・・7・・

 私は誰?
 どうしてここにいるの?

 あなたは誰?
 どうして私を助けるの?

 私は何もかも壊してしまうのに?
 
 
 …すべて忘れてしまいたい

 だから、
 さようなら…

・・・・

 2095年。
 旧首都・東京の街に氷室はいた。

「ったく、ハズレかよ、今回の仕事は」
 呟きながら氷室は廃墟の街を歩いていく。…と言ってもこの都市の70%は海に沈んでしまっている。その残った土地も今はほとんど人はなく、たまに浮浪者などが集まっているところがあるくらいだ。
 依頼を寄越してきたのは、民間の研究機関だった。うち捨てられた土地に残してきた資料の回収を依頼してきたのだ。どちらかというと「探偵=何でも屋」の感覚で依頼されたのだろうが、確かにこの都市は危険でもあった。先に述べたような浮浪者が時折暴徒と化すことがあり、数週間前もテロに似たような事件があったばかりなのだ。
「ここか?」
 氷室は示された位置を電子手帳で照会した。ピピッと音を立てて表示された座標は、ほぼ現在位置と重なっていた。
 だがそこは崩れかけたビルがあるのみ。
 氷室はそのビルに近づき、中へと進んでいく。そして、その入り口でプレートを見る。「西東京総合研究所」とそこには書かれていた。
「…世界水没前の研究所だもんな」
 もう言われなくなった地名に氷室は苦笑する。

 そして案内図を見るなり氷室は驚いた。埃を被っていたその案内図をよく見れば「人工生命研究室」とあった。
 その言葉に氷室はぼんやりと思い出す。
「人をつくる工場か」
 聞いたことはあった。水没前にはそのような研究もされていたのだと。もっとも倫理観に反するなどという反対意見もあったそうだが、とどまることを知らない人間の愚かさはそれくらいなんとも思わなかったらしい。…衰退ばかりが気にされる今となっては、誰もそのようなことに興味を示さないようだ。
 氷室はすこしばかりの興味から、本来向かうべき部屋を後回しにして、そちらへ向かった。
 そして、そこの部屋にたどり着き、奥へと進んでいく。
「関係者以外立入禁止」と書かれた扉を蹴破って、中に入って氷室が見たモノは…。

 ――巨大なカプセル。そして中には…女性。

「……これはまた大層な美人で」
 氷室はひゅーと口笛を吹くと、そのカプセルへと近づいた。
「ハル?」
 氷室は文字盤を読みとった。英語で書かれていたので氷室の読解は容易かった。
 と、その氷室の言葉に反応したのかカプセルは動き出した。そして中で水泡が上がる。
「生きてる!?」
 見つめていた氷室は、すぐにカプセルの下部にあったコンソールを叩いた。
 …あとからすれば何故そんなことをしたのかわからないと氷室は言う。
 だが、気が付けばキーを叩いていた。
 表裏どちらもだが稼業上、氷室はその手のモノを熟知しており、操作はわりに容易かった。
 そして、いくつかのコマンドを試し、生命維持機能を停止させ中に入っていた羊水…というのが正しいのかどうかは不明だが、を抜いた。さらにカプセルを開けた。そして彼女を取り出す。
 とりあえず何かを着せねばと思い、氷室は背負っていたディバッグから白衣をとりだし、それを着せた。
 そうしても彼女は目を覚ます気配は見せなかった。
 それにふーっと溜息を付く氷室。
 が、ふと、我に返ったらしい。
「おっと、仕事仕事」
と彼はそこで本来の任務を思いだし、研究室の深部に向かった。いくつかのドアを突破して、地下、それも最深部へと氷室は進んでいった。そこには大型のコンピュータとその端末があり、氷室はそこでまたコンソールを叩く。
 うち捨てられてはいたものの、先程のカプセルもだろうが自家発電装置は機能していて、反応する。
あらかじめ知らされていたコマンドを幾つか入力して、データを引き出す。そして旧型のディスクを挿入してコピーする。これを現行版と互換性のあるコンピュータに移植して、現行版にして引き渡すまでが氷室の今度の任務だったのだ。
 とはいえ、そんなカプセルの存在はまったく知らされていなかった。…恐らく、先方も知らなかったのだろう。この都市が捨てられてからは随分経ってるし、捨てられるまでの動乱でまったく忘れ去られていたのだろう。
 あるいは…極秘裏に進められていた研究で、携わっていた人間はもういないのかもしれない。
 どちらにしても氷室に直接関係ある話ではなかった。状況によっては情報を売ることもしていたが、基本的に氷室は「口外しない」ということで契約を結んでいるのだ。
 ということならば、放っておいても別に何の問題もなかったのだが、氷室は興味を押さえきれず、カプセルを弄ってしまった。
「あとで面倒かな…」と内心思わなかったでもないが、そこは氷室。「どうとでもしてやるさ」と呟いてとりあえず作業を進める。

 数分かかってデータを全部コピーすると氷室はその部屋を出た。そして、指示されていたように時限装置を作動させる。これで完全にデータは残らない、氷室の持つディスク以外には。
「さてと、先程のお嬢さんを回収して脱出しねぇとな」
 そう氷室は呟くと通路を走り出す。カンカンカンと靴音が響いた。
 先程の部屋に戻れば、彼女はまだ目を覚ましていなかった。それにほっと一瞬表情を和らげたが、すぐに戻すと、氷室は彼女を抱えて再び走り出した。…男性としては明らかに小柄な氷室に、彼女はちょっと重そうにも見えるのだが、氷室の表情は実に涼しげなものだった。

 そして、途中肩に彼女を抱え直すと、腕時計に向かって「ポイントA,F」と言う。これは先程の電子手帳に対応していて、なおかつ氷室のエアカーとの相互通信が可能で、座標を指示すれば自動的に車がそこへ向かうようになっているのだ。
 その指示通りに車は入り口に来ており、氷室はオープンにしてあったその車の後部座席に彼女を乗せると、すぐに自らも飛び乗る。そして走り出した。
 しばらくして、後ろから爆破音が響いた。氷室はちらりと振り向く。
 …そこには煙と音を立てて壊れていくビル。
 多くの都市が水没した今となってはそのようなやたら大きなビルが建てられることもなく、壊れていくビルは繁栄だけを信じた人間の愚かさを象徴するようでもあった。

 氷室はニヤリと笑って前に向き直ると、片手でハンドルを操作すると胸ポケットからキャメルを取り出した。それをくわえて火を点け、ふーっと一息つく。
「さてと、京都シティへご案内しましょうか、お姫様」
 そんな戯れ言を呟き後部座席を見る。
 …眠れる姫君は何も知らず、車は元は高速道路――中央道と呼ばれていたその道を疾走していく。

 いつの間にか陽はもう沈もうとしていた。





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