死ニ至ル病 ── 罹患報告 deathreport 2  




 次の日、午後。
 メイドさんが気まずそうに通り過ぎます。近くまできて気付く、物々しい雰囲気。宮廷魔術師と、近衛隊士の紅一点、副隊長シャオラです。国王に対して臣下の礼をとらないロウウェンと礼儀にうるさいシャオラは、どうにも互いにウマが合わないようです。件の二人から発せられる効果音の付きそうなおどろおどろしい何かに、メイドさんは足を早めます。
 メイドさんを無用にビビらせた彼らが何をしているかといえば、何やらにらみ合っていました。互いに扉をふさぐように、相対しています。ロウウェンの背後では、実験途中の器具達から時々ぽふっっと煙が吐き出されています。開いた窓から風が吹き込めば、開きっぱなしの本のページがぱらぱらとめくれていきます。ついでに、ホコリも立ち上ります。今日も今日とて、ロウウェンの実験部屋は大混雑の様子。
 ちなみに、ロウウェンはこの実験部屋で寝泊まりしていますが、居室は居室であるのです。二部屋続きの立派なものが。数えるほども使っていませんが。
 それはそうと、シャオラが糸目を器用に吊り上げて口を開きます。
「陛下が、お呼びです」
 少し前にも、同じ言葉を口にしました。二度目です。
「いやだ」
 少し前にも、同じ断りを入れました。二度目です。
 そして二度目のにらみ合い。
 シャオラがこめかみに青筋をいくつか浮かばせつつ、三度、口を開きます。
「重要な相談事があるのでお連れするよう、仰せつかっているのです」
「なるほど、君の事情は分かった。スオーラには、用があるならそっちが来いと伝えてください」
 シャオラから洩れたため息は、怒りを少しでも吐き出そうとしているように思えます。
「…………いつも平行線ですね。何故、陛下の御前へ行かれることを、そこまで嫌がるのですか?」
「なるほど」
 ロウウェンはこくこくと、何かを納得したように頷きます。
「そもそもそこから見解の相違があったわけだ。なるほど。僕としたことが、こんな初歩的なことを」
 ふっと、短く息を吐き出し。
「僕としては、何故呼ばれたからと言って『陛下の御前へ』行かなければならないのかってことですよ。用事があるものが出向くべきだ。身分に関わりなく。しかし君は、スオーラの言葉は絶対だと思っているフシがある。この見解の相違は大きい。恐らくこの先、妥協点を見つけることは困難を極めるだろう」
「はぁ…………」
「そもそも、この身分制度というのは、いつ、なぜ、始まったと思う? 少なくとも、文献が残っているような時代には、ある程度の身分制度はあったようだ。だが、考えるに、文献が残る以前は、人というものは、今ほど長く生きていないんだ。衛生状態も栄養状態もよくないのだから」
「はぁ」
「つまりは、人口が少ない。そもそも、人口と言えるほどいたかどうか。つまり、集落は、小さなコミュニティに過ぎなかったわけだ。そのなかで、人は生き抜くために群れ、群れを率いるリーダーが生まれ、統率するもの・されるものが生まれる。そこまではいい。だが、支配者というのは、所詮、この群れのリーダーが進化した形態に過ぎない。リーダーの指示には従わねばならないだろうが、それはあくまで、群れで何かを成すときと言う限定的な状況にのみ適用されるべきものであって、いつ如何なる時でも従わなければならないという性質のものではないはずだ。人は猿ではない。猿のリーダーと、人のリーダーは違うものであるべきだ。人はあくまで個々として立ち、個々をまとめるものとしての統率者は職業的であるべきなんだ。その職業の責務によって発せられる統率者の言葉に従うことに異論はないが、しかし、その職業そのものに対してへりくだるのは筋が通らないだろう。目的はあくまで群れの統率であって統率者はその手段に過ぎない」
「はぁ……」
「それがどうだ。手段に過ぎなかったはずの統率者というものが、それそのものが重要であるかのように人に染み渡っている。人は群れを長く作りすぎたのか。群れを成すことも、生き抜くことが目的だったはずなんだ。しかし人は惰性で群れを成し、停止した思考の中でただ楽だからという理由だけで、統率者に追従する。全く嘆かわしい。人は考えなければならない。常に。疑わなければならない。全てを。そう思わないか?」
「ぁ……はぁ……」
 ぽかんとしているシャオラに、ロウウェンは片手を挙げ、
「じゃあ、僕はこれで」
 と、扉を閉め……
 がづっっ
 硬い音。扉は拳一つ分くらいの隙間を残して止まっています。その隙間には、シャオラの足。閉められぬよう、足先を突っ込んでいます。ロウウェンは無言で扉を緩め、再び勢いをつけて閉めます。
 がづっっっ
 やはり、硬い音。
「……鉄板入りですから、痛くありません」
 見た目は単なるブーツ。しかしつま先とかかと部分に鉄板が入り、靴紐を通す穴も全てはと目がつけられ、異様に丈夫に作られています。スオーラ監修により作られた支給品の軍靴です。
 さらに。
 ぐわしっ
 シャオラの手が、扉の端を掴みます。そのまま、ロウウェンの手を振り切るように扉を全開にしてしまいます。糸目は全く表情を変えません。柔和な糸目は、逆に表情が読み取りづらいようです。
「…………。」
 ロウウェンはあきらめたようにため息を吐きます。
 シャオラが扉から一歩下がり、ロウウェンが部屋の外へ一歩踏みだし、そして背後の実験機材達が、
 ぶごんっっ
 ……爆発しました。
 ロウウェンは目を丸くして振り向きます。シャオラも、糸目全開で見ています。
 もわりと、ステキなピンク色した煙が発生していました。それは空気より重たいようで、机の上を這い、端から床へと滝のように流れ落ちてゆきます。ピンク色は床にじわじわと広がり、
 ばたむっっ
 音を立てて、ロウウェンは扉を閉じました。きゅっと口を固く結び、開くものか、と。
「……ロウウェン殿」
 すでにシャオラはいつもの糸目です。
「あまりスオーラを待たせても悪い。とっとと行きましょう」
「何の実験をなさっていたのですか?」
「重要な相談事って、何だろうな。面倒ごとじゃなきゃいいが」
「あのけばけばしい煙は何なのですか?」
「いやいやまったく、今日もよく晴れたもので」
「何故話を逸らすのですか?」
「…………」
 淡々としていながらも容赦のないシャオラの追求に、ロウウェンはむむっと顔をしかめます。




「……で、結局何の実験をしていたんだ?」
 小会議室の机に組んだ脚を行儀悪く乗っけて。今にも尻がイスから滑り落ちそうな状態で、絶妙なバランスをもってスオーラが座っています。
「ピンクの煙を出して失敗したらしいじゃないか」
 対してロウウェンは、不機嫌そうな横顔を正面のスオーラに見せています。
「……それ、シャオラ副長が?」
「ああ」
 会議室で待たされていた僅かな時間に、その報告はなされたようです。
 ロウウェンはふっと息を吐き出します。
「失敗かどうか、確認すらできていない。実験途中だったからな。確かに、あの煙は想定外だが、それだけで……」
「……シャオラ曰く、」
 スオーラの口元に、意地悪い笑みが浮かびます。
「ピンクの煙を部屋に閉じ込めたときのおまえの顔は、いかにも『やっちまった』的だったそうだが?」
「…………」
 不機嫌そうなロウウェンの眉間のしわが深まります。
「で、何の実験だ? 今の研究テーマは、何なんだ?」
 ため息を吐き、痒くもない頭をかきます。
「幻影魔法」
「はぁ、幻影。……随分前に城中に濃霧が立ちこめたときも、おまえ、そんなこと言ってなかった?」
「……言ったかもな。今回は、それの発展系だ。霧のようなものを出すことはすでに可能だ。次は、その霧に望むものを映し出す。が、……」
 ロウウェンは、不機嫌そうではあるものの、その顔つきは研究者のそれになっています。
「見るものが見ている錯覚を起こすか、実際にそこに見るのか、その辺りの調整が難しくて、どちらも視覚を司る脳に作用するわけだが、片や脳の中で見ていると錯覚させ、片や視覚を騙して見ていると思わせ、そもそも、どちらが完成度として高いのかが計りかねるし、先を見据えればどちらがより応用できるかを見極めねばならないのだが、……」
「俺にはおまえの言葉が難しいよ。説明されても理解できそうにねぇし、幻影魔法を研究中ってことでいいや」
「聞いといて途中でなげるな」
「まぁまぁ。ってかさ、それ、本題じゃねぇし」
「あ……」
 研究内容について報告に来たわけじゃないと、ようやく思い出したようです。
「何だっけ……重要な相談事? だったか?」
「ぁぁ。そうそう」
 スオーラは机から脚を降ろし、何やら、申し訳なさそうな、そんな表情でロウウェンを見ます。
「…………何というか、」
「用がないなら帰る」
「ないなんて言ってないじゃん!? 本題、これから!」
 コホンと咳払いし、スオーラは仕切り直します。
「…………町にな、伝染病が広がってるんだ」
「ああ……噂は聞いた。よくないらしいな」
「よくない。非常に、よくない」
 スオーラは重いため息を吐く。
「噂、どこまで聞いてる? どこまで、広がってる?」
「……僕は、直接聞いたわけじゃない。ひそひそ話を、耳にしただけだ。だから、僕が知ってるのは、感染ルートが不明とか、回復者がいないようだ、とか、そんなところだ」
「そうか……うん、基本、間違ってねぇ。感染ルートはまだ特定されてないし、今のところ、罹患者は闘病期間の差はあれ、すべて死亡している。あと、罹患者には、奇妙な痣が浮かぶそうだ」
「痣……?」
「痣。…………何かな、斑点とかじゃないらしい。模様みたいに繋がってるとか。…………よく、分かんねぇけど」
 罹患者に、症状の発露と共に現れる、痣。最初は薄墨で描いたように微かなもの。重症化と共にそれは濃くなり、末期には墨のように真っ黒になる。
「で、さ。明日、医療品とか、食料とか、そういった物資を町に運ぶんだけどさ、…………一緒に、行ってくんない?」
「……。…………は?」
 不機嫌極まりない冷たい美貌がスオーラを正面から捉えます。びびってしまうのは、ほとんど条件反射。
「一緒に行く? 何を言ってるんだ? 気は確かか?」
「ぅぅ……確かだよ。……だからさ。町の医者も、病の解明に乗り出してるけどさ、なかなか進まない訳よ。おまえ、色々知ってんじゃん。外国のことも詳しいし。その知識、ちょっと貸してくれよ」
「断る」
「早っっしかも断っちゃってるし! いやいや、普通に考えて、これがただならぬ状況ってことは分かるだろ!? それをあっさり断るって!」
「そりゃ、断るだろう。それに、普通に考えて、感染ルートが不明ってことは、行けば罹患は免れないってことで、つまり、」
 一拍おいて、冷たい声で。
「……死ねってか?」
「言ってねぇよんなこと……」
 スオーラは頭を抱えました。
「だってさ……実際、手詰まりなんだよ。ジョシュア先生も現場に向かうんだけどさ、それで好転するかってぇと……ねぇ? ……何か、町医者が優秀らしいんだ。長いこと留学してたみたいで、割と最近帰ってきたって。で、短期間で町の医療レベルが10年進んだとか。それって、結構すごくね? でさ。そんな医者がいても、手も足も出ないって、…………相当だと思うんだよ。だから、医学以外の知識も総動員してさ、……」
「知識だけはムダにあるのにたいして役に立ってもいない宮廷魔術師にもたまには活躍してもらわなないとわざわざ高い給金出してまで雇っている意味がない」
 一息でそこまで言い切り、ロウウェンは肩をすくめます。
「……とでも、言われたか、影に」
「ぅぐ……」
 不味いものでも呑み込んだような顔をするスオーラに、ふっ、と息を吐く。
「図星か。分かり易いな」
「……うるせぇよ……」
 しばし、沈黙が降ります。
 むくれてそっぽ向いていたスオーラが、視線だけロウウェンへ向けます。
「……で?」
 言われて、ロウウェンはかくりと首を傾げます。
「……で、って?」
 また、沈黙。今度は、スオーラが言葉を失ったことに因ります。
「いや……いやいやいや! ずっと、言ったろ? 言いつのったろ? 病の解明のために町に行ってくれないかって! その重要性を説いたつもりだけどなぁ!? それを、疑問で返されても! 結局、どうなの!?」
「あぁ。それ。」
「その話しかしてねぇよ!」
「行かない」
「うっそ、まじで!? ここまで言ってんのに!? ってかさ、町で食い止めないと、こっちまで飛び火すんぞ!?」
「……そうだな」
「したらさ、おまえのお気に入りのキッチンスタッフだって、罹患するかもだぜ? それでいいのか?」
「なるほどな」
 ロウウェンはしばし考え込みます。
「そうだな、もし、城にまで病が到達するようなら、」
「……到達するなら?」
「アレクシアを連れて逃げる」
「…………は?」
「二人で愛の逃避行。これはこれでなかなかどうして。よし、いつでも実行に移せるように準備しておこう」
 ぽかんと口を開いたままのスオーラを尻目に、ロウウェンは会議室を後にします。
「じゃ。」
 とだけ、残して。
 一人残されたスオーラの傍に、影が出現します。どこにいたのか、どこから出てきたのか、相変わらず分かりません。
 スオーラはがっくりと机に突っ伏します。
「……断られた」
「そのようですね。素直に行ってくれるとは思っていませんでしたが、やっぱりだめでしたね」
「え、ムダだって分かってて説得させたの? それってひどくね? 俺、単なる道化じゃん」
「道化ではありません。建前です」
「……ビミョーなことには、変わんねぇな」
 はぁぁと、大きなため息が漏れます。
「しかし、どうするよ。いっそ、あのキッチンスタッフを町に放り出すか?」
「それで魔術師殿が張り切って解明に乗り出してくれるならそうしますが、無理だと思いますよ。藪蛇……どころか、大蛇が出てきそうです」
「ぁぁ〜……確かに」
 怒り狂った魔術師の矛先がこちらに向くのが容易に想像できます。その際の、容赦のなさまで。
 ルーチェは、事も無げに言います。
「仕方ありません。外堀を埋めて、町に行かざるを得ないようにします」
 具体的に何をするつもりかはスオーラには分かりませんが、その対象が自分じゃなくてよかったな〜と思うくらいには、ちょっぴりアウトローで強引で非情なものが含まれるのだろうことは想像がつきます。
「まぁ……それなりに、穏便にな」
 スオーラは一度口を閉じ、にしても、と口調を改めます。
「……にしても、何でそこまでロウウェンを推すんだ? 確かにヤツの知識は広いと思うけど、学者連中でもいいんじゃねぇか? あいつじゃなきゃいけない理由って、何だ?」
「それは…………」
 ルーチェはしばし口ごもりました。
「ご信託があったといったら、信じますか?」
「まとまった休みやろうか?」
「…………影の、情報です」
「…………そうか」
 それ以上は、訊かない。
「……ま、その辺の判断はおまえに任せるよ。……ってかさ、昨日、城に罹患者が出たかもって言ってたけど、どうだった? 調べ、ついたか?」
「見当は付いてます。後は、確たる証拠があれば。……それも、時間の問題です」
「あ、やっぱ罹患してんだ。すでに飛び火してたか。……ってか、確たる証拠とか言ってる場合じゃねぇよ。とりあえず隔離するぞ。後、……城も閉じないとな」
「町は、どうしますか」
「…………。封鎖。貴族連中には、当分自粛ってことで。まぁ……聞きゃしないだろうけどな」
「分かりました。包囲をかいくぐるものはこちらで処理します」
「……穏便にな」
「もちろんです。町を灼く準備はどういたしましょう」
 スオーラの顔が、苦悩に歪む。
「灼かねぇって、言ったろ?」
「それで済むなら、そうしますが。判断を誤れば……」
「分かってる!」
 それは、ルーチェの予言。

「城を、閉じます」
「は? 閉じる?」
「閉じます。文字通り、誰であろうと、出入りを禁止します。城だけでなく、町も、封鎖します。病を、入れないように、出さないように」
「ってマジで? ってか可能か? 封鎖って、町の連中が怒らないか?」
「病を広げないためです。多少強引でも、しなければならないかと」
「はぁ……」
「それでも静まる気配がないなら、そのまま灼きます」
「は……!? 灼くって、何を!?」
「もちろん、スーシアです。それが何か」
「何かじゃねぇよ! ちっこいとは言え一応、首都だぞ!? いやそれ以前に、町一つ丸ごと灼くって……国として、治世者としてあり得ねぇだろ!? 国は国民で成り立つんだぞ!」
「確かに、国民なくして王はあり得ませんが。でも、考えてください。今、何の引継も裏工作もなくあなたが死んだら、後はどうなると思いますか?」
「え……あ、新しい王様が……?」
「あなたが王に就任する際、どれほど紛糾したか忘れたんですか? そもそも、誰が玉座に付くんですか? 病気療養中の兄殿下? 地方に飛ばした先王の兄弟? 誰であれ、あなたの母方の財務大臣が容認するとでも? 現実に、今一番力を持つ強欲大臣が」
「ぅぁ……」
「確実に、対立しますよね。それを機に、地方に飛ばされていた領主達が実権を握ろうと進出してくるかも知れません。そしたら、どうなると思います?」
「ち、……治安が悪化するかな」
「ええ、悪化します。流通も止まります。少なくなった物資の取り合いになり、対立も深刻になり、内戦に発展します。村や畑は戦場になり、行き場を失った民は行列を作って彷徨うでしょう」
「……」
「大袈裟ですか? でもまだ終わりませんよ? 内戦で衛生状態も悪化、駆逐し損ねた病はここぞとばかりに猛威を振るい、結果、コーリンという国どころか、この地域一帯が人の住めない地になりかねない。後は……」
「まだ、あるのか……?」
「後は、大陸諸国が、いつこの地に押し寄せるか、ですね」

 判断をためらえばそうなるのだと。彼女は突きつける。
 確かにそうかも知れない。都を灼き払う王など、あってはならない。しかし、その先を思えば、あえてそうせざるを得ない。──例え、それが処刑台への道に繋がるとしても。ためらってはならない。分かっている。しかし。
「…………何としても、ロウウェンを遣わす」
 そこに、軽薄な顔はありませんでした。どこまでも冷たく、情の欠片もなく、
「最悪、あのキッチンスタッフを町に放り出せ。……あいつには、本気になってもらわねぇとな」
 冷酷な、仮面。




 今日も今日とて、試食職人は夜の厨房に顔を出したのですが。
「……あれ……?」
 きょとんと見渡す厨房には、小動物のように怯えるフェイが独りだけ。アレクシアの姿はありません。
「フェイ、アレクシアは?」
 呼ばれて、まだ少年と言えそうな若者は手にしていた調理用具をがしょがしょと取り落としました。
「ひょっとして、今日は休み? デザートが何だか今ひとつだったのは、そのせい?」
「あ、あの、あ、ああの、そ、その……」
 はぁ、と一つため息。
「別に畏まる必要とかないから、言いたいことがあるならはっきり言え」
 アレクシアがいないと途端に冷酷魔術師的な印象になるロウウェンに冷たく言われ、残念ながらフェイはますます萎縮してしまいます。半泣きです。
「…………! ……ひ、昼間に……!」
 半泣きどころか、ぽろぽろと涙が溢れてしまっています。
「……何故泣く」
「ひぐっっすっすみまぜんっっっ」
「いやもういいから、早く言え。昼間に、何だ?」
 フェイはさらに身をすくませ、涙はぼろぼろと。
「ひ、昼間に、軍人さんが、……き、来たんで……そ、それ、で、あ、…………アレクシアを、つ、連れて……」
 フェイは言葉を切りました。生存本能が、危機を告げています。恐る恐る顔を上げ、硬直しました。
 厨房で見かけるロウウェンは、そこにアレクシアがいるから、いつも上機嫌で、周りで何があっても誰がいても気にすることもなく。それどころか、アレクシア以外とまともに視線を合わせることもなく。
 今、フェイの目の前には、見たこともないほど無表情で、そのくせこちらが凍り付きそうなほどの怒りを発する魔術師殿がいるのです。心臓が止まらなかったのは、日頃の行いがよかったからかも知れません。
「アレクシアを連れて……? どういうことだ? どこへ行った?」
 氷の視線に貫かれ、フェイは首を横に振るので精一杯でした。
「何でアレクシアが連れて行かれる!? どんな理由があって!?」
「分かりません!!」
 恐怖に耐えかね、フェイは叫びます。
「僕も、誰も、料理長だって! 分かりません! 料理長は抗議に行ったけど、国王命令だからって追い返されたって……!」
「……!」
 無言で、ロウウェンは踵を返す。大股に厨房を横切り、乱暴に扉を開けて出て行く。
 残されたフェイはその場に崩れ落ちる。だって、と、聞くものもいない厨房に響く声は、ひどく頼りない。
「僕だって……分からないよ…………何なの、……アザ、って……」

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