プロローグ  




 井戸の縁を、ごつごつとした手が掴む。渇いた砂埃がさらさらと井戸の深淵へと落ちてゆく。初めこそ白っぽい煙が広がっていたが、すぐに見えなくなる。
 男のすぐ側では、若い衆が二人がかりで井戸から棒を引き上げている。等間隔で節の付いた棒は、回収される端からコンパクトに折りたたまれ、全てを伸ばしたら相当な長さになる。
 男の目は厳しい。若い衆が引き上げる棒は、乾いたままだ。最後の節目になって、ようやく先が濡れている。とはいえ、せいぜい、指先から肘くらいまでの長さでしかない。
「……涸れているわけでは、ないのかな」
 いっそ苦々しい声で男が言えば、傍に立っていた初老の男が応える。
「徐々に減っているだけかもしれん。亀裂でも入って、流れ出てるだけかもしれん。どっちにしろ、こんなに水位が低いんじゃあ、降りていって確かめるしかあるまい」
「確かに、町会長の仰るとおりでしょうがね」
 男はちらりと視線を投げる。その先の路地には、あまりガラのよくないのが数人、こちらを窺いながらひそひそとやっている。
「……先にあちらさんと話付けないといかんでしょうね」
 疲れたため息は、両人共に出た。
「……厄介な場所の井戸に被害が出たもんです」
「地震じゃ、誰も責められんよ。あちらさんも、それは理解してるはず。交渉はそうそう難儀するまいよ」
「だといいですがね」
 男は若い衆に片付けの指示を飛ばす。調査に時間をかけすぎれば、向こうにいるもの達との間に無用の軋轢を生む。
 一足先に男とともに撤収しながら、初老の男は言う。
「すまんが、交渉役を頼まれてくれんか」
「わかってますよ。自分以外いないでしょう。早急に折半で話付けますよ」
「ああ、頼むよ」
 初老の男は、四辻を曲がっていく。いつもより小さく見えるその背に、なぜか男は不安をぬぐえない。
 男はもう一度ため息をつき、今にも降り出しそうな空を見上げて憂鬱に首を振る。
「…………いやな……空気だ」
 それを機に、ぱらりと、降り出した。

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