熱  情


 リモコンのスイッチを入れれば、イヤホンに流れ込んでくるピアノ。
 …俺は数学のテキストを開きながらそれを聴いていた。

 高音を追う低音。低音を追う高音。…繰り返されていく。
 つられるように、俺はつい手を動かしてしまう。あるはずのない鍵盤を追って。 

 いつの間にかシャーペンは放り出されていた。

「何ぼけっとしてんだよ」
 後ろから声を掛けられた。
 俺は振り返りもしない。だが、相手は構わず俺に近づき言う。
「…またんなもん聴いて。集中できんのかよ、そんなで」
 言われるのがうっとうしかったので、俺はシャーペンを持つ。
 文字と数字を追って、紙の上に答えを滑らせていく。
 そして、解答をだしたところで、ようやっと振り返った。
 彼は眉を顰めそれを一瞥し、
「ふん、見事な解答だな」
 と言った。
「当然だろ」
 俺はそう返す。

「で、何聴いてたんだ?」
 ふと、表情を緩めて彼はそう訊いてきた。
 だが、俺は無表情のままで返す。
「ベートーヴェンのピアノソナタ」
 …アシュケナージの演奏だ。
 俺はそう答えた。
「ふーん」
 対して面白くなさそうに言った。
 だが、ふと思い出したようにこう言った。
「そうか、それであの手の動きか」

 …どうやら見られていたらしい。

「俺はてっきり、PCかと思ったよ」
 また文章でも思いついて書く気だったかな、なんてな。
 そう言われる。
「確かに。同じ鍵盤(キーボード)だな」
 俺はそう返す。

 もう何年も前に止めたピアノ。
 スポーツをやっていては指を庇いきれないため。
 でもそれも止めてしまい、今じゃ学業の合間に小説なんて書いている。

 それでも同じ「キー」を叩いて、
 形体は違っても、何かを紡いでいる。
 多分、それは「想い」。

 …俺の中に諦めきれない何かがあるってことか。

 ぼんやりそんなことを考えていると、彼はフッと嗤って言った。
「ベートーヴェンか。お前にぴったりの曲かもな『少年』」
 ――『少年』
 それはいつまでも夢見ているような俺に付けられたあだ名。
 理想(ゆめ)が高くて、現実(せけん)との折り合いがつけられない。
 …などと最初は教師の皮肉か何かだったと思うが、今じゃ悪くないと思っている。
 いや、多分気に入っている。
「ああ」
 俺はそう彼に頷いた。
「ただ、もう少し世間てものを受け入れた方が良いと思うぜ。…ぶつかるモノがあまりにも大きいだろ」
 …気が付いていたらしい、俺の不調の原因に。
 進路に関していろいろ悩むことがあり、ちょっと塞ぎがちになっていた。
 無理もない。俺が進もうとしている道は、狭い。――俺が俺のままである限り。 
 だが…。

 …言うのはたやすいが。
 俺には出来そうもないよ、兄さん。

 アンタは、世間並みの道を行って、世間並みのシアワセを得た。
 それはそれで悪い事じゃない。

 でも、俺にそれが似合うかどうかはわからないんだ。 

 俺は心の中でそう言う。

 ――諦めきれない、俺の何か…。

「おふくろも、おふくろだよな。…お前を男に生んどきゃ良かったのにな」
 兄はクスッと笑っていった。
 俺はそれに憮然として返す。
「関係ないね。俺は俺だよ」
 と、彼はスッと目を細めた。 
「…そうか」
 ポツリと言う。
 それは何故だか寂しそうで。…多分俺にじゃない。自分に寂しいんだと思う。
 いろんなものを諦めて、「大人」になってきたんだから。

 部屋を出ていく兄の背中はそう物語っていた。
 俺はその背中に言う。
 
「…俺は違う、兄さんとは」

 どんな境遇でも俺は俺のままでいたくて。
 心の赴くままに生きたい。

 たとえ、それがどんなに辛かろうと。
 理解されなくても。

 …俺は俺のままが良い。

 ・・・・・

 真夜中に地下室に入った。
 久しぶりに訪れる、その部屋は、昔、俺がピアノを練習していた部屋だ。だから防音もしっかりしている。が、今じゃ使う人もなく、真ん中にぽつんと古びたピアノが置かれているだけ。それと、楽譜とクラッシクレコードがしまわれた棚があるぐらい。

 その中から俺はスコアを見つけてきた。
 それをざっと目で追って、ピアノに腰掛ける。

 夜中であることを考え、消音ペダルを入れて、
 俺は思いを鍵盤に置いた指に託す。
 先ほどまで聴いていた、その曲。

 ――ベートーヴェン、ピアノソナタ23番 「熱情」   

 以前のように思うように動かないその手、指。
 1オクターブを楽に越えられる手を持っていても、動かないんじゃ仕方ない。

 それでもメロディを追っていく。…心の中で。

 そんな不器用な様子は
 中にあるこの熱情をもてあます、俺の象徴。

 それでも確かに奏でられていく、曲。
 …俺の中で。

 そしてひとりぼっちのコンサートは終わった。自分に拍手。

「俺は俺だよ」
 そう言い、一人笑う。

 
 この熱情は、誰にも消せやしない。
 ――消させやしない。

 …俺が俺である限り。


(Fin)



 高原旭さん改め、オリジナル用HN朝日奈夕也さんからの戴きものです。
 相変わらず、ものを思わせる話を書かせたら天下一品です。朝一番でこの話を読んで、神崎は丸一日自分の人生についてぐるぐると考え込んでおりました(笑) ……まぁ、何を思ったかまではあえて書きませんが。それはこの話を読まれた方それぞれが、各々自分だけの考えを持つのでしょうから。

 とまれ、素晴らしい話をありがとうございました<( _ _ )>
 いつも素敵なものを読ませていただいて、なんだか私ばかりが得をしているような気がする、今日この頃です。

 さあ、私もがんばらなくては。




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