死ニ至ル病 ── 緊急事態 emergency 3  




 胸ぐら掴まれ引き寄せられたロウウェンは、アレクシアの瞳を間近で覗き込むことになった。明確な意思を持つ、強い光。
「……魔方陣はすでに異界の入り口を開いていて、機能停止しているっ」
「はっ!?」
「開いた入り口はまだ不安定で、ボクが呪いの化け物になることで固定するっ」
「アレクシア!?」
「核はないけど、不安定な入り口は大きなチカラが加われば崩壊する!」
 唖然とするロウウェンに、アレクシアは口角を吊り上げてみせる。
「ちょっとは、役に立つ?」
「…………ああ!」
 ロウウェンはアレクシアの両肩を掴む。
「でも、君、どうして……?」
「深く潜って読み取った、としか言いようがない。そんな感覚だったから。それより、悪いけど、ボク、そう長く正気保ってられないと思う。だから……」
 ざばざばと水を滴らせたレイシンが側に来た。
「こっ……凍り付くかと思いましたよ! アレクシア、正気に戻ったのか? ワケ分からん触手を斬ってくれて助かったよ」
 ロウウェンは青ざめたレイシンを軽く一瞥。
「生きてたか。よし、仕上げにかかるぞ。働け」
「何てヒト使いの荒い……自分、今、死にそうなんですけど?」
 ふっと、短く息を吐き出す。
「まだ、死んでないだろ?」
 レイシンは思わず無言で天を仰いだ。
「……何をしたら?」
「不測の事態に備えろ」
 そう告げるロウウェンの表情は、ひどく厳しい。
「今からこの地下湖を蒸発させる」
「できるんですか、そんなこと!?」
「蒸発させる勢いの魔法をぶっ放すってことだ」
「ああ、勢い……勢い?」
「頼むぞ。それと、何が何でも、アレクシアに怪我させるなよ」
「……は? それは、どういう……」
「何か来た! 何か来たよ、ロウウェン、レイシン!」
 レイシンの疑問符はアレクシアにさえぎられる。見れば、湖のほうからまたあの白い煙のようなものが押し寄せてきている。
 そう、押し寄せてきている。とてつもない数。
 異界の通路を開いた何者かの意思なのか、それは拒絶。ロウウェンのしようとしている事に対する、絶対的な、拒絶。
 そしてロウウェンもまた、その意思を拒絶する。
「何とかしろ!」
 そうレイシンに怒鳴り、ロウウェンは詠唱を開始する。常人からしたら舌を噛み切りそうな速度で。
 また無茶を……とレイシンはつぶやき、アレクシアを見る。
「アレクシア、さっきのできるか?」
「え、え? さっき……あの、ヘンなチカラのこと? うん、多分」
「じゃあ手伝ってくれ。自分は近距離でしか役に立たないからな」
「わかった!」
 アレクシアは煙にむかってチカラを放つ。はるか遠くで、消滅していく煙。撃ち洩らしなどない。ことごとく、完膚なきまでに。
 密かに感嘆のため息を吐きつつ、レイシンはアレクシアを見やる。
 その瞬間、レイシンは自分の判断が妥当ではなかったと知る。
 正気を取り戻したアレクシアの肌に浮かぶ痣は、くすんだ様な色になっていた。それが、チカラを放つ今、鮮血の紅に変わった。
 今は、正気を保っている。しかし。
 ごくりと、レイシンののどが鳴る。
 不測の事態に備えろとは、アレクシアに怪我させるなとは、そういうことなのか。
 ロウウェンの詠唱がとめどなく響く。アレクシアが放つチカラに、煙がはるか遠くで消滅していく。発生するそばから、消されていく。
 その傍らでレイシンはゆっくりと短剣を鞘に戻す。
 彼もいいかげん、理解していた。
 ロウウェンは狂気を抱えている。そのトリガーは、アレクシアだと。
 アレクシアがゆっくりと振り向く。その肌に浮かぶのは、どす黒い紅の呪い。瘴気のようなものが、立ち上って見える。
 レイシンは小さくため息をついた。
 何としてもここでアレクシアを抑えなければ、祟り神が降臨するか、もしくはロウウェンの狂気に呑まれるか。
 アレクシアの口角がにいぃっと吊り上る。その表情は、ヒトのものではない。
「……ぁぁもう! とんだ貧乏くじだな!!」
 祟り神を、押さえ込む。




 それは、ヒトの声とは思えなかった。
 断末魔の悲鳴。
 ヒトではない、何か、の。
 ヤンは必死で暴れる患者を押さえ込もうとしていた。患者は、常識では考えられない飛び跳ね方をしていた。寝台の上で、何の勢いもつけないまま、身をよじり、痙攣しながら飛び跳ねていた。
 異常に伸びた爪で引っ掻かれ、噛み付かれ、ヤンは傷だらけになっている。しかしヤン自身は、それにすら気付いていない。
「クソッ……こいつ、えぇ加減にせぇよ!」
 患者の尋常でない悲鳴を聞きつけた看護師が扉を叩いている。それに返事する余裕などない。
 跳ね回る患者の痣は、紅を通り越して、黒々としている。脈打つごとに、身体が跳ねる。
 中でも、ヤンの目は、ただ一点を見ている。もぞもぞと蠢くモノを。アレが元凶だ。ヤンは確信していた。それが呪いの元凶だとして、ヤンにその対処法がわかるはずもない。だから彼は、医師として行動する。すなわち、
 異物、取り除くべし!
「ぉぉおお!」
 ヤンが吼える。寝台に飛び乗り、患者の胸と大腿部とを膝で押さえ込む。患者の抵抗が止む。ヤンはその瞬間を逃さなかった。メスを引っつかみ、すかさず、患者の腹部を切り裂く。
 噴出す鮮血の中、ヤンは見た。




 レイシンはアレクシアの両腕を掴み、馬乗りになって押さえつけている。アレクシアは暴れているが、もとの筋力差は否めない。どんなに力を込めようと、レイシンの手は外れない。
「……頼むから! 大人しくしてくれ!」
 だが、一方のレイシンにも、実際、あまり余裕はない。正気をなくしたアレクシアは、自らが傷つくことを厭わない。
「あんたに何かあったら、自分が殺される……!」
 力を込めすぎれば、折れるかもしれない。常に、躊躇う。
 押さえる腕に、アレクシアが噛り付いた。躊躇いのないヒトの顎は、容易く食い込む。
 血が吹き出し、鋭い痛みに腕の力が緩む。アレクシアはすかさず振り払い、
「っ、ぐっ」
 アレクシアの手が、レイシンの喉笛を鷲づかみにしている。
 ぎりぎり
 追体験した死を、思い出した。陵辱されながら、気道をつぶされ、……
 冗談じゃない!
 レイシンはアレクシアの腕を掴み、引き離しにかかる。白い肌にあざが残るだろうが、それどころじゃない。
 何度目の死の淵かわからない。しかし、これはヤバイと感じる。息が、できない。
 視界が狭まっていく。暗く、ぼんやりと……




 噴出す鮮血の中、ヤンは見た。蠢くものの、姿を。
 巨大な、芋虫。うねうねとした突起をいくつも持ち、いわゆる頭部に当たる部分には巨大な口が開いており、牙のようなものがびっしりと取り囲んでいる。
 悪夢のような、どす黒い芋虫。
 しかしそれは現実味を帯びていない。それは一つの個体ではなく、黒いすすの様なものが集まって形を為している。それらがざわざわと移動することで、芋虫のように蠢いている。
 ざわりと、鳥肌が立つ。不気味さに。忌まわしさに。
 と、ヤンの腕が上がる。
 まったく、何の意識もないまま、ヤンは右手のメスをその芋虫のようなモノに、投げつけていた。
 何かに導かれるように。
 メスは芋虫の口腔を捉え、白い壁に突き刺さる。
 ……ひぃぃぃぁぁぁぁ……
 拍子抜けするほどか細い悲鳴だけ残して、芋虫はさらさらとチリと消えていく。
 後には、何もない。メスだけが、壁に刺さったまま残されている。外はまだ騒がしいのに、部屋の中はやけに静かで、自分の心臓の音がうるさいほどで。
 ヤンは暴れる心臓を胸の上から押さえ込んだ。何が起きたのか、理解できない。
「……何や、アレ……あんなもんが、呪いなんか……?」
 それに答えるものはない。
 わずかにうめいた患者の声で、彼は医師としての領分を取り戻す。




 手が、緩んだ。
 ようやく開いた気道を、冷たい空気が流れ込む。
 レイシンはすぐに覚醒した。アレクシアの手を引き剥がし、容赦なく、押さえ込む。今度こそ、油断するまいと。しかし、予想していた抵抗はない。
 訝しめば、焦点をなくした瞳に気付く。アレクシアの表情は、何かを見失ったように頼りなく揺れている。
「…………! い、」
 レイシンの言葉を遮るように、背後で、光が弾けた。
 振り向けば、馬鹿でかい魔方陣が、空中に浮かんでいる。
 長い長い詠唱が、ついに終わったのだ。
 紅い魔方陣に当てられたように、貌を持つ煙が、逃げ惑っている。勝手に消滅している。
 ロウウェンが、長々とため息をついた。
「……終わったんですか?」
「いや……これから、仕上げだ」
 ロウウェンが手にしたタクトで魔法陣を指す。赤く紅く、燃え上がるように輝く。
 ざざざ、と、湖面がざわめく。波立ち、渦を巻き、水が、引いていく。徐々に、湖底が見え始める。そこに刻まれた、アキツ語の魔方陣が。
 ロウウェンのものとは、似て非なるもの。禍々しき、禍々しき。
「……消え去れ」
 小さな、しかし確かな拒絶の言葉。赤い魔方陣は、一気に燃え上がる。
 煙が消える。呪いの陣が蒸発していく。
 業火が、踊る。
 ロウウェンがタクトを一振り。燃え上がる炎が、一瞬にして消える。後には、何もない。
 ロウウェンはもう一度ため息をつきながら振り返り、何故だか鬼の形相でずんずんとレイシンに向かう。
 戸惑うレイシンは、蹴られた。
「……何するんですか!?」
「離れろ!!」
 レイシンは、まだ、アレクシアを押し倒したままだった。
 だからって蹴らなくても……とぶつぶつ言うレイシンを完全に無視し、ロウウェンはアレクシアを抱き起こす。ぐったりと意識をなくしたアレクシアの肌に、もはや呪いのアキツ語はない。震えるような安堵のため息と共に、ロウウェンはアレクシアを抱きしめる。
 レイシンはそれを横目にげほりと咳き込む。喉をさすりながら湖を見やる。見事に湖水が消えて湿った湖底が露になっている。
「……見事に蒸発しましたね」
「ああ……うん? 何がだ?」
「湖ですよ。だいぶ干上がりましたよ?」
 ロウウェンはレイシンの言葉に眉をひそめる。
「……火力は、ないぞ?」
「火力?」
「さっきの魔法だ。炎に見えただろうが、実際には熱くない。……熱くなかっただろ?」
「あ……確かに、言われてみれば。…………えっと、では、……なんで湖はあんなことに……?」
 レイシンが湖底を晒す地下湖を見る。ロウウェンも同じ方向を見る。その顔が、すぅっと、青ざめた。
「ぁぁ……まずいかも知れん……」
「ロウウェン様? どうかしましたか?」
「逃げるぞ」
「はっ?」
 ロウウェンはアレクシアを抱えたまま、水路へと駆け出した。その後を、慌ててレイシンが追う。
「何ですか!? どうしたんですか!?」
「津波だ!」
「津波!? ここ、湖ですよ!?」
「確かに地下湖だ、対岸のまったく見えないくらいのな!」
 言われて、レイシンも気付いた。
 水が蒸発していないなら、水は単に奥に押しやられているだけ。押しやられた水がすぐに戻ってこないのは、はるか遠くまで押し返すものがないから。
 だとしたら、今頃は押しやられた反動で津波並みの水が……
 低い、地鳴りのような音。
 水路の脇を走りながら、レイシンはちらりと振り返る。水路が水の壁で塞がっていた。
 …………
 もう一度、がばっと振り返る。水が、壁のように、迫ってきている。
 押し寄せる水は一つしかない水路に殺到する。その水量も早さも、もとの何倍もの破壊力を持って。
「ロウウェン様! これ、ちょ、マズイ……っ ヤバイですって!!」
「うるさい! がたがた言う……ぅわ! 何だアレ! シャレにならん!」
 走る二人に、水はあっという間に迫る。
「レイシン!」
「はい!?」
「がんばれ!」
「……はっ?」
 ロウウェンはアレクシアをしっかりと抱きしめ、空中に身を投げ出す。
 その、姿も、あっけにとられたままのレイシンも、激流に、飲み込まれる。




 …………夢を見る。
 都合のいい、夢。
 アレクシアが泣いている。自分のために、泣いている。
 泣かないでほしいと思うのに、自分のために泣いてくれるのが、嬉しい。
 でも、それでも。やはり似合うのは笑顔で。
 泣かないで、と。そう伝えたいのに、胸がふさがったように苦しくて、言葉にならない。
 言葉にならないどころか。
 苦しい。
 ……いや、苦しい。苦しいぞ。
 いやいやいや、苦しいなんてもんじゃないほど苦しいぞ!?
 アレクシアが泣いてる。何か叫んでる。
 それは愛の言葉だったりする? だったら、本望かな……
 急速に狭まっていく視界の中で、アレクシアが右手を振りかぶる。

 張り手。

「息をしろーー!!」



 音を立てて、空気が気道を駆け抜けていく。
 思わずむせかえる合間に、空気が流れ込んでいく。
 ひとしきり呼吸の確保に四苦八苦した後、ようやくロウウェンは顔を上げて周囲の状況を見ました。
 まず、目の前にアレクシアがいる。ずぶぬれで、顔色はよくないけれど、ロウウェンを心配できるほどの余裕はありそう。
 周囲を、見回す。
 とりあえず、外でした。すぐそばに川があります。町の外壁も見えます。外壁から続く水路は川に注いでいます。
 どうやら、激流に呑まれた後、うまく水路を抜けて町の外へと出たようです。
 それにしても、とロウウェンは声に出さず思います。
 町の外だというのに。何でこんなに町医者やらメイドやらがたくさんいるんだ、と。
 ロウウェンの視線をたどったアレクシアは、うん、と一つうなずきました。
「あの人たちに、助けてもらった。何で……こんなところにいるんだろうね」
 影の仕事だろうかと、ロウウェンは思います。どうやらロウウェンは、よくわからない状況は全て影の仕業だと思うことにしているようです。
 ロウウェンは、ふと、レイシンのことを思い出しました。ついでに探せば、少し離れた場所で一人のメイドに抱きしめられています。顔は見えないけれど、見覚えのあるみつあみです。
 レイシンの横顔が、その口元が、妙に緩んでいるように見えたのは、たぶん気のせいだろうと、ロウウェンは適当に結論付けます。
 そんなことより、もっと重要なことがありましたから。
 ロウウェンはようやく動くようになった右手を、アレクシアのほほに添えます。
 聞きたいことはたくさんあるけれど。
「…………アレクシア?」
「……うん」
 それで、十分。


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