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「あいつは悪い奴じゃない。きっと君の目は間違っていなかった」
 久野という医者はそう言った。
 …僕もそう思った。

「来い!死にたくなければな!!」
 言っていることと矛盾していたあの瞳

 ……死なせたくない、傷つけたくない

 そう語っていた

 ――しかし 何故?
 僕はそれを確かめたくて…彼についていくことを決めたのか? 

 ・ ・ ・

 ぼんやりと有沢は氷室の横顔を見つめていた。それに気がついたらしい。
「何を見ている?」
 …運転席に座り、前を向いたままで氷室は有沢にそう訊いた。
 エアカーは自動運転をしている。ちなみに氷室の腕時計型コンピュータはその リモコンも兼ねている。――都市は水没したものの、文明はまだ進化を続けてい る。いや、それは必然性でもあった。エアカーにしても「水の上でも走れる車を 」というコンセプトで発明されたものだった。
「……あなたって不思議な人ですね」
 有沢はさきほど久野に向かって言ったことを本人に言ってみた。氷室はその言 葉に僅かに眉を寄せた。
「『あなた』は止せ、氷室で良い。勿論敬語なんざ遣う必要もない」
 有沢はふっと溜息をつくと声音を変えて話した。
「何故僕を助けた?氷室」「…いや、どうしてあの場所にいたのか」
 ふーん、と氷室は興味深そうに有沢の様子を見遣った。その口元が嗤っている 。
「――そっちの喋りの方が俺は好みだな。…俺の職業欄には幾つも書き込みがあ ってね。その一つが工作員だ」
 工作員という言葉に、はっと有沢が息を呑んだ。それを氷室は横目で確認した 。そしてこう言う。
「俺のターゲットは会長殿だったよ。お前じゃない」
「会長…?」
 有沢は意外そうな声を上げた。…やはり自分が狙いだと思っているのか、氷室 はそう思う。それも氷室の計算のうちだった。この少年になんらかの事情がある ことは判りきっている。
「…俺だって、お前が何者なのか知らない。何故あそこにいたのかも」
 氷室のそんな言葉に有沢は訊き返した。
「知らなかった?」「本当に?」
「…ワケありなのは判る」「別に言う必要はない」
 氷室はそう言った。
「……」
 有沢は黙っている。
「俺には関係がない」
 氷室はそう言いきった。それを聞いて有沢は不思議そうに言った。
「そんなのでよく工作員がつとまりますね」
 その言葉から、恐らく本物の工作員を見ているのだろうと氷室は思った。
「副業〈バイト〉なんだよ」
「へ?」
 その言葉に有沢はキョトンとした。そして次の瞬間笑い出した。
「バイトで工作員だなんて…」
 ククククっと堪えようとはしているようだが、ついに完全に吹き出し笑った。
 そんな様子を見ていた氷室は言う。
「ようやく笑ったな」
 ニヤリと笑った氷室。

 エアカーは再び古ぼけたビルの前に停まった。
「旭丘探偵事務所」
 有沢はそのプレートを読み上げた。そしてその事務所の主たる人物を振り返る 。
「探偵?」
 その有沢の問いに氷室は首を一つ立てに振ることで答えた。
「言っただろう、俺の職業欄には幾つもの書き込みがあるって」
 氷室はドアのロックを解除しながらそう言った。
「工作員、探偵…他にも?」
 そんな氷室に有沢は見つめる―― 一体、何者なんだと言いたげに。しかし、氷 室の方はそんな視線に構わず、涼しげな表情で
「そうか、医者先生は言わなかったんだな」
と呟いた。
 やがてピッと電子音がし、ドアが音もなく開いた。そして氷室は有沢を振り返 る。
「まあそのうちわかるから、良いだろう。そっちは本職だし」
 そして、有沢には構わずどんどん奥へ入っていく。
「どうした?来いよ」
 ……来いって、言っても…。
 有沢は苦笑を浮かべた。何故なら、その廊下は一種のトラップと化していたか らだ。つまり、物が雑多に置かれている。
「…ああ、すまんな。散らかってるが」
 立ち止まっている有沢に気づき、氷室はそういうと苦笑した。
「僕を事務員にするのは正解ですね」
 有沢はそう言う。そして、奥の氷室の仕事場とおぼしき部屋に通される。年代 物らしきデスクに山積みの資料の束。壁は本棚で見えない。「まあ、適当に座っ てくれ」と言う氷室の言葉どおり、有沢はソファーの上にあったファイルの山を よけて、何とか座る。そして氷室に向かって言う。
「僕、家事一般はできますから」
 すると、窓をあけてその枠に座ってキャメルを吸っていた氷室は有沢に一瞬目 をやると、すぐに顔を背け窓の外を見る。そして。
「…生活なんてのは、その日が生きてられや良い。俺はそう思ってたからな」
 氷室は紫煙を吐き出しながらそう言った。
「え?」  有沢はギクっと振り返った。氷室の声の冷たさ、そして押し殺された寂しさに 。
「ああ。…良い、気にするな。ただ、出来なくてやらないんじゃなくて、出来る がやらないということを言いたかっただけだ」
 そう言って苦笑する氷室。今度はどこか歪んだ嗤い方をする。
 とは言われたものの、有沢は動揺を隠せなかった。
 …あまりにもくるくると印象が変わる。これじゃ「学習」でインプットされた 人格判断のデータは使えない。そう思った。
 気まずくなって、ふと、脇のファイルを見ればそこに書いてあるタイトルに目 を奪われた。そして、その脇の大学名にも。
「社会工学一般理論――私立○○○大学工学部」
 有沢は思わず声に出していた。
「あ?ああ。…バレたか」
 ニヤリと笑った氷室。
「そういうこと。俺はその大学で一応助手ってことになってる」
「じゃあ…」
 有沢は言いかけて言葉を失う。…何というのだ?と気がついたのだ。
「言ったろ?工作員はバイトだって」
 そんな有沢の様子を楽しむように言う、氷室。
 …やっぱり人が悪い、と有沢は半ば思いつつも訊き返す。
「何故?」
「さあ、何でだろうな?…俺だって知りてぇよ」
 そう言って氷室は嗤う。
「…変な男だ」
 有沢は正直な感想を漏らした。
「いいや?俺から見りゃ、お前だって十分変わってるぜ?…ま、じゃなけりゃ気 にもならなかっただろうが」
 …そう、お互いがお互いを知りたがった。それが、この出会いだ。なら、構わ ないじゃないか?
 そう思い、有沢は軽く溜息をつくと、氷室に向き直り微笑んだ。
「よろしく、氷室先生」
 そう言うと、氷室に向かって手を差し出した。そう、それは彼にとっては初め ての経験だ。
「先生は余計だぜ…お前に教えてる訳じゃねえのに」
 氷室はふっと笑い、ガシガシと平均的な男子より長めな髪を掻くと、まるで照 れているように
「…こんなことはしないんだがな」
と言いながら、彼の手を握った。
「よろしくな、相棒」

 それが二人の共同生活のはじまりだった。






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