェは別のボトルのトリガーを引く。
 スオーラにぶちまけたのと同じミント臭が霧状で散布される。途端に、恐慌状態になって逃げ出すG。
 ルーチェは予備のボトルをシャオラ副長に投げ寄越します。
「厨房から借りました。とにかく、撒いて下さい!」
 押し寄せていたGが、明らかに引いていく。
「うぇぇ……ミント原液はさすがに臭っせぇ。助かったわ、ルーチェ」
「……恐れ入ります」
 予見していたかのような素早い対応に、近衛副長は戦慄に似たものを感じずにはいられません。




 足を踏み入れると同時に、盛大に何かを吹きかけられました。それらは身に纏う風に吹き散らされるけれど、それでも分かる濃いミントの臭い。
「ロウウェン! よく無事にここまでこれたね! 外の様子、どう?」
 いつも通りのアレクシアが、そこにいました。
「……ってゆうか、……なんで??」
 ロウウェンは風の魔法を解きました。その必要は、ありませんでしたから。
 厨房は、無事でした。Gの死骸はそこかしこにあるけれど、Gの波を見た後では、些細なものです。
 魔法を解いたところで、アレクシアがさてとばかりに何かの液体を吹き付けてきます。ここに飛び込んできた時に吹き付けられたものと同じようで、むせるほどのミント臭がします。厨房全体が、ミントでできているようです。
「何これ、どゆこと? 何でここ、Gいないの?」
 疑問符が飛び交うロウウェンに、アレクシアは手にしたボトルを見せました。
「あいつらってね、ミントがキライなんだよ。だから、ここには飛びっきり濃いミント煮出し液を常備してるんだ。奴らが出入りしそうなところには、しょっちゅうスプレーしてるよ」
 感心することしきり。
「そうなんだ、知らなかった……! しかも、劇的じゃないか!」
「ねぇ、それより、一体何が起こってるの? 何、この大量の奴ら!」
 気味悪そうにGの死骸に目をやります。気持ちは分からないではないのですが、実際には、被害はそんなものでは済まないのです。すでに死者が、出てるのですから。
「原因追及は、こいつらを何とかしてからだね」
「今こそ、魔法の出番だね! 派手に燃やすの?」
「いや、それ、やったけど、そこはかとなく問題がつきまとう」
「問題? ……燃やしたら、臭いとか?」
 燃やしたら臭う。完全に、勝手なイメージです。ロウウェンも思わず苦笑いします。
「んん、大したことはないんだけどね。ただ、奴らにたかられて身動き取れないメイドやなんかも、一緒に燃やすことになる」
「…………え?」
 アレクシアの表情が凍り付きました。だけでなく、厨房のスタッフの視線が一気に集まりました。
 なぜなら彼らは、知らないから。
「人が、……襲われてるの?」
 恐る恐る、言葉にして。
「うん。まぁ、僕としては、君が無事ならそれでいいんだけどね。とはいえ、アレらは気持ち悪すぎる。どうしようかと思ってたけど、……いいのがあるじゃないか」
 ロウウェンが指さすのは、アレクシアの持つミントスプレー。アレクシア、困惑顔。
「いや、これ、……あいつらキライってだけで、退治とかできないよ?」
「大丈夫。僕を信じなさい。これを基に、奴ら撃滅魔法を構築するから」
「……できるの?」
 不安そうなアレクシアに、ロウウェンは笑ってみせます。
「もちろん。頭の中では、構築済だよ。奴らには効果抜群で、人体にはさほど影響はない」
「さほど……いや、今はそんなことに構ってられないか。ごめん、ボク達、何もできないけど、それでも、……がんばって」
「まかせて。ご褒美でも考えといてよ」
 ロウウェンはミントスプレーを2本ほど受け取り、早速魔力を構築します。
「よし……扉、開けて!」
 厨房の扉が全開にされます。押し寄せる、G。冷静にトリガーを引くロウウェン。魔法と、スプレーと。
 一瞬、緑色の奇妙な丸い模様が見えた気がしました。同時に広がる、頭が痛くなりそうなほどの濃い、臭い。濃すぎて分からないけど、多分、ミント。
 見えない何かに弾かれるように、Gが吹っ飛びました。吹っ飛び、ぼたぼたと落下し。後続の奴らは、……逃げ出します。
「……ようは、」
 ロウウェンはニヤリと口角を釣り上げます。
「大嫌いなものを山積みされたら、気絶するかショック死するかしかないって事」




 人から離れれば、何の遠慮もいりません。例え備品やら美術品やらが一緒に消滅しようと、それはそれ。ロウウェン的には知ったこっちゃありません。
 ミントゲロゲロ魔法と超高温消滅魔法とを交互に紡いでいきます。逃げまどうGを集める風魔法を時々織り交ぜて。
 国王がいるはずの謁見の間に飛び込んで、
「お、さすがだな、ロウウェン。惚れ直すぜ」
 近衛隊のど真ん中で、スオーラがのんきに手を振っていました。Gがいるにはいるけれど、遠巻きにしています。厨房と同じような状況です。臭いも。誰かが、厨房からミントスプレーを持ち出したようです。ロウウェンは思わずため息を漏らします。安堵から来るものではありませんが。
「生きてたのか」
「前言撤回。ってか、そもそも、惚れねぇ」
 ロウウェンは広間全体を──そこは謁見の間なので、2階吹き抜けのムダに広々構造です──超高温蒸気で満たしました。国王を囲む近衛隊士たちのすぐ側で、絨毯や衝立が音もなく崩れるように消滅しました。当然、虫も。
 タクトの一振りで、蒸気は消え去ります。辺りの気温がむっと高くなっているのですが、目の前で見たことを考えれば、ずいぶんと冷えたものです。
「畜生……どんだけ被害が出たんだ? いやそもそも、まだ殲滅してないのか。……ロウウェン、何か手はないかって、……何してんだ、お前?」
 ロウウェンは絨毯も何も全て燃え尽き、柱だけになった広間の床に、ミントスプレーを吹きかけています。全体にまんべんなく、ではなく、集中して。床に、ミント煮出し液の跡が線状に残っています。
「殲滅作戦だ。僕がここを目指した理由は、広いから、だ。一番近かったし」
「俺を心配した訳じゃないんだな」
「当然だろう。……シャオラ副長、それから、そこの君。そっちと、向こうの柱を回って、煮出し液で円を描く。手伝って下さい。ルーチェ、君も。この柱と、あっちの柱を繋ぐように、線を描いてくれ」
 冷えた声で指示を出す宮廷魔術師を、国王は腕組んで首をかしげます。
「……何やってんだ?」
「魔法陣を作る。ちまちま追ってたんじゃ、体力も精神力も保たない。敷地全体に魔法を行き渡らせる。そのための準備だ」
「ほぅ……すげーじゃん。宮廷魔術師っぽいじゃん。それであいつら全滅するのか?」
「しないな。でも、しばらく動かなくなる。その間に人海戦術で焼き尽くす。……ルーチェ、次はその隣の柱と、向こうの柱……より、ちょい左に向けて直線。副長、次は一回り小さい円を描いて下さい。……はい、それくらいの間隔で」
 指示しながらも、ロウウェンは自ら複雑な模様を描く。
「……ところで、フェンリル隊長は? いないようだが」
「ぁぁ……今日は非番で、営舎にいるはずだが。ま、生きてればな」
 心配する気配は微塵も感じられません。ロウウェンにも、スオーラにも。
「そうか。ここに来る途中、あまり人を見なかった。見たのは、手遅れな犠牲者だけで」
「ん〜? ……って、どういうことだ? 生き残りはいないって事か!?」
「逆だな。ここまでいないって事は、避難しているんだろう。誰か誘導したのかもな」
 スオーラは眉をひそめます。
「誘導って……どこに? ってか、誰が?」
 あのGがひしめく状況の中で、冷静に動ける者がいるとは、スオーラには思いつきません。近衛騎士でさえ、現状維持が精一杯。それも、ルーチェの持ってきたミントスプレーのおかげでなのです。
 ロウウェンは面白くなさそうにスプレーボトルを放り投げました。
「そこまで知るか。さて、できた」
 巨大かつ大雑把な魔法陣のど真ん中で、ロウウェンはタクトを構えます。魔力の構築。増幅。……トリガー。
 その瞬間、空中に魔法陣が浮かび上がりました。床に描かれたものとほぼ同じで、より繊細に詳細に、まるで装飾のような幾何学的な模様。同時に、波紋のように広がる緑色した光の輪。水の波紋の、何倍ものスピードで、壁も柱も人体でさえ、一瞬にして突き抜ける。
 ぼたぼたぼたぼた
 天井や壁から黒い虫が剥がれるように落ちてきました。予想外のその量に、思わず腰が引けます。積み重なったそれらは、どれも、ぴくりとも動きません。
「ぅわ、まだこんなにいやがったのか。気持ち悪ぃなぁもぅ……」
 不快そのものの表情で、スオーラは舌を出します。
「シャオラ、ちょっと悪いが近衛隊中心に駆除の指揮頼むわ。一欠片も残さず焼き尽くせ。今日は通常業務はいいから、文官やメイドにも指示出して、棚の裏隙間に至るまで徹底して駆除するように。負傷者と死亡者の確認もな。俺とロウウェンは行くとこあるから」
 スオーラはすでに扉に向かっているロウウェンを慌てたように追います。扉の近くでくるりと振り向き、
「後、もし、フェンリルのヤツが生きてここに来たら、先に行ったって伝えてくれ。よろしく……ぎゃーーーなんじゃこりゃぁ!?」
 スオーラが見たのは、廊下いっぱいの黒光りする羽ね虫の群れ。ぎゃぁです。ぎゃぁ以外の何モノでもありません。
「こっこれはキモイ! ヤバイ! 夢に見るぞうなされるぞ!」
 ロウウェンは大袈裟に騒ぐ国王を冷たく一睨み。
「うるさいな。僕はこの中を来たんだぞ」
「まじか? お前、なにげにすげーな。やっぱ惚れ直すわ」
「……いらん」
 ロウウェンは不機嫌にトリガーを引き、超高温蒸気が最狂の絨毯に細い道を作ります。魔術師殿がその道を走り、
「……吐きそうだ……」
 泣き言を言いながら、国王がそれを追いました。

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