・・5・・

 
「頼んでおいた例の計算、終わった?」
 デスク上のパソコンと睨み合いしていた氷室はそれが一段落するなり、院生の一人に声をかけた。
「ええ、終わってますよ。氷室先生」
 院生は振り返って答えた。
 氷室はその院生からフロッピーディスクを受け取る。そして、こちらを向いた。
「有沢」
「はい?」
 ソファーで本を読んでいた僕は呼ばれて返事をした。
「コーヒー淹れてくれないか?」 
 氷室は言う。
「はい。…飲まれますよね?」
返事をして立ち上がった。後半は院生に訊く。
「ええ、いただきます…手伝うわ」
 院生は――たしか修士課程〈M2〉の高橋女史だ。
「いえ、結構ですよ。慣れてますから」
 僕はそう言った。…それが事実だから。しかし他の意味にとれた台詞だと気が付くのは言ってからだった。
「…先生、家でもそうなんですか?」
 高橋女史は氷室にそう訊いた。
「へ?」
 珍しく氷室がぽかんとした表情で間抜けな声を上げた。不意打ちだったのだろう。危うく咥えていたキャメルが落ちるところだったのを僕は見逃していない。
「だって有沢君って氷室先生のところに下宿してるんでしょ?だったらいつもこんな感じなのかなって」
 クスクスと笑いながら彼女はそう言う。
「…余計なお世話だよ、ったく」
 氷室は憮然とした表情だ。そして、頭をガシガシっと掻く。…伸びたままの髪を切るつもりはないらしい。おかげで、そんな様子は酷く子供じみていた。
 僕も笑う。

 楽しい日々だった。
 でも…こんな日が続くわけないだろうとも思っていた。

 ・・・・・

 新首都の中央近くにそびえ立つビルの1室で、ある男がその秘書と話をしていた。
「で、海はどこに?」
 男…氷室がヘリポートで出逢った男だ。
「現在、私立○○○大学でその姿が確認されています」
 男の問いに秘書はそう答えた。
「…何故そんなところに?」
 当然の問いだった。
「どうやら工学部助手の氷室真氏のところに身を寄せているようです」
 …何故そんなことになったのかは不明ですが、と彼は続けた。
 男はふと何かを覚え、彼を見る。
「待て、氷室だと?」
「ええ、何か?」
 秘書はその上司の様子を訝しげに見た。当の男は更に言う。
「あの、氷室か?」
 あの、という言葉が強かった。秘書ははっと気づき、携帯端末を取り出した。
「…ちょっと、お待ちを」
 データベースとの交信。それを終えるなり顔を上げ、男を見るそしてはっきりと言った。
「…会長の推測どおりでした。例の氷室夫妻の息子です」
 その携帯端末のディスプレイには「故氷室京司・圭子…元国立都市研究所長、都市水没対策プロジェクト委員」とある。
「そいつは…厄介だな」
「は?」
 秘書は不思議な顔で男を見る。
 クククっと男は暗い嗤いを響かせた。
「氷室の息子で大学の先生…なるほど、考えたものだな」
 秘書はそんな彼を訝しげに見ている。
「わからんのか?」
 秘書は何も答えられなかった。わからないからではない。…あまり考えたくない事態だからだ。 
「…何らかの力が後ろにいる」
 国か…あるいは連邦だろうと彼は言い、秘書にその動きを探るよう指示をする。秘書は頷いた。すぐにでも「調査」がなされるだろう。
「その件はまあ、良い。例の書類を持ってきてくれ」
 男はそう言うと秘書は「少々お待ちを」と言い、部屋を出る。重いドアが閉まる音が部屋に響いた。
 男は軽くため息をつき、独白する。
「氷室…また邪魔をする気なのか」
 カタンと音をたててデスクの引き出しが開かれる。
 その中に数枚の写真。
 …その1枚に、白衣を着た氷室そっくりな男が写っている。その横には幾分若い頃の有沢。
 そして、真ん中には美しい女性。
 それを見つめながら彼は呟いた。
「圭子…何故、君は私と来なかったんだ」
 もう1枚の写真は更に昔の…幼い頃の男自身と圭子と呼ばれた彼女の姿。背景は…地球。
 更にもう一枚はその圭子が少年と一緒に写っている。
「あの少年が、もうそんな年齢になっていたか…」
 自らのその言葉に男は何故か夜の闇の中で見た人物を男が思い浮かんだ。
 …ふと、そのどちらの彼にも胸に十字架が掛かっていたことを思い出す。そして、それはその写真の彼女の胸にもあった。――意志の象徴とも言える強い光を秘めた闇色の瞳。それを反射するかのような、銀十字の輝き。
「…まさかな」
 あれが圭子の息子だというのか…。しかし、海が氷室の息子のところに身を寄せているという事実を考えれば、その可能性が非常に高い。 
 …厄介だ。
 男はそんなふうに呟く。

 戻ってきていた秘書に男は
「…海は私を裏切るだろうな」
と言った。
「は?それはどのようなことで?」
 秘書は訊く。
「…反抗期というものは誰にでもある」
 男はそんな風に答えた。
「しかし、彼は…」
 そう言いかけた秘書を制して、男は言う。
「だから、だ。君だってわかるだろう」
「…どうされるのですか?」
 秘書は聞き返した。
「どうもしないさ。一応、そのときの為の仕掛けは用意してあるのだ」
 そう言い、低い声で笑う男。
「良いんですか?」
 伺うように訊く秘書。
「確かに惜しいよ。あれは良く出来ている」
 あれ、とは海のことだろう。しかし、その言い方は妙な響きをもっている…単に人間が出来ているという物言いではない。
「ええ」
 勿論、その理由を承知している秘書は頷くだけだった。
「その仕掛けの監視をしておいてくれ。ああ、それから。私は明日向こうに戻る」
 男はそう言う。
「わかりました」
 秘書はそう答えると一礼して、部屋を去った。

「皮肉なものだ…再び彼に殺されるか…」
 脳裏に浮かぶ20年前のあの日。
『――父さん!』
 その叫び声が、いつまでも耳から離れない。
「息子、か…」
 窓の下に広がる街の灯りを見つめながら男はそう呟く。

 男の独白は広い部屋の空気に溶けた。




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