幻想交響曲 ― true type −

                   高原 旭   



 その調べに覚えがあった。
 そして呼ぶ声が聞こえるような気がして。
 階段を上っていく、夢遊病者のように。
 その足が向かっている先は中庭。

 そっとドアを開ける。
 遮るような強い風。
 バイオリンを持ったまま振り返ったのは…君。

 
 ふっと浮かび上がるような目覚めだった。目に入るのはもう見慣れてしまった自分の部屋の天井、タバコが染み付いて少しだけ黄色がかって。覚醒の浮かび上がる感覚を掴まえたままで、僕は起き上がる。遮光性の強すぎるカーテンでは忘れてしまう時間。サイドテーブルの時計をみれば8時過ぎ。もう少し寝ていても良かったが、起きてしまうことにする。いや、もう眠れない。あんな夢を見てしまった日は。
 それは酷く懐かしい夢で、心をノックされるような感覚を覚える。あまりにも鮮明なバイオリンの音色。今にも壊れそうな繊細さ、それでいて心の奥を抉るような鋭さ――ガラス色の響き。
 最後に聞いたのは随分と前なのにそれでも耳に残っていて、いっそ幻聴にさえ悩まされる。
 ――「感覚に残る記憶と言うのは、強いんだ」、そう言ったのは誰だったか。
 
 僕の中に君は棲みついてしまっている。
 切り離せない君。
 いっそ、僕の心のすべてを連れていって欲しかった。
 …今はもう、叶わない。

 切り取られた君
 僕の中に――。

 洗いざらしので窓辺にかけっ放しだったジーンズに、白いシャツをアイロンも当てないままで羽織る。使い古したディパックを担ぎ、テーブルの上にあったキャメルとライターと財布をポケットに無造作に突っ込んで、キーは持ったまま部屋を出る。
 鉄のドアが閉まる音がアパートの廊下に響く。差し込んだキーを回せばカチャンとロックされて、僕は階段を下りていく。
 特に考えずに出来る一連の動作。慣性と惰性で動く今の僕。

 切り取られた僕の一部。
 そう、今はもう…きっと、ない。 

 僕は駅へと急いだ。 

 ・・・・・

 廊下でよく知った背中を見つけて、僕はその背中に呼びかけた。 
「カノン」
 長く色素が薄い髪が振り返った。そして微笑み。
「篠原君。久しぶり、最近どう?」
「異常なし」
 くすっと笑う彼女。白い肌をした顔の横で髪が揺れた。
「相変わらずね、そういうカウンタ」
「君はうまくいってるようだね」
 僕は微笑み返した。カノンはバイオリニストだ。この頃じゃ世間の注目を浴びるようになったぐらいの腕の持ち主で、国内にとどまって普通に大学――それも理工学部に通っているのが不思議なぐらいだ。まあ、それこそ彼女らしいと言えば彼女らしくて。以前に軽く理由を問うたところ彼女はこう返した。
「数学者のバイオリニストって格好良くない?」
 …それが理由らしい。まったく。天才肌の人間て奴は良くわからないのが多い。いや、僕はそれが好きなんだが。

 彼女とはじめて会ったのは入学式。
「ここ空いてますか?」と言い、隣の席に座ったのが彼女だった。色素の薄く、スラリとした姿が印象的だった。全体のイメージは繊細そのもの。でも内面から滲み出るしなやかさが伝わってきて、随分と彼女から視線がはずせなかったものだ。…一目惚れというヤツなのかもしれない。
「あなたも数学科?」
 不意に彼女に訊かれ僕は「え?ああ、そうです」と答える。
「そう、私もなの。よろしく」
 美しいソプラノだった。鈴の音のような声というのはこういうのだろうかと、僕はぼんやりと考えた。
そのまま彼女を見つめてしまっていたせいだろう。
「あの?」
 彼女が僕の顔を窺ってきた。それで気がついた。
「あ、すみません」
 僕は謝る。彼女がクスリと笑った。
「…面白い人」
 彼女はそう言った。
「そうですか?」
 僕は頭を掻いた。…たしかに変な奴とは言われたことがあるが。しかし、こういう風に誰かと接したことはほとんどない。その珍しさに驚くとともに、何が僕をそうさせるのか不思議でたまらない。
「私、黒崎花音といいます。あなたは?」
 彼女はそう名乗り、僕の名を訊ねた。
「僕は篠原透」
 それが僕の名前だ。

 そして。
 僕らは…いつしか恋人になっていた。
 

 いつものように学食で一緒に昼食をとった後、二人で中庭へ出る。
 僕はポケットからキャメルを取り出して吸い、そしてその横で彼女はバイオリンを持ってきてなにやら曲を弾く。
 …もはや、恒例のミニコンサートだな。そんなことを思い、僕は微苦笑を浮かべる。聴衆に多少ばかりの嫉妬を感じながら。
「ねえ、知ってる?」
 バイオリンを片づけながら彼女は僕に話しかけてきた。
「ああ?」
「バイオリンの音色って、人の声に近いんだって」
 僕は彼女の顔を見た。
「いや、初耳だな」
 でも、そう言われてみればそうかとも思う。
「計算して出してみようか?」
 彼女はレポート用紙に波長、振動数を書き出す。
「ね?」
 …確かにそうだ。そして僕は意趣返しを思いつく。
「じゃあ、僕は青空を書いてみようか」
 さらさらとそのレポート用紙を取り上げて書いてみせる。
「ほら?」
 広がる青空を遮ってそのレポート用紙を目の前に出す。
「……意地悪」 
 彼女はふくれっ面をしてみせた。
「怒った?」
 僕は訊く。すると彼女はふっと肩にいれていた力を抜いた。そっと僕に寄り添う。
「…うんん」
 そう首を振って、コテンと僕の方に頭をおいた彼女。
「あなたのくれた青空で良い」
 そう言って微笑んだ。
 人がいないのを見計らって、僕はその彼女の唇に口づけた。


 珍しい彼女の呼び出しに、僕は彼女の部屋へ向かった。私鉄沿線の小さなワンルームマンション。幾度か足を踏み入れたことはあったが、どうしてだろう、今日は何か違和感を感じた。
 玄関すぐのところにあるキッチンスペース。そこに食料は置かれていない。生活感がすこし薄れていることに気がついた。
 パテーションの奥のベッドでは彼女が上体だけ起こして、本を読んでいた。
「風邪でも引いたのか?」
 僕はそう訊いた。
「違う」
 彼女は首を振って言った。
「じゃあ、どうしたんだ?」
 僕は訝しげに彼女を見た。そして彼女は言った。
「ガンなんだって」
 そう一言。
 …彼女の両親は飛行機事故で他界している。友人はそんなにいるほうではないし、ペットの類も飼っていない。
 だから僕は訊く。
「誰が?」
 …訊くまでもないだろうが。もう一人の僕が言う。
 色素の薄い肌、髪。細い腕、細い足。そして、なにより時々ふっと見る暗い影の表情。
 そんなわけない、そんなはずあるものか。悪い夢…嘘だ…冗談だ。
「私…末期だって」
 宣告。
 そう言った彼女はどこか遠くを見ている。
 急速に壊れていく世界……。
 消えていく、君。
「カノン…」
 僕は呼ぶ、彼女を引き戻したくて。…お願いだ、嘘だって言ってくれ。祈るように僕は彼女を見る。そしてぽつりと漏れた言葉。
「卑怯だね、私」
 彼女は私から視線をそらし、窓の外を見ながらそう言った。そして付け加える
「そうやって、あなたを束縛する」と。
「…いや?」
 僕はその言葉を否定した。
「それは同情?」
 彼女は訊く。 
「…わからない」
 僕は本心で話す。
「断る理由がない。肯定する理由もない。ただ言えるのは…」
 言葉を切った僕の顔を覗き込む彼女。
「何?」
 その瞳を真っ直ぐ見据えて言う。 
「君を見ていたいとは思う」
 …ずっと見ていたい、君から離れられない、ただそう思うだけ。彼女の返事はポツリと一言。
「…変なの」
 僕は少しだけ微笑んで言う
「知っていたんじゃないのか?」 
 僕は彼女を抱きしめる。
「僕は決めた。君をずっと見ていると」
 他に思いつかなかった。そうとも伝える。
「…ありがとう」
 そう言った彼女のほうを涙が伝った。僕は彼女の横に腰掛ける。頬にそっと手を置く。
 唇が重なった。あとはただ沈黙。
 

 入院したはずの彼女が姿を消したのは、それからまもなくだ。
 夜中に僕のところに連絡が入った。
「ええ、僕も心当たりを探してみます」
 そう、返事をし、受話器を置いた。

 …確かに、末期ガンの治療は単なる延命だ。
 ただ、病院で機械に繋がれてただ死への日数を稼ぐより、彼女は人生の幕を自分で降ろすことを選ぶだろう。
 そう舞台の上でスポットライトを浴びていたバイオリニストは、それを選ぶはずだ。

 それでも、僕は彼女を捜さなければいけないと思った。
 連れ戻すためではない。
 …彼女と一緒にいるために。


 そして、考える。
 …彼女が行くところ。

 僕は僕たちが最初に出会った場所へ向かう。 

 真夜中近く、僕は家を飛び出す。
 ――大学へ向かって。
 何もかも振り捨てるように走る僕を追いかけてくるのは、月だけだ。
 
 …月はそんな僕を見守っているようだった。


 そして遠くに聞き覚えのある調べ。
 僕はいつかその曲のタイトルを問うた。

「私の…最初で最後の曲だね」
「…名前はまだ?」
 僕は訊いた。彼女は答える。
「幻想交響曲」
 これはそのソロ部分だと彼女は言った。

 僕は駆け出す、その音の元へ。ただひたすらに走る。
 僕を呼んでいる、――バイオリンの音色。
 大学の中庭に彼女はいた。僕はその場に立ち尽くした。聞き間違いようのない、あのメロディだ。そして立ち尽くしたのではない、動けないのだと気付く。
 月のスポットライトの下、バイオリンの音色は何処までも響き渡るようだった。…こんな美しく、悲しいコンサートはない。観客の僕は静かにその演奏を聞いているしかない。
 そして、曲は終わった。僕は拍手を送りながら、彼女に近づいていった。
 それに驚いて振り向く彼女。その目が「どうしてここに?」と訊いている。その問いに僕は微笑んで返した。…僕はわかる。君のことなら。僕は、君を感じている。
「篠原君…」
 僕は何も言わず抱きしめた。彼女も抱擁を返してくる。…その腕や力の頼りなさに、軽い絶望を覚えながらも、ただ、強く抱きしめる。いっそ閉じ込めてしまうくらいに。
「…このまま、ふたりで消えてしまおうか?」
 その僕の言葉に「うん」と頷いた君。
「何処へいく?」
 その髪を梳きながら、僕は尋ねる。
「何が欲しい?」
 問いながら、髪に顔を埋めた。
「…思い出」
 呟いた彼女。
 僕は提案する。ずっと二人で行こうと決めていた街。
「京都へ?」
 彼女はその街の名を訊き返した。
「そうだ」
 僕は頷き、彼女を抱きしめた。
「うん」
 僕の腕の中で、彼女も頷いた。


 やってきた京都の街。
 出町柳近くの鴨川の河原で。

「おい」
 止めるのも聞かず、川へ入っていく彼女。
 …風邪でも引いたら、と心配する僕をよそに彼女は「ひんやりとして気持ち良い」と楽しげだ。
 子供のように無邪気に足を浸して遊んでいる。
 が、ふっと次の瞬間、彼女の身体から力が抜けたようで、倒れそうになった。僕は慌てて、彼女の元へ行く。支えようと川に入った僕の服も濡れてしまった。でもそんなことは些細なことで。なんとか彼女を抱きかかえた。
 すると彼女は、
「嘘」
と微笑を浮かべて言った。でも、それはどこか弱々しくて。…嘘なもんか、と思う僕。そして嘘であって欲しいと思う僕。
「カノン」
 僕は彼女の顔を覗き込む。
「…お願い、このままでいて」
 彼女の願い。
「ああ…」 
 僕は彼女を抱き寄せる。そして、そのまま二人で川を眺めていた。
「…綺麗」
 彼女が溜め息をつくように言った。
「ああ」
 僕は頷くことしか出来ない。…もう、何も考えられない。彼女以外には。
「この水の音…あんな曲、大したことないのね」
 彼女はそう言った。
「そんなことない」
 僕は否定する。僕には…どんなものよりも、彼女が…カノンが一番だった。
「良いの。嬉しかった…」
 微苦笑する彼女。あとは何も言わない。僕はただ彼女を抱きしめる。
 …本当に、この腕に閉じ込めてしまえたらと幾度思っただろう。でも、そんなことはできなくて。
 ただ抱きしめる。強く、強く。
 そんな僕に、彼女は微笑むとそっと僕の頬へ手を伸ばした。僕もその手に自分の手を重ねる。また彼女は微笑んだ。
 そして――。
「本当に…嬉し、かっ…た…」
 そう言ってゆっくりと目を閉じた彼女。すべて預けられた、あまりにも頼りなさすぎる重み。
「カノン?」
 名を呼んでも、もう返ってこない言葉。川のせせらぎがフォルテに変わっていた。
 …でも、信じない。
「嘘なんだろ?」
 …もう戻らない、本当はそう感じてしまった。でも、それを否定したくて。認めたくなくて。何度も彼女を呼ぶ。
「カノン!」
 返事はない。
 力なく落ちた手が、水に浸る。抱きしめた身体が、急速に冷たくなっていくのを感じる。
 そして――もうあのバイオリンは二度と聴けないのだと知ってしまった。
 その冷たい身体を抱きしめたまま、空を見上げた。その空の吸い込まれそうなほどの青さに、美しさに、僕はどうしようもない喪失感を感じて。そして、そのやりきれなさに。
「畜生――!!」
 僕は叫ぶ。その声をも空が吸い取っていく。
 頬を伝っていく涙は拭いはしない。
 僕はもう一度、彼女の顔を見た。眠っているような安らかな顔。…永遠の眠りとはよく言ったもので。僕は頬を濡らしたまま、何とか微笑んでみせて彼女に言った。
「愛してる、永遠に」
 そっと冷えた唇に唇を寄せた。
 
 周りが騒がしくなった。
 救急車のサイレンが近づいてきたのを、僕はぼんやりと聞いていた。

 ・・・・・

 電車はホームに滑り込んだ。何時の間にか止まっていたMDに気がついて、僕はイヤホンをはずした。本当はMDなんかなくたって、忘れようもないメロディ。そう、幻聴に悩まされるぐらいなのに、それでも忘れたくなくて、こうして聴いてしまう。
 こうして染み込んで染み込んで…。

 君は僕から離れない。
 僕は君から離れない。

 …いつまで続くのだろう、この思いは。断ち切れない、断ち切りたくない。――でも、何処へもいけないのだこの気持ちは。 
 
 駅を出てビルの街を歩く。霧雨の中、傘もささずにただ進んでいく。目の前には傘の海。無意識に彼女と同じ色を探してしまう自分に気付いた。その思いを誤魔化すようにくわえたキャメルのは、消えてしまいそうで。信号待ちにその様子を眺めていた。そして自嘲、独白。

「…終わっちまえ」
 
 爆音に見上げた飛行機は今にも落ちそうで。
 ――僕を煽る。

 ビルの谷。
 春霞の向こう。
 揺れた君のパラソル。

 すべて幻想。
 夢。幻。

 あの曲のように、この幻想は終わらないのか。

 切り取られた僕。
 切り取った君。

 ゆっくりとアスファルトに倒れこむ自分を感じて。

 切り離せない僕と君。

「…一緒にいる」

 思いは水たまりに溶けて、――やがて消えた。

(Fin) 

泣きました、マジで。悲しいって言うより、切なくて。
この話、アサヒさんはこのえさんに触発されて書かれたということです。(このえさんには了解済みです)
書く人が違うとまた異なった話になるのだなと、しみじみ思いました。
もしも私が書いたら――いや、書きたいなぁ・・・いつか、きっと・・・




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