死ニ至ル病 ── 感染経路 infectionroute 2  




 仕立てのよい服を着ていれば、上の手を巡回する私設自警団にも見とがめられることはありません。上の手に住まう貴族諸侯達の出資による自警団は、団長とは名ばかりの御子息様が上に立っているだけなので、プロ意識はそれほど高くないのです。彼らの判断基準は、見た目、以上。
 ロウウェンは地図と町並みとを見比べながら、上の手を歩いていました。地図は、途中で仕入れたペンにより書き込みが足されています。
 聞き込みは、ロウウェンが思っていた以上に、困難でした。上流階級の人々が、必要以上に外聞を気にすることは理解しているつもりでした。しかし、口が重いだろうな、位にしか考えていなかったのです。
 現実は、もっとキビシイものでした。
 重い、なんてものではありません。箝口令が敷かれています。護衛に当たる私兵はもとより、使用人にまでそれは及んでいるようです。何を聞いても、知らぬ存ぜぬの一点張り。疲労ばかりが重なります。
 このやり方は賢くないと、ロウウェンは思います。別のやり方に切り替えないと。思いついたその方法は、はっきり気乗りしないのですが、仕方ありません。聞き込みを上手くやらないと、病の解明が遅れる・日数ばかりが経つ・アレクシアの病状が進行する・間に合わなくなる、といったことが起こりうるのです。城で自分を信じて待ってくれているアレクシアのために、本当にそれだけのために、ロウウェンは覚悟を決めます。
 ロウウェンが向かった先は、シュイと呼ばれる場所。
 スーシア……と言うより、この地の伝統的な町の機能として、住宅の並ぶ裏通りには、所々に小さな広場が設けられています。広場の真ん中には、井戸が一つ。スーシアは、昔から生活用水を豊富な地下水でまかなっているのです。上の手の邸宅には、その敷地内に井戸があるのが普通で、彼らには共同井戸は必要ありません。しかし、そこで働く、とくに身分の低いもの達には、必要不可欠。屋敷の井戸がちょっと身分のましなメイドやなんかに使用されていたなら、下働きは余所へ行かなければならないのです。共同井戸へ。そこには他家で働く同じ身分のもの達が集まります。ちょっとした息抜きにもなります。シュイは、生活用水確保と、あと、ささやかな情報交換の場でもあるのです。
 地図を見つつ足を踏み入れたそのシュイも、予想違わず、幅広い年代の女性達が賑やかにしています。近寄っていくと、一人がロウウェンに気付き、ふっと、言葉が止まります。それは一瞬のうちに広がり、シュイは唐突に沈黙します。見たことのない気品溢れるイケメンが、こんな(上の手にしてみれば)場末のシュイに天尊降臨とばかりに現れたのです。当然と言えば当然の反応です。ついでに、イケメンが冷酷鬼畜系なら、なおさら。
 ロウウェンは笑いました。自身の顔が冷たい印象を与えると知っているから、努めて、にっこりと。そうすると、雲が晴れるように一気に場が華やぐのです。
 これがロウウェンの覚悟。営業スマイルでご婦人方を虜にしつつ話を聞き出そう作戦です。
 にこやかに微笑みながら、精一杯、さわやか朗らかな声色を使います。
「失礼。ちょっと、お聞きしたいことがあるのですが」
「あの、ど、……どちら様でしょう」
 比較的年配のご婦人が代表するように問います。舞い上がらないように、必死で動揺を抑えているように見えます。努力はしているのでしょうが、端から見れば、足下がふわふわ浮いているのが丸わかりです。
 色々思うところはありますが、ロウウェンはそれを面に出しません。
「……さる高貴な方の遣い、とだけ。でも、怪しいものではありません。主人は、奇病の罹患者に何かできないかと考えていまして、まずはその為の下調べをしているのですよ。よければ、協力して戴けませんか?」
 普段からは考えられないようなさわやかな声色に、魅惑的なほほえみ。加えて、気品のようなものを持ちつつも奢る気配もなく、実に素晴らしい好青年ぶり。
「な、何でも、……何でも、聞いてくださいまし!」
 少女のように頬を染めて。ご婦人方、軒並みノックアウト。
 しかしロウウェンの方も、K.O.寸前。彼自身の抱える、多大なるストレスによって。




「…………はぁ」
 疲れ切った、ため息。乾いた風に葉が一枚かさこそと石畳を滑り行きます。井戸の縁に腰掛けた魔術師殿は、ぐったりとお疲れの様子。人のいないシュイはしんと静まり、益々疲労が積み重なる気がします。
 肉体的に、より、精神的に疲れていました。人生初めての営業は成功したものの、跳ね返るダメージは予想を遙かに上回る量だったようです。
 それもこれも全てアレクシアのため。
 アレクシアの生死が関わっているから、ロウウェンもなりふり構っていられないのです。ムダに高いプライドは、この状況下では野菜クズより役に立ちません。
 もう一度、深いため息で精神的疲労を体内から追い出しつつ、ロウウェンは地図を広げました。
 書き込みはそれなりに増えていました。精神力を使い果たした甲斐あってか、営業的聞き込みは一定の成果を上げたようです。ただ残念なことに、何が書いてあるかは分かりません。一応コーリン語のようですが、どこからどこまでが一つの言葉で、それがどの点を説明するものなのか、甚だ不明です。書いた本人にも読み取れるものか、怪しいものです。ロウウェンの記憶と合わさって、初めて読解可能になるのでしょう。
 首を傾げて地図を眺め、むうっと低く唸ります。
「……シュイに集まってる……? の、か?」
 何となく、そのように見えるのです。とは言え、そもそも聞き込んだ数自体が少ないので、決めつけることはできません。
 ロウウェンはイライラと頭をかきます
「……サンプルが少ない。少なすぎる。クソッ……上の手のヤツら、思った以上に厄介だ。本当に状況が分かってんのか? 箝口令敷いたところで、病を駆逐できなきゃ明日は我が身だってのに……!」
 営業的聞き込みは、成果はそれなりにでるものの、基本的には非効率的です。時間が掛かることこの上ないのです。しかも、話を聞ける下働きのご婦人方も、いつでもシュイにいるわけでなし。現に、夕暮れ前の今の時間は彼女たちも屋敷内での仕事が忙しいようで、誰一人、見かけません。別の切り口を見つけなければ、如何ともしようがありません。
「……んん〜……考え方を変えよう。屋敷の人間から直接これ以上の情報を得るのは無理だ。となれば、外へ目を向けなければならないが、う〜ん……」
 しばらく考え、また、はぁとため息を吐きます。
「だめだ。疲れすぎて、考えがまとまらない。営業スマイル恐るべし、だな」
 肩の力を抜き、空を見上げます。いつの間にか、雲が出てきています。黒い雲はないので、雨の心配はなさそうです。時折、太陽が隠れて強い日差しを遮ります。そして初めて吹く風は冷たいことに気付き、夏の終わりを感じます。
 アレクシア、と、小さな小さなつぶやきが魔術師殿からもれます。最後に見たのは、薄暗い明かりの鏡の中。病は進行していないだろうかと、辛い思いをしていないだろうかと、心配すれど為す術無く。ため息は、尽きません。
 目を閉じれば、厨房で立ち働くアレクシアがいとも簡単に思い起こされます。たくさんのコーリン人に囲まれ、くるくるとめまぐるしく、ちょこまかと素早く、忙しそうで楽しそうな、そんな姿。ふっと、そのイメージの中のアレクシアが、消える。途端に、そのイメージは色彩を失い、灰のように崩れ……
「…………!」
 がばりと身を起こす。ロウウェンはすでにヒントを掴んでいました。
「そうか……」
 つまり、罹患者が出れば当然隔離するなり解雇するなりしなければならず、するとその分の働き手が減る。一人二人なら全体でカバーできるだろうけれど、複数人罹患者が出たなら、どうするか。今のスーシアの状況のように。滞った仕事は、新たに労働力を雇い入れないと片付かない。それは伝染病の別の視点。
 罹患者が出たと聞かなくても、罹患者が出たに違いないと推測できるだけでもいい。ここ最近で急に求人をかけた屋敷があれば、すなわち罹患者が出たとみて間違いない。
 これなら、いける。
 上の手のお屋敷相手の口入れ屋は限られています。プライバシーがどうこう言ってきたとしても、数件の口入れ屋を締め上げるだけで上の手一帯の情報を得られるなら安いもの。
 ロウウェンの口元が、笑いの形に歪みました。ご婦人方相手の好青年ぶりはどこへやら、まさに悪の魔術師。若しくは、ドSな悪の貴公子か。何にしても、絶対にお近付きにはなりたくないけれども、遠くから見る分には腰が砕けそうな程の美貌です。
「よし……今日中に、終わらせる」
 宣言しつつ立ち上がり、歩き出すその手にはすでにタクトが握られています。脅して吊し上げる気、満々。




 日が暮れかかっていました。
 真夏はいつまでも太陽が頭上高くにあったのですが、夏も終わりとなれば、少し長いな、程度になります。もう少ししたら昼と夜が同じ長さになり、本格的な冬がやってくることになります。
 レイシンは大通りを歩いていました。宿を目にする度に扉をくぐり、尋ね人を探します。
 尋ね人、すなわちロウウェンです。
 聞き込みを終えたレイシンが診療所で見たのは、忙しそうに働く病院スタッフだけです。ミーティングをするといっていた魔術師殿は見当たりません。いやな予感と共にロウウェンの行方を聞いたところ、案の定、返ってきたのは「戻らはってないよ」の言葉。思わず、あんにゃろう、と漏らしてしまったのですが、ヤン先生は苦笑いしただけで聞き流してくれました。
 端から、ロウウェンが遅い時間までまじめに聞き込みを続けているだなんてことは思っていません。自分の興味が向く範囲以外のことは面倒に思っていることは明白です。
 診療所にはジョシュアの机はありましたが、魔術師殿のためのスペースはありません。ベースを確保しに行ったのかもしれないと、レイシンは思います。と、そこまではいいのですが、そのベースをどこにしたのか、知る術はレイシンにはありません。ロウウェンは何も言わなかったし、ヒントの一つも残していないのです。
 レイシンのとった手段は。
 大通りの宿一軒一軒に聞いて回る。
 自爆しそうなほど、地味です。それでも、ロウウェンがあまり町の地理に明るくないと言うことを差し引いての、大通り沿い限定です。スーシア中じゃないだけ、随分ましというものです。
 宿で問う言葉は、一言。「新規の客は来たか」です。
 ルーチェから町を閉じることは聞いています。奇病が広まる中、新規の宿泊客など数えるほどもいないのです。
 レイシンはようやくそれらしい客が来た宿にたどり着きました。4階建て4階の、割にいい部屋です。
 部屋の前に立ってみれば、確かに、部屋の中に気配があります。ノック4回。返事なし。
「…………」
 レイシンは、今度は強めに扉を叩きます。
「ロウウェン様、レイシンです。今日の聞き込み終わりました」
 ようやく中の気配が動き、扉が開きます。
「レイシン……よくここが分かったな。どんな手段を使ったんだ?」
「どんなって……診療所にベースをおけないから宿をとったかも知れない、町に詳しくないから宿は大通り沿いかも知れない、今の状況下では新規の宿泊客は極端に少ないから新規の客がいるかどうかだけ聞けば事足りるかも知れない。で、たどり着きました」
「なるほど。タネを明かせば、単純なものだ。問題はその単純な仕組みに気付くかどうかだな」
 言いながらロウウェンは大きく扉を開き、レイシンが入りやすいように身体を半歩ずらします。失礼しますと入ってみれば、リビング的な部屋。寝室へは奥の扉から行くのでしょう。二間続きの部屋はレイシンのような庶民には縁遠いのですが、使用人を連れたそれなりに裕福な商人にはニーズがあるのでしょう。
 そのリビング的な部屋の中央には、透明な液体の入ったガラスの小瓶がいくつも並べられています。小さくてカラフルな紙束と、数冊の外国の本と。本来中央に配置されていただろうテーブルとソファーは、壁側に寄せられています。適当に寄せただろうことが一目で分かる乱雑さで。
 レイシンはしばしの沈黙の後、くるりとロウウェンを振り返りました。
「……これは、何をなさっていらっしゃるのですか?」
「…………ぁぁ、井戸水の、解析を……」
 言葉と共に差し出された紙を受け取り、レイシンはむむっと首をひねります。無理もありません。それは、ヤン診療所で作られた地図。町半分、上の手を中心に書き込みされているのですが、工夫も何もなくただ書き殴られているので、読めません。読めるわけがありません。
 それでもしばらく地図を見ていたレイシンは、床に並んだ瓶と見比べ、
「……井戸が、怪しいとみたんですね?」
 ロウウェンは斜めに構えたソファーに座ります。
「まぁな。大雑把だけど、どうも、シュイに罹患者が集まる傾向にあるようなんだ」
「そうですか。だから、井戸水を解析なさってるんですね? 何か出ましたか?」
 ロウウェンはふっと息を吐き出します。
「正確には、井戸水が感染源だとは思っていない」
「……そうなのですか?」
「ヤン先生の対処には生水の煮沸も含まれていた。煮沸すれば大抵の病原菌は死ぬ。煮沸してダメなら、原因は水以外にあると思った方が合理的だ」
「なるほど、確かに。……あ、では、その井戸水の解析は、何のために……」
 長いため息が漏れます。
「井戸水はクロではないだろうが、そのクロでないことの証明のためだな。可能性は確実に潰したい。罹患者が多発しているシュイ、発生していないシュイ。井戸水のサンプル集めて、こうして解析しているわけだが……」
 疲れたように背もたれに身を預け。
「……まだ半分ほどだが、井戸水はシロで間違いなさそうだな」
 ロウウェンは思いだしたようにレイシンに視線だけ送ります。
「そっちは? どうだった?」
 レイシンは口を開き、思い直したように地図に目を落とし、そして困ったように辺りを見回します。
「……何だ? 何を探してるんだ? ペンか? 書き込みをしたいのか? そこに落ちてるの使え。……いや、床で書かなくても、こっち来てテーブルで書けばいいだろう。……って、何でそこで躊躇う? …………あああ〜〜、肩書きか、肩書きだな? 宮廷魔術師=偉い人ってな図式があるんだな? そんな非効率的な下らない話はいらないから。こっち来て書け、サシで話せ」
「…………はい」
 レイシンは大人しく転がっていたペンを拾い、ロウウェンの向かいに座って地図に書き込みを始めます。見るともなしに見ていたロウウェンでしたが、すぐに目を丸くします。
 記憶力には自信があるといっていたのは伊達ではないようで、迷いなく、ペンを走らせます。そのスピードは速く、何より、書き込みが分かり易い。
 地図の残り半分も書き込みで埋まります。一枚の地図で、模範的な書き込みの例と悪い例とが共演しています。
「……今日、自分が聞き込んだのは、こんなところです」
「ぅ〜ん……何となく、罹患者が集まる傾向はあるよな」
「そうですね。シュイが多いけれど……全く、関係なく多い場所もある。どう考えたらいいのか、見当も付きません」
 ロウウェンはため息をつきながら頭をかきました。
「思ったより、厄介だな。もうちょっとはっきりしたことが必要だ。さて……どうするか……」
 言いながらロウウェンは部屋を横切り、出て行こうとします。
「ロウウェン様? どちらへ?」
「メシ。いい加減疲れた。暇なら付き合え」
「は……はい」
 レイシンは大人しくロウウェンに続いて階下へと降ります。1階の酒場を兼ねた食堂は、場合が場合だけに空いていました。開いているだけましかも知れません。隅のテーブルに着いたロウウェンは、「オススメを、適当に」と適当なオーダーをします。
 一緒に注文した麦酒がすぐに出てきました。ジョッキは二つ。ロウウェンはごく普通に片方をレイシンへ押しやります。レイシンが躊躇っているのを見、やれやれとため息をつきます。
「……だから。肩書きとかどうでもいいから。タメ口聞けとまでは言わないが、いちいち畏まられても、鬱陶しくてかなわん」
「……そうですか」
「そういうことだ」
 レイシンは酒に口をつける。実に慣れ親しんだ、庶民の酒です。
「……もう少し、ましな宿もあると思いますが……」
「は?」
 随分唐突なレイシンの言葉に、ロウウェンはしばし考えます。
「……それは何か、僕が宿に対して何かしら我慢しているんじゃないかって、言いたいのか?」
「それは、……そうです。ロウウェン様は肩書きとか身分とか気にしないようおっしゃいますが、実際、宮廷魔術師の地位が相当高いことは事実です。城でも、そのような待遇を受けていらっしゃるはずです。なのに……」
「なのにこんな場末の酒場にってか?」
 レイシンの言葉を引き取り、ロウウェンは冷笑しました。
「……宮廷魔術師なんてもの、いてもいなくてもどっちでもいいんだ。いたらハクが付くってだけだ。確かに待遇はいいが……僕自身は、一般庶民だ。安酒に文句はないし、食べ物にも執着はない。……味覚がおかしいだけかもな」
 くくっと、小さく含んだ笑い声は、やけに皮肉げに聞こえます。
「飲むさ。食べるさ。今日を生きるために。けれど……それだけだ」
「それだけ、ですか?」
「……毒じゃないならな」
 納得など到底無理な話ですが、レイシンもそれ以上は聞いてきませんでした。運ばれてきた魚の塩焼きを無言でつつきます。
 黙々と食事をする中、ロウウェンが唐突に口を開きます。
「……共通点を探るしかないな」
「……は? いきなり、何の話ですか?」
「君は面白いことを言うな。今日一日、何をしていたんだ?」
 小馬鹿にしたような冷たい視線。レイシンは食物、だけではない、何かも一緒に呑み込みます。
「……。罹患者が集まる場所の、共通点ですか?」
「そうだ。他に手がかりはないからな」
「とはいえ……雲を掴むような話ですね。共通点は人なのか場所なのかそれすら不明ですし」
「まぁな。でも、他にやりようもないだろう。時間もないしな」
「確かに、そうですね」
「ところで君は自覚症状はまだなしか?」
 ロウウェンの話は実によく飛ぶようです。説明もないものだから、常に頭はフル回転。
「自覚……病の、ですか?」
「もちろん。潜伏期間は人によって違うらしいが……今日一日で罹患した可能性は低くない。自覚症状が出たら、とっととヤン先生のところに行ってくれ。僕に義理立てする必要なんてないから」
「分かりました。今のところ、何ともありません。それにしても……」
 ジョッキを傾ければ、底に残った琥珀色の水面に憂鬱げな顔が揺らぎながら映り込みます。
「短期決戦ですね、実に。急がないと罹患者が次々死んでいくし、そうじゃなくても、自分たちが罹患して死体になりかねない」
「そうだな。まぁ……城から出てきたヤツらは、多かれ少なかれ自分の死を覚悟してきてるよ。ジョシュア先生だってそうだ。本気で命賭ける気で来てるからな。頭が下がるよ」
「ロウウェン様はどうなんですか」
「……僕?」
「覚悟がなければ、病に対して何の手立てもない町に出てきたりはしないんじゃないですか?」
「なるほど。残念ながら、死ぬ覚悟なんて毛ほどもないね。自己犠牲の精神は欠片も持ち合わせていない。誰が好きこのんでボランティアで来るもんか。アレクシアが罹患しなけりゃ……」
 唐突にロウウェンは口を閉じました。しかめられたその顔は、余計なことを言ったと、如実に語っていました。
「アレクシア? ……厨房にいる、異邦人ですね? 何度か見かけたことがあります。……そうですか、彼も、罹患したんですか」
「そうか、厨房に出入りしてるって言ってたな」
 ロウウェンはため息をつき、空の皿にフォークを投げ出すように置きました。
「罹患したんだよ。記念すべき、城内第一号だ」




 どれくらいそうしているのか。時間の感覚は、とうに、ない。
 部屋の隅で膝を抱えてうずくまって。食事は水とパンとジャガイモ。水以外、全く手をつけていない。
 生きることをあきらめたわけじゃない。信じろと言われた。信じると、言った。それはうそじゃない。ただ、…………固形物が、喉を通らない。多分、恐怖から。
 自分はこんなにも弱い人間だったのかと、アレクシアは自分自身に嫌気が差す。いや、弱いことは知っていた。忘れた振りしていたその事実を、無理やり、再認識させられる。
 うずくまり、ぼんやりと、見るともなしに暗がりを見詰める。
 その、濁った瞳に、ふと、灯りが映る。動かし方を忘れたような緩慢な動作で顔を上げる。
 ……唯一の扉が、開いている。
 頭に掛かった霧が、一気に消える。見開かれた目に、やたらとぼんやりした灯りのランタンが見える。暗がりの中からそのぼんやりした灯りの中へ、すぅぅっと白い手が現れる。手招き、1回、2回。そしてまたすぅぅっと灯りの外へ。
 心臓まで、凍り付いたように時が止まっている。
 灯りが動く。扉から、離れていく。
 心より先に、足が動いた。全身、錆び付いたような音を立てながらも、かろうじてバランスをとり、必死で扉をくぐる。
 その先に、小さな灯りは待っていた。先導する光。光しか、見えない。後は闇。暗がり。
 足が止まる。竦んだと言ってもいい。
 自分は、死病をもつ身。死病を、運ぶ身。ここに、留まらなければ……
 光が止まった。振り返る、気配。そして、
「出て行け」
 氷のような声。拒絶。嫌悪。否定。
 その光は、アレクシアを救いに来たわけではない。厄介払いを、したいのだ。
 これが普段なら、その声に、隠されもしない拒絶に、アレクシアは射すくめられてしまっていたかもしれない。けれど今は、逆に、吹っ切れる。
 隔離したのはそっちだ、それなのに出て行け? ……死病を、振りまいても知らないからな。
 アレクシアは光を、追う。
 続く先は希望か、死か。
 それでも、それは澱んだ時間を押し出した。ならば、流れる。


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